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17/04/01(土) 8日目 絆の形

…本題に入る前に、まず1つだけ言い訳させてほしい。何を隠そうこの私、前回分である「7日目 指導者急募」の回を書いたそのすぐ後にルシの使命を果たしてクリスタルになってしまい、それで最近まで眠りに就いていたせいでしばらくFF13をプレイすることができなかったのだ。それで、劇中のヴァニラとファングよろしくどうしてかクリスタル化が解け、なにやら眠っている間に6年少々も経っていた事実に驚きつつも、持ち前のいい加減さ適当さ良く言えば寛大さ寛容さによって深くは考えないことにし、「慌ててもしょうがないから取り敢えずFF13やるかー」という具合でPS3の電源を入れたのがつい先日の出来事だったのだ。なので6年以上もこのページが止まったままだったのは仕方のないことだったのである。あと引越しのためにPS3を一旦箱にしまってしまったのも良くなかった。一度片付けちゃうとまたセットし直すのが億劫になるんだよね。何しろほら、こちとら腰が重くって、絶賛クリスタル中だっただけに、ねえ、はは。

ともあれ、6年以上振りとなったFF13への情熱は、落ち着きを見せるどころかむしろ漲っていた。何しろプレイ7日目までの私と今の私とでは、登場人物への感情移入度がまるで違う。境遇を同じくしたヴァニラ、ファングへの思い入れは言わずもがな、「ルシの使命に縛られる身」という点ではライトニング達とも同じ宿命を背負った者同士な訳で、とかく彼女達の一挙手一投足が心に深く突き刺さるのだ。苦悩に喘ぐ彼女らを見ると私も打ちひしがれるし、運命に抗おうと強く振る舞っている彼女らを見ると私も勇気付けられるし、困難を1つ1つ乗り越えて次第に団結する一行を見ると涙が出るほど嬉しくなる。運命を共にし命を預け合う「仲間」のあるべき姿がそこにはあった。明らかに私は今、過去手に取ったどんなゲームの登場人物に対してよりも深い愛情を彼女達に傾けている。そしてしみじみ思うのである、ルシにもなってみるものだなあ。
変化好転したのは思い入ればかりではなく、旅の足取りもすこぶる軽快だった。それもそのはず、私の意識がぐっと彼女達に寄り添ったことによってバトル中の意思疎通が円滑になり、ロール変更の指揮命令、アタックチェインの連係プレー、メンバー間の相互補助がどれ一つ欠けることなく機能していたのだから。かつては何かと言えば愚痴をこぼしていたものだ。ヒーラーが希望通りの順番で仲間を回復していってくれなかったりね、エンハンサーにはまず全員にヘイストをかけてもらいたいのに頑としてブレイブ、フェイス辺りを優先してくれたりね、補助系ロールが一通りの魔法をかけ終わってすることが無くなった時は勝手に攻撃系ロールにチェンジしてくれてもいいのに決してそうはせずリーダーの指示を待ち続けたりね。とにかく色々わだかまりばかりの時期も確かにあったがそれも過ぎた話。今となっては彼女達がいかなる行動原理によって次にどう動くのか手に取るように分かる。彼女達もまた、度重なる戦闘の経験を経て、私が何を望んでいるのか理解して次の一手を打つよう配慮してくれているようだ。全員が互いを尊重し合い、助け合い、信じ合う「家族」のあるべき姿がそこにはあった。
そして、数々のロールを自在に操り戦術を極め尽くした我々の前に、並居る強敵は次々と倒れていく。
再開後最初のボスであったシド・レインズ。シドという名前から前作の悪夢が頭をよぎったが、FF12初プレイ当時シド戦に至ってもガンビットに慣れていなかったあの日の私と今の私とでは赤子と大人の違いがあると言っていいだろう。今作のシドは、自らロールを切り替え戦うという技巧的一面を披露するも、ロールバトルという同じ土俵に立った時点で既に勝ち目は無く、あっさりと散って行った。
続くバハムート。今作の召喚獣戦は総じて「攻略法が分かるまでしばらく死に続ける」のが常であったが、召喚獣達を「ルシに救いを与えるために現れた使者」として捉えると、彼らもまた「家族」に他ならないのだという真理に行き着いた瞬間、私には全てが理解った。バハムートがどのような者を主として認めるのか、その思いが自然と理解できていたのだ。心が通じ合ってしまえば、もう両者の間に壁などない。私は、思い返せばシヴァ戦ぶりとなる召喚獣戦初見打開を、しかし事もなげに成し遂げたのであった。
そして、舞台はいよいよグラン・パルスへ。しかし、下界に降り立ってなお我々の快進撃は止まらない。召喚獣の全てを理解した私はもはや、召喚獣アレキサンダーを一目見た瞬間にもう同士として分かち合うことができたし、アルカキルティ大平原を闊歩する、かつてのスケイルビーストとは違いもっとあからさまに「今は勝てないオーラ」を放っていたアダマンタイマイにすら、芸術的と言ってもいい連携撃によって勝利を収めることができた。召喚獣ヘカトンケイルに苦戦する要素などもう持ち合わせているはずは無かったし、その向こうにそびえ立つテージンタワーなどでは――
…いや、もういいだろう。この後も同様に、私達一行が各所でいかなる活躍をしたか語っていくことは造作もないが、そんなことをしても虚しさが残るばかりだ。生涯一番の絆で結ばれ、世界一のチームワークを築いたことは誇っていいとは思うが、ルシの身であり、頼れる者がこの6人しかいなかった我々には、そうして強くなっていくしか道が無かっただけのことなのだから。だから皆のことは誇りではあるが、凄いだろうと誰かに自慢するような話ではないのだ。なのでこの場では、7日目まであれだけ死屍累々を極めた本プレイが、再開後の第10章以降は、ただの一度もゲームオーバーになることなく無事完遂に至ったという事実だけを述べて、この武勇伝の幕引きとしたい。

こうして、波乱万丈に満ちた私のFF13一周目は終わった。
でも私は一体どうして、このままライトニング達と別れられるだろう。FF13が終わったからって、このまま今生の別れだなんて、そんなことできるはずない。だから私は、クリスタル化の期間を差し引いてさえ半年以上もかけてしまったFF13の顛末を顧みることなく、すぐさまFF13-2を購入した。余談ではあるが、勢い余ってFF13-3も一緒に購入してしまったことも書き添えておく。
さあ、新たな冒険の始まりだ。また皆に会える喜びに胸を躍らせながら、私は次の扉を開ける。


進行状況:8日目



10/12/29(水) 7日目 指導者急募

(゚Д゚)

一瞬にして場を支配した「聞き慣れたメロディの聞き慣れない歌」に触れ、私はしばし放心状態であったが、少しばかり時間を置くと、この衝撃を落ち着いて捉えられるようになっていた。そう、ここは夢の街。こんな浮世離れした出来事だってここじゃ日常茶飯事なのだ。それに、近年不遇をかこってきたチョコボ達のことである。彼らにとっては、こういう形でスポットライトを浴びられるということが、正に夢のような話だったのかもしれない。
もう20年も彼らの成長を見届けてきた者としての、得も言われぬ感慨を覚えていると、観光客の一人からこんな声が漏れ聞こえてきた。

「明日から仕事かー、帰りたくないなー」

その瞬間、現実に立ち戻る私の心。否応なしに降りかかる休み明けの憂鬱と早起きの過酷さと仕事への抵抗感と時間的制約がもたらすストレスと将来への不安。FF13がリアルさを売りにしている作品なのは分かるが、こんな名もない一般人の何気ない一言まで現実っぽさを追求しなくても良かったろうに。

物語が9章に入ると、そろそろあることが気になり始めてきた。ザコ戦が長引きがちになってきている。これは、単純に厄介なモンスターが増えたからそうなっているだけなのか、それに加えて私の実力が追い付けなくなってきていることも原因なのか判断し難い現象である。しかし、敵パーティーの顔ぶれによっては目標タイム自体が既に10分を超えたりしているのは、さすがにどうかと思ってしまうのだ。1戦10分。FFTやファイアーエムブレムといったシミュレーションRPGでもないのにこの数字は異常ではないだろうか。私の20年少々になるテレビゲーム史を振り返ってみても最長クラスか、或いは文句無く「最長」だと明言できるレベルだ。ちなみにこれまでのトップは、エンカウントからバトル画面表示までで優にバトル曲が1周することも珍しくなかった「晩年のPSでプレイするFF9もしくはDQ7」である。それにしたって10分はないが。
私は、「ものづくり」の何たるかについて知った風な口を利けたものじゃない身でありながら、つい思ってしまった。「長過ぎるよ」と。常々、娯楽というものには小気味好いテンポが重大な要素になっていると思っているのだが、今FF13はその考えからあまりにも外れ過ぎていた。これがボス戦なら良かっただろう。押しつ押されつの緊迫感溢れる戦いが10分間なのか、はたまた圧倒的武力でひたすら攻め立てる一方的展開の10分間なのかは別にして、少なくともそれだけの時間を取られる戦闘はここ一番の時に限られるのだから。だがしかしこれはザコ戦。連中は倒せども倒せども無条件で再び私の前に立ちはだかる。もちろんその全てが10分超の戦いという訳ではなかったが、1フロアで4回ほど問題の組み合わせに遭遇するという実績も一方では作った。これだけで40分。なおそのほかに2〜5分レベルのザコ共も押し寄せてくることを忘れてはならない。いよいよ、1フロアの攻略に1時間かかりかねない状況にまでなって、つい憤りを感じてしまったのも仕方のないことだったと、ご理解いただければ幸いである。
だが、こんな仕打ちを受けても、私はこの現実を声高に批判することができない。何故か。それはこのゲームがシンボルエンカウント制を採用しているからだ。そう、本作は、DQ9ほど容易ではないが、それでも敵と戦いたくなければ戦わずに先へ進めるようになっており、なのに私はまたもや、ご丁寧にも各フロアに配置されている全モンスターを最低1度は相手にするという方針で今日までプレイしてきていたのだった。今回の議題になった10分パーティーでさえ、実はフロア上の特定シンボルを無視するだけでほぼ避けられたというのに、わざわざ1体ずつ相手にしていたのだった。だから言えない。「どう考えても何らかの調整に失敗してるだろ」と言えない。そう口にした瞬間、何度も何度も口を酸っぱくして「お前は無駄な戦いをし過ぎる」と指摘したトロデ王、並びにサンディ御大の顔が脳裏に浮かんでしまうからである。

そう言えば本作には、私のいつもの愚行を言い咎めてくれる良きアドバイザーがいない。今、真に求められているのは、未だ自分勝手さを律しようとしない主要キャラ6人をまとめ上げる独裁者の存在ではなく、プレイヤーの私自身を正しい方向へと導く指導者の存在なのかもしれない。


進行状況:7日目



10/08/15(日) 6日目 どこまでも駆け抜けて行けこの衝撃

5,6章で打ち立てた2章連続全滅0もどこ吹く風。第7章に入って再び順調にゲームオーバー数を上積みさせ始めた私は、だがしかしさほどその事実を悲観的に受け止めてはいなかった。全13章という私の見立てが間違っていなければそろそろ物語も後半に差し掛かり始める頃なのだからちょくちょく全滅するのはむしろ自然な流れに沿っていると言える。それにそもそもが2ヶ月振りのプレイだ。従来のシリーズに比べ要求される技術度が明らかに高い今作にあって2ヶ月ものブランクを与えられては、普通の人間なら1度は習得していたであろう操作のコツをまず間違いなく忘れ去ってしまいまるで「NEW GAME」を選んだら突然第7章から始まってしまったかのような状況に陥ってしまいだけれども決して容赦してはくれないモンスター共に引けを取るばかりで、しばらくはつまらない全滅劇を演じざるを得なくなるものなのだ。言い換えれば、2ヶ月もプレイを放ったらかしていたのに平然と中断前同等のプレイをこなしてみせるような者は普通の人間ではないということだ。要約すると人間ではないということだ。ここで、私が人間であるという命題は自明のため、以上により「2ヶ月置いての第7章でえらく簡単に死ぬ」ことは別におかしくも何ともないと証明されるのである。
そうして、すんでの所で保たれた私のプライドであるが、いつまでもこの論説を後ろ盾にしていられる訳ではない。プレイ再開したての頃にポンポンと死んでしまうだけならまだしも、例えば第7章も終わりに近付きつつある中でなお状況が改善しないようだと、さしもの私も立つ瀬が無くなるだろう。第7章を終える頃には完全復活していなければならない。即ち、章の大ボスにあたるモンスターを軽くいなすくらいでなければ、完全復活を謳うことはできない。そして訪れた飛空戦車グライフ戦。私は私のプライドと名誉を賭け、二十余年のゲーマー人生で得たものの何たるかを示すべく、この戦いに臨んだのであった。
飛空戦車グライフ。本体パーツにサブパーツ×4の計5パーツ構成。まずはサブパーツを破壊してから本体を叩いて倒すタイプの敵。サブパーツのHP、防御力から見てこれらは1度倒してしまえば2度と復活しない。ここまで分析した段階で、5パーツの一斉攻撃による戦闘不能者が出かけていた。なるほど、これまでのボス敵とはランクが1つ違うらしい。このままでは一気に全滅まで持って行かれる。危機を悟った私は、これまでのプレイでは自主的に封印してきたとある作戦を実行に移すのだった。
バトル中、リーダーの指示を耳に入れるだけ入れておいて後は好き勝手に行動するメンバーの自由奔放さを非難したのがプレイ2日目のこと。しかし私はそのことに否定的意見を述べつつも、同時にこう考えていた。「最も重要な行動をリーダー(=プレイヤー)が専任し、メンバーには軸が多少ぶれても大勢には影響しないような仕事を与えておけばどんな相手でもそこそこ安定するのではないか」と。具体例を出すと、リーダーがヒーラー専門になってひたすらケアルを連発し、残りの2人が攻撃と補助を切り替えながら立ち回ればいいのでは、と。今作には何やら各バトルに「このくらいの時間で全滅させましょう」という努力目標が与えられているが、そのことに一切目もくれなければバトル中で最も重要なロールはヒーラーである。何しろヒーラーは仲間の生殺与奪権を直接的に握っていると言ってもいい立場にいるのだ。バトル中どんなに傷付こうがヒーラー様に回復してもらわなければ成す術なく死んでいくのみ。ヒーラー様のご機嫌を損ねたりでもすれば、などということは考えたくもない。ところが実際には、HPが同程度減少しているリーダーとメンバーがいる時、回復を優先すべきなのが明らかにリーダーの方であるにもかかわらずメンバーの方にケアルがかけられたりして、これはヒーラーの個人的感情からくる意図的な差別なのではないのかと断罪したくなる場面を度々目にする。こうした行き違い、そこから来る仲違いを避けるためにも、最重要ロールたるヒーラーの任はリーダーに一任するべきだと考えた訳だ。対して攻撃役は、相手の吸収属性さえ使わなければ着実にダメージを蓄積させられる。期待通りの順番で敵を倒してくれなかったりはするが、ヒーラーがきちんと仕事をして味方が倒れなければいつかは勝てる。詰まる所、馬鹿にだってできる。適当に武器を振り回すか魔法を唱えさえしてくれれば、それが最低限の仕事になる。補助も同様で、効果が重複するような魔法をかけなければそれが最低限の仕事になる。何だ、だったらそれは、リーダーの私が敢えて買って出るような雑務じゃあないじゃないか。適材適所と言いますものね。この不況の世の中、無駄は可能な限り省くべきで、リーダーの資質を持つこの私がそんな雑用に手を貸しているだけの余裕なんて、ありませんものねえ。
先に「同時にこう考えていた」と述べた通り、私はかなり早期の段階でこのことを認識していた。にもかかわらずこれまで上述の戦法を取って来なかったのは、必ずしもその時々のリーダーがヒーラーになれるキャラクターであるとは限らなかったという事情もあったが、それよりも「ヒーラー専任になってしまうと最早鉄壁の布陣となってしまう」ことが予測されたからであった。つまり私にとって、前作における「逆転」状態、FF10における「カルテット99」、FF7における「ナイツオブラウンド」のような、ややルールを逸脱したレベルの(往々にしてゲームそのものの楽しみを奪い去る)戦法であるように感じられたのである。しかしそれもここまで。何しろこの戦いには私のプライドと名誉がかかっているのだ。この期に及んで四の五の言ってはいられないのだ。
そして私はヒーラーの封印を解いた。するとどうか、「なるほどなるほど、やっぱり楽だな。味方のHPゲージだけに集中してればいいんだもんな。ふーん」などという言葉は、何とただの1度も発せられることなく、リーダーのヒーラー時代は幕を閉じることとなった。あれ? おかしい。全然楽にならない。それどころか段々劣勢に立たされていく。これは一体どうしたことか。理由がコマンド選択に要する時間であると分かったのはそれからすぐのことであった。ケアルはただ「現在食らっているダメージ分を回復するだけかければ良い」ものではない(少なくとも直近の敵の攻撃を予測して若干余分にかけておくことが要求される場合がある)ため手動で行動を設定する必要があるのだが、これまでいつもいつも自動でお勧めの行動をセットしてくれる「こうげき」コマンドに頼り切りのプレイをしてきたことが祟ってなかなかスムーズにコマンドを決定できない。更に回復対象を誤る、回復回数を誤る、一旦決定した行動を誤ってキャンセルするなどした操作ミスが頻発する。結果回復は追い付かず、次第に追い詰められていく状況に焦って余計手先がおぼつかなくなるという悪循環を引き起こすばかりである。
仕方ない。私はヒーラーの権限をメンバーの一人に移譲した。するとどうか、見る間に戦況は安定し、パーツを2、3破壊してからはピンチに陥ることすらなくなり、そのまま勝利を収めてしまった。これは一体どうしたことか。理由がやはりコマンド選択にこそあると分かったのはそれからすぐのことであった。何のことはない、NPCたる彼らはコマンド決定の「速度」「正確性」にかけて天賦の才能を持っていたのだ。そこには、市井の人間であるプレイヤー即ちリーダーにはどうしたって越えられない絶対的な壁があった。
「攻撃は馬鹿でもできる」「適材適所」 ついさっき発した自分の言葉が何故か胸に突き刺さるようだが、まあ勝ちは勝ちだ。むしろあそこでヒーラーの責務にこだわらず引くべき時にきちんと引けたことを評価されるべきだよね。こうして、最低限の面目を辛うじて死守し、復活の第7章は幕を閉じた。

続く第8章は歓楽都市ノーチラスに到着したサッズ・ヴァニラ組のお話。どことなくゴールドソーサーを思わせる賑やかな雰囲気の都市を見て、劇中の2人と同様に沈んでいた私の心も少しは晴れるようだ。もっともFF7の時のようなミニゲームは多分用意されていないだろうと分かってはいたが、オープニング以降ずっと殺伐としていたことを思えばこれだって十分過ぎる静養になる。
と、ここでFFキーパーソンの一角、チョコボが登場。ああ、今作もテーマ曲は健在だったか、良かったなあ。ただ今作は乗り物としての活躍がもしかしたら前作以上に制限されてるんじゃないかってことが個人的には心ぱ「どーこまでも駆け抜ーけてー♪」

(゚Д゚)


進行状況:6日目



10/06/06(日) 5日目 いつか乗り越える壁

何と言うか、あまり声を張り上げて「わーい、やったやった」だの「やっぱり俺はやる時はやる男だよなー」だのと言ったりするのもみっともないと思ったので触れなかったのだが、実は前回の第5章をゲームオーバー0回で乗り切っていた。道中、何度か油断からリーダーのHPを0にしかけたりはしたが、その都度発揮される思わず目を見張るような判断力でことごとく難局を乗り切り、ボス試作騎ユイジンシャンまできっちりと初見撃破してみせたのだった。なかなか今作のバトルシステムも板に付いてきたか。熟練ゲーマーkemkamの快進撃はここから始まる。

本日はサンレス水郷を通行。これまでになくのどかな雰囲気の大自然フィールドをずんずんと進んでいくと、途中でこのようなインフォメーションが表示された。

この先に現れるスケイルビーストは強敵です。2人で立ち向かうのは困難でしょう。
全ての敵と戦うのではなく、時には戦闘を回避することも重要です

私は瞬時に悟った。なるほど、つまり「1回戦ってみてね」ということだな、と。
RPGにおける「燃える展開」「盛り上がる演出」というものはいくつかある。勿論人によってそのツボは異なる所だが、私にとってそれは例えば「親族、親友の弔い合戦」だったり「かつて仲間だった者との敵対」だったりする。そうした中に「初めは全く歯が立たなかった相手を修行の末に倒す」というパターンがあるのだが、これがまた私の心の琴線に触れるのだ。達成感、征服感もさることながら、まだ弱かった昔の自分を思い出して感慨に浸れるのが良い。初めの負けっ振りが派手であればあるほど、より分かり易くキャラクターとプレイヤー自身の成長を実感できもする。また負けてから最終的に勝つまでの期間が長かったりすると、その分だけそのゲームのプレイ史を総ざらいできるから結果としてゲームそのものへの思い入れが増したりすることもある。この手の演出の最たる例はDQ5のゲマか。FFではゲマほどのカリスマ性を持った「絶対に勝てなかった強敵」はいなかったように思うが、FF2のくろきし、FF6のガーディアン、FF7のミドガルズオルム辺りも十分効果的に私を盛り上げてくれたものである。
さて、スケイルビーストであるが、こいつはこの手のモンスターなのではないかと思った訳だ。だとすれば、今戦いを挑んでみた所で勝てる見込みは万に一つもない。ただただ分かり易い、その気になれば簡単に避けられた、これから先のプレイにおいて何の益にもならないであろうゲームオーバーを1回積み重ねるだけ。しかしこの時、私の中で「スケイルビーストを避けていく」という選択肢はなかった。今が、前章を全滅0で終え、その記録を「連続2章」へと伸ばせる(もしかしたら最後かもしれない)チャンスなのだとしても、安全策を取ろうなどとは考えなかった。何故か。それは、本当に大事なのは目先の勝ち負けにあるのではないと分かっていたからだ。ここで重要なのは、「スケイルビーストに手酷くやられた」という記憶を頭の中に刻みつけることにこそある。いずれ、プレイ時間にして2、30時間か経った後、満を持して帰って来た私がスケイルビーストを倒した時に、「それまで一度も戦ったことがない奴を倒した」のと「一度は敗れてその力の差を体感していた」のとでは胸に迫る思いに天と地ほどの差があるからである。捉え方を変えればこれは先々のプレイで大きな充足感を得るための投機とも言えるだろう。ことによれば、この件ひとつで私のFF13に対する評価が急激に上昇するかもしれないのだから。そんな可能性を前に「全滅回数が1回増える」などといった下らない意地とプライドを優先させることがどれだけ愚かな行為であるかはお分かりいただけることと思う。ゲームの面白みをゲームのみに求めない、「そのゲームの面白さを自分から探していく」とはつまりこういうことだ。そして私は、ほどなくして現れたスケイルビーストに喜び勇んで突っ込んだ。勝った。
……あれ?
勝った。勝ってしまった。どうやらスケイルビーストは上述したような強敵でも何でもなく、本当に単なる「避けていった方がいい厄介なモンスター」でしかなかったようだ。拍子抜けもいいところ。と言うか、ただがっかりするだけならまだしも「ここは1度負けといた方が〜」云々と大層なごたくを並べてしまったためにあまりにも格好が付かない。2、30時間後の盛り上がりまで想像しておきながら2分で勝ててしまって1人取り残されたこの気持ちをどうしてくれる。

実に納得の行かない気持ちの悪い感覚を引きずったまま先へと進むと、今度はあからさまに中盤〜終盤に出てきますよ的オーラを放つ巨大ドラゴンの姿を見かけた。
私は瞬時に悟った。なるほど、つまり「1回戦ってみてね」ということだな、と。
RPGにおける(中略)そして私は、そのドラゴンに喜び勇んで突っ込んだ。勝った。
…………

終わってみれば、第6章全滅回数0。
わーい、やったやった。やっぱり俺はやる時はやる男だよなー。


進行状況:5日目



10/05/30(日) 4日目 迷える子羊に永遠の救いを

なんてこった。理想郷はこんな所にあったんだ。

まず初めに推論を述べる。多分、恐らく、巷に溢れるFF13の感想の中でもとりわけネガティブなものにこういう類の意見があるだろう。「FF13は一本道だ」
ここで言う「一本道」とは、「プレイヤーに行動の判断を委ねるような自由度が極端に低くただ用意されたシナリオをなぞっているだけ」という意味ではない。文字通り「道が一本」という意味である。第1章でオープニングムービーを見終えハングドエッジでキャラクターを操作可能になってから下界の異跡、ビルジ湖、ヴァイルピークス、ガプラ樹林と渡り歩いてきたが、街中も郊外も屋内も屋外もどこもかしこもスタート地点からボス地点まで、更にそこから章の終了地点はたまたエリアの終端点に至るまでほとんど分岐もない一本道で構成されているのである。勿論本当に脇道もない曲がりくねっているだけの道が延々と続いている訳ではないが、あったとしても大抵どちらが行き止まりなのか画面右上のナビマップ上で十分確認可能なレベルの分岐なのだ。その上、稀に本物の二股の分かれ道が現れたりしても、話の流れ上パーティーが二分されて互いにそれぞれの道を歩み、ご丁寧に一方のパーティーの操作中は他方のパーティーが進んだ道の方へ行けなくなっていたりするのだ。こうした傾向はFFシリーズで言うとワールドマップが撤廃になったFF10頃から少しずつ出て来始めていたのかなとも思ったのだが、しかし序盤だけを見てもFF10のキーリカの森は狭いながら交差点が3つ4つとあるマップだったし、FF12のダルマスカ周辺に至ってはむしろ自由度が高めだったくらいである。そこから今作のこの変貌。FF10-2を含む直近の3作で何があっても外せないツールとして明らかにメインの映像よりも注目を集めていたナビマップはもはや無くても支障がないであろう存在へと成り下がり、プレイヤーはかつて皮肉の意味で使っていたはずの「敷かれたレールの上を走るだけ」という言葉を本当の意味で体感することとなった。ダンジョンにつきものだった「どちらが正解のルートか(さもなければどちらに宝箱があるか)」に頭を悩ませるプレイヤーの姿はなくなり、エリアの出口付近で全体マップを見返してみたところでただただ細長い道が長々と記録されているのを見せられるだけで「このマップは隅々まで踏破したぞ」という感慨に浸れたりするなどということもない。私はこんなゲームを4日間もプレイしてきて、そして思ったのであった。なんてこった。理想郷はこんな所にあったんだ。
話は変わらないのだが、私は極度の方向音痴である。どの程度方向音痴か、ということについては幾つかのエピソードを過去にご紹介したが、まあ簡単に言えば目的地とは180度違った方向へ歩くなんてことは日常茶飯事なくらいの方向音痴だ。この特性のせいで、社会人になってからは殊更に苦労することが多くなった。立場上他社へ出向することがよくあるが、初めてそこへ出向く時に全く迷わなかったことはこれまでにない。一回目の顔合わせで遅刻というのは新人レベルの人間としてはかなり致命的な失態の内に入ると認識しているので前日の内に地図で予習はするのだが、いかんせん頭の中の地図と現実の風景との対応が取れてくれない。特に駅の構内図ともなると、毎日利用している駅のものですらどの部分がどこに当たるのかなかなか分からなかったりする。悪いことには、新天地へ赴く際の基点となるのが大概は駅ということになっているので、何事もなくすんなりと目的地に到着できる確率はぐんと下がるのだ。幸い今まで本当に遅刻してしまったことはないのがせめてもの救いだが。
さて、上記の事実を踏まえて考えるとどうか、このコクーンという世界は。そこにあるのは、今自分が目指すべき地へ向けて真っ直ぐに伸びている「前」という道と、そこから遠ざかる方向へやはり真っ直ぐに伸びている「後ろ」という道だけ。この世界には「迷子」という言葉がない。というか恐らく「迷い」という概念さえ存在しない(ただし心理的精神的意味での「迷子」「迷い」はその限りでない)。そんな世界に触れて私は思ったのだ。こんな魅力溢れる世界があっていいものだろうかと。そして勿論、そもそもが人にとって快適であるコクーンの住み心地やパージ政策の恐ろしさなどを全て抜きに考えても、是非に住みたいものであると。だってそうだろう。さしものコクーンも「次にどこへ行くべきか?」の問いにまでは答えてくれないから先々のプランそれだけは自分で組み立てていかなければならないのだろうが、いざ進む道さえ決断すれば、後は世界が私をそこへ導いてくれるのだから。道中泣きたくなるくらいの分かれ道もあろうけど、コクーンにかかればその時々で崖崩れなり橋の崩落なりが起きて正解以外の全てのルートは封鎖されるだろう。時には袋小路に迷い込んだりすることもあろうけど、そんな時には必ずや目の前の壁を乗り越えられる運転機械の類が脇に乗り捨てられているだろう。極め付きにはコクーンは、時に来た道を引き返そうか考えあぐねている私を見て後方の道を封鎖させ「前に進むしかないんだ」と背中を押してもくれる。ここまでの条件を提示されて、コクーンへの移住を思い留まる人間が果たしているだろうか。

え? 「でもゲームとしてはつまらない」? いや違うだろう。よいか、私は今「プレイヤーの探究心や冒険心をくすぐるような探索要素がまるでないゲームというのは是か非か」などという陳腐な話をしているのではないのだ。「仮に今後の人生、未来永劫永久的に道に迷うことがないと保証されるとしたらそれはどんなに素晴らしいことか」を説いているのだ。
はあ、勝手に論点をずらすのは止めてもらいたいね。まったく。


進行状況:4日目



10/05/23(日) 3日目 逃げる逃げるよ聖府軍から私から

買おうと思っていても、なかなか踏ん切りがつかないHDテレビ。
待ちに待った『ファイナルファンタジーXIII』の発売に合わせて購入するのはいかが?
そこで今回は、ゲームだけでなくBlu-rayのソフトを楽しむためのにオススメのテレビを大紹介しちゃいます!
最高級のゲームは、やっぱり最新のテレビで楽しみたい!
――「FINAL FANTASY 13」公式サイト HDテレビ購入ガイドより

へー。HDテレビねえ。やっぱ高いな。10万とか20万とか30万とか。たかがテレビに、それもたかがゲームのためにそこまでのお金は出せないよなー。テレビゲームも大層な娯楽になったもんだ。
ん、「PC用モニタータイプ」? あーそうか、何も必ずしもテレビを買う必要はないのか。勘違いしてた。ゲームさえできればいいんだから、それ用のモニタさえあればいいんだよな。ははあ…
一週間後、私の家にPC用HDモニタが届けられた。21.5インチの(その横に置いてあるテレビに比べれば)大画面モニタ。無趣味の社会人を甘く見てはいけない。普段は金を出し渋っているように見えても、本当に欲しい物のためには1万や2万くらいまでならポンと出すくらいの蓄えはあるのだから。
そんな訳で、私のFF13は本日本当の意味でのスタートを切ることとなる。まずPS3を起動させてみて驚いた。字がどうこうじゃなくて、画でさえ見栄えが違う。ひとしきりゲーム起動時のムービーを見直したのは言うまでもないが、せっかくだからとNEWGAME後のオープニングムービーを見直したのも言うまでもない。そして勿論、今回このモニタを購入した最も大きな動機であった字についても申し分ない読みやすさとなった。何しろ「下界」に振られた「パルス」というルビの「パ」の字の「゜」の穴の部分までよく見える。「バビブベボ」と「パピプペポ」を区別することはどうあっても避けられない課題として昔から日本のゲーマー達を苦しめ続けてきたと認識しているが、PS3で遊ぶ限りその苦悩からは解放されるという訳だ。素晴らしい。これが勝ち組の景色か。私はこの二十余年の人生で初めて、格差という名のヒエラルキーの上位階層に立って世界を見渡したのだった。もっとも上を見ると更に「40インチ以上」「高性能スピーカー完備」「地デジチューナー搭載」というこれまた桁違いの格差社会が見えてきてしまうので、常に下を見続けて己の虚栄心を満たし続けなければならないことには注意されたし。

本編再開。オープニング早々聖府に喧嘩を売ってからと言うものずっと軍から逃げ続けてきたのだが、今日もひたすら逃げて逃げて逃げて、その道中で各人の立場や思いや背景が少しずつ語られていった。
で、これは実は初日から思っていたことなのだが、今作のストーリーはどうも少々「飛ばしている」ように感じられてしまう。第1章でとあるメインキャラの母親が死に、第2章でとあるメインキャラの妹(その人物は同時にとある別のメインキャラの恋人でもある)が「事実上の死」と表現されるクリスタル化の運命を辿った。この時点で現在中心人物として登場しているキャラクター5人のうち3人が身近な人を亡くしているということになり、各個悲しんでいるのだけれど、何だろう、プレイヤーの私だけがちょっと冷静な心持であり、もっと踏み込んで言えば冷めた目で見ているのだ。このことは、最近仕事面での悩みが増え始めてきて心が荒みがちになっている現実から来ているものではないはずである。ましてや、そもそも私が人の死に対して何も感じない冷血人間であるという訳でもない。かつて、とあるメインキャラが死に瀕している場面で、それを回復させようと誰かさんが許可なくエリクサーを使おうとしたことに「勿体ないだろう」と思ってしまった過去が仮にあったとしてもだ。そうではなくて、あまりに早過ぎるのではないかと思うのである。近親の人の死をもって感動を扇動する手法それ自体はこれまでのFFで度々見られてきた。しかしその演出がプレイヤーに対して効果的に狙いを発揮するのは、それなりの前置きがあってこそなのではないのだろうか。エアリスが伝説になったのは、彼女がDISC1丸々一杯メインキャラとして活躍した経緯があってこそで、だからこそあの場面を目の当たりにしたプレイヤーは心の底から衝撃を受けた。ティーダだってゲーム丸々一本分を、乱暴に言えば前置きに費やしたからこそ、エンディングでの彼の言動が多くのプレイヤーの心に響いたのだ。無論メインキャラ自身が死ぬのとメインキャラに近しい人が死ぬのとでは重みというものが全くもって異なるが、それにしてもガーネットの育ての母親が不慮の事故で亡くなり全国のFF9プレイヤーを涙させたのだってDISC3になってのことである。このように泣ける演出というものは、それなりの時間をかけて作り上げた土台があってこそ成り立つものなのだ。
それに比べると、やはりこのほどの展開は唐突である。プレイを始めてまだ気分も盛り上がり切ってないのにいきなりクライマックスがやって来たように感じてしまう。そしてスノウの告白回想とか、今日あったライトニング革命決意とか、その後に起こる展開全てがそれらのイベントの上に乗っかっているので、私としてはこの3日間ずっと置いてけぼりを食らっている感覚なのである。思えばプレイ開始後最初に起こしたパージへの反乱行為がすでに従来作の中盤に位置してもいいくらいのシナリオだったが、そこからずっと全力疾走し続けているメインキャラ達にほんの少しでも遅れを取ったが最後、二度とプレイヤーは彼らの目線に立てなくなるのではないか。この不安が、3日プレイした今感じている率直な感想である。
本作はオープニング時点までの13日間の経緯がプレイ中に少しずつ明かされていくようになっているので(余談だが私はこういう演出に弱い)、ことシナリオ、ストーリー面においては、この13日間の出来事が明らかになった後すべての背景を把握した上で改めて見る「二週目」の方が楽しめるようになっているのかもしれない。一周目はバトルの方をとことん楽しむべきなのかな。でも二周目がプレイできるかどうか分からない状況の中で、半ばシナリオを捨てるかのようなスタンスを取るのは少し危険じゃないのかな。ここに来て私の心は揺れ出していた。

今日もまた、前振り無し召喚獣戦で2回、正二十面体連続集中自爆テロで1回ゲームオーバーになったのはそうした不安定な精神状態が故に起こったことだというのは、勿論言うまでもないね。


進行状況:3日目



10/05/09(日) 2日目 独裁者急募

G A M E O V E R

あっと言う間の出来事に私は戦慄した。FF13の容赦ない現実が今日も襲いかかってくる。
今作のバトルシステムを簡単に説明しよう。基本はお馴染みのATBである。コクーンだパルスだファルシだ何だという世界間の中にあって実に取っ付きの良い、心の休まる存在であることに私は少し安堵したように思う。だがその実態は当初想定していたものとはまるで趣の異なるものだった。
まずATBゲージ一本=一行動ではなく、複数回行動が可能になっている。「たたかう」を初めとするコマンドにそれぞれATBゲージの消費量が設定されていて、それらを現時点のゲージ蓄積量の範囲内で組み合わせて行動するという訳だ。つまり単純に「何を使うか」だけでなく「どう組み合わせるか」の判断が必要になったということ。更にそれだけでなく、ゲージが溜まり切るまでの間にも「今すぐゲージを消費して単独攻撃するか」はたまた「ゲージが溜まるまで待って連続攻撃するか」の判断が要求されるようになった。新システム会得まで随分時間を費やしてしまう頭の固さに長年苦しめられてきた私であるが、ご多聞に漏れず今回もそうなりそうな予感がする。
次に、操作キャラクター以外の2人が完全NPC扱いである。プレイヤーはそれぞれのキャラクターに基本行動指針となる6種類の役割のいずれかを与えるだけで、後はその役割と戦況に応じた行動を個々のキャラクターが判断するのだ。広い意味では前作のガンビットと同じ系列のシステムとも言えるが、あちらが「行動のアルゴリズムを設定している」と言ってもいいくらいガチガチに規則を定めているのに対して、こちらは本当に指針を提示するのみ。「攻撃中心でお願い」「回復役に回って」とだけ言っているようなものである。しかし仲間とは言えどもそこは他人。リーダーの自分としてはこう動いてもらいたかったのに、向こうは向こうの基準で要らぬ行動を取ったりするのはままあること。従来のシステムならリーダー以外の私情の挟まる余地がなかったからこそ統率が取れていたのに、人権尊重だのそれぞれの持ち味を伸ばすだのということばかりが叫ばれ「個」を前面に押し出すあまり混乱をきたしているのだ。そこらのザコ敵を相手しているときにちょっと考えが食い違うくらいならまあいいとしても、これがある程度追い詰められた状況の中で起きるとそこからの体勢の立て直しは容易ではない。一丁前に自己主張する人間が増えた今の時代特有の問題だな。やはり一人ひとりの個性、個々人の意見なんてものは、少なくとも戦時下においてはもっと抑え込まれていなければならないのだろう。反論もあるかと思うが、それだったらまずピンチ時くらいにはリーダーからわざわざ役割切り替えの指示を貰わなくても独自の判断でケアルを使うとか、それくらいの柔軟性を持ち合わせてから言ってくれ。
そしてもう一つ、恐らく多くのFF13プレイヤーを震え上がらせたであろう驚愕のルールが白日の下にさらされる。「リーダー戦闘不能の時点でゲームオーバー」 近年のゲームには珍しくシビアな設定に私も例外なく狼狽した。だがそれ以上に憤りを感じた。リーダーが倒れたらそれで終わりって、そのとき他の2人は一体何をしているんだ。お前らが勝手に行動して勝手に死んでいく分については私にしっかりと尻拭いをさせておいて、当の私が倒れたらまだどんなに元気があってもすぐに諦めて全滅を甘受するのか。それとも自分らだけさっさと逃げて放置するのか。パーティー全体の共有物資であるはずの「フェニックスの尾」を1個たりともリーダーのためには使ってくれないのか。戦闘中の行動にはほぼ口を挟ませないでおいて、一方では「リーダーが死んだら終わりなんだからしっかりしてくれ」と重い責任だけ押し付ける身勝手なメンバーの姿がそこにあった。口だけは達者な面々を抱え頭を悩ませるリーダー。しかしそのリーダーでさえも、誰か他のメンバーにその座を引き継いだが最後、やはり全ての責任を丸投げするようになる。
ほぼ全員が成り行き上偶然に、かつ突然に集まったパーティーである以上仕方のないことかもしれないが、あまりに誰もが自分のことしか考えておらず、共に行動する人間を尊重しなさ過ぎるこの状況ではほころびが生じるのも時間の問題だったと言える。そしてそれは今日、早くも現実のものとなったのであった。私の認識では本編2体目のボスである重攻撃騎マナスヴィン相手にあっさり全滅。それも2度。更にダメ押しとして道中のザコ戦で1度。しかもその全てが、全滅とは名ばかりの「リーダーがやられちゃったから勝手にギブアップ宣言」によるゲームオーバー。相手の手数がちょっと多いかちょっと攻撃力が強いと、ほんの少し集中攻撃させられるだけで呆気なくHPが尽きてしまう状況を立て続けに見せられ、未だチュートリアルの真っただ中であるにもかかわらずついこの先のことを案じてしまった。前作も初回プレイ時の特に序盤は相当苦労させられていた記憶があるが、今となっては霞んで見えるようである。

今日のプレイ開始時には確か、週1回プレイするとして1日に1章進めるくらいのペースが基準になるかななどと思っていたのだが、そんなのは夢のまた夢だったという現実をかなり早い段階で突き付けられることになりそうだ。
とにかく今は、この自分本位な人間達を多少強引にでもまとめ上げてくれる者の台頭が待たれる。そう言えばまだ今回はシドが登場してないな。FF12プレイ時には「もしかしたらFF13かFF14頃には本当に主役を張ってたりするんじゃないか」と半ば冗談で言いはしたが…シドよ、期待していいか。


進行状況:2日目



10/05/05(水) 1日目 老人排除令

うん、何々…?
「コクーンのパルスでパージのファルシが…」 ああ違う違う。
「パルスのファルシのルシがコクーンのエネミーだからコクーンがボーダムをパージしてサイコムがデストロイしたのでボーダムのノラのリーダーが…」

う、うわあああああーーーーーーっ!!


―――――。
発売から4ヶ月半、本日からいよいよFF13の一周目プレイを開始する。ここに至るまでの道のり、長かったなあ。思い返せば(以下略)
「発売直後にプレイしなかったFF」ということで言うと、これは1999年のFF8以来ということになる。だがこれは私の中でのFF愛が薄れた結果こうなったのではないということは初めに述べておきたい。では何がそうさせたかと言われると、やはりそれは時代か。私もこの10余年で当時とは比べ物にならないほどの社会的責任を背負う立場となり、おいそれとビデオゲームに興じてもいられなくなっていた。そしてPS3初のFF、ひいては私にとってPS3初のゲームという事実が「ハードも併せて買わなければならない」という重しとなって購買意欲の抑止になっていた。仮にこのどちらかでも違っていればこうはならなかった、つまり私がまだ社会人でなければ発売当日からプレイを始めていただろうし、社会人だったとしても既にPS3を持っていたならせいぜい正月頃にはFF13を買っていたに違いないのだ。この2つのタイミングが運悪く重なったからこそ、初めてこの4ヶ月半のブランクは生まれたのである。繰り返すが、私のFF愛は未だこれっぽっちも失われてなどいないのだ。先日だって(以下略)
このようにこんなにもFFのことを愛してやまない私であるがしかし、FF13はあろうことかそんな私をプレイ初日から精一杯突っぱねるのであった。その一つが冒頭の一節である。今作はとかく新語というかこの世界特有の言葉が多く、恥ずかしながら同年代の人間に比べて非常に頭の固い私にとっての最初の壁となったのだった。ちょっと油断すると言葉の意味を混同してしまう。なのにセリフはボイス演出だから止まってくれない。下手をすると誰もかもがとんちんかんな発言をしているように聞こえかねない状況である。ただそれでも上述の単語群は大体が今作においてかなり重要な要素であり、何度も繰り返し登場するもののためそのうち慣れはするものだ。
が、そうして立ち直りかけた私にFF13が追い討ちをかける。明らかに今後のプレイに大きな支障をきたす重大な問題がそこにあった。字が小さい。序盤のバトルに挟まれるチュートリアルやメニュー画面から辿れる「これまでの物語の粗筋」、Tipsなどの情報が実に見づらい。ちょっと複雑な漢字が潰れて読めず(「異跡」が読めない)、前後の文脈から何となく雰囲気を感じ取らなければならない。ここ最近視力が落ち気味の私にはこれがなかなか堪えた。必ずしも読まなくていい情報なのだからじゃあ読まなければいいじゃないかという話になるのだが、そこはそれ、これ見よがしにメニュー画面に「New!」的表記を表示されてはそれを1つずつ潰していきたくなるのが人間のサガというものではないか。だから私は読むのだ。今のところ全体の1〜2割くらいを雰囲気で判断しながらそれでも読むのだ。
さて、この2つの突き放し主義を見て思った。もしやFFというシリーズは、もう若者以外の人間を完全に主要購買層から外して見ているのではないか。つまりこういうことだ。「この程度の造語もすんなり覚え切れない人お断り」「これまでになかった新しい世界観を受け入れられない視野の狭い人お断り」「老眼お断り」 いつの間にやら20歳よりも30歳寄りの人間になっていた私はとても焦った。でも確かに「わーいファイファンの新作だよ」などとはしゃぐような歳ではなくなっているのである。そのことはよーく分かっているつもりなのである。でもこんな形でその現実を突き付けられるだなんて。あれほど待ち望まれていたFF13のプレイ初日は、予め想定できるはずのないような切り口から私という一プレイヤーに重大な影を落としたのであった。
もっとも、新語の話はともかく字体の大きさに関しては、我が家の14インチテレビの小ささに問題があるのではという見方もできる。でもそれはそれでFF13が「それなりのテレビを持ってる人でなければプレイするに値しませんよ」というスタンスを取っているように思えて、結局私にはショックだ。こんなところに格差の足音が。
映像の美麗さはしっかり伝わったことがせめてもの救いか。ただこのテレビではその映像についても100%の真価を発揮してる訳じゃ全然ないんだろうなあ、と考えてしまうとせめての救いも救いではなくなってしまう。

格差…


進行状況:1日目


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