早速だが、まずはこちらをご覧戴こう。

アルベド語
アルベド族が使用する独自の言語。といっても、共用語の各文字が、別の文字に置きかえられているだけで、文法はまったく同じ。そのため、もとは同じ言語だったものが、長い時間を経て変化をとげたとも考えられる

これは「FF10 ULTIMANIAΩ」内の「『FF10』大事典」に収録されているアルベド語についての記述である。

確かにアルベド語はスピラ語との共通点が多い。
先の文で指摘されている通り、各々の文字が別の文字に置換されている形で構成されているに過ぎず、しかも母音が一致している場合が多々見られる。文法の点も先に挙げられている通りである外、口語の場合はイントネーションまで共通している。その為、例えアルベド語に明るくない人であっても、短い言葉であれば感覚的に理解出来る場合すらある程だ。
これらから分かる様に、アルベド語とスピラ語との間には相違点よりも共通点の方が圧倒的に多い為に、アルベド語がスピラ語から派生した言語であると考えるのは最早自然と言える。

恐らく、その考えは間違っていない。それは、そもそも何故アルベド語というものが生まれたのか、という点を考えると自ずと明らかとなってくる。
まずアルベド族は「昔から地理的にエボンの教えが届き難い地域に住んでいた」らしい(「FF10 SCENARIO ULTIMANIA」参照)。昔、というのがどの位時代をさかのぼっての事なのかが判然としないが、あれだけ強い影響力を持つに至ったエボンの教えが届き難い程なのだから、余程の田舎で暮らしていたのだろう。また「エボンの教えが届き難い地域に住んでいたから故に機械の存在をタブー視せず、使用してきた」とあるが、今日ではその様に機械の存在を容認しているのがアルベド族にほぼ限られている事より、当時からアルベド族は基本的にアルベド族のみの集落で生活していたのではないかとも考えられる。ちなみにこれは、ゲーム中でグアド族はほぼグアド族同士、ロンゾ族はほぼロンゾ族同士による集落を構えている事が確認出来るので、別段おかしい事ではない事が分かる。
さて、そこに追い討ちとして寺院の弾圧が加わればどうなるか。そもそも田舎地方に住んでいて、そもそもアルベド族だけで生活していた彼等が、より一層スピラの中で孤立を深めていったのは明らかであろう。
この時から、アルベド族はその他の種族との交流を絶たざるを得なくなり、極めて閉じた系を形成する事となる。そしてその状況が長きにわたり続く事となるのだが、その長い時間を経る過程で、元々用いていたスピラ語が徐々に変化していき、最終的にアルベド語という独自の言語が生まれたのではと考えられる訳だ。

初めに述べたアルベド語とスピラ語の共通点。そしてアルベド語誕生の経緯の考察。これを合わせて考えると、アルベド語がスピラ語から派生した事はほぼ確実そうだ。
だが私はここである一つの事実を挙げ、この説を更に確固たるものとしたいと思う。

我々が用いている言語の表現方法の一つに「文字」というものがある。勿論スピラ語にも文字は存在する。ゲーム中で最も馴染みが深いものと言えば、ビサイド・オーラカのキャプテン、ワッカが控え室の壁に書いた「少年のころの思い出へ(To the dream of my childhood―Farewell.)」だろうか。或いはブリッツボールの試合中に何度か表示される得点かもしれない。ちなみにこのスピラ文字は数字を除くと大文字小文字それぞれで26文字あり、それぞれの文字がアルファベットに対応している。
これと同様に、アルベド語にもやはり大文字小文字26文字ずつの文字が存在するのだが、この文字の扱われ方が少々妙である事に、どれだけの人が気付いていただろうか。

ゲーム中でアルベド文字を目にする機会は少ないが、細かな部分には色々と書かれているのを見て取る事が出来る。またそれは「FF10 ULTIMANIAΩ」でも確認可能だ。
ここではその「FF10 ULTIMANIAΩ」にも記載されている一つの文字列を例に取ってみよう。ビーカネル砂漠中央部のセーブポイント付近にある「【マモノに ちゅうい!】」と書かれている壁を見て戴きたい。ここのアルベド文字は比較的大きく書かれているので分かり易いだろう。
文字列は二つ書かれているが、その内左矢印上部に書かれている文字列に注目する。これは一体何と書いてあるのだろうか。幸いにも先に述べた通りアルベド文字は形状が異なるだけでアルファベットに対応している為、何と書かれているのかさえ分かればその意味を知る事が可能だ。
そこでこれをそれぞれアルファベットにすると「i」「s」「e」「k」「i」となる。つまり「イセキ」だ。
ここで、これはアルベド語なので意味を知る為にはスピラ語に変換する必要があると思われる方もいるかもしれないが、実際にこれをスピラ語に変換してしまうと「みてし」となってしまい、まるで意味が通らない。そうではなく、実はこれはそのまま「いせき」、即ち「遺跡」という単語を示しているのだ。

ここがどうも妙である。スピラ語で言う「いせき」はアルベド語では「ミヘチ」となる筈なのだが、文字にするとそれは「miheti」或いは「mihechi」等ではなく「iseki」らしいのである。
この点が事実として揺るがないものである以上、この事から次の事が言える様になる。
「アルベド族はスピラ語の『遺跡』を『iseki』と書き、『ミヘチ』と読む」
もう少し簡略化すると、
「アルベド族は『iseki』を『ミヘチ』と読む」
となる。
そうなのだ。我々の用いている日本語で言う所の五十音はそれぞれ別の文字に置き換えられていたのだが、アルファベットに対応している表記部分に関しては、文字の形状のみがスピラ文字から変化しただけで、内部的に別の文字に置き換えられていた訳ではなかったのだ。だからこそこの一見不思議な事態は起こったのである。

この事を考えると「アルベド語がスピラ語から派生した」という説が一層説得力のあるものとなる。「遺跡」という一つの単語を考えた時に、双方では発音こそ違えど、記述した時の文字をアルファベットにすると「iseki」となる点では全く一致しているのだから。更に言うなら、スピラ文字は各々がどのアルファベットに対応しているのかが一目で分かる様な構造をしている一方で、アルベド文字も対応するアルファベットと見比べてみれば確かにそれと判別出来る程度の形をしている事から、アルベド文字はスピラ文字が変化した事によって生まれたと考えられる。
つまりまとめると、アルベド語がスピラ語から変わったのは、「五十音それぞれの発音」と「文字の形状」のみだった訳だ。ここまでくれば、この二言語が「全く起源を別にして誕生し、偶然にもこの様に似通った」と考える事の不自然さが実感出来るだろう。

しかし何と言っても「iseki」を「ミヘチ」と読むのには当然の事ながら違和感を感じてしまう。
そこでと言っては何だが、五十音に対応したアルファベットがアルベド族の頭の中ではどの様に認識されているのかを以下にまとめてみたのでご覧戴きたい。

aiueo
kakikukeko
sasisuseso
tatituteto
naninuneno
hahihuheho
mamimumemo
ya yu yo
  
rarirurero
wa wo n
  
gagigugego
zazizuzezo
dadidudedo
babibubebo
papipupepo

この様になる。元がスピラ語であるだけに、何とも取り留めの無いものの様に感じられてしまうが、やはり生まれてからずっとこの表記と発音を用いていれば、それが当然となるのだろう。恐らく、アルベド族の中にもスピラ語の表記と発音の組み合わせにえも言われぬ気持ち悪さを感じている者がいるのではないだろうか。


さて、実はこの事を用いれば、アルベド語とスピラ語の相互関係が全く分かっていなくても、比較的簡単にアルベド族とコミュニケーションを取る事が可能となる。最後にその方法を紹介しておこう。
例えば貴方がアルベド族の人に対し「ありがとう」と言いたかったとする。勿論それでは通じないので、ここでは「ワニダソフ」と言わなければならない。
しかしそれが分からず何と言えばいいか迷ってしまった時、身振りを交えて「ありがとう」とそのままスピラ語で言ってみるも相手が首を傾げている時、一層激しいボディランゲージと共に「ありがとう」と繰り返し言っていてふと自分とアニキとの間に共通点を見出してしまい憂鬱な気分に陥った時、そこで活躍するのが「文字」なのだ。
今相手に伝えたい言葉「ありがとう」をスピラ語で書くと、アルファベットにして「arigatou」となる。では、この「arigatou」をアルベド族の人に見せるとどうなるか。スピラ文字とアルベド文字との間では各々の文字におけるアルファベットの対応が一致している為、相手もこれを「arigatou」という文字列として認識する事になるだろう。その上で、上記の表の法則に従う発音をするので、何と相手は勝手にこれを「ワニダソフ」と読んでくれるのだ。勿論これは「ありがとう」を意味しており、アルベド族と他種族の人間との間に文字を介入させる事で、相手の言語の発音を知らない両者間におけるコミュニケーションを実現させているのである。

無論これは、アルベド族がスピラ文字を理解しているか、もしくは多種族の人間がアルベド文字を理解しているか、そのどちらかの状況が成り立っていなければ出来得ない事ではある。
しかし前述の通り、アルベド文字はスピラ文字が変化して誕生した文字であり、この二つの文字の間に共通した形状的特徴が見られる場合も少なくないので、言う程難解な問題ではないのではないだろうか。
勿論ながら、長きにわたり孤立を続けてきたアルベド族を取り巻く状況が改善されていく方向にある今、いずれは普くスピラの人々がアルベド族と「話す事による」コミュニケーションを修得するに越した事はない。それが理想だ。
しかし、まだアルベド語を理解していない人の方が圧倒的に多い現状において私は、アルベド族とのコミュニケーションにおける現時点での究極の形態が「筆談」である事をここに提唱する。


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