いつの頃からだろうか。エボンという言葉が、エボン寺院という組織が、人々の心を支配してしまったのは。
いや、単に「支配してしまった」という言い方をしてはいけないのかもしれない。その組織体系には、表向きの建前と内部的な構成との間に多くの矛盾を抱えてはいるものの、間違いなく人々を一つにまとめているのだから。『シン』という厄災の元にそれを成した功績は大きく称えられてしかるべきだろう。
しかし、結果には必ずや原因がある。では、寺院が大衆の心を強く引き付けた原因とは何か。それは、大衆にどんなに小さいものだとしても希望を与え、絶やさない様な「教え」を説いてきたからだろうか。
いや、それだけではない。建前上権力というものを持たない筈の寺院が、教えに反する者を一方的に断罪し、排除し続けたが故の結果でもあるのではないか。
機械を用い、もしくはエボンの教えの矛盾を説き、或いは寺院の裏の顔を告発した事で、歴史の闇に葬られた者は数多くいた事だろう。そうして教えに従わない人間をことごとく排除した結果として、今の支配体制が築かれたのではないか。

ここでは、そうして断罪された人々に目を向ける。エボンの教えこそ絶対であるこのスピラで、それに背き、寺院に断罪された末に辿り着くのは何処だろう。恐らくその殆どが、「浄罪の路」或いは「浄罪の水路」に送り込まれ、事実上の処刑宣告を受けたのではないか。
そして、まさか従順に教えに則って召喚士の旅を歩む筈だったユウナ達が、エボン寺院の真実を垣間見、断罪される事になろうとは。
その結果として、ユウナ達もそれぞれ「浄罪の路」或いは「浄罪の水路」に送り込まれる事になるのだが、ここに、寺院の抱える矛盾とは全く関わらない、一つの疑問点が浮上したのだ。

まずは、ユウナ達七人がそれぞれどちらに送り込まれたのか、それを整理しておこう。
実際にプレイした方ならば分かるだろうが、浄罪の水路に送り込まれたのは、「水中を長時間泳げる三人」である。もっと強調して言うならば「パーティー内に他にはいない、水中を長時間泳げる人間三人」である。つまり、脱出の為には短くない距離を息継ぎ無しで泳がなければならないが故に、もしも上記三人以外のただ一人でも浄罪の水路に送り込まれていたとすれば脱出がほぼ絶望的だった状況の中で、奇跡的にも「水中を長時間泳げる三人だけ」が水路行きとなったのだ。
こうなったのは何故だろうか。寺院側の多少なりともの配慮だったのだろうか。いや、例えこれらが、無事生きて脱出出来れば罪を償った事になるという名目を持っているとしても、その実態は事実上の処刑なのだから、そんな所に慈悲があったとは考え難いだろう。
とは言え、特に基準無く適当に決められているのでは、そもそも不条理な理由で断罪されている「反逆者」達からすれば輪を掛けて堪らない。過去処刑された者の中には泳げないのにも拘らず水路の方へ送り込まれたケースもあったのではないかと考えると一層不憫に感じる所だ。

と、ここで考えた。「浄罪の路」と「浄罪の水路」は、前述の通りそのどちらも実質的な処刑場である。しかし、あまりにもその環境が違い過ぎないだろうか。つまり、水路の方が路に比べ数倍過酷な環境だと思われるのだ。
確かに、水には幻光虫が溶け込み易いらしく、その影響もあってブリッツ選手達は激しい運動を伴いながらにして五分以上も水中に潜っていられるのだが、一般人にその様な芸当は不可能である。ユウナが二年間潜水の練習をして、ようやく二分四十一秒潜れる様になった事実がそれを示している。つまり、かなり手練のブリッツ選手でもなければ、水路では脱出は疎か、五分と泳いでいられないだろう。
一方で路の方はどうか。魔物こそ出現するがそれは水路とて同じ。また、無闇矢鱈と歩き回ったりしない限りはその魔物にすら襲われる事はない為、限り無くとは言わないまでも、水路とは比べ物にならない程に様々な事を考えるだけの時間的余裕が与えられる事になるだけ、明らかにこちらの方が環境として良い方だと言えはしないだろうか。

ここで余談を一つ。
この様に処刑場の意味を持っているだけあって流石に易々と脱出させてくれそうにはない浄罪の路並びに浄罪の水路だが、実は一部の人間にとってはあまり苦にならない可能性も否定出来ない。
まず水路についてだが、長時間潜水していられる人間であれば特に問題無く移動が出来る事は、ティーダ達を見て明らかだ。
また、路と水路で共通の魔物に関しては、送り込まれる際に装備品を剥奪される訳ではないらしい以上、以前に「不公平の極み」で述べた様に、「さきがけ」と「とんずら」を修得している人間であれば安全確実に移動する事が可能という事になる。浄罪の路については、そういった人間対策としてなのかどうなのか、逃走不可能なメイズラルヴァという魔物も出現するのだが、これも万が一その人間が「エンカウントなし」をセットしている防具を所持していたとすれば意味は無い。また、その場合は何の弊害も無く、100%脱出を成功させられてしまう事になる。
表向きは「処分」程度の罪であっても、寺院的には「処刑」するべき人間なのだから、勿論無事に路や水路を突破したからとて抜け抜けと家路に着かせる訳にはいかないだろう。ではその時はどうするのだろうか。
思うに、やはりこれはゲーム中におけるユウナ達のケースでも見られた様な、「処刑人」に当たる何者かを出口付近に待たせておくと考えるのが最も妥当だろうか。
ユウナ達の脱出をシーモア老師が待ち構えていたのは、実際にそうすると決めたシーンを見れば流石に特別なケースであったというのは分かるが、そうでなく普通のケースだったとしても、万が一脱出された時の為に最後の砦として「処刑人」を用意していたのだと思われる。水路の場合も、ゲーム中でエフレイエ=オルタナという強敵が現れたのは、事前にエフレイエを倒していたからこそなので特異なケースと考えられるものの、やはり一般の場合でも何者かが現れる仕掛けになっていたと考えられるだろう。

話を戻す。
では、同じ処刑場でありながら、何故これだけ扱いに差があるのか。もしかしたらそれは「罪状の違い」にあるのではないだろうか。つまり、同じ「反逆者」でも、極めて重い罪を犯したり、特に危険な思想を持っている者は過酷な水路へ、比較的軽い罪を犯した者については、強運こそ必要であれ水路と比べれば格段に脱出率が高いと思しき路の方へ、という具合に。
実はそうではないかと勘繰る事の出来る事実が一つある。路の方では、これから脱出へ臨まんとする者に対して「罪人に告ぐ」とし、もしも生きたまま脱出すれば罪が許される、との旨が伝えられるのに対し、水路の方は一言もそれが無いのだ。まあ、あった所で当人からすれば悠長に聞く余裕等無いだろうが、ここに寺院の人間の、路に送り込んだ人間と水路に送り込んだ人間とに対する扱いの差異が表れている。

そこで話は元に戻る。浄罪の水路に送り込まれるのが、比較的重い罪を犯した人間だとするなら、ティーダ、ワッカ、リュックの三人は何が理由でユウナ達四人とは別に水路に送り込まれる事になったのか。それを各人について検証してみよう。
まずティーダに関しては、まず結婚式襲撃時に先頭をきって突撃した、つまりリーダー格と見られた事が原因だろうか。結婚式襲撃時のみならず、反逆行為に出始めてからというもの、誰よりも強く突っ掛かった事で、かなりの危険分子だと見られていたかもしれない。また、他六人と比べると反省の色が見られなかった事も要因としてあっただろうか。実際寺院側の立場になって考えてみると、最も「反逆者」の烙印を押すに相応しい人間である様な気はする。
次にワッカだが、彼はティーダとは逆に、教えに則って反省の意を示している上、これと言って他の六人と比べて逸脱した行為に及んだと言える事も無いので悩む所だが、ただし、ワッカにはチャップという弟がいた事を忘れてはならない。チャップと言えば、一年前のジョゼ海岸防衛作戦に臨む際に機械兵器を使用していた訳だが、この事が寺院に伝わっていたとすれば、当時ワッカに対して何らかの警告が成されていたとも考えられる。その上での、言わば性懲りも無い今回の事件。つまり寺院からすれば「反逆者」の家系である。これが重罪に値したのであろう。
リュックの場合は明白か。そもそも機械を日常的に使用している事で最初から反逆者扱いされる上に、結婚式場から逃げる際に「アルベド印の閃光弾」と称したアイテムを使用しているので、それによる実害こそ出なかったとは言え、それも加味された結果、水路に送り込まれたと考えられる。

一方、路の方へ送り込まれた四人についても考えてみよう。
まずユウナは、召喚士としての功績(キーリカやキノコ岩街道での異界送り等)が考慮されたか。
ルールーも、ティーダやリュック程には飛び抜けた行動に出ていない上で反省の意を示している。
キマリについては、マカラーニャ寺院で試練の間へ行かせてくれなかった僧兵を突き飛ばした一件が恐らく寺院に報告されていただろうが、これもやはりティーダやリュック程ではないと判断された様だ。もしくは、ケルク=ロンゾ老師の意向が多少は反映した結果だったのかもしれない。
アーロンについては、既に教えを見限っている事や、反省している様子も見受けられない事から、下手すれば水路に送り込まれる所だった可能性があるのだが、彼には十年前の大き過ぎる功績がある。また、「親友」キノックの采配もあり、路行きに留まった様だ。

どうやらこんな所の様だが、寺院側のせめてもの配慮、という訳ではなかった以上、その実本当に「奇跡的」な出来事だったのではないだろうか。


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