トップページへ  「SERI STYLE」さんへ  「GAME FIELD」さんへ


06/08/27(日) 第10回 変わるものと、変わらないもの

何やら壮大なテーマであるが。

さて、このテーマについて論じる前に、我々は一つ理解しておかなくてはならない事がある。「基本、FFとは変化していくもの」であるという事だ。つまり、「変わるもの」や「変わっていくもの」はFFには五万とある。
過去この企画内で触れた事のあるものだと、例えば第7回のゲームシステム面なんてのは、プレイヤーにとって最も目に付き易いポイントだと言える。ジョブ、魔石、マテリア、G.F.ジャンクション、スフィア盤、ライセンスといった感じに辿ってきたアビリティシステムは、今後も一つの新作につき一つの、新たな境地を見出し続ける筈である。
これについては、同様に第7回で少しだけ言及していたが、今となっては旧システムの完全流用をし難くなっているという現状から、仮に今後多くのプレイヤーを納得させる程に完成度の高いシステムが登場する事となったとしてもそれを次の作品に持ち越せないんじゃないのかという点では、何とも煩わしいと何と言うかである。無論、煩わしく思うべきなのはある時点でのFFのシステムが大多数のプレイヤーから支持されてからの事であるけれど。いや、嫌味とかではなくしてね。世論を総合してのつまりは一般論としてね。
そう言えば、FFとしては過去にジョブチェンジシステム(FF5)という素晴らしいシステムを一旦は捨てた事もあるから前科有りという事になるのか。ジョブチェンジシステムが素晴らしいシステムだっていうのは丸っきり私見であるが。

変わるのは勿論システムばかりではない。ゲームからは直接見えてこない事も多いその内面や内情、スタッフ勢の変遷はこういった事を語る上では外せないのではないか。
実際、FFのスタッフは同じ「FINAL FANTASY」という名のシリーズ作品として括られているにも拘らず、来年には二十周年を迎えるだけの歴史を歩む中でいつしか第一作当初からの顔ぶれがガラッと入れ替わってしまった。
と、ここで、実際にどういった感じでスタッフの変動があったのかを振り返ってみたい所ではあるが、全作品のスタッフ構成をいちいち書き出すとそれこそとんでもなく冗長になってしまうので、やはりここは原典である「FINAL FANTASY」から、代表的な人物をピックアップして紹介するに止める。
まずは、オールドユーザーでなくとも誰もが知る、FF1ディレクター坂口博信氏。FF5まではディレクターとして、FF6からはプロデューサーとして、更にFF8からは(スクウェア退社後も)エグゼクティブプロデューサーとしてシリーズに関わってきたものの、シリーズではFF10-2を最後にエグゼクティブプロデューサーという位置からも去る事となった。ちなみにFF12には一切名前がなかった訳ではなく、最後の方の「SPECIAL THANKS」の所に氏の名前がクレジットされていた。
今ではサガシリーズで有名な河津秋敏氏は、FF1ではシナリオとゲームデザインを担当していた。彼こそ、有名どころで言えば数少ない「FF1に関わっているFF12関係者」であろうけれども、まあ、FF3以降長きに渡ってFFシリーズからは離れていた(FF2の後がFFCCか? ちょっとよく認識していないが)事や、FF12エグゼクティブプロデューサー就任の経緯からしても、彼を「ガラッと顔ぶれが変わった」事に対する例外として扱う事は出来そうにもない。
河津し同様FF1シナリオ担当寺田憲史氏は、ご存知の方も多いかと思うがFF3までで同シリーズとは決別した。
音楽は勿論植松伸夫氏。彼こそこれまでFF製作に携わってきた全ての人間の内で、唯一全シリーズに関わった人であると言えるだろうが(FF10-2もまあ、かなりの拡大解釈をすれば…)、FF10以降、次第にフェードアウトしていっているのは残念ながら否定しようのない事実である。ある時点までFF12の作曲は植松氏一人であるなんていう風に言われていたけれど最終的にそうはならず、そして結局FF13もテーマソングだけだと言うし、もうFFシリーズの第一線に戻ってくる事はなさげか、残念ではあるが。
スクウェア関係者以外となれば何と言ってもこの方、キャラクターやモンスターのデザインを手掛けた天野喜孝氏であるが、彼はこれまた多くの方の知る所である様にFF7以降ではデザインから離れイメージイラストレーターとしての参加である。社の人間でないにも拘らず植松氏よりも多くFFに関わっている人物であるけれど、それでもキャラクターデザインを担当しなくなった事については少なくない人間が残念だと思っている様で、そこは創成期から「FFらしさ」を作り上げたとも言える人物、流石の影響力である。
この他にもシリーズ途中で離脱した人間は沢山いるし、また途中から参加し今に至るスタッフもいれば途中から参加し今はもういないスタッフもいればとある一作にだけ関わったスタッフもいる。ただ大事なのは誰がどのFFを担当していたのかという事ではなく、FFの「色」すらも左右する位に重要な人物がいなくなっても、或いは新たに現れたとしても、決してシリーズは完結してこなかったという事実だ。ある人が抜ける事により作風がどんなに変わる事になろうと、FFが終わる事はなかったという今日に至るまでの二十年だ。
その二十年の歴史はつまり、今後どんなに製作スタッフの変動があろうとも、それは例えば作曲者から植松氏が完全に姿を消したり、天野氏がイメージイラストを担当しなくなったり、野村哲也氏がキャラクターデザインを担当しなくなったりしても(FF12はノータッチだったそうだけれど)、それが理由でFFが真のファイナルを迎えるなんて事は、これから先もないのであろうという事を意味するのだ。FFは、いつからなのかは判然としないものの、しかしある時期からは確実に製作スタッフの(時に著しい)変動を許容したシリーズ作品なのである。

FFが「変わる事」を受け入れた対象は他にもある。少し上述したが、音楽もまたそうだと言える。
「キャラデザが天野じゃないFFなんてFFじゃない」とまで言う人がいる様に「音楽が植松じゃないFFなんてFFじゃない」という人もまた多くいるが、実際のFFにおける植松氏の活躍度はと言えば次第に後退していると考えざるを得ない様だ。
氏の参加しなかったFF10-2はそれを象徴する最たる例であるが、むしろ私はそれよりも、FF12での氏の扱いの方こそそれを強く思う所であった。何せエンディングテーマでしか流れない挿入歌一曲限り、それも劇中で当該挿入歌のアレンジが一度たりとも流れていなかったからだ。FF8以降ゲーム内を彩ってきた主題歌の類には、必ずやそれをアレンジした曲が存在して、それがゲーム中のイベント等で流されていた。だからこそ、いざエンディングで主題歌を聴いた時の感動もひとしおだったのではないか。それがエンディングになって何の前触れもなく唐突に流れるとあっては…
しかし、開発側の判断はそういう事なのである。既にFFは、植松氏をメインコンポーザーに据える必要がないのだ。今後のFFは、差し当たりFF13のコンポーザーを務める浜渦正志氏が植松氏の後釜に座るのか、それとも割とコロコロ担当者が変わっていくのかは分からないが、いずれにせよ音楽もやはり「変わる」という事なのである。

「変わるもの」 他にも、まだまだある。
世界設定が変わる。
主人公始め全キャラクターが変わる。
シドの外見や役回りが変わる。
タイトルロゴのイラストが変わる。
必殺技のシステムが変わる。
飛空艇のデザインが変わる。
ポーションの回復量が変わる。
1ギルの価値が変わる。
チョコボの鳴き声が変わる。
希望小売価格が変わる。
そして、ある人はそれらの変化を許容出来なくなってFFのファンをやめ、またある人は装いを新たにした新作に魅入りFFのファンとなる。

そうした大きな変化の中でただ一つ、「FINAL FANTASY」というタイトルだけがいつまでも変わらないのだ。



06/08/20(日) 第9回 チョコボ

これまでの8回、振り返ってみるとどうも話が真面目だったり深刻な方向へ向かいがちなテーマが多かった事と、流石に前回のは度が過ぎたなあ(しかもまとまりもなく)という事で、今回は一つ緩いテーマを設けてみた。いや別にチョコボがテーマでも深刻な話は出来るだろうけれども(例えば、「チョコボさえ出てればそれだけをしてFFか」とか)、今回私はお気楽モードで。

さて、チョコボである。言わずもがなのFFマスコットである。であるのだが、それがパクリで生まれたキャラクターというのは、如何なものだろうか。
いや、パクリと言ってしまうのはもしかしたら不適切なのかもしれない。だがしかし、かの者が森永製菓の人気商品「チョコボール」でお馴染みのキョロちゃんからきている事は火を見るより明らかな事実。それが今や、FFの端々に登場する一キャラクター止まりだったんならまだしもそこから独立して「チョコボの不思議なダンジョン」に端を発してゲーム主人公という立場での活躍を見せているのは流石にどうだ、と言いたいのだ。パクリだぞ。百歩譲ってオマージュだと考えるにしても、それをメインに添えたゲームを何作も発表、スクウェア・エニックス社の稼ぎ頭の一角となっているのは法律の観点から問題があったりはしないのだろうか。いつだったかにはその森永製菓とのタイアップで「チョコボのチョコボール」なんてのが実現した事も確かあったから、それは別にいいのか。でも、モラルの観点から問題があったりはしないのだろうか。今更言う話でもないか。

しかしまあ、FF2にて殆ど隠しキャラ的に登場したシナリオにも別段関わってくるでもないチョコボがここまでの出世を果たす事になろうなんてのは誰一人考えてなかったんじゃあるまいか。大体がパクリじゃなくて剽窃じゃなくて盗用じゃなくて他キャラの参考であった訳だから。テーマ曲にもAメロしかなかったし。まあ思うに、チョコボがマスコットキャラの位置に定着してきたのはバリエーションも増えてきたFF4辺りからの事だ。
ただ、そうしてFF4以降も着実な成長と版図の拡大を遂げていったかに思えるチョコボであるが、その実際はそうまで単純で楽なものではなかった事を、貴方はご存知か。FFに留まらない、時にはゲームに留まらない活躍を我々に見せてくれるチョコボ。その一見華やかな境遇の裏には、意外な程の苦節の日々が秘められていたのだった。

FF2で初登場したチョコボは、前述の通り殆ど隠しキャラ的な待遇にてFFデビューを飾った。彼の住む「チョコボの森」はカシュオーン城南にある森に存在するのだが、困った事には、その「チョコボの森」が周囲の森とは一切区別が付かなかったのだ。キョロちゃんのパクリとしてこの世に生を受けてしまったが故の悲劇。チョコボは、「隠されていなければならない存在」として誕生したのであった。
FF3にて早くも新種デブチョコボが登場。ようやっとキョロちゃんという縛りから抜け出せそうな予感を彷彿とさせるオリジナリティ溢れるデザイン。だがこのデブチョコボが、本家チョコボ以上の悪待遇によってマスコット生命を志半ばで絶たれる事になるのはご存知の通りである。
本家チョコボはと言えば実はこの頃からマスコットキャラとしての能力を如何なく発揮し、早くも召喚獣という地位に上り詰めている。召喚獣と言えばFF3初登場で言わば当時の目玉とも言えた筈の要素。当時僅かに8種しかいなかった召喚獣の一角に入り込んだその功績はやはり称えられるべきか。この思い切りがあってこそFF4以降の大躍進があったとも言える。だがしかし、その魔法名は「チョコボ」であるかと思いきやそうではなく、では何なのかと言えばそれはまさかの「エスケプ」 幾ら効果が「バトルから逃走」だからと言ってこれはあまりに陰湿なイジメである。
FF4でパーティーメンバーのMPを回復してくれる事実上の回復ポイント白チョコボ初登場。とか言って、FF2やFF3のチョコボ自体が見た目白く見えるから一体何を改まって白チョコボなんだと言いたくはなってしまう。よもやそれまでの過去を全部なかった事にでもしようとしてるんじゃないかという邪推までしてしまう。
白と同時に黒チョコボも初登場。初めての「飛べる」チョコボであったが、それをして「鳥なんだからそもそも飛べて当たり前だろ」と斬り捨てられてしまう悲劇。
FF5。ここから異変は起こった。まずここで白チョコボが絶滅。更にデブチョコボが、「パーティが大量のアイテムを所持出来る様になった」この仕様変更により従来のアイテム保管役から召喚獣「チョコボ」召喚時に1/16の確率で登場する隠しキャラへ格下げ。
FF6。黒チョコボ絶滅。デブチョコボも一時的に姿を消す。ゲーム内に登場するチョコボが原種の1種のみに。FF4以降驚くべき速度で衰退の一途を辿り遂には種としての絶滅危機にまで陥ったこの頃はさながらチョコボにとっての暗黒の時代であったに違いない。
FF7。デブチョコボ復活も待遇はFF5と変わらず、大半の人は目にする事もないままクリア。チョコボは山チョコボ等々種類が豊富になった様には見えるが、その実それは短期間で何度も無理なカップリングする事や野生のチョコボとは本来無縁であった筈のあんな実やこんな実を与えた事による突然変異からきたものであると言わざるを得ない。そしてチョコボレースという金持ちの為の悪趣味な娯楽は少数の、その後の人生を確約されるであろう勝ち組チョコボを生む一方で多数の負け組チョコボをも生み、そうした者達は生まれてこの方温室でぬくぬくと育てられてきたにも拘らずある日突然自然に放り出されたりするのである。チョコボレース等を見ていると一見華々しくも見えるチョコボの生涯であるが、その実態はFF史上最も劣悪なものであったと言ってもいい。さしもの「従順」体現者チョコボもこの扱いには耐えかねたか、同年末彼等は遂にFFからの独立を果たす事になるのであった(1997年12月「チョコボの不思議なダンジョン」)。
しかし数少ないシリーズ不可欠要素である為にFFとしてもチョコボを手放す事は許されず、結局FF8にも出演。「不思議なダンジョン」で勝手に旅に出たチョコボに対して便宜を図ったか「おでかけチョコボRPG」なるミニゲームは用意されたものの、FF4以降どんなに短く、どんなに薄くたって一応はあったメインシナリオ上でのプレイ画面登場の機会が遂に消滅する。
こうもなるとチョコボ側も黙ってはおらず、この頃から反発と取れる行為も見受けられる。FFTでのモンスター化(しかも凶悪)は言うまでもない事だが、あからさまな敵対心に限らずともFF8ではちょこ坊と組んで金儲けに走ったし、FF9ではストライキのつもりか種族ぐるみで「チョコボの桃源郷」へ引き篭もっていよいよゲーム中でチョコボを見かける機会はなくなっていった。
以降、FFとチョコボとの関係は泥沼化の様相を呈していく。FF10では大幅な活躍場所の制限を受ける事となってしまう。続くFF10-2ではテーマ曲すら剥奪。
FF11の事はよく知らないが、そのゲームを「FINAL FANTASY」という名で規定する為にチョコボ達が利用されているのだという現実は想像に難くあるまい。
そしてFF12ともなると、大枚はたいてなお3分程度しか乗っていられなくなった。場所的制限に加え、とうとう時間的制限まで食らう事になったという訳だ。また、モーグリに飼われる様になった(相棒や友達関係ではない)という点もその地位の低下を象徴していると言える。

こうして見ると、確かにFFにおいてお世辞にも良いとは言えない扱いを受けてきたチョコボが、次第にFFから離れて独自路線を突き進む事になったのも故なき事ではない。そして、そうとなると俄然気になってくるのが、今後のチョコボの去就である。これからFFとチョコボとはどの様な関係になっていくのだろうか。
新作が発表される度、顕著に付き合いが薄くなっていく両者であるが、しかし切っても切れない縁で結ばれているのも事実であって、この先もFFには必ずやチョコボの姿が見られるであろう。これは確実だ。チョコボ側からすれば、FFの方から一方的にしがみ付かれているという迷惑極まりない構図であるのかもしれないが。
それよりも興味深いのは、FFがシリーズとして完結した後の事である。「FF出身」のチョコボは、果たしてFFの終焉と共に姿を消す運命にあるのだろうか。私はそうは思わない。否、そう思わないと言うよりは、いざそうなった時自分も巻き添えを食らわない為にこそ今、種々の独自活動を行っている様に思える。FFでないゲームで主人公として活躍し、またFF関連でもないゲームにゲストとして出演し、また先日は「いただきストリート」でDQキャラとの共演も果たす事でいよいよ「FFマスコット」から「スクエニマスコット」への昇華を狙って、チョコボは今FFと共倒れにならない為の基盤作りをしているのだ。
FFとしても、仮にここでチョコボとの関係を解消したとしてそれがさして大きな痛手になるでもなかろう。つまり今後は、本当に一切登場しなくなる事こそなかれど、よっぽどの事がなければチョコボのFFにおいての復権は望めないだろう。元よりスクエニマスコットへの野望があったのかどうかは定かではないが、早くにFFを見限って別の道を歩み始めたチョコボの決断は賢明であったと言えそうである。



06/08/13(日) 第8回 FFの適正価格

取り敢えず、何はなくともFF各作品の発売価格を見てみなければ始まらんという事で、主立ったものを調べてみた。

FF15900円 FF76800円 FF108800円
FF26500円 FF87800円 FF10-27800円
FF38400円 FF97800円 FF11(PS2)7800円
FF48800円 FFT6800円 FF128562円
FF59800円    FFCC6800円
FF611400円      

最近だとFF12が高かったなあという印象があるが、やはり視覚で「9000円近いな」と認知する事のパワーというか影響力は凄い。あれは税込み価格だった訳なので、これを税別価格として見ると実はFF10の方が高かったという事になるのだ。でも、FF10を買った当時そんなに「高いなあ」って思ったかなあ。実際、この表を見ても分かる通り比較的高いのではあるのだが、驚く程そういう印象がない。税込みで考えたら9240円じゃないか。めちゃめちゃ高いじゃないか。なのに何故。
考えられる事は二つある。一つは、2001年当時私はインターネットに接続出来ない環境にて暮らしていた為、今以上に発売前情報に触れる機会が少なかった事で、実際店頭に赴くまで幾らで売られるのかを一切知らなかった、つまりその価格を「高い」と思う機会が一回限りだったその一方で、FF12については発売の随分前から税込み8990円だという事を知っていたので繰り返し繰り返し「高い」と感じていたであろうからという事。もう一つは、取り敢えずFF10とFF12のどちらも一通りはプレイした今、満足度で比較すればFF10>FF12であるという事実がそういった印象を持たせているのではという事。後、もしかするとFF12が発売からあまり間を置かずして驚く程の値崩れを起こした事で「自分は今の4000円増しで買ったんだなあ」という「損をした感」を抱いてしまった事も、今FF12を高かったなあと印象付ける理由の一つだったのかも。
そして、FF12以外で言えば何と言っても唯一5桁の数値を記録しているFF6が燦然と輝いている様に見える。やはり凄い。10000円台をすっ飛ばして11400円の高み。やはり凄い。
私は、このFF6をこの値段で購入した口である。当時は小学生だったろうか、中学生だったろうか。あの時の「俺はFF6を買うんだぞ」という決意はそれはそれは並々ならぬものだった事を今でもよく覚えている。やっぱり、10000円を越えてくると厳しいものがあるよね。

という事で、本題である。「FFの適正価格とは」
一言に適正価格と言っても、その計り方は色々な要素を検討する必要があって中々一概に判断出来るというものではない。例えば投入した開発費が幾らだったのかというのは重要な観点の一つだが、ユーザーの満足度的に幾らが妥当だ、という考え方もあろう。一重に「最も利益を上げられる価格帯はどの辺りか」という所に絞って考えるにしろ、発売時期に他ソフトとの競合関係があったかなかったかでそれが変動する可能性は十分あるし、コンシューマーゲームという点から言えばSFC時代には任天堂から買う必要のあったカートリッジがディスク媒体に比べて高価だったなんていう背景も見え隠れする。FF6がべらぼうに高いのは何もスクウェアが巨額の開発費を投じたというそれだけの事でそうなった訳でなければ、多少の値上げ位じゃ売上には微塵も影響しないと踏んで不当に値をつり上げた訳でも勿論ないのだ(バブルの影響なんてのもあったか?)。
こういった事情から、少なくとも別ハードの作品同士を平等に比較するのはかなり難しそうである。という事で、取り敢えずは近年の作品について考えてみる。
近年、つまりPS2という事になるが、そもそもPS2用ゲームソフトの平均価格はどの位だろう。何しろFFばっかりにしか目が行かない(ゲーマーの中にあってなお)駄目な人間であるのでよく分からないのだが、5800〜6800円位だろうか。それがFF/DQクラスの大作になる訳なので、色々費用もかさむとみてここでは1000円増しとしてみると6800〜7800円。で、問題のFF10が8800円でFF12が8500円強。そう考えると、高い気はするが滅茶苦茶に高い訳ではない様にも感じる。
ただ、それはあくまでPS2用(尚且つ大作)ゲームソフトとしては、という意味である。結局の所重要なのはここからだ。果たして双方のソフトは、8千幾らという価格に見合っただけの内容だったのかどうか。上ではひとまず1000円増しとした「大作」を理由としての価格帯引き上げは許容されたものだったのかのかどうか(=「大作」のレッテル付けに値するものであったかどうか)。
一般の評価から考えれば、FF10はこの辺りの値で良かったのではないかと思う。特に古くからのFFファンからはいよいよ「この作品辺りからシリーズの流れがおかしくなった」だの「何処がファンタジーだよ」だのと手酷く斬り捨てられていたFF10ではあったけれど、グラフィックが素晴らしかったのはFFである以上最早勿論の事、シナリオも良かったし、ここぞという所で決めてくる音楽もまた良かった。何より、「FF10シリーズ」としてその続編が製作、FF10二年後に発売された事実がそれを物語っていると言える。FF10製作終了の時点でどれだけFF10-2に関する構想があったのかは知らないが、仮にFF10が不評だったんならFF10-2は存在しなかった筈だから、少なからず及第であった事は言えそうだ。
一方、FF12はどうだろう。「一方」なんていう導入をしちゃったもんだからお察しの事とは思うが、残念ながらFF12は8500円という値段には不釣合いなゲームソフトであったと言わざるを得ない。
これは私の声ではなくして、あくまで世論の声なのであるが、とにかくそういう事になっている。巷の、FF12に関する主立った感想を少し列挙してみようか。
ここに揃えてみたのが否定的意見だけというのは甚だアンフェアな話ではある。これら意見の逆を言う人間も確かにいる。だが比率で言えばこういった否定的意見を述べる人間の方が他方より多めと見受けられてしまう事も、また事実だ。
そうなると、FF12が8500円というのは、少々高かったと言えてしまうのではないか。それは初めの方で述べた値崩れ事件が客観的に示している事であるとも考えられよう。
じゃあ幾ら位だったら、FF12には見合うのかと言われるとそれはかなり難しい話になってきてしまう。今3000円台で売られているからと言って、では3800円がFF12の適正価格だ、とは言えないし。例え否定出来る点は色々あろうと、グラフィックがこれまた及第点であるだけでも少なからず質としてはそこそこのラインを上回ってくるだろうし。それに「期待度の高い有名シリーズのFFだから」こうまで言われている向きもあるが、その他のゲームと比較すれば言う程酷くはない、といった部分もあるであろう事を加味すれば…うーん…6800円位?

うーむ、難しいな。こういった問題は正に千差万別で、500円でも買わないって人もいれば定価以上のお金も惜しまないなんて人もいるだろうから、そもそも一般的に述べた事が間違ってたのかな。
ならばという事で主観で述べてみる。と言っても、私は「ゲームをプレイしている」という行為にまず楽しみを感じるタチであって、FF10は勿論(第4回参照)FF12も割と楽しんでいた人間なので、あまり面白味のある結果にはなりそうにない。
つまりもうちょっと払ってもまあいいかな、位に思っている。具体的には、税別で10000円までなら、普通に許容出来てしまう気はする。FF12を「高い高い」と言っていた経緯からすれば文句だけは一人前に言うんだろうが、それでも買う時は普通に買ってしまいそうである。微妙にFF6の価格に届いていない所からすると、当時kemkam少年がその購入に際して少なくない苦悩を抱いていた過去も見えてくる様な気がする。
単に「許容出来る」という点のみならず、「適正」という点でもそうであると思っている事はここでしっかり述べておこう。何しろプレイスタイル上、FFの様な作品は一本で150時間〜300時間程度は遊べるのだ。この前買った某DVDは再生時間1時間で5000円であって一体どういう商売してやがんだこれじゃFFが100倍お得と言うよりはむしろお前んとこのDVDがぼったくってんじゃねえかっつー事になるぞオイ、な訳だったので、大作RPGゲーム一本が10000円してもまあ許せるという意見が完全にズレたものでないという事は、ある程度ご理解戴けるのではないか。

という事で結論付けてみると、10000円程度なら納得して出せる。
納得するかどうかを一切考慮しないとしたら、仮に20000円したとしても買ってしまうかもしれないけれど。


繰り返すが、PS2作品を基準にしての意見である。これがFF9以前だったらまた話は違ってくるだろう。ファミコン時代の作品を10000円っていうのは流石に高過ぎる訳だし、FF6は逆に10000円を切ってしかるべきだと思うし。
そしてこの流れ上どうしても考えてみたくなってしまうのはFF13はどうなるのか、という事。いや、そもそもPS3用ゲームソフトの相場はどの位になるものなのかも分からないが。PS3の売りとされている次世代グラフィックを最大限引き出そうとしたりするならどうしたって開発費は一層かさむのであろうから、FF9→FF10で1000円増したあの時と同じくFF10やFF12の更に1000円増しで9500円〜10000円という価格帯で決定する事になるのだろうか。
大体に三本立て、PS3だけで少なくとも二本出すという特殊な形態である為に単純計算は全然出来ないけれども、本当にそういう事になるとするとこれは大変な事態である様に思う。ディスク媒体へ移行してソフト価格が大きく下がったあの時代、まさかまたソフト価格がかつての大作レベルにまで肉薄してこようなんて事、一体誰が思っていただろう。
ゲーム業界は今、かつて少年達を悩ませに悩ませた暗黒の時代へと舞い戻ろうしている。
無論、FFやその他ゲームソフトが2000円や3000円相場を下げようが、それをプレイする為のハードウェアが60000円だ70000円だそれ以上だと言っている時点で既に暗黒の時代はやって来ているのだが。


次回テーマ「チョコボ」



06/07/02(日) 第7回 FF各作品のゲームシステム

FFが新作を出す度、それまでにないシステムを採用している事実は多くの人の知る所であるだろう。私自身も、この共同企画の第1回でその事について少し触れていた。あの時はざっと総論的に振り返ってみたに過ぎなかったけれども、今日はその各作品のゲームシステムそのものがテーマであるという事で、もうちょっと掘り下げて見てみたいと思う。

時代に沿って見ていこう。まずはFF1。これは今考えればこそ、あり得ない位シンプルなものではあったが、しかし現時点でFF10-2にまでその礎が受け継がれたジョブシステムは当時から存在していた。これを思うとちょっと凄いのではないかと感じる。
魔法、つまりアビリティの購入については、前回テキストでも述べていた通り、多少不親切感の拭えないものではあった。

続くFF2であるが、FFのシステム遷移はここに来て早くも一つの山場を迎える事になる。お察しの通り、各能力値独立増減制成長システムの事である。
私は、今になっても不思議でしょうがないのだ。何故、(ゲーム事業が)土壇場になってそれでも一応の成功を収めた「FINAL FANTASY」の続編を作るに当たり、これ程までに独創性溢れるシステムを導入しようと思い立ったのか。そして、少なくとも取っ付き易くはなかったと思しき当該ゲームが、一作目に続いて成功するに至ったのか。当時まだゲームと言えばアクションばかりでRPGもDQまでであった私にとって当時の評判やらは全く知る所になく、その辺りの事がとても気になって仕方がない。
「パーティーアタック」等と言う間違った成長方法が蔓延してしまう中でプレイヤーにとってのFF2難易度は不等と言えるまでに高騰し、しかしそれですら大コケしてしまわずに済んだのは、当時のゲームとプレイヤーとの濃い関係があったからこそなのか。

FF3。ここで導入されたジョブチェンジが、後のFF5の布石だったと考えるとこれはとても大きな意義のあった作品という事になろうけれども、やはりこれも発売当時のプレイヤーの声がどういうものであったのかはよく知らず。魔法のアイテム化についてもしかり。
FF3はあれだな、やっぱりラストのインパクトが凄過ぎたばっかりにそれ以外の事が全然語り継がれてないんだな。

FF4ではいよいよ、その後のFFのバトルシーンを大きく決定付けるシステム、「Active Time Battle」が導入される。
テーブルトークRPGからの静的概念を覆したセミリアルタイム概念。これを特許申請した事については賛否両論あったのやらなかったのやら知らないけれども、やはりこれはFFシリーズ最大の発明ではなかったか。
一方、その他にはこれと言って特筆する様な斬新さはなく、特に魔法習得方法がレベルアップ一本である事に関しては、FF4という作品だけを見る限り全然おかしくはないのに、シリーズ全体におけるFF4という観点からはつい「どうしたFF」と言いたくなってしまう。ATBが成功して良かったなあ。ATBがあまり面白くなかったからって言っても、当時の事を思えばそれが理由でFF人気が降下したなんて事もなかったろうけどね。

そしてFF5においてFF3のものをより進化させたジョブ&アビリティシステムが登場した事により、ATBと併せてFFバトルシステムはここで完成の域に達する事となる。
これが初FFであった私は、普通にプレイする中でその事を直に感じる事はあまりなかったものだが、でも色々なやり込みプレイを見るにつけ次第にその絶妙なバランスに感動すら覚える様になった。レベルが低くたって、極端な事を言えばレベル1だって工夫次第でどんな敵でも倒せる。それまでのどうしても勝てない敵(特にFF4のラスボス)へは強力な武器防具を揃えるか、さもなければレベルアップ位しか対処しようのなかったものに比べ、プレイヤーの戦術が勝敗を決す大きな要素として加わったFF5のバトルシステムは、今もって最高峰のクオリティを誇るものであると私は思っている。

FF6。魔石登場。魔法修得値が気になるばっかりに、幻獣そのものが呼び出される事の何と少ない事か。
超必殺技も登場。瀕死にならなければ発動しないばかりか確率も1/16と低く、実際に目にする事の何と少ない事か。

FF7。マテリア登場。戦術の幅が広がるという点ではFF5のジョブシステムと似た所もあるのだが、ややコマンドマテリアの種類に乏しいという感がないではない。いやでも、組み合わせの工夫という点ではこれもかなり面白味溢れるものであったのは確かである。何より、まだ十分直感ででも進められたという事実もある。
PHSなんてのもあったか。これは割愛するか。

さて、ここからが今回の本題である。続くFF8で、いよいよFFのシステム面での議論は大きく問題点を提起せざるを得ない方向へ動く事となった、というのが私の印象であり意見だ。
「よく分からない」 それが、初めてFF8の解説書を一通り読み終わった時点での感想であった。「で、結局どうすればいいんだ?」 それが、ゲーム開始後、ヘルプを一通り読み終わった時点での心境であった。事態をあまりにも飲み込めていなかった私は、ケツァクウァトルとシヴァを手に入れるだけ手に入れて、しかし一切ジャンクションという行為を取らず正に丸腰のまま炎の洞窟へ旅立って行ったのだ。そのプレイを見守っていたFF8経験者の助言がなければ、程無くして私はイフリート辺りによって初の全滅を喫していた筈である。
私が問題提起したいのは、FF8のみならず、一体にFF8以降のFF全般についてだ。実際にFF8以降もまだ出て来るかと言いたくなる程に革新的なアイデアの数々がFFというゲームを彩る事になる訳であるが、しかしその「革新的なアイデア」こそが穴でもあるのだ。
目新しくそして斬新なシステム、しかしそれは裏を返せば数多いプレイヤーの誰もがまだ知らないシステムなのでもあり、その事は即ち、それが仮に煩雑であるとなった場合に当該ゲームが極めて取っ付き難いものへと変貌する危険性を秘めていると言えるのだ。もしかするとFFはある時から、この罠に嵌り込んでしまってはいないだろうか。ジャンクション、スフィア盤、ライセンスと言った、まずその何たるかを理解する事が一仕事とも言えてしまうゲームは、果たして人気シリーズとして最良の流れだったのだろうか。現在FFの最大の売りは美麗なグラフィックと言われる事が最も多いだろうが、ではそのグラフィックの素晴らしさは、システム面の多少の煩わしさを十二分に吸収してくれる程のものと言えるのだろうか。次々と新化していくシステムの変貌振りは、果たして「進化」なのか否か。
偶然か、はたまた必然か、FFシリーズの売上はFF8をピークに少しずつ減少傾向にあると言える。大体にナンバリングシリーズとは少し扱いを違えたFF11やFF10-2を別として、更にFF12の売上が200万本を越えた事を理由に「必ずしもそうではない」と述べる方もおられるだろうが、しかし2001年と2006年、PS2の普及率も随分違うであろう中で、FF12がFF10と同程度しか売れなかったという事実は、確実にその勢いの低下を指し示している。そんな中で今後FFは、どの様な道を辿ればいいのだろう。

FFの辛い所は、今まであれだけ新システムを採用し続けた事が祟って、今後突然に一本化する事が最早プレイヤーから許されなくなっているのではと思われる点である。いや、そもそも時代を越えてすら一貫した、敢えて悪い言い方をすればマンネリ化したシステムを採用し続ける事が唯一許されるのは、テレビゲーム界のRPGの先駆者たるDQの特権である。そのDQととにかく対比されるFFは、端から変わり続ける事が求められた作品であったのかもしれない。無論、実際にわざわざその道に入り込んできたのはFF自身であるのだが。
多分これからだって、新作が出る度我々に新たな概念を見せ付けてくれるであろうFF。しかし、繰り返し使用され洗練されるという事の決してないが故に完成する事もないそのシステム。その観点から言えば長年採用され続け、タイムゲージが表示され、Xボタンで行動順序を入れ替えられる様になったりとどんどん進化したATBはやはり秀逸なものであった訳だが、さてその他の面においてこれからFFは、如何な新概念を我々に教示し、そして如何なプレイを我々に要求するのか。
それを楽しみに思ったり、また不安にも思うと共に、これからの歴史を紡ぐ上でATBに負けぬゲームシステムの誕生を願いたいものである。



06/06/25(日) 第6回 ファミコン時代のFF

懐古趣味をとやかく言うつもりはないが、懐古主義にはやや否定的な人間である。
でも今日は、とことん懐古してみようと思うのである。
私は、FF1〜3を全てファミコン版でプレイ、クリアした経歴を持つが(ただし2000年になるかならないかという時期に)、一言に「ファミコン時代のFF」と言うならば、私はそれを「アンチユーザフレンドリー」の言葉でもって表現したい。何もこの事は、現代のゲームと比べるならばFFに限った話という事じゃあ全然なかろうが、ともかくそう思う。ファミコン時代のFFは不親切である!

手元にFF2の取扱説明書がある。全47ページ。テレビに映し出されているゲーム画面を直接写したんじゃないかと思しき挿画が今見ると逆に新鮮である。で、この取扱説明書それ自体に何かしら文句を付けようというのではないのだが、これを見ていると思うのである。この説明書がなかったら訳分からん事満載だな、と。
大体にユーザフレンドリー過ぎるのもお節介という奴で敬遠されがちであるが、しかし感覚でプレイ出来るアクション系ゲームならともかくRPGとなるとプレイヤーへの最低限の説明義務というものはあるのではないか。だがしかし、考えてみると当時のFFにはそれがなかったりするのだ。
その最も顕著なのは各種魔法の効果についてである。例えば、当時のFFをプレイした経験のない人にこそ聞いてみたいが、ディア、ストライ、フィアー、インビジ、バオルと言った魔法名だけを前にして、その効果が理解出来る人がどの程度いるのだろうか。FF1に限って言うなら、シリーズ恒例の要素なんてものも一切ない訳だから、ケアル、レイズ、ストナ等の魔法についてだって、1987年当時には「一体何だこれは」と思ったプレイヤーが続出していたかもしれない。
基本的にFFの魔法名は英単語から取られている為、一切説明がなくたって何とか分かるという人もいるだろうか。でも忘れてはならない。やはり当時最もテレビゲームなるものに熱中していたのはまだ英語もろくに知らぬ少年達であったという事を。彼等が仮に「care」位なら知っていたとしても、「fear」を知っていたとは、あまつさえ「invisible」を知っていたとはどうあっても思えない。バオルが「barrier all」(多分)の略だなんて事は、大人にだって分からない。かかる具合に、FFの魔法名は難解である。それを、実際に使用してみない限り何が起こるか分からないシステムにしている辺りに不親切さが垣間見えてしまうのだ。「アイテム及び移動中に使用可能な魔法については使用前の段階でその効果を説明しているのに」である。
こうなると、「だったら実際使ってみればいいじゃないか」と言う人もやはりいよう。しかしその反論はこの問題の本質をついているものではない。FF1の魔法は全部で8のレベルに分けられていて、各レベルには4種類の魔法が存在するのだが、その内一人のキャラクターが覚えられるのは1つのレベルにつき3種類までなのだ。しかも一旦購入して習得した魔法のキャンセルは効かないのだ。
つまりFF1の魔法システムで言えばそれは本来なら、魔法屋で購入する段階で魔法屋のオヤジなり誰なりが「これはこういう魔法です」と解説してくれる必要がある筈なのである。そういう意味では、一応使用時に解説の入る回復系魔法ですらその対応は不十分と言わざるを得ない。我々は、ポイゾナ、フィアー、バコルド、ボキャルという四種の魔法を前に、一体どれが重要なのかとかいう事以前に、果たして各々がどういう挙動を見せるのかすら分からぬままに、どれか一つの魔法を淘汰せねばならないのである。繰り返すがこれは記念すべきFFの第一作の話であるが故、今ではお馴染みとなったポイゾナや、FF12で奇跡の復活を果たしたボキャルといった魔法の予備知識なんてものはないのだ。

魔法だけで随分熱く語ってしまったものだが、FF1にはもっと強烈な不親切仕様が存在する。貴方はご存知だろうか、FF1のソフトカートリッジには、セーブ領域がたったの一つしかないというまさかの事実を。
スーパーファミコン辺りの時代が全盛期の人となると、これは信じ難い事実であろうと思う。何せデータを一つ限りしか記録しておけないのだ。何かの拍子にセーブデータが消えるという事が、即ち自分のデータの消失を直接的に意味する恐怖。「もう一回プレイしようっと」の決意が、即ち前のクリアデータの消去を余儀なくする横暴さ。このシステムの前には、文字列書き取りと長文入力と書き取りうっかりミスへの絶望にあれだけ辟易させられたDQ初期の「ふっかつのじゅもん」システムすら親切設計に思えてくる程である。
私は幸運にもデータ消去の憂き目に遭った事はなかったが、どうやらこのシステムに苦しめられた人もいる様だ。もしかすると、変に構ってデータが消えられると堪ったもんじゃないから、一旦プレイを始めちゃったが最後、クリアするまでソフトをファミコン本体から取り出せなくなったなんて人も中にはいたんじゃなかろうか。それもこれも、何とか頑張ってセーブ領域を二つ用意してくれなかったあんた達のせいだぞスクウェア。一度クリアしたらもう二度とプレイ出来なくなっちゃうじゃないかスクウェア。つーか、FF1・2を出した時に、FF2のセーブ領域を一つばかり減らしても全然構わなかったのに何でFF1のを増やすなりしてくれなかったんだスクウェア。この際だからついでに言っておくがFF1・2で、別にFF2はFF1の(本当の意味での)続編という訳じゃないのにFF1の方をクリアしないとFF2がプレイ出来ないってのは違うと思うぞスクウェア。考えれば考える程、その不親切さは際立っていくのであった。

まだまだ述べたい事は沢山あるのだが、その全てについてぐだぐだ語っていると前回の二の舞もいい所なので、以下は箇条書きするに止めておく事としよう。
中にはファミコン版特有のものもあり、それらについてはごく一部の人にしかお分かり戴けないのが残念である。まあそれはまたの機会にでも。
ともあれ、ファミコン時代のFFがアンチユーザフレンドリー気味であった事は、以上の事からだけでも十分に感じられよう。もっとも、そんなつっけんどんな所が在りし日のFFの魅力だという意見は全然否定しないし、恐らくセーブポイントを配置してくるであろうNintendoDS版FF3のラストダンジョンについて「余計なお世話だ」「そんな親切は要らない」「セーブポイントのあるFF3のラストダンジョンなんてFF3のラストダンジョンじゃない」といった意見がある事も何ら不思議には思わない。それどころか同意しようとすら思う。
だがそれなのに、当時の精神が今蘇ってほしいかと言われると全力で反対したいのは何故か。それはつまり、今回のテキストがとことん懐古趣味の上に成り立っているものである事を意味するのだ。

何だかんだ言って、ああいった突き放され感ってのは今にして思えば悪くなかった。
でもそれは、世の誰もが、言われなくたって積極的にゲームへと情熱を注ごうとしていたあの頃だから成立した図式だったんじゃないかな。



06/06/18(日) 第5回 FF攻略 攻略本派?それとも攻略サイト派?

私は、以前からずっと、攻略情報の参照には書籍から、本媒体からというのを常としてきた。世の動きを鑑みるに、ここ数年で攻略サイト参照派はかなりの勢いで増えたものと思われるがその中で私は、実に明瞭な形で「自分は攻略本派である」事を述べよう。その前段として、私がプレイする多くのゲームについて言える、一般的なプレイ形式を初めにご紹介しておく。
繰り返す様に私は攻略本派の人間ではあるが、更に言えばその一つ前には言わば「情報遮断派」という一派に属する人間である。即ち、当該ゲームを一回クリアするまでは、普く全てのゲーム雑誌や発売前情報を取り扱うサイト等に一切目をやらず、ゲームタイトルにパッケージ、並びに解説書から得られる情報のみを頭に入れて攻略していくという訳だ(ほぼシリーズ物の続編しか買わない様なゲーマーになったのはこの極端な性格が祟っての事かとも考えられそれも興味深いのだが、今回の話題からは逸れるので特に触れない)。必然、プレイにおける新鮮さは増す。何せ当人は何も知らないのだ。ゲーム中の謎解きも全て自力で取り組むから、先へ進めた暁には大きなカタルシスを得る事だろう。
で、かかる具合に自力プレイを終えた後、いよいよ攻略本購入という段階に入る訳であるが、何も攻略本であれば何でもいいという事ではない。
私はその時点でプレイを一周終えている。少なくともシナリオについては、一通りの事が頭に入っている。ただ一周目はシナリオ中心のプレイだったから、サブイベントはあまり手を付けていないし隠し要素だなんてもっての外。だから私は、二周目以降は可能な限り完璧な、全てをやり尽くすプレイに身を投じるべく、なるべく詳しい、なるべく肉厚の、そして尚且つ「公式の」、しかもソフト発売からしばらく経って世に出るいわゆる「完全攻略本」の類にターゲットを絞るのだ。その点「アルティマニア」シリーズはその全てを満たしていると言え、私にとって攻略情報取得の友となっている。
プレイスタイルは大体こんな所だろうか。やや冗長になったが、本題へ入る。


さて、世の中の、全ての比較されるものがそうである様に、攻略本と攻略サイトを比較した時、攻略本には攻略本の良い所があろうし、攻略サイトには攻略本にない利点がある筈で、各々の欠点もまたしかりである。私はこれまであまり真剣にこの事を考えた事もなかったが(それだけ盲目的に攻略本へと傾いていたとも言えるか)、ちょっと考えてみようと思う。

まず攻略本――ここではアルティマニアレベルのものを考える――の攻略サイトに勝る点と言えば、何と言っても情報量か。初めて見た時には大層驚いた筈のFF8アルティマニアが今や「ああ意外と薄かったなあ」なんてな風に見える位に、ゲームソフトというものとそしてスタジオベントスタッフは時を経る毎肥大の一途を辿っているのであるが、無論アルティマニアの凄さはそんな紙の積み重ねられ具合ではなくて、内容の充実に起因している。
後、ちょっと地味かもしれないが、全マップを参照出来る事実はかなり大きい。マップ付きの攻略サイトという所も多分あるんだろうけれども、市街、ダンジョン、フィールドを全て網羅し、尚且つ(FF12アルティマニアはまだどうだか分からないが)そこに宝箱等の情報が記載されているマップを用いたサイトは果たしてあるのだろうか。そして、第2回で少し触れた事だが、私は極度の方向音痴である。画面変更なしでのべつ参照出来る地図の存在は、実の所皆様方の感じているよりも随分と大きな救いなのである。

一方で、攻略サイトの攻略本にない利点と言ったら何だろうか。やはり第一には、「速い」という事を挙げなくてはなるまいか。
アルティマニア級の攻略本が世に出るのは、ソフトの発売からたっぷり三ヶ月は経ってからの事である。対して一人〜数人という個人が運営するサイトにとってそんな悠長な話は存在しない様で、ソフトが発売されると見るや、場合によっては発売日の一日、二日前からプレイを開始し怒涛の様に攻略情報を掲載していく。これは流石に攻略本には真似出来まい。が、言ってしまえばこの点は私にとって全く意味を持たない。何しろ私は初回プレイを攻略情報なしで進めていく人間であるからだ。各攻略サイトが我先にと情報を追加更新するその蚊帳の外で、一人悠長にコントローラーを握っている男にそんな素早い対応は要らんのだ。
先に攻略本の利点として情報量が決定的と述べたが、これについて「攻略サイトも全然負けちゃいないぞ」と仰る方もいるかもしれない。いやしかし実際、一部サイトに関して言うと(一周目クリア後以降に目を通す訳だが)個人規模でやっているとにわかには信じられないレベルのものは確かに存在する。だがしかしこうも思う。攻略サイトが攻略本に肉薄するのは、正しく「攻略する為」に必要な情報においてのみだと。つまり、そのゲームをクリアするにおいて知っている必要の特にない、例えばザコモンスターの詳細データだとか、各種アビリティの詳細データだとか、開発者インタビューだとか、攻略サイトには中々ない、或いは掲載され得ない諸々の要素を攻略本は持っている。だからこそ、不要に分厚くなる事を嫌う人も多かろうが、私にとってそれはかなりのプラスポイントであるのだ。
無料。出た。恐らく攻略サイトの、攻略本と比べるにおいて一番の魅力。これに関してだけは、世のどんな攻略本だって全く太刀打ち出来ない。前述の様に確かに攻略本には攻略サイトにない情報まで載っているものではあるが、それら各種詳細データやインタビュー等々の為だけに二千円や三千円と考えるとこれは確かにちと高い。反論の余地もない。もしかするとだからこそ私は、攻略本にそれだけのお金をつぎ込む事に抵抗感を覚えない為にと、初回プレイ終了後になってもアルティマニアを買うまでは積極的に攻略サイトを覗いたりしない傾向があるのかもしれない。アルティマニア発売まで出来る限り無知でいる事で、その価値をなるべく高めようとしているのかなと。いや、だって、やっぱり一円もかけずにあの質の情報を閲覧出来るってのは凄いもの。それおいそれと見ちゃったらアルティマニアに何千円と出すの勿体無く感じちゃうもの。タダより高いものはないって言うでしょう。あれ、意味違ったっけ。まあいいや。


(以下、酷く主観)
とまあそんな訳で、双方の利点を挙げつつもしかししっかり攻略本派である主な所以を述べてきた訳であるが、ただ一つだけ申し訳なく思う事がある。何かと言えば、私がこれまでに攻略サイトを参照しつつプレイしたゲームがPS版FF4の1プレイのみである事が理由で、自身攻略サイトのいろはも知らぬ人間である為にあまり公平な立場に立てていないという事だ。
これと言った見返りもないのに攻略サイトを作る人達の事は本当に尊敬の対象である。中にはアフィリエイトなぞによる収入を第一の目的として運営している人もいようがそういう人達しかりである。他サイトのコピーで攻略コンテンツをこしらえる事すら面倒だからやる予定もない所の私からしたら彼等彼女等は本当に凄い。データを収集するとなれば、少なからずゲームをプレイする事によって得られる本来の楽しみは薄れるだろう。攻略サイト群の一線で活躍するつもりなら私生活だってある程度は犠牲にしなければならないかもしれない。それが人気ゲームであるのなら運営も楽じゃなかろうよ。日に何万というレベルじゃないアクセス数のある中には色々な人がいるものであるしね。私には出来ない。そもそもプレイスピードが人より遅めである事を考えないとしても出来ない。そんな時間がない事を取っ払っても出来ないし頼まれてもやらない。それをやるって言うんだし実際にやってるんだから、もう。
だが、だがそれでも、私の中で攻略サイトは攻略本のいる位置を越えない。私は昔から攻略本を片手にゲームを嗜んできたのだ。接してきた歴史が違う。攻略本に対する信頼感と言うのか安心感と言うのかは並ではない。私も現代の若者世代には珍しく頭の固い人間だから、一度固まった習慣とかって中々変えられないのよ。
私がインターネットを利用出来る環境に生活する様になったのが2003年だかの事だから、FF攻略サイトの黎明期なんてものも全く知らない人間である事も、公平な観点でこれを論じられない要因の一つだろうと思う。FF9関連の話は時折聞いたりするけども、結局はそれを経験していない人間なのだ。想像するに、雑誌に攻略情報は出ないし、攻略本も出ないとされたFF9発売当時、攻略サイトの価値はそれはそれは凄かったのだろう。その時代を肌で感じていれば、また考え方は違ったんだろうけどなあ。

現在の攻略サイトの礎ともなった事件を知らないばかりに公平な立場へどうしても立てないのは残念な所であるが、逆に言えばそれはこの問題に対し決してどっちつかずにはならずはっきりと、明瞭に次の答えを導き出せるという事を意味しているものでもある。

俺、攻略本派

この一言を言う為に、原稿用紙九枚。
なんぼほど喋ってんだ、私は。


次回テーマ「ファミコン時代のFF」



06/06/11(日) 第4回 FF 一番の名作

今回、こんなテーマを設定したのは他でもない。これまでの三回、期せずしてFFへの不満や文句を幾つも並べる事となってしまっていた為、ここで少し趣向を変えて、極度のFFファンとしての本領を発揮してみようという事である。そんな訳で、以下には基本的にFFを褒めちぎるばかりの(しかも私見一辺倒)文章が並ぶと思われるので悪しからず。

さて、FFシリーズで一番の名作と言えば何か? 私はその問いにFF10と答えよう。
まずストーリー。前回テキストの冒頭でも言っていたが、私にとってFF10の物語は全FFストーリーの中で一番である。
やはり前回取り上げていた「死」満載の展開であるにも拘らず、FF2やFF4をプレイしていて感じていた「また死ぬのか」という言わばウンザリ感みたいなものが顕著に感じられないのは一体どうしてなのだろう。それに対してあまり「これ」という答えを用意する事が出来ないのだが、考えるに、キャラクターその他グラフィックがリアル化した事によって生じた表現の奥行きがそうさせているのではないか。
FF2時分は、キャラクターがドット絵であって、しかもSFC時代にはあった笑顔や驚きという視認可能な画像的情報すらも一切なかった。グラフィックとしての彼等は、ただそこに常に変わらぬまま存在し続けるだけで、何処か悲しみに溢れるセリフ(ウィンドウ)だけが浮いている様にも見えたのだ。
加えて、近年のキャラクター達と比べてその心情を複雑に描き出してくれる様なエピソードも(カートリッジ容量等の関係もあったろうが)少なく、思い入れを持ち難かった事もあるのかもしれない。誰が死ぬにしてもそのキャラクターの背景や人生をあまり知らないから、少し現実感に欠けていると感じたのかも。その点については、ゲーム中で描かれていない背景を思い浮かべて接する事こそが、細かな設定を製作側から、ともすれば一方的に与えられるよりも感情移入出来るんじゃないのかという反論もあると思うが、私はそれを否定しない。大体にして私はそういった事に対する想像力に乏しい人間である事を自覚している。とどのつまり「リアル感」というのが私には強烈だったのだろう。頭身は一層現実に近似し、遂にはボイスでもって喋りすらして感情を表に出し、悲哀はその声によってダイレクトに伝えられるし、時に無力にも呆気なく死んでいってしまうそれらキャラクターが。
「死」を語るともっともっと冗長になってしまうのでここいらで止めておくが、まとめると私がFF10のストーリーに感銘を受けたのは、言わば自分が死ぬ為に旅を続ける召喚士ユウナの姿と、あまり恋愛に傾倒する表現を用いるのは好まないのだが愛する者の為に消えようと決意したティーダの姿勢(ちなみに私はFF10-2が出ると知った時、「ティーダは復活してくれない方が物語として綺麗だなあ」と思った)、これがリアル感溢れるキャラクターによって描かれたから、である。ああ後、ティーダとジェクトの最後のタッチも不可欠である。
ただ、PS2クオリティの初FFであった事も大きく影響した事は否定出来ず、全く同じストーリーだったとしてもこれがPS2二作目、或いは三作目だったとしたらまた評価は違っていたかもしれない。

次いでバトル。CTBシステムについてはシリーズ一だとは思っていないけれども、「ATBじゃなくちゃいかん」とも思っている訳ではないので大きなマイナスポイントともならず。
とは言え、あまりサブイベントに手を付けず、かつ攻略本も攻略サイトも一切参照しない状況での難度は中々にして手応えがあり、これは良かった様に思う。モンスター訓練所に手を付け始めるとCTBの売りである戦略性云々といった事は殆ど無効になってしまうけれど、まあそれはプレイヤーが判断出来る所なので問題でもないだろうか。
スフィア盤成長システムについては、あまりに色々な成長スフィアを発動させ過ぎるとキャラクターの個性も何もあったもんじゃなくなるという弊害は確かにあったけれど、これもモンスター訓練所同様任意である為気にはならず。それでも、やり込みに至らないレベルでの自由度はもう少し欲しかったというのが正直な所であるが。個性を潰さない方向でいく限り、殆ど一本道だからねえ。

音楽面。音楽のみで語るとすればFFシリーズで最も良かった楽曲群はFF6だと感じている。しかし過去何度か述べてきている通り、「ザナルカンドにて」の存在はそれはもう衝撃的であった。「ファイナルファンタジー」や「プレリュード」等、幾度も使われて必然的に思い入れも深くなっている曲を除けば突出して好きである曲、初めてFF10を起動させた時、まず感嘆すべきグラフィックの美麗さを差し置いて私の心を掴んだ曲、そしてエンディングで流れたアレンジ版の鳥肌もの。FF10はFFナンバリングシリーズ史上初めて植松伸夫氏以外の作曲家が参加した作品であり、その点植松ファンの心中は複雑だったとは思うけれど、やはり大の植松ファンたる私はと言えばもう全然文句なんてなかった。一発目で、正真正銘の一発目で惚れたもの。そりゃFF12も起動時デモがあれだからそれはそれは感動したけれどもさ、それはあれがFFファンにとってはかなり久し振りとなるFFテーマ曲っていう背景も手伝ったからであって、「ザナルカンドにて」はそういう歴史を一切抜きにあの感動っていうんだから、FF12とは比べるべくもないね。

とまあ、こうして語ってみると、やはりストーリーがFF10を素晴らしいと感じる一番の要因であるらしい。だが、そのストーリーを描き出すキャラクターがそれまでのFFから更にリアル化した事によって受けた衝撃がかなりの立役者という事である様だ。なるほど、FFが追求しているリアル感を少なからずも快く思っているのだから、私は今日に至るまで全く揺らぐ事なくFFファンを続けてこれたという事なのだろうか。これは中々に興味深い事実である。
して、今後も私がずっとFFファンでいられる様な作品を、勿論現在最高峰と感じているFF10を凌駕してくれる様な作品を、どうかスクウェア・エニックスには生み出して戴きたい、と、そう、締めようと思ったのだが、ここでちょっと思った。
上述の通り、私がFF10を一番と思うその理由の一つには、リアル感を増したグラフィックへの感銘がある。しかし、人間とは慣れる生き物であり、飽きる生き物である。まあ飽きる事はないとしても、FF12がそうであった様に、今後FFの新作をプレイしていてそのグラフィックにFF10程の感動を得る事はもしかしたらないのかもしれない。プラットフォームがPS3になればまた話は違うのかもしれないのだが、しかしそれですら今時分で十分と言える質の映像を堪能した私そして我々はかつて程の衝撃を感じない可能性は十分にある(その辺りは先日「雑文」にて書いていた)。つまりこれからのFFは、純粋にストーリーの面白さで勝負する必要に迫られているのだ。
いや、だったら、文句なしに面白いシナリオを用意すればいいかもしれない。だが、前回テキストで「何でもかんでも恋愛方面に傾倒する傾向が好きではない」と述べていた通り、FFに限らず恋愛感情渦巻く物語の幾らでも存在する今、私は物語の中に恋愛要素が組み込まれているだけで、ほんのちょっとだけれど、しかし確かに「えぇっ」と思ってしまう体質になってしまっているかもしれない。そこへ来て、FF13は、全くの推測ではあるが、恋愛を描くのだろう? そうすると、もしかしたらそれだけでFF13は、少なくともFF10を越える事はない作品という事になってしまいかねないのだ。

よもや、これからのFFがまた恋愛方面へ傾いていくのだとしたら、私の中のFFは10作目がいつまでも最高であり続けるのかもしれぬ。
そう考えると、それはまあ興味深いけれども、でも嬉しくねー事実だなー。



06/06/04(日) 第3回 FFのストーリーってさ・・・

まず始めに述べておきたい事は、私がFF10を中心にしてFFストーリーには肯定的な意見を持っている人間という事である。今回は、その中にあって否定的な位置にある意見をポツリポツリと書いていこうと思う。
ちなみに以下には、FFシリーズ各作品のシナリオライターが誰であるとか、寺田憲史氏がFF3を最後にライターを降りた事とか、そういった業界内事情とかいう事は一切抜きにして直情的な意見ばかりを書き連ねている。

さて、FFシリーズ全体のストーリーを振り返ってみた時に時折思う。やけに人が死ぬなと。
よくFF2辺りで言われる事が多いと思う。FFではとかく人が死ぬ。それも大抵主人公達の見ている傍で死ぬ。そう、それはさながら探偵物小説や同映画、同漫画、同アニメの主人公であるかの如く、彼等の行く先行く先で何かと事件が起こっては死者が発生するのだ。
下らない前置きはいいにしても、「死」というものによってイベントを描き、プレイヤーの悲哀を誘うケースが割合多く感じられるのは気のせいではない筈である。シドが、ミンウが、ヨーゼフが、パロムとポロムが(後に復活したが)、リディアが(実は生きていたが)、ヤンが(実は生きていたが)、シド・ポレンディーナが(実は生きていたが)、ゼザが、ガラフが、シド・デル・ノルテ・マルケズが(嗚呼神よ許し給え、まずい魚ばっか食わせたのは私です)、レイチェルが、ケット・シー(1号)が、エアリスが、バラムガーデンの走る少年が、ブランクが、リンドブルムの多くの人々が、ブラネが、ルッツかさもなければガッタが、ティーダが、大僧正アナスタシス猊下が、シドルファス・デム・ブナンザが、バルガスじゃなくてガブラスが、クロノが、ポポイが、ガラハドが、皮肉たっぷりに言えばゲーム演出の為、シナリオライターの手によって殺されたのだ(一部例外あり)。
結構挙げたが、無論これで全てではない。FFシナリオ中、如何によく人が死んでいるかがお分かり戴けるのではないか。

ただこれら全ての「死」を非難する訳ではないのだ。ストーリー的にそうあって変でない「死」もあった。エアリスの一件がその最たる例と言えよう。多くのFFプレイヤーの心に、まこと様々な形で焼き付く事となったこのイベントは言わば、FF史上最も美しかった「死」、FF7の物語を語る上でなくてはならない「死」ではなかったかと思う。今もって高いエアリスの人気も、もし彼女がゲーム中で死を遂げなかったとすればそこまでのものではなかった筈であるし。ちなみにここでは私が「エアリスは死んで当然のキャラだった」と言っているのでない事には注意して戴きたい。
しかし一方で、演出上どうしても死なせる必要があったのかどうかを疑問視せざるを得ないキャラクターも存在する。私としてはまずFF2のヨーゼフを挙げたい。「女神のベル」入手後、洞窟の入り口付近でボーゲンの罠に嵌り、フリオニール達をかばって大岩の下敷きになってしまったヨーゼフ。彼の死はシナリオ上本当に必要なものだったのか? ただでさえサブキャラクターが続々と死んでいくFF2であるだけに、どうも一人一人に対する哀しみが薄れていく様でもあり、どうしても疑問を感じてしまうのだ。
感動的シナリオを構築するにおいて、「死」は確かにその要素として有効なものの一つではあるが、それを濫用してしまうと個々人の死はそれこそ無駄死にと化してしまいかねないだろう。だからくれぐれも、くれぐれもキャラクターの殺し過ぎは控えて戴きたい。そう、シナリオライターの面々に言っていきたいものである。

差し当たりFF13は、調べてないんで分からないのだが、野島氏辺りだろうか。そういった事でどうかお願いします。人の命は尊いものなんです。人ひとりの命は地球よりも重いんです。ユニセフに100円を募金したら実に14人もの子供の命を救う事が出来るんです。でもスクウェア・エニックスに100円を送付してもガラフにエリクサーは効いてくれないし、セフィロスの凶行を止める事も出来ないんです。現実はかくも厳しいんです。ねえ、野島さん。


大分話を逸らすが、PS以降のFFストーリーについてこの事も言っておきたい。あまりに恋愛感情を語り過ぎではないのか、と。
FF7以降、メインキャラクター同士が恋愛感情でもって繋がるケースが多々見られる様になっているが、私はこれをちょっとどうかなあと考える人間である。物語中に恋愛が存在する事自体が嫌いなのではなく、どんな物語にも恋愛というものを組み込むその傾向を好ましく思っていないのだ。
テレビドラマ何かを見ると顕著である。それがどんな話であろうが、大抵はその中で愛、恋、さもなければロマンスを描くのである。
繰り返すが恋愛物語が嫌いなのではない。何でもかんでも恋愛方面に傾倒する傾向が好きではないのだ。恋愛が素晴らしいものである事は流石に否定しないが、恋愛感情の介入しない物語が存在し得ない訳ではなかろう。だのに何故、テレビドラマにしてもFFにしても、恋愛感情渦巻く物語が殆どを占めているのだ。それが世のニーズ、というやつなのか。
そこに来て先だってのFF12は、ヴァンとパンネロの交際関係こそあったが、本質ではかなり恋愛要素の排除されたストーリーであった訳で、その点私はかなりの好感を持った口である。
だが同時に、そのFF12ストーリーが巷で芳しくない評価をされている事実は、皆様方のよく知る所でもある。
いや本当、現実は厳しいな、野島さん。

あ、FF12は野島さん担当じゃなかったっけか。


次回テーマ「FF 一番の名作」



06/05/28(日) 第2回 FFグラフィック 2D派? それとも3D派?

一体にテレビゲーム全般の事に関して考えるとすると、私はあまりはっきり「こっちの方がいい」という意見をこの問題に対して持っていない。が、FFに特化して考えるなら、私は3D寄りの人間である事をまず始めに述べておく。

2Dか3Dか、これを比較するに当たって、FFのグラフィックを大きく戦闘画面と移動画面とに分けて考えてみる。
まず戦闘画面であるが、これについてははっきりと3Dに軍配を上げたい。FFバトルシーンは、グラフィックが立体化した事によって「表現の幅の拡大」という恩恵を殆ど直接的に受けたのではあるまいか。
魔法詠唱、召喚獣召喚、特殊技発動、そういったものがバトル中に起きる度にカメラが忙しなく動いてはそれらグラフィックを効果的に見せる。バトル中に起こるイベントについてだって同様に魅せる。このその場その場において発生する3次元的縦横無尽な「動き」が、動的であるという事が、FF7以降のバトルの、FF6以前にはない面白さであると思う。表現の幅の広がりは同時にバトルにおけるテンポをやや失わせるという欠点もあり、実際にそれを問題点だと指摘する人も少なくなかろうが、私としてはそれはまだ気になるレベルではなく、故に3Dグラフィックの方が圧倒的に勝る印象を持っているという訳である。

一方で移動画面について。これは戦闘画面の場合ほど話が単純ではない。
何となれば、いつだったか、DQ8のプレイ日誌辺りで同様の事を言った記憶があるが、グラフィックが3Dとなってより一層現実感を伴えてくると、どうしても私の天性の方向音痴が迷子という状況と迷走という行動とに表れてしまうからだ。出不精の私が普段避けているストレスを全部ゲーム内に感じてしまっているきらいもある。
それに、私はあまり実感する所ではないが、3D酔いという由々しき問題も表面化しよう。特にカメラが自在に動いてしまうFF12だと、ベストポジションの調整をしたりしていて被害に遭った人も多かったのではないだろうか。
そもそも、FFのマップを描く上で3Dである事による一番の利点とは何なのだろう。先に述べたのと同様に「表現の幅が広がる」事だろうか。いや、アクション性の高いゲームならいざ知らず、移動中に派手な動きがあるでもないFFの様なゲームであれば頑なに3Dでないといけない理由もなさそうなものだが。
ただそれでも、2Dと3Dでは3D寄りになってしまうのは何なんだろうか。FFマップが3Dでなければならない理由を全く挙げられないにも拘らず、今2D時代のものをプレイすると若干の物足りなさを感じるという事実。ああでもそれは、もしかしたら当時と現在との技術差の問題なのであって、現代の技術を用いて2Dマップを構成したらまた感じ方が違ったりするという事なのかもしれない。ちょっとこれについては何しろ実例で確認出来ないものだからよく分からなく、うやむやになってしまう。
仮に迷子になったり酔ったりしない様なマップだとしたら3Dを否定する大きな二つの理由が消え去る訳だから、カメラが一定方向からの固定であるか、常に俯瞰だったりして(コンフィグでカメラ俯瞰モードのON/OFFが切り替えられるだけでも)、移動操作が単純化するなりすればもっと素直に3D側へ傾倒出来るのだが。

そんなこんなでどちらかと言えば3D寄りである。しかし本当に「どちらかと言えば」であり、移動画面についてはっきりとした事が言えない為に歯切れ良く答えられないのは少々歯痒い。ただ、もしこの質問が単純な二択でなく、何か一つ条件を付加する事が許されるのなら、私はこう答えたい。

「移動操作が2Dのものに程近い3Dグラフィック派」

だったら、綺麗さっぱり2Dの方がいいじゃないかと言われそうなものであるが、でもそれだとバトルが…という事で議論は堂々巡りになってしまうのであった。


でも、スクウェア陣全体がどうであるかはともかくとして、少なくともFFはもう3D体質から抜け出せないよなあ、現実的な話をすると。
もし今後FFシリーズのナンバリング作品が2Dという本当の原点回帰として登場するなんて事があったとしたら、それどんな新システムを投入する事よりも凄い「冒険」になるんだろうけど。でも今それやっても成功しないんだろうね。
もうこうなったらFFにはとことん3D路線を突っ走って行ってもらいたい。その為に一FFファンは街中で迷子になり、ダンジョンで迷子になり、北と言われて南へ走るその苦痛と恥辱を甘んじて受けよう。受けようじゃないか。



06/05/21(日) 第1回 FFといえば?

冒険心であり、チャレンジ精神である。
「FFといえば何か」と聞かれた時、まず私が思う事はこれである。

良くも悪くも、FFというシリーズは新作が出る度に冒険しているなあと感じさせられる。マテリアシステム、ジャンクションシステム、スフィア盤にライセンスと、「守りの姿勢」を微塵も感じさせずただひたすら攻めんばかりに次々と投入されていく新システムの数々。勿論そんな近年のFFに限ってみなくとも、各能力値独立増減制(後のロマサガ成長システム)を採用しレベルの概念を取っ払ったFF2の思い切り様を見ればそれは明白である。FFのチャレンジ精神は今に始まった事でなくて、二作目の頃から早くも爆発していた。
常々思っていた事だが、FFの、FFシリーズにおける、魔法習得方法の一貫性の無さに私は感動すらする事がある。ちょっと思い付く範囲で振り返ってみよう。

FF1:購入(個人単位)
FF2:本を読んで習得(本自体をアイテムとして使用する事も可)
FF3:購入後、装備する事によって使用(着脱可)
FF4:レベルアップ
FF5:購入(パーティー単位)
FF6:魔石装備+魔法修得値
FF7:マテリア装着
FFT:Jp蓄積+使用
FF8:ドロー
FF9:特定武具装備+AP
FF10:アビリティスフィア発動
FF10-2:AP取得
FF12:ライセンス習得

どうか、同じ「FINAL FANTASY」という名で括られる一つのシリーズ作品でありながらにしてこの無秩序さ。共通しているものと言えば店で買う事によって習得するFF1、FF5(FF3はアイテム概念があるのでちょっと違う気が)と、後はFFT、FF10-2位のものではなかろうか。もうちょっと広い視野で見ればFF10、FF12はマイナーチェンジと言ってしまえるのかもしれないけれど、だがしかし仮にそうだとしても、である。レベルアップ一本で五作、職業+熟練度で二作、最近スキルシステムなるものが出て来たにせよ割かし整然としている某大作シリーズの方を見てみなさい。そしてそれを踏まえてもう一度言おう。どうだ、この無秩序さ。

話を元に戻すが、上記に加えてターン制→ATB→CTB→ADBと歴史を辿ってきたバトルシステムだって、特にCTBとADBで言えば冒険だったのではないのかと思う。ことこれに関して言えば、FF4以降採用され続けていたATBは十分完成された、ある一つの形だと言ってさえ過言ではないであろうだけにより一層だ。
これらの事から分かる様に、FFシリーズは「FF」という名前を長々と引きずっていながら(敢えて相当悪い言い方をしているが)、その一方でシステム面では驚く程以前のシリーズからのものを踏襲したりしない、冒険心の塊の様な作品群なのである。
新しい概念を持ち込む事はともすれば過去シリーズの人気やそれまでに勝ち得てきた名声をも大きく失うリスクを負いかねず、それをこれだけの有名シリーズに真っ向からぶつけてくる――それも一度や二度ばかりでなく――のだからその勇気、決断力たるや並々ならぬものだと言える。

個人的には、その精神は買っている方だ。だからこそ、私自身今日に至るまでFFファンを続けてきた。だが冒頭で「良くも悪くも」と述べていた通りで、この事実はFFシリーズにあまり芳しくない影を落としてもいる。
上述した「一貫性のない」という表現が正にそれだ。こと近年、成長システム、バトルシステムの面、またフィールドの存在の撤廃等続々と新概念を導入してきた事が祟ってか、FFにはあまり「これ」というシリーズに共通した特色がないのだ。一言にATBと言ってもそれはFF4〜FF9にFF10-2だけの事しか指さずシリーズ全体の半分程しか網羅出来ないし、「クリスタル」と言ってそれが成立しない事はもう多くのFFプレイヤーが知っている事だ。音楽面でもFF10を境にその状況は激変したし、世界観一つ取ったとしても、そもそも作品によって開発チームそのものが違っていたりもするのだからそこに一貫した、確固たる何かがあるという訳でもない。
この事実が指し示すものはこれだ。「それは『FF』である必要が果たしてあるのか?」 成長システムにもバトルシステムにも共通したテーマのない、世界観すらも違う二つの作品に、では一体何故「FINAL FANTASY」というタイトルが付けられているのだろう。あまりに顕在化した一貫性のなさは、ここにきて「よもやFFというタイトルを冠させてさえいればそうしないよりも売れるから」といった様な疑念をも表面化させつつあるのである。
現状、FFシリーズ作品間の最大の共通項はチョコボの存在か、ファイア、ブリザドといった魔法の存在か、「ポーション」等のアイテムの存在位なものである。だがしかし、チョコボが出ていればそれだけをしてFFか。「ポーション」なる回復アイテムが存在しているならそれだけをしてFFか。それは流石に違うだろう。なのに、「クロノクロス」辺りのエレメント名をファイアとかブリザドにして「FFの新作です」と言ってもあまり違和感はなかったのではないかという悲しい事実。「ロマサガMS」の何処かそこら辺にチョコボとかサボテンダーを出演させとけばそれを「FINAL FANTASY Minstrel Song」とか言ってしまっても何となくユーザは納得してしまうのではないかという嘆かわしい現実。「聖剣伝説」の「まんまるドロップ」を「ポーション」に差し替えとけばそれを「ファイナルファンタジー外伝」とか謳っても、って、それは元々そうだったか。

FFと言えば冒険心(これは私が言っているだけであるけれど)。しかしその冒険心によって新たな作品が登場する毎に「FFといえば」を失っていくという悪循環。これでは元も子もないではないか。
大体に「FFといえば冒険心」ってのも随分抽象的で漠然としているし、やはり、ビシッと綺麗な結論でもって締める為には、こう言うしかなかろうか。

Q.FFといえば?
A.ポーション

長々と書いた末の結論がこれか。


次回テーマ「FFグラフィック 2D派? それとも3D派?」


トップページへ  「SERI STYLE」さんへ  「GAME FIELD」さんへ

ラシックス