06/05/14(日) 第431回 慣れって怖い
もうちょっとだけPS3に関連したゲームの話。
PS3が過去類を見ない未曾有の危機に陥っているのではないかという事は昨日書いた。そしてその理由は主に、価格そのものの高さとブルーレイディスクの需要の少なさにあるのではと述べた。だからこそ、ユーザーがPS3に求めているのはあくまで「ゲーム機」としての性能であるとも。
今日はその「ゲーム機」としてのPS3について考えてみたいと思うのだが、ではゲーム機PS3の最大の特徴とは一体何だろう。やはりそれは、次世代グラフィックという事になるのだろうか。
だが私は、まずこれ自体が穴である様な気がさせられている。確かに、ちょっと見てみた限りPS3にて表現出来るグラフィックは、かつて驚愕したPS2のものと比べても更に鮮麗で非の打ち所等ない様に思える。間違いなく、PS3というハード最大の特徴の一つたり得る。だが、商品の特徴がそのまま「売り」に繋がるかどうかと言えば、それはイコールではない場合もある。
PS3で表現されるグラフィックをご覧になった方は果たしてそれを見て何を思っただろう。殆どの人は恐らくそれに驚かされたのだろうけれど、しかし多くの人はPS登場時、はたまたPS2登場時程にはその驚嘆の度合いが少なかったのではあるまいか。そうなのだ、我々は既にしてある程度完成されたと言ってもいいかもしれないグラフィックを目の当たりにしている為に、その更に先を行く進化を眼前にしたとしても以前程の興奮、以前程の感動を得られなくなっているのだ。ドット絵のSFC全盛時から3Dグラフィックを可能としたPSが登場した時、それを目にした人々はその技術の進歩に深い感動を覚えた筈である。PSで表現出来る荒いポリゴンがPS2によって一際美麗なものへと変貌を遂げた時、PS登場時とまではいかなくともしかしまだ多くの人々が感嘆した筈であるのだ。
だが、それら二つの時代を経て、世のゲーマーは鮮やかなグラフィックに慣れ、それに対する感覚が多少麻痺してしまった。これは人間である以上致し方のない事だとは思うのだが、事実として本来は過去類を見ない驚きに包まれてもおかしくなかった筈のゲーマー達の動向は皆一様に冷静である。
詰まる所、もうゲームハードは、いやこれはソフトについても言えてしまう事なのかもしれないが、グラフィックを「売り」には出来ない可能性が現状では高い。ただでさえ「昔のドット絵の方が良かった」なんていう意見を聞く事すら珍しくなくなっている今、世の中が求めているのは次世代のグラフィックではないのだ。文句なく面白いゲームソフトなのだ。
ブルーレイディスクの需要は決して多くない。次世代グラフィックは「売り」にはならない。現状ではハードの売り上げを大きく引っ張っていってくれる様な決定的ソフトの発表もなさげ。そして何より単に高い。考えれば考える程、PS3は劣勢だと思わざるを得ないのであった。
そこへ来て重要になってくるのが一昨日話題に出た、PS3同様(かどうかは知らんけど)未曾有の危機に陥りつつあるFF13である。FF7時には間違いなくゲームハード業界新参者のSCE発PSを独走状態にまで押し上げたソフトの一つであったFFが今回、PS3の売り上げを伸ばすだけの力を秘めているかどうか、これは中々の鍵になりそうだ。
気になるのは、その「鍵」たる作品がともすると「面倒臭い」かもしれない事。
…本当に、どう転ぶんだろね。
06/05/15(月) 第432回 次に削るのは何の時間
割と考えたくない事態に陥っている事に最近気が付いた。ここの所さっぱりゲームをプレイしていないのだ。
今年も既に1/3が終わっているが、今日までで私がプレイしたゲームはFF12に始まりMGS3に終わる実にこの二作品だけである。苦し紛れにその後プレイした「メタルギア」を入れても僅かに三作品だ。
それ自体はまだいいのかもしれないのだが問題はその後、つまり今後の事で、当座の予定としては六月発売になるFF12アルティマニアを待ってのFF12二周目という事になるとは思うのだが、さて、それがいつの事になるのやらが分からない。
今回のアルティマニアはシナリオとバトルの二冊で合計1100ページもの量があると聞く。そこに来て、それを読むのが攻略本を読む際に要点だけを掻い摘まず、隅から隅まで丁寧に目を通していく私である。十分な読書時間が取られている状況をしてアルティマニアを一週間も二週間もかけ読み解いていくこの私が、基本的に毎日が暇でない今それを手に取った所でさっさと読み終えられる訳のない事は火を見るよりも明らかと言うものだ。最近は外出中、移動時間に本を読む機会が多く、今回もそう出来たらいいのであるが何しろ相手はあのアルティマニアであるからそれは叶わない。大体いつ読み終われるかとかいう議論以前に、そもそも自宅にいて悠長に本を読んでいられる時間がそうそう取れないという事を、購入以降今日に至るまで殆ど未開封状態のFF7アルティマニアΩが雄弁に語っている。
こんな環境にあっては、六月中のFF12二周目スタートは絶望的と言っていいだろう。その上で、その二周目プレイ自体に一ヶ月以上の時間を割く事になるのは確実だろうから、いよいよ今年プレイするゲームがFF12とMGS3の二本のみになってしまう可能性が濃厚になってきてしまっているという寸法なのである。
ゲーマーを卒業する人を周りに何人も見てきた中で未だ飽きもせず懲りもせずテレビゲームを至上の趣味としている一人の男にとって、まだまだ興味の尽きないそれから半ば強制的に距離を取らされる羽目になっているのは、それはそれは悲しい事実だ。
ただそんな中で今日自宅には、「MGS1シナリオブック」と「MGS2シナリオブック」とMGS3の公式攻略本がamazonより届けられた。何の事はない。自分の首を絞めているのは自分自身なのかもしれない。
まあ、MGS3攻略本はともかくとしても二冊のシナリオブックは某究極熱中的攻略本とは違って普通に携帯出来るから読む時間には事欠かないけどな。
06/05/16(火) 第433回 (・x・)
ミッフィーというキャラクターがいる。皆様もご存知の事と思う。ご存知でない方の為に少しだけ説明しておくとミッフィーとは、オランダのデザイナーであるディック・ブルーナという人が描いた絵本の主人公である所の、うさぎのキャラクターだ。私は知らなかったのだが、実は「ミッフィー」という名は(日本でよく知られるもう一つの相性である「うさこちゃん」は勿論の事だが)本名ではないらしい。本名はナインチェ・プラウスと言うらしい。何でもこの名前は、オランダ語で言う「うさぎ」が元になっているとか。誕生日は1955年6月21日。御歳五十歳である。だのにちゃん付けうさこちゃん。
そんなうさこさんもといミッフィーであるが、何と言っても気になるのはそのばってん口。まあ、この手の話題はこれまで色々な所で語り尽くされてきた事だろうからここで今、殊更に大袈裟に声を荒らげて「こう、あれがこう、四方向に開くんじゃねえか」みたいな事を言うつもりは毛頭ない。顔があどけないだけにむしろ異様な雰囲気を醸し出すじゃねえかみたいに無粋な発言をしたりするつもりもない。あまつさえ、その口からミサイルかレーザーが射出されそうじゃねえかとかいった、子供の夢を無残にも壊してしまう様な、乱暴で、不躾で、無遠慮極まりない言葉を吐き捨てられよう筈がないのだ。
ただこの間、こんな事を知った。実はあのミッフィーの口は口なのではなくて、上部が鼻で下部が口なのであって、xを用いる事によってそれを同時に描画しているのだと。後々調べてみた所によるとこれは公式サイトのQ&Aにも掲載されている確かな情報の様である。
一体これはどの程度常識的な事だったのか。それはともかくとしても、その事実を知った私は改めてミッフィーの顔をまじまじと眺めてみた。
か、かわいくねぇ…
失敬。「可愛くない事もないが、以前までの認識と比べるとほんの少々見劣りする様な気も」をうっかり言い違えてしまった。
ともあれ、ミッフィー五十歳。鼻と口がくっついているという逆境にもめげず、これからも人気のうさぎキャラクターとして活躍してほしい限りである。
06/05/17(水) 第434回 ただただ忠敬
ふーむ、これと言って書く事もない。そうだ伊能忠敬について書こう。
ご存知の方も多かろうが、例によってご存知でない方の為に少しだけ説明しておくと伊能忠敬とは、延享2年生まれの商人で、後に日本で初めて、実測に基づいた日本地図を作成した人物である。
この人は凄い。そんな事改めて私に言われなくたっていい事であるが、ともあれこの人は凄い。実際に彼が作った日本地図を直接でなくとも見た事のある人は多いだろう。当時の測量技術どころか現在の測量技術についてもろくすっぽ知らない私であるが、そんな事は抜きにしてもそれ以前の国絵図やらと比べてみればその凄さはいちいち言葉に出すまでもないというものだ。あまりの精巧さに、国防の観点から国外への持ち出しを厳禁したともいうからこれまた凄い。
ただ、私が本当に伊能忠敬の事を尊敬するのは、高精度な地図という成果よりはむしろそこに至るまでのプロセスにこそ、である。
実際に日本を歩き回り、生涯をかけて測量をする。全工程における彼の歩数は四千万歩とも五千万歩とも言われる。しかし何より特筆したいのは、彼が測量を始めたのは、実に50代になってからの事だという事実である。
そもそも彼が測量を始める切っ掛けとなったのは「地球の大きさを測ろう」と思ったかららしいのだが、それにしたって50代。何故そんなフレキシブルに動けたのだろうか。ここで注意して戴きたいのは、時代が時代(18世紀後期)なだけに、一言に50歳だとか言ってもそれは現代の50歳とは訳が違うのだろうという事だ。当時は今ほどの寿命ではなかったろうし、考えるに50歳ってのは今で言う大体定年退職した辺りの事を指すんじゃないだろうか。いや70歳も押し迫ってきているかもしれない。そんな歳から日本完全制覇測量の旅である。
しかもだ、驚くべきはこれだけに非ず。地形の測量をするとなると無論相応の学が必要になる訳だが、彼はその学問を50を過ぎてからにして修めたという事実。それまでに全く数学や天文学を学んだ事がなかったのではないにしろ、一体どれ程の興味と情熱を持っていたんだと思わずにはいられない。
日本地図界(そんな「界」があるのかどうかはおいておくにしても)のパイオニアから学べる事は多いが、やはり私達は、胸の内に秘めたる夢を実現させるのに、例え齢50を迎えても60を迎えていたとしても何ら遅過ぎはしないのだという事を知るべきだろう。並々ならぬ情熱さえあれば定年を迎えてからだって大抵の事は為し得るのだと、そう易々と老いを理由にして「そんなの不可能だ」なんて言うのは早計なんだと、私はこの、伊能忠敬という江戸時代の偉人から学び、見習わねばと感じるのであった。
それにしても己の足で日本踏破。私にはちょっと真似出来そうにないなあ。
06/05/18(木) 第435回 その棚ナニ棚
ある時電車に乗っていて思った。
網棚網棚とは言うが、よく見たらそれ網でも何でもないじゃないか。
中には網状の棚だってあるかもしれないが、
その殆どはプラスチック板だのパイプ製だので作られたものじゃないか。
お前なんか、お前なんか、「網棚」って名乗る資格なんてねーよ。
何処からどう見ても網じゃないんだから、
潔く「プラスチック棚」とか「鉄パイプ棚」とかいう名前にしなさいよ。
関西ローカルで「プラッチック棚」可。
06/05/19(金) 第436回 寝耳に蚯蚓が落ちて来てもまだ足りない
「SERI STYLE」さんから来られた方、初めまして。かと思いきや、中には初めてじゃない方もいらっしゃってちょっと驚いてみたり、「まあそういう事もあるもんか」等と思ってみたり。だが流石に昨年の11月初旬以来半年振りの訪問をそのリンク経由でやって来た方がお一人いたのにはある種の運命を感じない訳にはいかなかった。嘘だ。
さて、その他のリンクを経てやって来た方にとっては寝耳に水の導入であるが、当方この度、「SERI STYLE」のセリさんにちょいとお声をかけられて、こういった事をやってみる運びとなった。
- まず誰かによって一つテーマを決定(FFもしくはサイト関係の事で)。
- そのテーマについてそれぞれのサイトがネタを書く。
- その回とは別の人間が次回のテーマを決定。
更新頻度等細かな事はひとまずやってみてからという事で、ともかく、セリさんのお誘いでこの企画に参加と相成ったのだが、それにしても驚いたのは、テキストを有するサイトならば誰でも参加可能というコンセプトであるのだが、それを発端の「SERI STYLE」さんとこことの二サイトでまずは始めるという事実であった。
真っ先に思った事は「何故」である。「何故私を選んだのだろうか」である。何しろ私が一体どういったものを書いているのかと言えばそれは、これでこれでこれで、あまつさえこれであるし。
まあこれらは極端な例であるけれどもそれはともかく、どんなネタが結果的に出来上がるのかってのはあまり気にしなくてもいいだろう。むしろ気にしなくてはならないのは、空気を読まぬネタ作りではなく空気を読まぬテーマ設定にこそありそうだ。
そらそうだ。誰だって「FF5の『封印を守るもの』四体の配置について」だの「FF6のサボテンダーはやけにゲッソリしていますが…」だの「FF10でいきなり基本属性に成り上がったウォータの存在をどう思うか」だのいうテーマをぶつけられてしまっては困り果てるどころの話ではなくなってしまうからだ。その瞬間、この企画は破綻である。
つーか、そんなテーマじゃ自分だって何にも書けないだろっての。
そんな訳で(どういった訳かよく分かりませんが)、宜しくどうぞ。
「SERI STYLE」さんご紹介。
FFサイトを批評していらっしゃる他、主にFF関係のネタ系テキストやニュース等を扱っておられます。
歯に衣着せぬ批評その他発言は恐らく賛否両論ありましょう。仮に同感ならこれ程気持ちいいものもないのでは。
今回のものの他にも他サイトさんとのコラボレーションを企画、実行されており、その積極性には頭が下がるばかりです。
06/05/20(土) 第437回 果敢に没テーマ消化
「FF5の『封印を守るもの』四体の配置について」
私がこいつの名を語る時には、いつだってまず「こいつらに名前なんてあったんだ」という所から話を始めたくなる。ご存知の方も多いだろうが、ゲーム中でこいつらと戦う際には、通常敵モンスターの名が表示される箇所に一切の文字列が表示されないからだ。であるから、初めてあいつらの名前が「封印を守るもの」だと知った時は大層驚いたものである。そして同時に、「じゃあ何でバトル時に表示されなかったんだ」と物申したくなってしまうのであった。十文字ってのが限界数を突破してたか。確かに他のモンスターに名前が九文字以上の奴はおらず、「マーキュリバット」なんていう明らかに一文字短縮された様な名前の奴もいるのだから、それはもしかしたら本当にそうなのかもしれない。でもだったらそれはそれで、たった二文字なんだから、何とか頑張って「ふういんまもるよ」とかに妥協出来なかったのか。「まもるよ」じゃああまりにも腑抜けてる様に見えると言うなら「ふういんまもるぜ」でも良かったから。
ただまあ本日の所は議題が異なっているのでそこら辺の主張もここまでとして、あれら四体の配置である。
世の、マニアと呼ばれる程に熱を上げるFF5プレイヤーならば、見た目一切違いのないあいつらの配置すらもスラスラと答えられたりしてしまうのだろう。だが私はと言えば凡人以上マニア未満のFF5プレイヤーであるから、残念な事に全ての個体の位置までにはその記憶が及んでいない。が、土属性の個体の位置だけはよく覚えている。下側にいる奴である。
とは言えども、この事を知っている人間は割と多いのではあるまいか。あの戦いで、最初に何はなくとも「タイタン」を召喚した人ならば。某攻略本にもそんな方法が戦略として記述されていた為に私も常々そうしていた。で、他の三体が一足先に倒れていく中で、「大地の怒り」を吸収し続けた土属性の個体だけが最後に目の前に残るという寸法である。
そんな訳で少なくとも私の中では土属性の奴だけがいやに印象に残るばかりで、残りの奴等のないがしろにされっぷりと言ったらこれ。まあ、指の先ほども可哀想には思わないけれども。
個人的には知らず知らずの内にストーカーよろしく入れ替わっちゃってくれちゃっててもいいよ。土属性の奴の位置が固定されてさえいるなら全然気付かず倒しちゃうから。
「FF6のサボテンダーはやけにゲッソリしていますが…」
確かにゲッソリと、細々としている。しかしそれは無理もない事だと言える様な気もする。何しろあいつのHPは3しかないのだ。FFに比べてHP量の低いDQの中にあって尚且つ極めてその値の低いはぐれメタルにすら届かないその貧弱さ。世界崩壊後、恐らくはより厳しくなったのであろう生存競争の前に少しずつ種が衰退していったとでも言うのだろうか。
彼は当時FF初登場であった。FF6と言えば、それまでFF最弱モンスターであったゴブリンがレギュラーの位置から引き摺り下ろされる等した、モンスターにとっては激動の時代であった。それに伴って多くの新手モンスターが登場、レギュラーの座を勝ち取らんと想像を絶する争いが繰り広げられたのだ。
そんな中で勝ち残った者、それが――貧弱者サボテンダーであった。彼はこの険しい戦いを、持ち前の素早さと強力な技「はりせんぼん」によって切り抜け、その愛らしさによって後々にはFFマスコットの一角をも担う存在にまでのし上がったのだ。
サボテンダーよ、君は本当によくやった。元々はモンスターでありながら、最初からマスコット的要素を持っていたチョコボやムンバと同等の地位にまで上り詰めたのだから。
ただ一つだけ言っておくけど、君にはチョコボみたいにゲームの主人公を飾るなんて事は出来ないと思うよ。残念だけれど。
「FF10でいきなり基本属性に成り上がったウォータの存在をどう思うか」
いやー…このウォータであるが、まあ、水属性という事で、個人的には炎よりも氷よりも雷よりも弱いイメージがあって、うん、水が弱点の奴相手でもないとそう滅多に使う事はないのだけれど、えー、それはでももしかしたら他三属性とのキャリアの違いが自然と信頼感みたいなものを醸し出させているのかも…しれず…
って、やっぱウォータについて書く事なんてなかったなあ。
06/05/21(日) 第438回 新時代のお蚊様
ここ十年か、或いはもうちょっと昔からか、日本ではよく「外来種」なるものが問題を引き起こしているらしく、何かにつけて外来種外来種と耳にする様になった。
外来種問題とは簡単に言えばつまり、海外から輸入される等して日本にやって来た、日本には元々いない生物種が何らかの理由によって自然の中で繁殖、その結果元々その地域にいた在来種や広く生態系そのものにまで影響を与えてしまうという由々しき問題の事である。日本で有名な例と言えばニホンザルとの交雑、繁殖が可能で純粋なニホンザル絶滅をも危惧されるタイワンザルの件とか、食べられた事によって周囲の魚が減少してしまったらしいブラックバス、またちょっと昔の話になるが某アライグマのアニメが切っ掛けでアメリカだったかから多くの数がやって来たアライグマの野生化等があろうか。いずれの問題も周辺環境に大きな打撃を与えているものである。
かかる具合に、日本の各地で課題となっているこの問題。私自身はあまりこういった問題について詳しくないのだが、詳しくないなりに憂慮もしている。長い歴史の中で培われ、我々人間共々関わり合う事で成り立ってきた生態系が崩れるという事は、それ即ち人間達への打撃でもあるからだ。
ただ私は、外来種の全てが悪であるとまでは思っていない。全ての外来種が悪い訳ではないだろう。きちんと自然に流れ出ていかない環境が整っている中で管理されている以上悪でないのは無論だが、いざ自然界に出て行ってしまってなお悪者にはならない生物種というものも存在するのではないか。
例えば、例えばだが、蚊。あの、油断して血を吸われてしまうと途端に痒い痒い事になってしまうあの蚊であるが、この蚊を駆逐してくれる、尚且つ例え血を吸われたとしてもあの痒くなる成分を注入していかない様な蚊が日本で蔓延してくれたら、こんなに嬉しい事はない。そうすれば日本人はあの、煩わしさ甚だしい痒み地獄から綺麗さっぱり解放されるのだ。
蚊、蚊よ、丁寧に言ったらお蚊よ、有難う。有難うお蚊よ。お蚊様万歳。ボウフラも万歳。
とか言って、そりゃま、駆逐される側の蚊にとっちゃあそんな迷惑な話はないだろうけどさ。つくづく人間ってのは独善的だねえ。
06/05/23(火) 第439回 餡麺麭論
漫画「ドラえもん」のとある話の中にある、道端で拾った100円でアンパンを二つ買うというエピソードを見る度にアンパンが食べたくなった私である。今ではドラえもんのコミック自体何処かに行ってしまって久しく読んでもいないのだが、そのアンパンのエピソードは本編へ繋がる言わば「振り」に過ぎないのであって別段本編と強く結び付いている様なものではなかった筈であるが、その割に記憶に残っているのだ。今日はそんな思い出がふと心の中に呼び起こされた折角の機会という事で、アンパンについて書こうかなと思う。
と言っても、何もこんな改まった、ほんのちょっといい話っぽい導入から始めなくとも、当サイトではこれまでに何度かアンパンに関係した話題を取り扱ってきた。これとか、これとかである。だがしかし今回はアンパン男の事ではなくて、純粋にアンパンの事についてちょっと語ってみよう。
「語ってみよう」 とか言っといて、たかがアンパンの事についてそんなそんなに喋る事なんてないんじゃないのかと思われるかもしれない。いや、実際にアンパンについてそれ程熱く語れるだけの種は持っちゃいないが、しかし語りたい事は少なからずある。
まず述べたい事は、私が甘いものを大量に食べられないという事である。甘いものが嫌いなのではない。和菓子にしろ洋菓子にしろそれなりには食べる。だが、多量に摂取しようとするとすぐに身体が拒絶反応を起こしてしまうのだ。端的に言えば気持ち悪くなってしまうのだ。
そこへきてアンパンというのは、無論その大きさにもよりけりだが、私が笑顔の内に食べ終えられる限界量に割かし近い容量を誇っている。まかり間違っても、二個のアンパンを勢い良く食べられはしない。であるからして私は、高々一個のアンパンを頬張る時にさえ僅かながらに戦略を練る必要に迫られるのだ。
アンパンの中にはご存知の通り餡が沢山詰まっている。ただ、ぎっしりという程には詰まっているものではない。パン全体における餡の配置には幾許かの偏りがあって、つまりアンパンの側面から見た時、皮に程近い所から既にして餡部が始まる部位と、暫くはパン部の厚い層が垣間見える事になる部位とが存在するのだ。
そこで重要になってくるのが、一口目の口運びである。ここにおいて万一にも、パン部に当たる部分から食べ始めたとしたらどうなるだろう。見る見る内にアンパンにおけるパンの、餡に対する割合は減少していき、後に残るのはたっぷりの餡と薄皮のパンのみである。大体に、餡子を大量に摂取出来ない私が何故それでもアンパンを好んで食べるのかと言えば、餡の甘ったるさをパンによって幾分軽減出来るからに他ならないのである。その私からパンの大部分を奪い取ったらどうなるか、想像に難くはあるまい。
だから私は、どうせ同じだけの餡子を食べるのなら、まず始めに食べた餡によって生じる後味を最後に残った「餡内容量」の少ない肉厚のパンで補おうと言うのである。これこそ、決して「甘い物好きなのではない」私がこれまでの人生において数多くのアンパンを食してきた中で見出した、最もそれを美味しく戴く為の極意である。
惜しむらくは、その法則が分かっているにも拘らず、肝心の「餡が何処に偏っているか」を見極める能力に恵まれていない事である。常々意識している事なのに、トータルで言うとパン部から食べてしまう事の方が多い様な気もする。
06/05/24(水) 第440回 促音長音
「やったっー! ロドリゲスが帰って来たぞっー!!」
が、妙に気になるのであった。何を言っているのかとお思いであろうが、長音が促音の後に持って来られているという話である。
何度見ても、「っー」という記述の仕方には若干の違和感を禁じ得ない。一体貴方は何をお伸ばしになろうとなさっているのかと感じてしまうのであった。
恐らくこういう表記を用いている人達も、いざそれを口に出してみると、
「やったーっ! キルサーノフが帰って来たぞーっ!!」
という形に落ち着くのだと思うのだけれど、何処をどうしてこの「ー」と「っ」の順序が狂ってしまったのだろうか。心の中ででも一旦発音したそのままの事を一字一字そのままに書きさえすれば「っー」とはならない筈なのであるが。
そうとなると浮上する一つの線。それは「っー」表記を用いている人が実は口上ですらその表記順に則った喋り方をしている可能性だ。
促音記号のある部分はいわゆる詰まる部分でありそこに音は存在しない。歌の様に言葉のイントネーション等々よりも音階、つまり音として発せられる情報こそが大事な時には例えば「〜したって」を「〜したぁて」に近い形で発音される場合もあるとは思うが(特にゆったりした曲調のものなら)、まあ基本的には音はないものと考えていいだろう。で、そこに「直前の音をもう一音節分伸ばす」長音記号「ー」の登場である。つまり、直前の音が「っ」ならばここの発音も「っ」と、さながらそれは「わーい」を長音記号を使わずに書き表す時に「わあい」となる様に、「やったっー」は「やったっっ」になるのではないかと考えられるのだ。
もしも件の人達が「やったっー!」を「やったっっ!」と発音していたとするなら、私にはそれを断罪する権利等ない。歯切れが良過ぎて多少物足りない感じがしないでもないが、何しろはっきり間違っているとも言えたものじゃないから滅多な事もやはり言えないのだ。
考え様によっては彼等彼女等は、「やったっっ」と書く事の面倒臭さ回避の為に「やったっー」という風にしているのかもしれない。実際「っ」は「ltu」とか「xtu」とか、律儀な人だと「ltsu」とかタイプしないと単独では出て来てくれないので、もしかするとそれはそれなりに理に適った理論なのかもしれず、いよいよ私にはこの事に強く突っ込めなくなってしまうのであった。
そして人々は今日も言うのだ。
「やったっー! フリードリヒ・クルツリンガーが帰って来たぞっー!!」
ラシックス