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14/07/05(土) 第1071回 更新意欲バイオリズム

土土土土土土土土土…

ということで直近の8回、今日の分を入れて9回連続で土曜日更新になっているのは何も前回のネタをやりたかったからという訳ではなく単なる偶然なのだが、しかし働き始めてからというもの平日にサイト更新する気力はなかなか出せず、また休日であっても日曜日は翌日から再び始まる労働の日々に嫌気が差してやっぱりサイト更新する気力が出せなかったりするから、土曜日に更新が集中するのはほとんど必然だったとも言える。
と、そんなことを考えていたらふと気になった。実際の所、社会人になって以降の曜日ごとの更新頻度ってどんなものだろうか。気になったので、計算してみましょう。そして予め計算しておいたものがこちらになります。

表1.曜日別更新頻度(2008/04/01〜2014/07/05…2287日間)
曜日 回数 割合(%)
10 13.2
3 3.9
8 10.5
3 3.9
4 5.3
27 35.5
21 27.7
76 100.0

集計対象は「雑文」と「ゲーム日誌」。同日に2回以上の文章を掲載した場合は1回としてカウントした。
概ね予想通りの結果となったが、ここ2ヶ月の土曜日集中更新以前はむしろ日曜日の方が優勢だったのは意外だった。月曜がやや多めなのはハッピーマンデー制度の影響によるものか。なお、土日を除く更新回数は計28回だったということになるが、このうち半分以上は祝日、盆休み、年末年始などの休日に当たる日で、実際の平日に更新されたのは10回程度だったことを付け加えておく。
さて、この結果を見ると、やはり比較対象として社会人になる以前の様子も集計したくなってきた。わざわざやってみなくとも結果は明白な気もするが、そんなことは気にせず計算してみましょう。そして予め計算しておいたものがこちらになります。

表2.曜日別更新頻度(2004/05/07〜2008/03/31…1425日間 ※休止期間76日を含む)
曜日 回数 割合(%)
182 14.0
180 13.9
189 14.5
182 14.0
185 14.2
187 14.4
195 15.0
1300 100.0

驚異の暇人度。



14/07/12(土) 第1072回 天気と私
14/07/11(金) 第1072回 準備不足につき


統計の面白さとはひとえに、事象が多数集まると個々のデータからは思いも付かなかったような傾向や規則が見えてきたりすることにある。
統計の最大手(そんな概念はないが)と言えば国勢調査などの国民を対象にしたものだろう。例えばここに「都道府県別の日本人の平均寿命」という項目がある。2013年発表のデータによると、1位は男女ともに長野県で、最下位は男女ともに青森県とある。1位と最下位の差は、女性では約1.8歳だが男性は約3.5歳と思いのほか大きい。やはり食文化とか、気候の違いがそうさせるのだろう。
「都道府県別人口増減率(過去10年)」を見ると、1位は貫禄の東京都(8%増)、最下位は秋田県(10%減)らしい。やはり食文化とか、気候の違いがそうさせるのだろう。
「都道府県別の大学進学率」なる項目もある。それによれば1位はこれまた東京都、最下位は沖縄県だそうで、驚いたことに30ポイント近くもの差がある。無論、食文化とか気候の違いがそうさせていることは疑いようがない。
気候と言えば、これは毎日の事象であることからかなり統計向きな概念であると私は思う。直近の話題で言うと「七夕は雨が降りやすい」というのはよく挙がる話であるが、実際7月7日に晴れていない確率は70%超(東京都・曇天を含む)とのことで、織姫と彦星が逢瀬に失敗してばかりなのは単なる印象の上でだけという訳でもないのである。もっとも7月7日は日本においては梅雨に当たるため、そうなって当然なのであるが。
「10月10日(旧体育の日)は晴れやすい」というのもよく聞く。これに関連して「だからこそ東京オリンピックはこの日の開催となった」とされる逸話はかなり有名な話であるが、これは真っ赤な嘘だというのもまた有名な話である。実際のところ10月10日は季節的な傾向を大きく逸脱するほど晴れやすい日という訳ではないのだとか。しかしながら過去のデータを紐解いていくと「偶然の一言では済まされないほど特定の天気になりやすい日」なるものが実際に存在する(特異日と呼ばれる。6月1日は晴れの特異日、9月17日は台風上陸の特異日、など)のだからやはり統計は面白いものだ。

さて、前回の雑文でやったのも一種の統計であるが、あれを書いた後になって私は一つの事実に気が付いた。2004年に始めてからというもの、ただぼやぼやと書き続けてきただけではあったが、いつの間にかもうじき1400回(ゲーム日誌含む)を数えることになる。つまりこのコンテンツは私も知らぬ内に、統計を取って隠れた傾向を見て楽しむに十分な母集団となってくれていたのだ。
という訳で、ここまでの流れもありもう一つ調べてみたいことが出てきた。「雨天なら外出しない」「雷恐怖症」など、昔から天候に人生を左右され続けてきた私であるから、雑文の内容にもまた天候との因果関係が認められるのではなかろうか。例えば、晴天の日ほど長文を書きがちになったりとかである。これはなかなかに気になる。案外と有意な数字が出そうな気がする。当時私が住んでいた地域の気象データベースとの突き合わせになるから集計の手間が前回の比ではないが、気になってしまったので、計算してみましょう。そして予め計算しておいたものが…
あ、しまった。ここ最近ずっと土曜日更新が続いてて、今週もそうするつもりだったから、まだ何も準備してなかったんだった。
仕方ない、今から計算しよう。結果は第1073回にて。



14/07/19(土) 第1074回 ホッキョクグマの生態

――それでは、ホッキョクグマの狩りの様子を覗いてみましょう。

氷上に空いた穴の前で、じっと何かを待っています。
この穴は、アザラシが息継ぎの為に空けたもので、彼らホッキョクグマは、穴からアザラシが顔を出すのを待ち伏せしているのです。

(泳いでくるアザラシのカットイン)

アザラシがやって来ました。鼻がとても良いホッキョクグマは、獲物の接近を敏感に感じ取り、攻撃態勢を整えます。

(緊迫感溢れるBGM)
(気配を消すホッキョクグマのカットイン)
(水面に浮上しようとするアザラシのカットイン)
(身を乗り出し始めるホッキョクグマのカットイン)

そして――

(BGMストップ)
(穴に前足を突っ込むホッキョクグマのカットイン ※ちょっとスローめで)
(すかさず逃げ出すアザラシのカットイン)

――どうやら逃げられてしまいました。


これはその昔、どうぶつ奇想天外!だったかで放送されていた1シーンである。
思い返してみると、子供時分に見たこの手の動物ものテレビ番組で、ホッキョクグマがアザラシの狩りに成功したシーンを見た記憶は無い。記憶の限りでは同じような特集は何度か目にしたことがあったはずだが、しかし私はいつも、ホッキョクグマに比べて何倍か愛くるしいアザラシが殺されてしまわなかったことにほっと胸をなで下ろしながら、一方で「どうして狩りが成功しているところは放送されないんだろう」と疑問に思っていた。
この謎を解く切っ掛けに出会ったのは、私がもう少し大きくなってからのことであった。ある時、ディスカバリーチャンネルだかの、ドキュメンタリー色の強い動物番組を見る機会があったのだが、その中でのホッキョクグマがいとも簡単にアザラシを捕らえ、そして食べていたのだ。やはり肉食動物の捕食シーンというのは、知識としては持っていても実際に見ると結構刺激が強い。そしてここに至って、馬鹿な私もようやく気付くのだった。なるほど、かつて見ていたテレビ番組においてホッキョクグマがアザラシに逃げられる場面しか見たことがなかったのは単なる偶然なんかではなく、ちゃんとした理由があったのだ。
そう、子供向け動物番組の取材クルー達は揃いも揃って運が悪かったんだね。



14/07/26(土) 第1075回 ヤギの生態

しろやぎさんから おてがみついた

くろやぎさんたら よまずにたべた

しかたがないので おてがみかいた

「植物性繊維質100%からなる一昔前の紙ならまだしも、填料、顔料、紙力増強剤、濾水向上剤などの各種製紙用薬品を使用した現代工業製品としての紙を食べさせるのは立派な虐待です。このような悪辣非道な行為を許すことはできません。ついては、弁護士との相談の結果、貴方を傷害罪で告訴することに致しました。追って裁判所から通達があるものと思いますので、ご対応のほどよろしくお願い致します。それでは、法廷でお会いしましょう」



14/08/02(土) 第1076回 ヒトの生態

死について初めて意識的になったのは、小学校何年かの時だった。夜中、布団の中でふと、自分が死んでしまう日のことを想像したのであった。死ぬ瞬間、どのような肉体的苦痛を伴うかという点は勿論怖いが、しかしよくよく考えてみると、死んでからのことの方こそ実はよっぽど恐ろしいと気付く。今あるこの自分の意識が、死んだ時点でプッツリと途切れ、その後には何も残らないことが怖い。今はこうして普通に出来ている「考える」という行為を一切行えなくなることが怖い。それを最後に世界から自分の存在が消え、なのに私自身はそれを決して認識できないことが怖い。来世があるとする考えに救いを見出す人はいるけれど、仮にあったとして、でも今の私は前世のことを一切覚えていない訳で、つまりここにいる私の人格、記憶、精神が死とともに消え失せるのには変わりがないのだから結局の所やっぱり怖い。この「消失」の現実が堪らなく怖くなって、つらつら考えているうちに眠れなくなってしまったという、今にしてみれば他愛ない思い出である。
もっともこういった考えが膨らむのは一時の気の迷いのようなもので、四六時中死の恐怖に怯えて今日まで生きてきた訳では勿論ない。短くない人生の中では近親の人間の死に直面することもあったが、それによって悲しさを感じることはあっても、それが直接「自分が死ぬこと」への意識を喚起させたりすることはなかった。死とは、いずれ来るものではあるが、まだ遠い未来のことだと思っていたからである。
しかし最近、その辺りの事情が少し変わってきたように思う。ことに30歳の大台に乗ってからは、死というものを気持ち身近に感じる機会が増えた。取り分け私が意識的になるのは、まだ若い有名人の訃報を聞いた時である。そもそも有名人の訃報というものは、かつて「名前も知らない人か、名前は知っていても実際の活躍の場を知らない人が亡くなった報せ」に過ぎなかったことのはずがこのくらいの歳になってきて段々と「名前どころか顔や声までよく知っている人が亡くなった報せ」へと変化していき、昔に比べショックに感じる頻度、度合いが大きくなっていくものであるが、その人がまだ50代か、より若い世代の方だった場合、私は単なるショックだけでなく全く別の思いにも駆られるのだ。即ち、生まれてからこれまでに生きてきた時間よりも、その人達の年齢に追い付くまでの時間の方が短いことに気付いて愕然とする。まだまだ非現実的でなくてはならなかった己が命日の到来が実はもう、十分想像できる範囲の未来にまで近付いているかもしれない事実に焦燥感を覚える。かねてより、日本人の平均寿命まで生きられるほど健康的な生活はしていないなあとの自覚はあり、それが余計にこの現実を無慈悲にも突き付けてくれる。更に、ジャネーの法則なんてものを引き合いに出さなくても40代に到達する日が想像以上に間近なのだろうことは経験的に明らかで、つまり私は、もうすぐにでも、いつ死んだって不思議ではない人になるのである。
人生は有限だ。今更何を当たり前のことを、と思われるだろう。私だって、全ての人間がいつか死ぬなんて、そのくらいのことは分かっていたつもりだった。だが、それは間違いなのであった。自分が、これまで考えていたよりずっと「死」と近しい所に立っているのだと認識して初めて、実際のところ自分は、この至極当然の摂理を、しかし真に迫った部分においては理解できていなかったと思わされたのであった。そう思って考えてみるとどうだろう。人生80年。3万日足らず。生きている内に季節は80回ずつしか巡って来ない。1日8時間寝るとしたら人生で起きているのは53年ちょっとで、残りの26年ちょっとは寝ているだけ。盆と正月、年に7日程度帰省するとしたら、親に会えるのはあと何日か。こういった、計算の上ではすぐに求められていた「人生の残り時間」に関する数字が、今はまるで違って見えてくるようだ。そう、既に私の人生はターニングポイントを迎えているかもしれないのだから、これからは残りの時間にもっと敏感になって生きていかなければならないのではないか。一度きりの人生とはよく言うが、本当の意味でその事実と向き合って、1日1日を無駄にしないよう努めなければならないのではないか。「いつ死んでもおかしくない」というこの考えを推し進め、変に未練を残して死んでいくことのないよう、やりたいことはどんどんやっていっておかなければならないのではないか。だから\ピンポーン/

\Amazonデース/

だから、最近物欲に正直になり過ぎて散財ペースがややまずいことになっているのは仕方がないことなのであります。



14/08/09(土) 第1077回 トッポジージョの次女の事情

事情、と申されましても、そもそもトッポジージョさんのこともよくは存じ上げないので何ともはや…
はあ…2番目のご息女様が最近反抗期でいらっしゃる…へえ……

自浄、と聞いて思い付くのは「自浄作用」くらいだが、本来の「川などが自身の流れによって自ずと汚濁を取り除く」という素晴らしく美しい原義とは裏腹に、「組織内の汚点を自力で取り除く仕組み、働き」の方の意味で言う「自浄作用」ほど「聞こえはいいがその実まったく無意味な言葉」もそうそうない。だってそんなこと、本当は意識してなくたって自然にできていなければならないはずで、だから「社内での自浄作用が機能していなかったことは否めない」だの「今後は部内の自浄能力の向上に努める」だのいう発言があったとしてもそれは、あまねく全ての四字熟語が共通してもたらす「一定の知的雰囲気の醸成」によってやや隠れてはいるが実際のところ自分達の無能さをひけらかしているだけのことに過ぎないのだ。

自乗、という表現には名状しがたい魅力を感じる。2乗するときだけ「(数字)乗」でなく固有の言い回しが存在する辺りに、何やらプロフェッショナル感が醸し出されているような気がする。自分自身が乗じられる所にメタっぽさが感じられるのもまた格好良い。更にこの言葉が素晴らしいのは、「二乗(じじょう)」の印象に引っ張られて語感からすらも2乗感が溢れている部分にある。「平方」とも言うけれど、「自乗」には遠く及ばないね。

治定、という言葉はあまり聞き慣れないが、「決まりきっていること。必定」といった意味の熟語らしい。
人なればいずれ死すること、これ治定也。

次条、と言いますと、何というか、法律とか契約書とかそういったお堅い文章でよく聞かれそうな表現ですね。

茸状、という言葉がありまして、きのこじょう、え、これ「じじょう」って読むんですか。

行ってみたいな姫路城。

という訳で、今回は全く取り留めのない話にて失礼。第1077回の雑文も無事成就、と。
…うーん。



14/08/16(土) 第1078回 トッポジージョの次女の爺



父方なのか母方なのか、それが問題だ。



14/08/24(日) 第1079回 ん

A「マイク」

B「靴墨」

A「ミジンコ」

B「昆布」

A「ブラスバンド」

B「ドラえもん」

A「はい、『ん』で終わったから負けー」

B「ンジャメナ」

A「は?」

B「ンジャメナ。チャド共和国の首都。同国の南西端部に位置する。岩塩・ナツメヤシの集散が盛ん」

A「うん…それで?」

B「いやだから、『ん』で始まる言葉があるんだからまだ負けじゃないだろ」

ここでのBのような勘違いをしている人は世の中に結構いるのではないかと思う。履き違えてはならないが、しりとりにおいて「ん」で終わる言葉を言って負けとなるのは「『ん』で始まる言葉が存在しないから」ではなく「そういうルールのゲームだから」なのである。確かに、このような取り決めが制定された経緯自体は「『ん』で始まる言葉が(日本語の中に)存在しないから」だったのかもしれないが、そこから「『ん』で終わったら負け」という基本ルールが誕生し、それが広く伝播した時点でしりとりは「『ん』で終わったら負けになるゲーム」として確立されたのだ。だからやはり、上述の会話でのBは「ドラえもん」の時点で負けているのである。
勿論、変則ルールとして「『ん』で始まる単語の使用」を許容する派生的遊び方はあってもいい。元々しりとりはそのシンプルさ故に独自ルールを盛り込み易く、実際我々は「末尾が長音、拗音、促音、濁音だった場合」の扱いが曖昧なのに対して「『バッター』の次は『た』なのか『あ』なのか」とか「『ゾンビ』の次に『ひ』から始まる単語を許すかどうか」とかをその時々で臨機応変に決めたりしているから、「『ん』で始まる単語の使用」もそれに類するものだと言える。ただ、確かにそう言えるが、これに当たっては注意が必要である。「末尾『ん』」を可とする変則ルールの取り扱いには一際慎重にならなければならない。何故なら、長音や拗音とは違い「末尾『ん』」は、それをありとするかなしとするかがそのまま勝敗に直結してしまうため、実際に「末尾『ん』」の単語が登場してしまってからの議論では間違いなく揉めることになるからだ。大体にしりとりというものは長期戦になり易いその性格上ほとんどの場合1回きりの勝負になるから、何の気なしに「末尾『ん』」の単語を使ってしまった上述のBもこれで負けになってしまっては堪ったものじゃないと必死に食い下がってくるだろう。そしてそうなってしまったが最後、もはやゲームはまともには成り立たなくなる。だからこの点に限り、勝負の卓に着く者達は、ゲームが始まる前段階で「末尾『ん』」に関しての規定を取り決めておく必要があるのだ。

ンジャメナが生んだしりとりの闇。
しりとりが、大富豪、麻雀に次ぐ「ローカルルールの整理が面倒なゲーム」と化す日はそう遠くない。



14/10/11(土) 第1080回 キセキの世代

円子 テツヤ(まるこ てつや)


三角瀬 涼太(さんかくせ りょうた)


四角間 真太郎(しかくま しんたろう)


菱峰 大輝(ひしみね だいき)


平行四辺形原 敦(へいこうしへんけいばら あつし)


楕円司 征十郎(だえんし せいじゅうろう)


我らサイクロイド曲線、軌跡の世代。
真円以外の作図は面倒過ぎたので、残りは誰か頼んだぞ。


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