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14/03/08(土) 第1061回 絡め取られる

よーし、時間はかかったが何とか第1060回までの雑文を過去ログに追いやったぞ。これでようやく、ここしばらく雑文の最新ページに載せられ続けていた「美少女萌えキャラ系深夜アニメ作品群」についての話を奥の方へしまうことができた。アニメの話が悪いとは勿論言わないが、やはり時と場合、はたまたその人の年齢なり社会的地位などによって、公に発信するに適した話題とそうでない話題というものは確かに存在するのだ。私もいつの間にやら来月には社会人歴7年目に突入である。もう「中堅」という言葉に片足を突っ込んでいる。後輩も随分と増えてきた。また仕事のことに限らずとも、去年にはまだまだ子供と思っていた10歳近く年下の従兄弟が結婚するという知らせもあった。私が望むと望まざるとにかかわらず、世間の中の自分はどんどん責任ある立ち居振舞いを求められていくものだなあ、と焦りは募るばかりである。だから思った。この期に及んでアニメばかりにうつつを抜かしている訳にはいかないのだと。折良くこの雑文もページの切り替わりどきということなら、ここで一度ゼロからやり直すつもりで、胸を張ってお見せできる文章を書いていこうではないかと。

前置きが長くなったが、そういうことで心機一転お届けする本日のテーマは「最近の家での過ごし方」について。
最近の、と言いながら、基本的に外出はせず家の中でぼやぼや過ごすというこの十数年来の生活パターンがここ最近で特別変化した訳ではないのだが、しかしぼやぼやと読書なり、インターネットなり、YouTube投稿用動画作成なりを行うその作業環境に関しては一つの大きな変化があった。少し前から、インターネットラジオを好んでよく聞くようになったのである。
趣味または娯楽としての、ではなく、作業環境としてのインターネットラジオ。つまりそれそのものを集中して聞くのではなく、BGM的に流しておくのだが、これがいい。何かをしているその傍らで流しているだけではろくに内容なんて頭に入ってこないのでこれは言ってしまえば雑音なのだが、しかし不思議と、こうした音声が流れていることで人は落ち着きを得たりするものである。振り返ってみると、かつてはテレビが同様の役割を担っていた。「電源を入れるという操作ただ一つで後は断続的に音楽文学演芸報道その他各種情報を提供してくれる」という側面においてテレビは非常に優秀な環境音生成ツールであると言える。私は「別に何を見るでもなく何となしに電源を付け続けている」というありがちな利用方法でもってある種の落ち着きや安心感を、しかしそうとは意識せずテレビから享受していたのである。しかしそのテレビは、2年半前の引っ越しの際に「特に見たい番組もないし」「インターネット環境があれば事足りるし」という浅はかな考えで捨ててしまったので今はもう無い。その代わりに台頭してきたのがインターネットラジオなのだった。
さて、電源を付けるだけという訳にはいかない点を除けばテレビと比べても何ら遜色なく癒しと安らぎを与えてくれるインターネットラジオであるが、BGMとして流しているだけとは言っても、突然出演者が大笑いしたり、何らかのハプニングがあって叫び声が上がったり、そうでなくてもふとして頭が小休止したりした時に番組の内容を傾聴することはよくある。ここの所とみに集中力の低下を実感することの多くなった私は、そうした出来事をきっかけに元の作業を一旦置いて数分なり10分なりラジオの方に聞き入ってしまうことも珍しくないがそれはそれとして、ちゃんと内容を聞いているとたまに「この人は面白いなあ」と感じる人に出会うこともある。話術に優れた人、ボケツッコミが鋭い人、いわゆる「いじられ芸」で光る人、リアクションが秀逸な人、など面白さの種類は様々だが、ついついその話に引き込まれてしまうような人がいるのである。そうして一度「人」を意識するとどうなるか。まず、次からその人が出演している番組を聞くときは無条件に耳が幾らかラジオを聞くことの方に力を注いでしまう。大体にマルチタスクを大の苦手とする私なので、該当する番組の放送に差し掛かると作業効率は目に見えて落ちることとなる。更にそれが何度か続いて、「やっぱりこの人は面白いなあ」となるともういけない。次に私は、その人が出演している別番組を自分から探すようになる。この時点でインターネットラジオの「環境音として安らぎを与えてくれる」という側面は完全に姿を消しており、それはもはや立派な娯楽、ことによると「本来従事していなければならなかったあれやこれやの物事の進捗を著しく遅らせる娯楽」と化すのであるがそんなことはお構いなしだ。主にWikipediaから情報を探ってみると、とあるゲーム作品のラジオにその人が出演していると知り早速聞いてみる。やっぱり面白いなあ。また別の、とあるアニメ作品のラジオにその人が出演していると知り早速聞いてみる。やっぱり面白いなあ。すると今度はそのラジオ内で、先日発売になったBD/DVDに本番組の番外編並びにイベント映像が特典として収録される旨の宣伝がなされた。へー、そうなんだー。して数日後、私の家には当該アニメのDVD第1巻が届けられた。割と節操なく買っているつもりのアメリカ産ドラマDVDですら演者で買う買わないを判断したことはなかったのに、いきなりの声優買いである。かなり一気にステップアップした気がする。かなりまずい道に入り込んだ気もする。
ただ、「この人が気に入ったから、この人の出演作に惜しみなくお金を出す」というのは極めて健全な消費活動だなあ、と思った。ラジオを聞いていなければ生まれなかった消費。この一件だけをとってみても、インターネットラジオが個人の娯楽に留まらず広く社会経済の好循環にまで波及する力を持った、素晴らしいコンテンツであることがお分かりいただけたことと思う。日常生活の友として、勿論しっかりと聞く娯楽としても、皆様に是非お勧めしたい。

ところで、2011年のまどか☆マギカ時点で2作だった私のアニメDVD購入遍歴は、2014年の今回で5作となった。年1本ペースで順調に増加。しかも購入動機はますますレベルアップする一方。不退転の決意でアニメとの決別を謳っても、結局はここに戻ってきた。このまま欲求に流され続けるとどうなるのか。既にしてインターネットラジオが日常生活に根差してしまった私に待っている未来は果たして。



14/05/04(日) 第1062回 因果を外れた裂けちゃうチーズがむしろしっくりくる独りぼっちの愛よ

「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語」の公開から半年。先日BD/DVDも発売となり、これを改めて見た所で、ようやく本作の初見時の模様と感想を書いていく。

当日、劇場へ足を運ぶまでに至る一大決心の様子は以前に書いた通りである。そして、たかが「映画館に行く」という行為そのものが1つのハードルであり、それをまさに今越えたばかりだった私のテンションは、多分その時会場にいた他の誰よりも高かっただろうと思われる。それが証拠に、冒頭のほむらの独白にある「その末路は、消滅による救済」辺りのくだりで早くも私は感極まりかけていた。わざわざ会場最後列の座席を取っておいて良かった。こんな序盤も序盤で泣こうものなら周りから浮いてしまうこと必至だが、これなら涙を拭っても隣の人以外には変な目で見られずに済むぞ。
本作、まず初めにキーポイントとなるのは、話が始まってすぐにまどかとさやかが普通の魔法少女として登場する点だ。今回の新編がアニメ1期の後の話を順当に描いていくものだと思い込んでいた私は、しかし慌てることなくここでの展開を次のように整理した。つまりこれは、実際の現実世界の光景ではなく、ほむらの夢か幻想のようなものなのだろう。ゲームやドラマでも時折見かけるような、「不幸不遇な登場人物がふいに幸福平穏な人生を夢想して、でも途中で現実に引き戻される」類の演出だと予想した訳である。実際、ほむらの境遇なら十分あり得そうな流れでもある。
この解釈によって、私にとって物語序盤は「本編とは切り離して考えてよい独立したパート」という認識となった。多分どこか、ひとしきりの盛り上がりを迎えた所でほむらの目覚めシーンか何かが挟み込まれストーリーが一旦リセット、これをもって導入部が終わり、そこから本題に入る感じだろうかなどと考え、それまでは頭を空っぽにしてただ楽しんで見ていてもよさそうかなと思ったのだった。そんな意識で見ていると、序盤で描かれる家族団欒シーン、学校シーン、ナイトメアとの戦闘シーンといった全ての場面場面が、「至って普通の魔法少女物アニメを期待し裏切られた1期視聴者」に送るサービスカットとして自然と理解できていく。そこには「1期の世界観にそぐわない内容への違和感」や「まどか、さやかの2人が当然のように存在しているという謎」はたまた「ナイトメアとは一体何者なのか」「魔獣は何処へいったのか」などの不穏な要素は微塵も無い。私は、間もなく始まりを告げるであろうメインストーリーへの期待を一層募らせつつ、5人の華やかで煌びやかな「魔法少女的」活躍をひたすら純粋に楽しんでいた。
この展開に疑問を抱き始めたのは、志筑仁美のナイトメアを倒した辺りからである。おかしい、ここらでほむらが目覚めるものと踏んでいたのに、まだ話がそのまま進んでいく。ここまでを導入部として夢オチとするにしては、やや尺を使い過ぎているように思う。そう訝しみ出してすぐ、ほむらの周辺に異変が起こり始めて、ようやく私も今までの話が現実に起きているものだったということを察するのであった。なるほどそうかそうか。まどか登場から最前まで夢物語と決め込みあまり細かい部分にまで注目せず見ていたことで、もしかしたら先々の展開に深く関わる伏線を見逃してしまったのではないかと内心焦る自分がいた。
ここからは、「この一見平和な世界は一体何なのか?」という疑問を発端に、魔女の結界、及び消滅したはずの魔女の存在を匂わせる流れとなり、「元凶は果たして誰なのか」が着目点となっていく。あれこれ考えてみるが、これが分からない。と言うよりも、これはそういう狙いで制作されている向きもあると思うが、主要登場人物の全員が正直それなりに怪しい。物語の舞台が1期ラストの正当な延長線上にあるらしいと確定した時点でまどか、さやか、ベベという3名の異質さが抜きん出た形ではあるが、これは他の誰かが作り出した幻なり偽物なりの線がまだ残っていることを考えると、やはり黒幕と断定はできないのである。ただ、「叛逆」というキーワードとOPの印象から、まどかが本命とは思っていた。しかしその考えのせいで、ほむら、まどかの会話シーンにおける「ほむらの髪を編んでいくまどかの姿」が異様に不気味に映り、泣き崩れるほむらよりもよっぽど強く印象に残ることになってしまったのは、色々先読みしようとし過ぎて失敗してしまったかなあ、と今にしてみれば思う。
そして物語は自身の魔女化という真相に辿り着いたほむらを皮切りに怒涛のキュゥべえ喋り倒しパートに差し掛かり、ここにおいてまどかが、1期にて概念と化した彼女自身であること、同様にさやかとベベも1期で円環の理に導かれた彼女達自身であること、そして今いる世界に関しての一通りの理屈が説明される。

さて、本作「叛逆の物語」を語る上で、私が最も強調して言いたいのがここなのである。
実を言うと、本作の舞台設定のからくりが明らかになる瞬間まで、私はこの作品に対し「まどかとさやかがどのような形で劇中に登場するのか」について不安に思う所があった。1期終了時点で人間は元より魔法少女或いは魔女としての生をも終えた2人に果たして今回活躍の場はあるのか、ということではなくその逆で、ストーリー進行上必ずしも必要とは言えない役割で出演したりはしないだろうかと思っていたのだ。
これはさやかのケースにおいてより顕著である。1期最終話でまどかにより導かれた彼女のそれ以上の出番は、普通に考える限りもう無い。まどかの方は概念としては存在している訳だから幾らでも出演シーンを用意することができるけれども、さやかはそうはいかない。しかしそうと言いつつも1期のメインキャラ5人のうち1人だけが新編に出演しないというのは、キャラクターの魅力もその人気獲得の大きな支えになったと言える「まどか☆マギカ」の続編としては考え難く、よってそれこそ夢シーンか、はたまた回想シーンで登場したりする展開を予想していた。だがこれこそが不安の種なのであった。さやかはもはや新編の本筋にかかわる要素をほぼ持たないキャラクターなのだから、必然的に彼女の登場する夢または回想は、そのシーン自体が無くても問題無いか、少なくともさやか抜きでだって成立する内容にしかならない可能性が高い。そのような展開を目の当たりにして、もしか本作中で他の場面に出てくることができないさやかちゃんのために、延いてはCV:喜多村英梨さんのために本筋と接点の無い幾つかの蛇足なシーンを本筋の進行に一旦ストップをかけてまで用意したという人気商売的商業主義的側面がちら、とでも顔を覗かせたりするようなことがあったとしたら、少なくともその部分において、私はストーリーに没入できる自信が無い。或いは幻や偽物としてならまだ重要登場人物の座を担う道が残されていると言えるが、結局さやか本人でないなら、どうしてもそれは美樹さやかという人物の外見をしているだけの、喜多村英梨さんが声をあてるためだけに用意されたただの器という印象が拭えないのであり、そこに自然なストーリー展開を蔑ろにしたご都合主義的構造が透けて見えてしまうのであった。
さやかばかりをやり玉に挙げたが、まどかに関しても同様である。先に「幾らでも出演シーンを用意することができる」とは言ったものの、円環の理と化した彼女はもしかしたら新編のラスト5分くらいにワンシーンのみ、満を持して登場するのが最も美しい流れと言えるかもしれず、しかしその前振りと称して作中何度となくほむらの回想内に姿を見せられたりしては、やはりCV:悠木碧さんの出番を多く充当するための施策なのかという不純で汚れた考えに囚われたりしない自信は無いのだ。
しかしながら、本作はそんな私の不安な思いを見事なまでに一蹴した。まさかまどかのみならずさやかまでもが1期での存在のまま新編にも登場して、しかもそれぞれに十分過ぎるほどの見せ場が用意されているだなんて思いもしなかった。私は声を大にして言いたい。よくぞ、よくぞメインキャラ5人の、その本人自身を登場させる、しかも前作の結末からの流れに水を差すことのない舞台設定を練り上げてくれたと。これこそが本作最大の功績であると私は思う。何しろこのことによって、前作でキャラクター達に少なからず感情移入していた人はその思いの丈をそっくりそのまま本作のほぼ全編にぶつけることができるのだ。初め「商業的戦略が見え隠れしてしまわないかどうか」という捻くれた観点でこれを論じていた私自身もまた、いざ改めて新編の5人が1期の5人なんだと意識することで、上述の不安が一挙に取り払われた爽快感も手伝ってそこから一気に物語に引き込まれていった。
そして次第に盛り上がっていく気分は、このシーンにおいてピークを迎えることとなる。

なぎさ「私たちは、かつて希望を運び、いつか呪いを振りまいた者たち
さやか「そして今は、円環に導かれ、この世の因果を外れた者たち

決して映画館内では泣くまいと思っていた私が、今回唯一涙を堪え切れなかったのがここだった。かつて己の愚かさに涙して死んでいった彼女の、見違えるまでの成長振りにいたく感動してしまったのである。思い返せば、1期絡みで一番ボロ泣きしたのも最終話で恭介のオーディション風景を見守っているさやかのシーンだった。この雑文においては以前ほむらとマミさんが好きだなんてことを書いていたが、内心では結構さやかに肩入れしていたらしい。
また、真相が明らかになって以降物語の見方が変わったことに関連してもう一つ付け加えておくと、先日見たDVDでの2周目では、冒頭のほむら独白から魔法少女達の登場シーンにかけて感情が高ぶり、例のOPを見て涙腺が決壊するという事態が発生した。OPテーマの「カラフル」、良いです。劇場版OP映像と併せて是非。

魔女ほむら戦が幕を閉じると、いよいよ物語はほむら悪魔化シーンへ。
賛否両論を呼んだこのシーン、唐突な展開であるのは確かで私も初めは戸惑って見ていたが、これはありだと思っている。まず、直前まで見せていた自己犠牲精神からの言動の変わりようが不自然だとする意見があるが、あの行為は物語中盤での、

まどか「私だけが誰にも会えなくなるほど遠くに1人で行っちゃうなんて、そんなことありっこないよ
ほむら「どうして? なぜ、そう言い切れるの?
まどか「だって私だよ? ほむらちゃんでさえ泣いちゃうような辛いこと、私が我慢できる訳ないじゃない
ほむら「あなたにとっても、それは我慢できないほど辛いこと?
まどか「そうだよ。ほむらちゃん、さやかちゃん、マミさんに、杏子ちゃん、パパやママやタツヤ、それに、仁美ちゃんやクラスのみんな。誰とだってお別れなんてしたくない。もし他にどうしようもない時だったとしても、そんな勇気私にはないよ
ほむら「そう……そうだったのね。それがあなたの、本当の気持ちなら……私、何て馬鹿な間違いを……

からの流れとして見るとすんなり理解できる。円環の理であることを忘れており、自分自身の本当の強さにも気付いていないここでのまどかの言葉は彼女の嘘偽りない心情の吐露であると言え、そしてこれが、まどかと本当の意味での再会を果たしたあのシーンにおいてほむらの行動を後押ししたのである。
悪魔化の理屈が不鮮明だとする意見もある。これについては、作中でほむらが語った「人間の持つ究極の感情」が円環の理の力に触れることで(或いはその力を一部取り込んだことで)新たな概念を作り出す力を生んだのか、と思いつつも今一つ合点がいく解釈ができていなかったのだが、この考察を読んでかなり納得が行った。悪魔化のメカニズムについてどうしても解せないという人は、是非ご一読を。
また、ほむらがまどかに導かれた所で終わっていれば綺麗な結末だったのに、更にもう一つどんでん返しを用意するのは明らかに今後の続編の制作を見越した蛇足だという声も聞かれる。これに関しては否定しない。実際、初稿のシナリオではほむらが導かれてENDとなる内容だったらしいので、「続編を匂わせるために用意した展開」というのは事実なのだろう。私としては、それが事実であることを踏まえても悪魔化パートの存在を蛇足とは思わないし、続編制作前提のシーンを入れ込むこともそうまで悪いと思わないが、唯一残念に思うのは、仮にここから続編が制作されたとすると、1期〜叛逆の完璧なまでの内容に対して見劣りしてしまうのではということが危惧される点である。まだ決まりもしていない続編の内容を不安に思うだなんて随分失礼な話であるが、「長期化したシリーズは次第に当初の勢いを失いがちになる」という一般的な考えに則っての不安感であることをご理解いただければ幸いである。叛逆のラストは、一応登場人物全員が一定の幸せを得ている点でハッピーエンドとも言える作りになっているので、続編があれば是非見たいという思いは当然ありつつ、これをもって完結とするのもそれはそれで十分ありではないだろうか、と考える自分もいる。
ラストパートの存在意義に関してはもう一つ、初見視聴時に強く感じたことを書いておきたい。ほむら悪魔化については様々な意見が述べられているが、私がここで強調したいのは「それが我々にもたらした影響」についてだ。円環の理から「人間・鹿目まどか」を引き裂いたほむらの行為とはつまり、1期12話をかけて描いた「長いループの末に辿り着いたまどかの決意」に対する裏切りである。つまりこれを一度目の当たりにしてしまった我々は、もう2度と1期を純粋な気持ちで見ることができなくなった。まどかの葛藤、さやかの後悔、マミさんの悲劇、杏子の献身、そしてループ中のほむらの奮闘までもが全て、最後にはほむらの独善的(に見える)愛情によってリセットされると知ったが最後、もう私達はあの頃に戻ることが叶わなくなったのである。
これこそが本作の(良い意味での)罪過だと私は思う。この物語を見た我々が最後に得るものとは即ち、前作で得たものが帳消しにされたことによる虚無感である。円環の理の仕組み自体は残存しているから全てがリセットされた訳ではないが、少なくともまどかが心に決めた意思は完全に無視され、そして後に残ったのは、いずれ敵対するかもしれない、かつての面影を微塵も残さない2人の関係のみ。この喪失感こそが、ラストパートの一番の醍醐味であると思うのだ。そしてその空っぽの感情に響いてくるEDテーマ「君の銀の庭」がとてつもなく良い。このEDまで見て、本作は見た者に虚しさを与える点において一流のエンターテイメントであると感じた。決してあのパートは、蛇足でも無駄でもなく、本作の完成度を高める重要な要素になっているのだ。

以上が、「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語」を見ての感想である。とどのつまり「凄かった」ということなのだった。
さて、こうして本作に対してこれまでに抱いた思いを整理すると、やはり次には続編の存在が気になってきた。「あったら勿論嬉しいが、無くてもそれはそれで」などと書きはしたが、現実にはもう1アクションは絶対にあるだろうと思っている。そして実際に制作が発表されたら手放しで喜ぶであろうことも明らかである。ならば、私は心の底から期待を寄せたい。ハードルが高いのは言わずもがなだが、またもや私の想像を優に上回る展開の数々でそれを超えていってくれることに。
ところで感想を書いていて驚いたことが一つ。セリフを抜き出すために一部のシーンを見直していて、その一部分だけで泣けそうになってしまった。公開半年が経ってとっくに気持ちも落ち着いたかと思いきや、何が何が、「まどか☆マギカ」に対する思いはより勢いを増して熱く深くなっているようである。と言うか、流石に愛が強過ぎるか。「まどか☆マギカ」に出会って以降で、明らかに今日が最も強い思い入れを持っている日であるという現実に直面して、やや引いたりもした今日この頃である。



14/05/10(土) 第1063回 改めましてこんにちは

前回の雑文が第1022回を抑えて過去一番の長文回になったらしい。抑え切れない興奮、止めどなく溢れる情熱。本気で熱中できるものを持てていることがいかに幸せか再度実感した。これでまたグッズが増えるな…

さて、ふとGoogleのトップページを見てみると例のロゴの部分が誕生日仕様になっていた。ある時期からYouTubeでのコメント投稿はGoogle+アカウント経由でなければ行えないようになったのでそれを機会にGoogle+アカウントを設定したのだが、そのプロフィール情報がロゴ画像に反映されているらしい。
という訳で本日は誕生日記念更新である。などと言いつつ私としては、誕生日それ自体には近年これといった感慨がある訳でもないので特に書くことがない。流石は「誕生日を節目にこのサイトで何か新しいことでも始められたらなあと思ったりもしたが相変わらずの企画力の無さに泣く泣く断念したその代わりにいつものお手軽雑文更新でお茶を濁そうと思った」結果取り敢えず書き始めてみただけのことはある。
しかしながら振り返ってみると、当サイトにおける誕生日においてはゴラグロス君への祝辞を述べた記憶しかなく(参考:第168回第427回第741回)、私自身の話題を一度も出してないらしいことに思い当たった。ということで、今年は自分の話をしていこう。とは言え生まれてから地球が太陽の周りを31周しただけの出来事を掴まえてこれまでの人生を総ざらいしたりするのも少しばかり大袈裟なので、新たに年を重ねた今日現在の私のことを著者近況的にずらずらと書いていく。

31歳になった。

社会人7年目突入。でもやっていることが新人の頃とあまり変わっていないと言うか、新人の頃の自分に今の仕事を振っても多分同じ程度のことができただろうなあと思って焦りが募るばかり。

先日「ゼルダの伝説 神々のトライフォース2」を購入したが、(ダンジョン数から察するに)まだ半分かそこらしか進んでいない。発売直後の感想として「今作は短めだ」なんていう声が上がったのを見たような覚えがあるが、全くそんな風には思わない。これには流石に自身のかなりなゲーム離れを痛感した。アクション系ゲームでこれなので、RPGをプレイするのは本当にもう無理なんじゃなかろうか。

とは言っても折角一緒に買った3DSをゼルダ1本で埋もれさせる訳にはいかないので、これをクリアしたら他にも何かプレイする予定ではいる。取り敢えず、自身10何年振りかになる「マリオ」シリーズ辺りか。「逆転裁判123」をやるのも良い機会かな。

海外ドラマ熱はひところに比べてやや落ち着いた。ただこれは今がたまたま興味のある作品の無い時期というだけで、何かしらの切っ掛けがあったらすぐに再燃することと思う。

インターネットラジオをよく聞くようになったが、ゲーム関連番組を入り口に食指を伸ばすことがほとんどなせいか、最近の若手声優事情にそこそこ明るくなってしまった。特に年下の方に対しては、頑張っている様子を聞いているとつい応援したくなる。声優に熱を上げる人の気持ちが少し分かった気がする。ちなみに私が一番好きなのは小野友樹さん、三上枝織さんです。

最近は天下一品によく行く。

ここ数年、まさかまさかと思い続けながらも目を逸らしてきたが、そろそろ自分が花粉症であることを認めなければならないようだ。

今もっとも続きを楽しみにしているマンガは「進撃の巨人」

部屋の片付かなさが大変なことになっている。特に段ボール類が……でも明日もまた荷物が届く。

便利の良い所に引っ越してもうじき3年。最寄駅から自宅までの最短ルート(徒歩7分程度)上にコンビニ、スーパー、飲食店、電気屋、服屋、靴屋、薬局、病院、郵便局、更に少し寄り道するだけで行ける範囲に市役所、クリーニング店、ドコモショップまでもが揃っており、その辺りへの用事がほとんど仕事帰りのついでで済んでしまうため、いよいよ休日にわざわざ外出することがなくなったのがまずい。そして内心ではそのことを「別に問題無いよね」と思っていることがより一層まずい。

洗濯機を買い替えたい。思い切って乾燥機能付きにするかが悩みどころ。

多分誰にも信用してもらえないだろうけれども、このサイトで新たに何か始めたいという思いはある。Twitter主体で何かやってみるのもいいなと思っている。一方、ここ2年以上傾倒しているYouTubeでの活動の方は、もう後半には差し掛かっているはず。

こんな私ですが、改めましてよろしくお願いします。
あと、ゴラグロス君も誕生日おめでとう。



14/05/17(土) 第1064回 嫌味

ある種の話題において我々はしばしば「日本人」という括りで扱われ、国民全員の考えがそこに集約されたりするのであるが、実際のところ1億人もいるとその意見、思想、感情が1つにまとまることはまずないと言っていい。「日本人に聞きました」などと題して「日本の一番の魅力は?」「日本で最も有名な人物は?」のようなアンケートを取ったとしても、人によって回答がまちまちであることは容易に想像が付くのだ。
しかしながら、「最も尊敬する国は?」という質問においてはこの限りでない。この点に関してのみ、我々日本人は皆全てが共通の認識を持っており、そのため誰もがこの問いに対しては一様に同じ答えを口にするのである。ではここでずばり、あなたが最も尊敬している国を当ててみせよう。それはフランスである。見事言い当てたのも不思議なことではない。これはあなたも私も、日本人なら誰しもが持っている思いなのである。何故なら昔から、フランスに対して敬意を払う時には決まってこう言うではないか。「おフランス」と。
驚くべきことに、頭に「お」を付けて不自然に聞こえない国名はこの広い世界でフランスただ1国のみである。この一事だけを見ても、日本人が深層心理でフランスのことを、フランスのことだけを特別視している事実は疑いようがないだろう。

フランス。それは永遠の憧れ。
フランス。それは色褪せぬ輝き。
さあ、皆も麗しのおフランスに敬意を表するザンス。



14/05/24(土) 第1065回 私の言葉から摩擦を奪った

 本日は、

 多分誰にも信用してもらえないだろうけれども、このサイトで新たに何か始めたいという思いはある。Twitter主体で何かやってみるのもいいなと思っている。一方、ここ2年以上傾倒しているYouTubeでの活動の方は、もう後半には差し掛かっているはず。(第1063回より)

 先日書いたこれを掘り下げていく。
 2011年8月から始めたYouTubeでのアイワナプレイ動画投稿活動が自分の中で1つのピークを過ぎたのは事実である。クリア作品数は100作を超えており、トップクラスの人気作についてはかなり網羅した。次第にクリアできない作品が増えていって私の実力の限界が明確に見えたことで、挑戦欲、向上欲がある程度満足されたというのも大きい。実際、アイワナに嵌まり込んだ当初ほど難ゲー難ボスに対する「何とかしてクリアしてやる」という思いは湧き難くなっていて、最近では「完全クリアできそうにない」からとプレイ自体を見送ることも珍しくなくなってきた。今はまだ断続的に動画を上げ続けているけれども、次第に投稿ペースを落としていくことになるだろうと思う。
 さて、それに伴う形で改めてこのサイトに意識が向くようになった訳である。最早「雑文」しか更新されなくなって久しい我がサイト。「雑文」を除く直近の更新日は2010/12/29とある。ただその更新とは「ゲーム日誌」のことであり、正直これは「雑文」とさも似たりな訳だから同じ扱いで考えるべきか。ということで「ゲーム日誌」も除いて考えると次に現れる日付は「俺的事典」の2009/09/19となる。つまりもう5年近くもの間、ここには日記然とした文章しか載せられてこなかったのだった。更に言えばその日記然とした文章ですら、問題の5年弱、おおよそ1700日の中での更新日数はわずか52日に留まっているという現実。言わずもがなの惨状だが、これでもここ半年はほんの少し持ち直し気味だったのだから驚きである。
 2012〜2013年はかなり真面目に酷かった。と言うのも、長年愛用してきてサイト更新の微かながらも確かなモチベーションになり続けてくれていたInfoseekアクセス解析サービスが2012/05/21で終了したのを切っ掛けに、日々の訪問者、アクセス数に関する一切の情報が得られなくなり、一気にこのサイトの存在への無頓着さが加速してしまったのだった。額に汗して得たなけなしのお金を使ってまで独自ドメイン化した意味なんてあったかなあ……などとつい思ってしまったのもこの時期のことだったか。ただ、「寝てたって維持費が発生し続ける」その非情な現実が「やっぱりたまには更新しないとね」と思わせたこともある事実を考慮すると、あの独自ドメイン化の決断は実は、本サイトの生死を分ける重要な分岐点だったのかもしれない。ともかく、すんでの所でサイト完全放置を踏み止まった私は、これはまずいということで取り敢えず別のアクセス解析サービスを設置することにした。これが去年の11月の話である。なるほど、最後にこの手の情報を見た2012年当時と比べてもまた一層人の出入りは少なくなっているが、恐縮なことに未だにここを覗いてみて下さる方はいる。また、今回初めてトップ以外のページの解析も取ってみて分かったのだが、Web検索経由でここに辿り着く方も結構いる。こういう情報を噛み締めようやく私は、年3回更新の管理人から年10回更新の管理人への復帰を果たしたのだった。
 以来、日常的更新を再開する手立てはないかと真面目に考える日々である。が、これが一筋縄ではいかない。ただ新コンテンツ案を捻り出せばいいのではないのだ。何か新しいものを始めてみて、結局それが月1回とかそれ以下のペースでしか更新されないのではほとんど意味がないのだから。更新頻度の上昇こそが今最も求められていることであるならば、次に始める企画は、それこそ毎日更新制を取っても気楽にやれるくらいお手軽なものであるべきという縛りがあるのである。そうして突き詰めていくと、最も現実的な線としては「『俺的事典』の再開」が挙がってくることになるのだけれど、これは2009年に年365語更新を目標として一念発起してみたものの半年も経たず断念した過去が無情にも厳しさを物語る。かと言ってあの「俺的事典」以上に少ない労力で済むコンテンツ案なんて、そもそもあるのかどうかすら怪しい。何だかこのサイトは、自分が思っていた以上に追い込まれた状況にあるのだなあと思い知らされる私であった。
 そして企画案がどうこうという話とは別に、私にはもう1つの懸念があった。よしんば新コンテンツを立ち上げられたとして、それをどうすれば皆様に見ていただけるか、これがよく分からない。先に「Web検索経由でここに辿り着く方も結構いる」と書いたが、多くの場合その方々は検索でヒットしたページから目的の情報を得るか、もしくはそこに期待外れのことしか書いてないなと察した時点でここを立ち去るので、敢えてわざわざトップページにまで足を運ぶということはあまりない。しかしながらトップページを見ていただけなければ、本サイトが旧世代の個人サイト様式を色濃く残していながらにして未だ絶賛更新中であるという情報は伝えられようがない。Blog時代を経てSNSが隆盛を極める昨今、時代の流れに取り残され何処とも関わりを持たずワールドワイドウェブの中にぽつねんと1人存在するここのようなWebサイトはどのように宣伝していくのがセオリーなのだろう。昔はFF系、または広くゲーム系の検索エンジンサイトさんに登録したりしていたが、今ではそうした検索エンジンサイト自体の需要が低くなっているように思うし。本当によく分からない。
 「如何にして対外的宣伝を行うか」については一旦置いておいて、自力で少しでも何とかならないか、ということなら、以前に対策案を1つ出していた。

 で、最近思い始めているのは、相変わらず自分から他サイトさんに積極的に関わっていこうとしないせいで、こういうサイト停滞期における人の流れがほぼ皆無になりつつあるのがさすがにまずいので、だったらその「他サイト」に当たる媒体を自分で用意してみようかな、ということである。第1036回より)

 そもそもYouTubeでのアイワナ投稿活動が元はこのサイトへの新規客増加を狙った施策だった。が、これはさほど効果的ではなかった。第1036回で既に述べていることだが、あちらでやっていることとこちらで撒き散らしているものの毛色があまりに違い過ぎるのだから当然である。しかも当初想像もしていなかったほどアイワナに嵌ってしまって、結果こちらの更新を蔑ろにしてしまうというおまけ付き。本当に救いが無い。すみません。
 やはり新規客を求めてのことなのであれば、せめてFFに絡んだ何かをやっていくべきだ。とは言え、YouTubeでの動画投稿は今しばらくは満足である(そもそもフリーゲーム以外の動画を扱うつもりがない)。そういった訳で、次に案として浮かんだのがTwitterなのだった。そう、冒頭の引用文でも触れたTwitterなのだった。つまり、驚くなかれ、ここからが本題である。さて、Twitterの140文字制限と、単発短文ネタを延々と投稿するスタイルとは親和性が高そうだな、というのは実は以前からずっと思っていたことである。例えば「俺的事典」がまさにそうで、過去ログの閲覧に難があることにさえ目を瞑れば、Twitter上でFF関連単語への突っ込み投稿をし続ける光景は容易に想像できる。思い切って過去の「俺的事典」をそっくりあっちに移し替えるだけでも、それでそこそこ見応えのあるアカウントになるんじゃないかと思ったりもする。更に言うと、継続力次第でそこそこのフォロワーを見込めるであろう新規案も1つある。割と本気で「妄想針千本Twitter支部」立ち上げを計画してはいるのだ。
 だがしかし、今日現在、その計画は始動に至っていない。これまでに年明けとか、この間の誕生日とかの区切りに乗じて勢いで始めてしまおうかと何度も考えたが、それは実現しなかった。いざこれを行動に移そうとすると、私にはどうしても躊躇われることがあったからである。何かと言うと、「滑る」のではないかと思ってしまうのである。即ち、いかにも「これって面白いでしょ」という雰囲気を出してネタ短文を投稿するその行為が「スベる」のではないかと思ってしまうのである。これは何も、評判の不透明な新規案をやってみる場合に限る話ではない。ある程度は好評なお声をいただいた実績のある「俺的事典」をやるにしたって、やはりそう思えてきてしまう。じゃあこのサイト上でこれまでに載せてきた「俺的事典」の突っ込みの数々は、最終的に公開に漕ぎ着けられたということは絶対の自信で提供されたものなのかと聞かれれば、勿論そうとは言わない。そうではなく、この場で発信する分には気楽に行えてしまえるのである。一体この差は何だろう。全く同じネタを、このサイトでやるのとTwitter上でやるのとで生まれる意識の違いとは何なのだろうか。
 ポイントは「公共性の高さ」にこそある。これについては、歌なりお笑いなりを職業にしている人におけるライブとテレビの関係に通ずるものがあるかもしれない。片やライブは対象とする客の全員がその人を目当てに集まっているから甘めの評価をしてもらえるが、片やテレビは不特定多数の人間に対して一方的に発信する訳だからファンでもない人とかこれまで知ってもらえてもなかった人とかことによると自分のことが大嫌いな人からの痛烈な批判にさらされる確率がいきおい高まることになる。個人サイトとTwitterの関係も、まさにこの構図だと言える。つまり個人サイトは、人の行き来の激しい有名著名な所はともかくとしてここレベルの規模であれば、例え初めての訪問客であっても、少なからずそのサイトが扱うジャンルへの興味があってこそそこのURLを踏んでくれた筈であるから、その時点でこの人の評価基準は中立から見てやや自分側へ寄ってくれているに違いないと言い切れる。だからこそその甘さにあぐらをかいて、多少お寒いかなと思われることでもどんどん載せてしまえるのだ。しかしTwitterは、まず「不特定多数の人間が利用するサービス」という土台があり、全ての発言はその上に立って発信されるものであるから、どんな人が私の発言を目にするか分かったものではない。そしてもしか恐る恐る発したその言葉が、「りついーと」などと呼ばれる面白機能によって「カクサン」などされてしまっては、どこまでそれが広がっているんだか把握のしようもなくなり、もう気が気ではなくなる。お世辞にも大衆受けするとは言えない私のネタを本当の意味で広く世間に公開するのは、私には荷が重すぎるのである。せいぜい私にできるのは、訪問者を著しく限定したこの狭い世界で、ぬるま湯に浸かりながら細々と日々の思い付きを発表するくらいなことなのである。

 「スベる」って恐ろしいことだ。だからこそ心の底から思う。Twitterを大喜利の場みたいにして利用している人は多くいると思うが、よくも自分の発想、機転、感性にそれだけの自信を持てるものだなあと。
 「妄想針千本Twitter支部」 その開設の日はまだ遠い。



14/05/31(土) 第1066回 2024年の君へ

「このサイトの『ここは直したい!』というポイントは?」
と聞かれたら、勿論第1位は「絶望的にダサいサブタイトル」であるが、その次に挙がるのが「字下げされていない文章」である。
日本語の文章では段落の初めを1字空ける決まりになっており、小学生でもそのくらいは知っているのに、このサイトの文章はそんな基本中の基本すら守っていないことをずっと前から気にしていた。何らかの項目を取り上げて、続けてそこに解説的文章をぶら下げる場合には、

なんとかかんとか
うんぬんかんぬん
あれこれどこそこ
ほげほげふがふが
foo bar baz qux

こんな風にスタイルシートまで使って字下げを設定しているのだが、そんな稀にしか登場しない部分には凝りながら、毎段落の字下げには何故か無頓着であり続けてきたのだった。
正直な話、「そういうルールになっているから」というだけなのであれば、わざわざ時間を割いてこれを修正しようとは思わない。しかしこの1字下げのルールが慣習として根付いているのは「段落の区切りが一目で分かるから」などの読み易さに繋がるれっきとした理由があるからで、つまり私はその事実に目を背けて必要以上に読み難くなっている文章を皆様にお届けしていたのかもしれず、だとするとこれは文章のみを扱う当サイトにとって無視できない事情となる。では実際の所、1字下げされているのといないのとではどの程度感じ方が変わってくるのだろうか。という訳でそれを試してみたのが、前回の文章なのであった。
いかがだろうか。これについての所感は完全な私見となるが、なるほど結構違って見えるように思う。元が読み難い文章なので比較のしようがない気もするが、しかし一見しただけの印象一つ取ってみても、先に「『そういうルールだから』というだけで直す気は無い」などと言っておきながら、何だかんだで「体裁が整えられている格好良さ」がそこにはある。困ったことには、それを書いてから普段の字下げされていない文章を見てみると、不思議と不格好さが目立つ気さえするようになってしまった。
そんなこんなで、この「字下げされていない文章」は当サイトの直したいポイント第2位なのであるが、該当箇所があまりに多過ぎて気軽に手を付けられないのが現状である。過去ログ一覧へ更新日付を併記するのすら立案から実行までに4年を要した私だから、この大工事が敢行されるのはそれこそ10年後とか、そのくらいのことになるだろう。
だがしかしそれは問題である。修正に当たっては1ヶ所1ヶ所手作業なんてやっていられないから何らかの簡易ツールでも作って作業を自動化させることになると思うが、仮に10年後に修正を行うとして、その時の私は10年前の自分が第1065回雑文で試験的に字下げした文章を書いたなんてことは忘れ去っているだろうから、全ファイル一律に自動修正を適用した結果、第1065回だけが2文字分字下げされてしまうことになるのだ。2文字も字下げされている文章は、字下げ無しの文章ほど恰好の付かないものではないと思うが、少なくとも一貫性を欠く。そして「普段字下げしていないから試しに1字下げしてみた」という意味を持つ今の第1065回と違い、1字下げ文章の中に存在する2字下げ文章の第1065回はそこに何ら特別な意味を持たない。軽い気持ちで書いたあの文章はその実、10年後に初めて問題を顕在化させる隠れた負債となっていたのである。

2024年以降に第1065回の「雑文」をご覧になって「何だこれは?」と思われた方へ。
これは、今や管理人にすらその存在を忘れられた、他愛ない思い付きのなれの果てである。



14/06/07(土) 第1067回 作者の気持ちになって考えてみましょう

【問題】
第1065〜1066回の雑文から作者が学んだ教訓を答えなさい。

【よくある間違い】
「字下げはするべき」
「作文の基礎って大事だね」

それはさておき、第1065回は少々張り切り過ぎた感が否めない。前々回前回は言わば前後編構成を取っている一続きの話題だった訳で、勿論その本題は後編の字下げの話なのであり、つまり前編は「試験的に字下げしている」文章でさえあれば内容は別に何でもよかったのである。だが、初めどうでもいいことを適当気楽に書くつもりでいたはずの私は、終わってみればあれだけの長文を書き上げていた。趣旨的には2段落程度の文章で十分だったのに、近年ますます貴重に感じられるようになってきた社会人の休日の少なくない時間を割いて過去トップクラスの文章をしたためてしまったのであった。どうにも、力の入れどころを間違えている気がする。学生の頃ならいざ知らず、興味のあること全てに全力投球して何事も納得行くまで取り組めるだけの時間的余裕は今の私には無いのだから、場面に応じて努めて「上手に手を抜く」ことを意識しなければならないのに。特に今回の場合は、本当に内容は二の次だったのだから、簡素に簡潔にまとめて可能な限り短時間で仕上げる方にこそ意義があったというのに。限りある時間の中で、何も考えず思ったことをひたすら詰め込んだ結果私は、第1065回の読み応えを無意味に増長し、それと同時に他の何かに取り組む時間を犠牲にしたのであった。
つまりこうである。

【正解】
「人的リソースのご利用は計画的に」



14/06/14(土) 第1068回 pkmn

ポケモンとピクミンは似ている。
ここで注意されたいのは、何も私は語感が近いというだけの話をしているのではないということだ。もちろん語感も似通っているこの両者はしかし、その中身においても多くの共通点を持っているのである。
第一に、成長概念が存在する点。ゲームやアニメの登場キャラクターの外見は作中で終始一貫していることが珍しくないが、そんな中ポケモン達は「進化」と呼ばれる変異現象によってその姿を大きく変化させる。一方ピクミン達も、「進化」ほど劇的ではないものの、時間経過や或いは栄養物質の摂取により格好が変化していく。ポケモンもピクミンもこの現象を経ると個体の能力が伸び、共にこれを「成長」と表現できるのも見逃せない共通項である。
次に、どちらも高度な知的生命体であること。アニメ版における人語に長けたニャースの例を挙げるまでもなくほとんどのポケモン達はトレーナーと何不自由なくコミュニケーションを取っており、またポケモン同士も、体系立った言語による会話を交わしているらしい様子はよく見られる。ピクミン達の知性については、一定の規律、規範、倫理観に基づいてコミュニティを形成する点に明らかと言えるだろう。住む世界の全く異なる者達であるからこの二者は決して出会いはしないけれども、もしもどこかで対面したのであれば、至って普通に意思の疎通を取ることができるのではないかと思う。
共通点ということで言えば、その数の多さにも着目したい。ポケモンの種族数は、初代では151だったのが2014年現在では719にもなっているらしい。「ポケモン言えるかな?」も真っ青である。ピクミンは種族数よりも総数についての話になるが、この多さはもはや説明不要である。双方ともまだまだ発展途上であり、今後も増え続けていくであろう所も共通していると言える。
はたまた、人気商売的側面が見られるのも両者に通じる特色である。ポケモンにおいては、進化を自ら拒んだアニメ版ピカチュウが最たる例か。圧倒的キャラ人気の前では、外見の一新を強制する能力的上位互換の獲得などというものは足蹴にされなければならなかったのだ。ピクミンにおいてはより分かり易い。何から何まで全く同じ作品を発表したとしても、名のある人のものならばそれは多くの人から評価され、名もない人のものならば評価以前にそもそも誰の目にも留まらなかったりするのである。人気、知名度が本来の実力、能力よりもよっぽど重大な評価基準となるのは珍しいことではなく、広く世間一般の人達を主要顧客としている以上、ポケモンもピクミンもこの「世論」という名のしがらみからは逃れられないのだ。
そして少し見方を変えると、この両者にはどちらも「その道の第一人者を目指して切磋琢磨する者達」の姿を見て取れる。片やポケモンマスターを目指すポケモントレーナー達。片や有名絵師はたまたプロイラストレーターを目指すピクミン達。恐らく世界一有名なトレーナーであるサトシと多くのピクミン達との間に、「努力が必ずしも一定の結果に繋がるとは限らない」という共通の苦悩が存在するのも、悲しいかな事実であろう。

以上のことからお分かりいただけたことと思う。即ち、
ポケットモンスターとpixiv民は似ている。



14/06/21(土) 第1069回 愛にすべてを

ポケモンとピクミンとピグモンとバクマン。と爆問(爆笑問題)とパケモン(パケットモンスター社)とバッカモーン!とパックマンとパークマンサー(三箇一稔)とピコハン(ピコピコハンマー)と伏魔殿と袴にマントとバカボンとバカボンのパパとバガボンドとペコちゃんとモグモグゴンボは似ている。
ここで注意されたいのは、何も私は語感が近いというだけの話をしているのではないということだ。もちろん語感も似通っているこの者達はしかし、その中身においても多くの共通点を持っているのである。
第一に、日本語表記である点。世界には数千もの言語があると言われているが、何とここに挙げられている物、事、人はそのどれもが日本語(ひらがな、カタカナ、漢字)で表現されているのである。言語の種類が数千ということは、ある任意の2単語が共に日本語である確率は数千分の一。にもかかわらずこれらはただ一つの例外も無く日本語。普段、非科学的なことに懐疑的な私であっても、これにはさすがに運命めいたものを感じずにはいられない。
次に、人間のために作られた存在であるということ。高度な知的生命体である人間が生み出したこれらの物、事、人は、同じ人間にしか扱えず、また理解に及ばないものなのだ。先日こんなことがあった。我が社で年度初めに執り行われる全社員懇談会なる恒例行事のこれまた恒例であるビンゴゲームでピカチュウのぬいぐるみが当たり、内心「かさばるなあ」と思いつつそれを手に帰路に就いていた折のこと。路地の暗がりから猫が顔を覗かせたので、私はピカチュウを鞄から取り出して「いや〜、可愛いネコちゃんでしゅね〜。うん? ピカチュウちゃんどうしたの? なになに〜、あの子とお友達になりたいって? そっかそっか〜。じゃぁあ〜、勇気を出してお願いしてみよっか〜。え〜っと、可愛い可愛い子ネコちゃん、ピカチュウちゃんとお友達になってくれますか?」と言いながら近付いたのだが、猫は瞬く間に逃げ出してしまった。やはり猫はポケモンを理解するだけの知能を持っておらず、それは紛れもなく人間だけのための娯楽なのであり、そして同じことが他に挙げられた全ての物事に等しく言えるのである。
そして何よりの共通点は、これら全てが、この母なる星、地球に生まれた尊い命だという掛け替えの無い事実だろう。そう、我々は皆、宇宙船地球号の乗組員。この広い大地には、本当は国境なんて無いのです。周りを見渡してご覧なさい。すれ違う人々、羽ばたく鳥たち、小さな身体で逞しく生きる虫たち、アスファルトさえ突き破る力強い草花、路地裏のネコちゃん。皆が皆、あなたの、そして私の「友だち」なのです。今はまだ、争いの絶えない世の中ですが、しかし私たち一人ひとりが、お互いを思いやり、お互いを支え合い、お互いにお互いを尊重して生きていけば、この世界からいざこざは無くなり、平和な未来を築き上げることができます。手遅れなことなど無いのです。今からでも間に合うのです。皆さん、今一度考えてみませんか。次世代を担う子ども達に、何を伝えたいか、何を遺したいか。今のこの時代こそ、お父さんお母さんが、お爺ちゃんお婆ちゃんが、皆で一緒に作ってきた世の中なんだよと、我が子に胸を張って伝えようではありませんか。私たち、世界平和推進団体「宇宙船地球号の仲間たち」は皆様のご参加を心よりお待ちしております。世界平和の実現に興味があるそこのあなた、戦争撲滅に貢献したいと思ったそこのあなた、是非とも私たちにご連絡を。電話番号は080-○○○○-××××。繰り返します、080-○○○○-××××でございます。ただいまパンフレットの配布も致しておりますので、少しでも興味がおありの方は是非資料をご請求下さい。また、世界平和推進団体「宇宙船地球号の仲間たち」では現在寄付金の申し込みを募らせていただいております。誠に勝手ではございますが、1口1,000円からということでお願い致しております。寄付金のお振込先は□□銀行△△△支店、口座番号は普通口座の*******、口座名義は「宇宙船地球号の仲間たち」代表ヤマダタロウとなっております。私どもの活動の主旨にご賛同いただけた方のご寄付を心よりお待ち申し上げております。本日はありがとうございました。



14/06/28(土) 第1070回 何者かに攻撃されているッ!!

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