過去ログ108へ 過去ログ110へ 最新の雑文へ戻る  過去ログ一覧へ  トップページへ


14/10/25(土) 第1081回 スマートフォンの罪

スマフォもといスマホいわゆるスマートフォンの普及が目覚ましいこの昨今。新しい流行や風潮が世間を賑わし始めると、その時流に付いて行けない旧時代の人間が自分の居場所を奪われまいとして新参者の欠点を声高に叫び反発するというのは世の中の常であるが、やはりこのスマホ旋風に対しても従来の日本式多機能携帯電話もといガラケーいわゆるガラパゴスケータイ愛用者から様々な非難の声が上がっている。
何を隠そう、私もそうしてスマホを糾弾する人間の1人である。現在利用しているN-02Dがそろそろ3年、その前のN251iSは「movaサービスが終了するから」という理由で仕方なく機種変更するに至るまで8年使い倒した。これほどのガラケー好きな私にとって、このほどのスマホ時代の到来についてはどうしても苦言を呈さずにいられないのだ。
スマホの弊害に関しては、前述の人々による「歩きスマホ」がどうの、「依存症」がどうの、「視力低下、記憶力低下」がどうのといった話をしばしば耳にするが、私はそんな下らない意見をここで述べたいのではない。そもそもその辺りの問題はガラケーにだってそのまま当てはまっているはずで、確かに「通話機能付き小型PC」と形容されるほど多機能化したスマホがガラケーと比べても更に高い依存度を持っている事実は否定しないが、それにしたって結局これらの主張は全て「ガラケーにも一定の欠点がある」ことを自ら認めるという本末転倒なものだからだ。或いは、「耐久性の点でスマホはガラケーに劣る」という意見があり、これは耐久力と引き換えに高度な演算処理能力を獲得した家庭用ゲーム機の進化の歴史を肌で感じながら育ってきた私には決して無視できない論点ではあるけれども、これもまた今回の本論とは趣旨を違える。そうではなく、私が言いたいのはつまりこうだ。スマホの罪過とは「ガラケーのシェアを大きく奪ったこと」である。もう少し具体的に言うと、「ガラケー最大の長所に触れる機会を著しく損なわせたこと」である。
では、ガラケー最大の長所とは何か。いかにガラケー愛用者と言えど一枚岩の結束を誇っているとは言い難いから、人それぞれガラケーの何に愛着を持っているかは様々であろうが、私にとってそれは「ボタンのプッシュ音」である。と言っても、ボタン押下時に携帯電話内蔵のソフトウェアが鳴らす電子音ではなく、ここでは携帯電話の端末それ自身が発する音のことを指す。「ポチポチ」と言うのか「カコカコ」と言うのか、擬音で表すのに一苦労するあの音が好きなのだ。心地良い音を聞いたときにぞわぞわと鳥肌が立つ感覚があって、しかしこれをどう言葉で表現したらいいか分からないのだが(「散髪時のハサミの音」「黒板にチョークで文字を書く音」「トランプをシャッフルする音」などの例で伝われば幸いである)、とにかくガラケーのボタンのプッシュ音がそれなのである。そう、今は昔、無線呼び出しもといポケベルいわゆるポケットベルに代わって登場したガラケーが世の中の携帯電話市場を席巻していた頃、そこは地上の楽園であった。今のスマホと同じ批判がそこかしこから噴き出していたように、そのボタンのプッシュ音もまた世の中のそこかしこで鳴っていたからだ。これが、スマホの台頭によりもはや風前の灯火。一時は「ガラケー然としたモデル」を売りにした、ハードウェアキー搭載のスマホなどというものもあったけれど、それもタッチパネルデバイスの利便性には太刀打ちできず、今や右を見ればフリック入力、左を見ればスワイプ操作である。そこにあの日の、ポチポチ音の心地良さはもうない。それを実感したとき、私は身の回りからポチポチを奪ったスマホの罪深さを知ったのだ。
こういう反論があるかもしれない。「ガラケーのボタン音が好きということなら、いつでも好きな時に耳元で自分の携帯電話の音を聞けばいいだけの話なんだから、世間がスマホ主流になったからと言って困ることはないじゃないか」 だがしかしそれは浅慮である。何故ならこの手の「鳥肌が立つ心地良い音」は、他人が鳴らしているのを受身で聞いてこそ最も効果を発揮するからである。だからこそ、どんなに手軽に発せられる音であっても、それを完全受身で聴取可能な「心地良い音を集めた動画」などのコンテンツに需要があるのだ。脳のメカニズムはよく分からないが、「鳴らそう」という意識でもって身体を動かす信号を発しながらその音を耳に入れるのと、何もしないでただ音が耳に入ってくるのとでは感じ方が異なるとか、そういった理屈があるのではないかと思う。或いはこのような反論も。「ガラケーのボタン音が世の中に溢れていたとは言うが、そうまで言うほど他人が発しているあんなに小さな音を耳にする機会があるとは思えない」 これがしかし、あるのだ。ずばり「電車で座っているときに隣の人が携帯電話をいじっている場面」である。私はここ数年、幸運なことに首都圏在住でありながら朝の通勤電車30分超の時間を座って過ごせる環境におり、たまにこうした巡り合わせがあるのだが、この状況下で聞く件の音はそれはそれは沁み入るのだ。完全受身であることに加え、寝ようとしてほぼ脱力状態にあることがさらに効果を増長させているのだろうか。こんな日は降車駅まで良質の睡眠を得ることができ、大層幸せである。が、スマホ市場の拡大によりただでさえ「毎日」とはいかなかったこの幸せなひと時との巡り合いが、いきおい希少価値の高い出来事になってしまったのは言うまでもないだろう。

私の主張は以上である。これを読んだあなたも、スマートフォンがいかに罪深き存在か、ご理解いただけたことと思う。
そして、世のガラパゴスケータイ信奉者よ、立ちて行け。今こそ、スマートフォンから携帯電話シェアを奪い返すのだ。
それが無理だったら、どなたか「操作時にガラケーのポチポチ音を鳴らすアプリ」でも作ってみませんか。



14/11/01(土) 第1082回 1年振りの洗髪

それにしても、と思う。何と自堕落な生活を送っているのだろうと。
Web上でどう見えているかはともかく、現実世界では大抵「真面目な人」と見られる私であるが、その私生活はお世辞にも他人にひけらかしたりできないものだ。
自室を見渡してみる。入り口から最も遠い一角に山と積まれた段ボールの数々が目に入る。ほとんど全ての箱に「Amazon」と刻印されているような気がするが、何しろ下の方の段ボールはよく見えないので真偽のほどは分からない。でも、でも、こう見えてここ3週間はネット通販を利用してないんですよ! その主張がもうかなり末期だ。
「休日の過ごし方」も耳が痛い話題の1つだ。大体この話になったときには「日がな一日海外ドラマのDVDを見てます」という、比較的通りが良いであろう答えで逃げているが、海外ドラマ熱が少し落ち着いた最近の実態は「日がな一日ネットかゲームかネットラジオ」であり、勿論こんなことは公言できるはずもない。
インターネットラジオと言えば、これもまた私の頭を悩ませている。元々インターネットラジオは環境音的に流しておくもので趣味として楽しんでいるのではないことを以前に書いたが、あれから半年強、何だろう私という人間は、「興味」のダイナミックレンジが広いとでも言うのか、瞬く間に色々な番組の固定リスナーとなっていき、結果今では週13時間もラジオ番組を聞く生活を作り上げてしまった。たった半年ちょっと前は存在しなかった13時間である。どうりでここ最近、特に平日帰宅後の行動スケジュールがやけにタイトになったような気がしていた訳だ。己の自由時間の管理も満足にできない現実にめまいすら覚える。だが何よりもよろしくないのは、無計画に聴取番組数を増やした結果のこの現状を「反省すべきこと」と思ってはいつつ、その一方では、改変期ごとに次々登場する新番組への興味を抑えられず結局固定聴取番組は不可抗力的に今後も増えていくだろうということを既に半分受け入れている私自身だ。いやでも、面白いんだから仕方ないんです。

さて先日のこと、そんなインターネットラジオを聞いていると曲紹介のコーナーにて「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語」のEDテーマ「君の銀の庭」が流れたのだが、これを聞いて随分と戸惑ってしまった。やけに心が揺さぶられる。気持ちが落ち着かなくなる。これはそう、不退転の決意で「叛逆」のDVD発売待ちを誓うも1週間足らずで我慢し切れなくなり劇場へ足を運び本編を見、劇場を後にしたあの日あの時あの私の心のざわめきだ。これが、歌を聞いた瞬間、一気に蘇る感覚を覚えたのだった。平たく言うと「曲を聞いて感動した」というだけの話なのだが、そのことに酷く戸惑ったのは他でもない、こんなことはもう私の身には起きないものであると思っていたからだ。確かに私は、劇場版初見の衝撃でこの曲に惚れ込んだ人間ではあるが、それと同時に、CD購入後これでもかと言うほどこの曲を聞き尽くした人間でもあり、つまりまさかこの期に及んで「君の銀の庭」からこれほどまでにストレートな感動がもたらされるとは思ってもみなかったのである。
これはどうしたことだろう。最近でもなおよく聞く普段の「君の銀の庭」と、この日ラジオから流れた「君の銀の庭」には一体どこに違いがあったのか。これについてまず1つ、不意打ちだったことがポイントだったのではないか、と考えた。感動とは「感情が動く」と書くことからも分かるように心の運動現象であり、その浅い深いを絶対値ではなく相対値、即ち「その前後でどれだけ心が動かされたか」で測ることが少なくない。つまり同じ度合いの感動でも、曲を聞こう聞こうと思って予め期待度最大、テンション最高潮としてから聞く場合と、そんなつもりもなくぼやぼやとラジオを点けていたほぼ平常な心持ちで聞く場合とでは、後者の方がより衝撃的な出会いになるのだ。実際には、素の状態からいきなり感情が高ぶったことで勢い余って「感動の度合い」それ自体が少しばかり大きくなったりもしただろう。その結果こうなったというのは、なるほどありそうな線だ。
しかし、これだけでは、私にはまだ納得が行きかねる。と言うのもこのラジオでは、曲名を述べてから曲の開始までの間、パーソナリティの人が「叛逆」の思い出を含む割と長めの話を挟み込んでいたからだ。当然待たされれば待たされるほど、お預けを食らえば食らうほど、私の期待はどんどん高まっていき、結局曲が始まる頃にはいつもと変わらないくらいの心の準備ができていた気もする。だとすれば、先の考えはちょっとずれていたと言わざるを得ない。何かまだ、あの感動の呼び水になった要因が他にもあるはずである。曲が流れる直前の私の精神状態とは関係の無い、しかしいつもとは決定的に違っていた何かが。
そうして考えていくと、もう1つの可能性に思い当たった。受身であることがそうさせたのではないか。ちょうど前回の雑文で触れていたことだが、人は受身の状態で心地良い音を耳にすると、より一層の心地良さを感じる生き物なのである。今回の議題は、前回少し例に挙げたような単発の「音」ではなく抑揚や変化に富んだ「音楽」なので、やや事情が異なるように思われるかもしれないが、私は「音楽」の方にも全く同じことが言えると考えている。と言うよりも、「受身で心地良さが増す」のはそもそも聴覚特有の現象という訳ではないのだ。例えばマッサージがそう。身体の力を抜いた状態で手や腕を揉んでもらうとそれはそれは気持ちが良いものだが、自分で自分の手を揉んでみても、他人にしてもらったときほどの気持ち良さはそこにはない。更に身近な例としては、床屋や美容院で頭を洗ってもらうときがそうだ。言うまでもなく、散髪の最大の醍醐味は生の散髪音を耳の間近で鳴らしてもらえることだが、それと双璧をなすくらいに洗髪も気持ちが良い。しかしながら自分で頭を洗っていても、あのぞわぞわと来るような感覚を得ることは到底できない。推測であるが、これはテクニックがそうさせるものではなく、恐らく本職の美容師や床屋さんの人にとってすらそうだろう。受身であるとは、脳から余計な信号を出さず余分な五感を働かせず、自分に降りかかる物、事を100%の純度で受け止めることができ、その上よくは分からない身体の仕組みが作用して「心地良さ」の感度を最大限に高める奇跡の佇まいなのだ。これなら、件の感動にも説明が付く。考えてもみれば、ラジオ自体がそもそも受身で楽しめるメディアであり、まさにそれを受身で、脱力し切った油断し切った体勢で聞いていたところに他人から提供された「君の銀の庭」だった訳だ。これが心に響かないはずがない。更に「自分の意志で聞かない『君の銀の庭』」という意味で言えば、これは劇場で初めて聞いて以来1年振り2度目である。つまり1年振りに頭を洗ってもらったのと同義である。なるほど気持ち良いはずだ。
無論、より厳密には、「受身だったこと」と「不意打ちだったこと」が相乗してこの感動に至ったのだろう。「受身」が唯一の理由だとすると、「CDで聞くにしたって再生ボタンを押した後は受身になれるんだからラジオと大差ないはずじゃないか」という反論が可能だが、それを補完するのが「不意打ち」の妙だったということである。

ともあれ、この一件でかなり「叛逆」を見直したくなってきた。
折よくちょうど1周年。今週は3連休でもあるし、もう一度見るとするかな。それで、その日はそのままDVD三昧の一日にしよう。
そして私はまた1歩、自堕落の坂を転がり落ちていく。



14/11/08(土) 第1083回 異能バトルは飲食店のなかで

他人と一緒に食事をするのが苦手である。何か食べている姿を見られるのがどうにも落ち着かない。見られる、と言ってもじろじろまじまじ穴があくほど見てくる人はそうそういないが、その相手が友人や同僚だったりすれば会話の折などにどうしたって多少は目に留まる訳で、それを意識してしまうともう気もそぞろだ。では1人で飲食店に入って見も知らぬ他人と席を共にするのはどうかと言うと、幸いそこまで神経過敏ではないのかあまり気になることもなく食事を楽しめるが、この広い世の中、時には「一筋縄では行かない人」に出会ってしまうことも無くはないから油断ならない。

昨日のことである。このところ夕食時によく利用している近所の飲食店にて、いつもの肉野菜炒め定食の食券を買い、時分柄やや混雑していたため3人用カウンター席の真ん中の席に通され、定食が運ばれてくるまですることも無いのでぼやぼやと携帯電話をいじるというスマホ依存症顔負けのガラケー依存症ぶりを発揮していたら、不意に右隣から妙な気配が漂ってくるのを感じた。何だと思って少し顔を上げると、私が席に着いた時点で既に食事中であった右隣の人が、割とはっきり私の方を見ているではないか。ぎょっとしてすぐまた視線を携帯電話の方に落としたが、視界の右端に意識を集中させると、その後もチラチラとこちらを見ているような素振りがうかがえる。ああ、実に間の悪いタイミングで店に入ってしまったものだ。何しろこの時点で、右の人が退店しない限りは、今回の食事を満足に楽しめないことが確定なのである。「何ですか」と一言言えばよかったのかもしれないが、万が一相手が「常識人」の枠を外れた人であった場合、それが切っ掛けで無用なトラブルを生む可能性も十分にあることを考えると、生来の事なかれ主義の私にはできなかった。どうせこの店の中だけでの付き合いなのだ。ほんの10分か20分、私が無視していれば済むことなら喜んでそうしよう。
そのうちに、私の下へ肉野菜炒め定食が運ばれてきた。「定食が来る前に右の人が席を後にしてくれれば」という淡い期待に反して右の人はまだいたのだが、この人が食べ終わるのを待っている訳にもいかないので、落ち着かない心地の中、私も箸を取る。すると、今度は茶碗を手にした左手に妙な違和感を覚えた。ぬるぬるとした感触。何だと思って左手を見てみると、指先にマヨネーズが付いている。不可解な面持ちで茶碗の底を覗き込むと、そこには結構な量のマヨネーズが、「付着」と言うよりは「塗布」のレベルで付いていた。どうしてこんな所にマヨネーズが。配膳の際に誤って付いてしまったのだろうか。いやしかし、茶碗の、食卓に接する「縁(高台と言うらしい)」の部分にだけ付いていたのならまだしも、そこからの「窪み」の内側にまでまんべんなくマヨネーズが付くなどといううっかりが果たしてあり得るだろうか。それ以前に、私の注文した定食が盛り付けにマヨネーズを含むメニューだったとしたなら百歩譲ってその仮説に納得もできるが、しかし今目の前にあるのはマヨネーズの姿かたちも認められない「肉野菜炒め定食」なのだ。千歩譲ってこの店の肉野菜炒めは調理中にマヨネーズを使用するのだとしても、配膳の段になって初めて登壇するお茶碗と調理中のマヨネーズとが出会ってしまうなんてことはまずないのではないかと思う。突如茶碗の底に現れた「不可能マヨネーズ」を前に疑問は募るばかり。しかしご飯にマヨネーズがかかっていたなら話は別だが、ただ茶碗に付いていただけならそんな目くじらを立ててあれこれ言うほどのことではないから、気にし過ぎても仕方ないか。とは言え油まみれになった左手は不快だ。そんな、釈然としない気持ちで茶碗と左手のマヨネーズを拭き取っていると、相変わらず右の人がチラチラとこちらを見ているのが目に入った。はっきり見た訳ではないが、ちょっと笑ったような表情だったように思う。一体何がおかしいのか。…あっ。
この瞬間、私の中に渦巻いていた全ての疑問に1つの答えが示されたのであった。そう、この人は時間停止能力の持ち主だったのである。
冷静になって考えれば、話は至極当然のことだ。まず、お盆にご飯茶碗が置かれた時点において、茶碗の底にマヨネーズは付いていなかった。何故なら、茶碗にご飯をよそう時に、その人は左手で茶碗を持っていたはずで、その段階でマヨネーズが付いていたのならいくらなんでも左手の違和感に気付いたであろうからだ。つまり一旦お盆に茶碗が置かれてから、お盆が私の下へ運ばれ、私が茶碗を手に取るまでの間のどこかでマヨネーズが付いたということであり、これはもう偶然に起こり得るものではなく、何者かの故意によって塗り付けられたと考えるしかない。では誰が。故意に行われたとなると、第一容疑者は茶碗にご飯をよそった店員ということになるが、これは無い。もしも客に対してそんなことをして、その相手が「常識人」の枠を外れに外れていた人で、マヨネーズに気付いた瞬間声を荒らげ「店長を呼べ」「衛生管理がなってない」「スーツがマヨネーズまみれになった」「クリーニング代はどうしてくれるんけ」などと騒ぎ出しでもしたら店にとっては大打撃であり、ちょっとした出来心でやる悪戯のリスクとしてはあまりに大き過ぎるからだ。即ち、犯人は客の中の誰かで、店員にも私にも気付かれずにマヨネーズを茶碗の底へ塗り付けた以上、その人は時間停止能力の持ち主となる。更にその人は、左手にマヨネーズが付いて不快な表情を浮かべている私を見てほくそ笑んでいたに違いなく、これらの情報を総合すると、その人は右の人以外にはあり得ないということになるのだ。

故あって3年前から時間停止能力者へ畏怖の念を抱いていた私にとって、この出会いは感激に他ならないものであった。しかし、師事を請おうとするも勇気が出せず話を切り出せないでいるうち、その人は食事を終えて店を後にしてしまった。後に残されたのは、初めて「本物」を見て内心興奮するばかりの私一人。「やっぱり話しかけておくべきだった」という後悔もあるが、そんなことよりも能力を目の当たりにした嬉しさの方がよっぽど勝っているせいか、ついつい笑みがこぼれてしまう。
いやー、素晴らしかった。毎日頑張って生きてると、こんな良いことも起こったりするんだね。



14/11/14(金) 第1084回 Wi-Fi

Wi-Fi (Wi-Fi) Wi-Fi (Wi-Fi)
無線LANだよ
Wi-Fi (Wi-Fi) Wi-Fi (Wi-Fi)
国際規格の
Wi-Fi (Wi-Fi) Wi-Fi (Wi-Fi)
認知度の高い
Wi-Fi (Wi-Fi) Wi-Fi (Wi-Fi)
無線LANだよ



14/11/22(土) 第1085回 半人前の働きだけして食うメシは美味いよ

友人に連れられて天下一品を初めて訪れた男がこってりラーメンを一口すすり、連れに感想を求められた。その男、答えて曰く、

「おお、美味しい」

それを受けて連れの友人は「そうだろう」と嬉しげだったが、その時たまたま同じ店内にいてこのやり取りを耳にした私は、まるで違った思いを抱いていた。何と無意味な感想だろう。
誤解があってはならないが、何も私は彼の一言に、テレビ番組のグルメリポーターに対してよく言われるような「感想がワンパターンだ」「語彙が貧困過ぎる」「宝石箱ってどういうこと」などの難癖を付けたいのではない。そうではなく、私が言いたいのはこうだ。感想を述べるタイミングが間違っている。
天下一品なるラーメンチェーン店のこってりラーメンが、他店とは比較にならないほど粘性のあるスープを使用していることは有名である。このスープは美味い。だが濃厚であるがゆえ、「飽きが来やすい」という弱点を持ってもいる。私自身は、このところ二週間に一回は行こうかという嵌りようなので飽きとは無縁だが、人によっては「最初は美味しかったけど、食べ終わる頃には苦痛になっていた」なんてこともあるだろう。つまり、このラーメンの真なる評価は、食べ終わった時にこそ出て来るもののはずで、その言葉を聞かなければ本当の意味で感想を貰えたことにはならないのだ。勿論、「少なくとも即不味いとは思わなかった」ことを伝えている点では、この感想も全く無意味とは言えないのかもしれないが、しかし前衛創作料理を振る舞う個人経営飲食店での料理ならまだしもあれだけ全国的に展開しているチェーン店の商品なのだから、食べてすぐ拒否反応を起こすなどそうそう無いだろうことは初めから分かっていたようなものだ。それに「分別のある大人なら、例えそうとは思っていても食事中に不味いと口に出すのは控えられるべき」という一般的マナーもあるのだから、いよいよあのタイミングでの「美味しい」は、誰にでも予測できた毒にも薬にもならない言葉となる。やはり、本当にこのラーメンの満足度を伝えようとするなら、それは完食後をおいて他に無いのである。もっとも、一口目で「美味しい」と言った彼は友人に促されるまま素直に感想を述べただけだったのだろうから、今回のやり取りにおいては評価を急いた友人の方に過ちがあったことになるのだろう。気持ちは分かる。だが焦りのあまり事の本質を見失っているようでは、まだ半人前である。精進すべし。
などとつらつら考えていたら、私が勧めた訳でもないのに、彼の食後の評価が気になってきてしまった。が、それを耳にする機会は無かった。一口目の感想からほどなく、私の方がラーメンを食べ終え退店したからである。残念だが、まあ仕方ない。見知らぬ人ではあるが、これを切っ掛けに彼もリピーターの一人になってくれたことを願おう。

さて、この出来事を受けて私は生まれて初めて「食事の感想」というものに意識的になった。よくよく考えてみると、食事の真の評価が食後にこそあるのは、濃厚とか飽き易さとは無関係に全ての料理について言えることなのではないか。例えば「飽き」とは逆につい何度も食べたくなってしまう「癖」になる味は、得てして一口でそうと分かったりはしないものだ。「冷めても美味しいかどうか」を重視する場合もあり、これも出来たてを一口頬張っただけでは判断不可能である。或いは「味は文句無しだが量が少な過ぎる(多過ぎる)」といった不満点が挙がるかどうかも、食べ進める中で浮き彫りになっていく要素だろう。無論、「一口食べての感想」が料理を評する上で外せない点であることは否定しないが、これはどちらかと言えば数多い評価項目の内の一つであるに過ぎないもので、料理全体を包括する感想は、それを食べ切った上でしか、ことによっては複数回食べた上でしか出し得ない思いなのである。
このように考えていくと、ある種の「料理の感想を述べる人」が途端に異様なものに思えてくる。そう、グルメリポーターと呼ばれる人々である。彼らはテレビの中で方々の飲食店に姿を現しては、振る舞われた料理を口にし、「一口目の感想」だけを述べて仕事を終える。これがどれだけ不自然なことか、ここまで読んだ方にはお分かりいただけるだろう。ただでさえ彼らの言葉は「メディアで取り上げている以上、冗談でも不味いとは言えないんだろうな」と分かっているせいで、先の天下一品の人よりも余計「美味しい」に重みが無く、それ故「何も言っていないのと同じこと」と揶揄されたりするのに、実はその評価対象すら偏りに偏り切った不完全極まりないものだったのである。他のありとあらゆる価値基準を一切無視し、ただただ一口目にのみ特化して料理を評定するグルメリポーター達。これは、テレビ放送用電波を用いて全国に情報を発信するジャーナリストとしてあるまじき怠慢ではないだろうか。仮にも「Reportする」と言うのなら、出された料理は全て平らげ、食中はもちろん食後の感想までつぶさに語るようでなければ、残念ながらプロとしては失格と言わざるを得まい。
世の全てのグルメリポーターよ、一口目の一言に満足せず、食後の一言にこそ全身全霊を注ぐのだ。それができてようやく一人前と言える。だが勘違いしてはならない。それは決してゴールではない。既にして食後の感想に重きを置いているグルメレポーターもいると思うが、言うまでもなくその人がやっていることは「グルメリポーターとしての最低限の仕事」である。何故ならその次には「二日続けて食べて飽きないかどうか」「一週間続けて食べて飽きないかどうか」を、その身をもって視聴者に伝える仕事が待っているのだから。

グルメリポーター。その「一流」への道はかくも険しい。



14/11/29(土) 第1086回 視力検査の罠

今年も、会社申込みによる年次健康診断が敢行された。社会人になってからというもの、視力の推移を最大の関心事としていた私であったが、今年は右0.6、左1.0と、決して良好とは言えないものの一応現状維持の一安心な結果となった。が、相変わらず平日休日問わずPCに向かいっ放しなのに視力を落とさず済んだ喜ばしさとは裏腹に、私はこの日、言いようのない無力感を覚えていた。
かねてから思っていたことがある。自分自身の視力の値を把握している人は何と心の強い、一本芯の通っている、出来た人間だろうかと。そして私は、彼らのことを尊敬し、彼らのことを畏怖し、また彼らのことを羨望の眼差しで見る。その理由は他でもない。私自身が己の視力を知らないからである。
私は私の視力を知らない。これは今に限った話ではなく、これまでに知ったことがない。言うまでもなく、この短くない人生の中で、視力検査の機会を得ることは何度もあったが、しかし私はただの一度も正しく視力を測定できた試しがないのであった。
例えば、小学校時分の視力検査を思い出してみる。何と言うのか分からないスプーンのような道具で片目を塞ぎ、何と言うのか分からない「C」のような記号の向きを答え、何と言うのか分からない単位の値を、何と言うのか分からない保健の先生が記録するという、今にして思えば実に不明瞭なことの多い営みであったが、ともかく先生がランドルト環を1つずつ指し示し、生徒はその向きを答える。

「これは?」 「右」

回答が正しければ、先生はより小さい記号を指していく。

「これは?」 「左」
「これは?」 「上」
「これは?」 「右上」

記号の向きは4方向とは限らないから油断は禁物だ。
検査は更に続く。

「これは?」 「下」
「これは?」 「左」
「これは?」 「えーと…下」

さて、問題はここである。記号が次第に小さくなると最終的には見えない大きさになるのだが、その境界、見えるか見えないか微妙な大きさの記号に当たった時、私はつい「何となくこう見えるかな」という向きを半ば勘で回答してしまうのだ。これは、視力検査のあるべき姿を考えると明らかな誤謬である。視力検査とは「どの程度のものが明瞭に見えるか」を測るものであり、「見えるか見えないか微妙な状態」は「見えていない」と判定されるべきだからである。つまりこのように、少しでもぼやけた記号に当たった時は、迷わず「分かりません」と答えなければならないのだ。にもかかわらず不確かな判断を下した私の視力測定結果は、必然ブレのあるものとなる。もし勘が当たっていれば結果は過大評価となるし、外れていれば「分かりません」の場合と同等の評価になるかと思いきや「単に正解が分からないだけでなくまるで別の方向に見えている」として「分かりません」以上のマイナス点となる可能性もある。また、勘が当たっていれば先生はそれが勘だったと知るべくもないし、一方私は勘が当たっていたか外れていたかを断じる術がない。即ち検査中、1度でも勘に頼った回答をしてしまったが最後、その結果は本来の数値より高いかも低いかもしれない不明瞭な記録へと変貌を遂げるのであり、そして記憶にある限り、私はこの「不明瞭な記録」を貰い続けて今日ここに生きているのだ。
「勘による回答」の持つ問題を把握していながら、このような回答をしてしまう理由は自分でもよく分かっている。数ある健康診断の検査項目の中で、視力検査だけがやけに「ゲーム性」を帯びているからである。私は悪くないのだ。視力検査の奴めが悪いのだ。どうしてあいつと来たら、「次々と迫り来る課題、ハードルを1つずつ飛び越えてレベルアップを目指す」などという、巷のRPG感、或いは複数ステージ制アクションゲーム感に溢れているのだ。身長測定は、体重測定は、はたまた血液検査は決してそのような楽しげな仕組みになどなっていないのに、あいつだけがゲーム然としているせいで、ついつい可能な限りの好記録を狙ってしまい安易に「分かりません」と口にすることがためらわれてしまうではないか。そう、これは生来のゲーム大好き人間の避けられぬサガなのである。視力検査を除いては、唯一聴力検査が似たような性質を持っていると言えるが(何と言ってもあちらは飛行機操縦型一人称視点シューティングゲームのミサイル発射にさも似たボタンを渡されるのだ)、ステージ進行と難易度上昇の模様が一目で分かる視力検査の方が、よりゲーム的魅力に富んでいるのは言うまでもないだろう。
私の人生は、この「ゲーム性の誘惑」に負け続けてきた人生であった。それは中学、高校に上がってからも、大学に入って顕微鏡のような器具を覗いて行う方式の視力検査に出会ってからも、決して変わることはなかった。こんなことではいけない。そう思い始めたのは、つい最近のことである。30歳の大台を突破し、これから次第に身体機能が衰えていくであろう中で、例えば眼鏡やコンタクトレンズのお世話になる日が来たり、航空機パイロットに転職する日が来たり、宇宙飛行士に任命される日が来たりして、いつ急に「正確な視力」を測らねばならない日が訪れるか分からないのだから。来たるべき日に備え、私は今の内から「誘惑に耐えられる強い信念」を養っておく必要があるのである。
そして先日、今年の健康診断の日。今日こそはと意気込んでいた私はしかし愕然とした。毎年利用している総合健診センターが「記号の向きを手元のレバーないし×ボタンで回答する新型顕微鏡式視力検査装置」を携え私を待ち構えていたからだ。これまで唯一聴力検査に劣っていた「ゲームコントローラー的要素」を補完した視力検査の前に、もはや私は無力であった。そして私は今年も、自分の視力を知る機会を自らふいにしたのである。

恐るべき視力検査の落とし穴。あなたは自分の正確な視力を知っていますか。



14/12/13(土) 第1087回 分からない日本の私

前回、視力検査の曖昧さについて書いたが、よくよく考えてみると正確に測定できた試しが無いのは視力検査に限った話じゃないのではないかということに気付いた。
例えば聴力。これは視力検査とは違い「ボタンを押す」「ボタンを押さない」の2値しかないのだから一見曖昧になりようが無いが、「音が鳴ったらボタンを1回ポンと押す」のか「音が鳴っている間ボタンを押し続ける」のか実はよく知らない。私は後者の方針で聴力検査をプレイしているが、もしあのボタンがプッシュ時ではなくリリース時に信号を発する機構になっているとしたら、私の検査結果はかなり酷いものになっていることだろう。聴力検査の結果に関して別途聞かれたことはないから多分正しく測定できているのだろうとは思うが、真相は分からない。
身長もそうだ。かなりな猫背の私は毎回のように「背筋を伸ばして下さい」と一言添えられるのだが、日によってその伸ばし方に差があるのか、2cm程度伸びたり縮んだりしているような気がする。
体重はさすがに大丈夫だろう、と思っているのならそれは甘い。むしろ体重は結果にブレが出る検査項目の最たるものだ。何故なら身に付けている物の重さがその時々でまちまちだからである。パンツ一丁になっていた小学生時分ならともかく、上半身はインナーシャツ、下半身は丸々スーツのままで体重計に乗る今時分の測定結果は、0.1kg単位なら平気でブレているだろう。
考えれば考えるほど分からない己の真の健康状態。ああ、私が本当の意味で健康を診断できるのは一体いつの日になることか…

ところで。
話は視力検査のことに戻るが、「分からない」と言えば、私にはもう1つ気になっていることがあるのだった。

「これは?」 「右」
「これは?」 「左」
「これは?」 「分かりません」

「C」がはっきりと見えなかったときのやり取りであるが、はて、「分かりません」とは何だ。私が知る限りの全ての人が、「C」の向きを答えられないときは「分かりません」と宣言していたが、どうして「見えません」ではなく「分かりません」と言うことになっているのだろう。誰に教えられた訳でもないのに、不思議と「当然のこと」として浸透しているこの一言に、少し引っ掛かるものを感じる。
もっとも、「見えません」と言えば万事解決しっくり来るのかと言われると必ずしもそういう訳ではなく、むしろそれも何となく間違っているように思う。と言うのも「見えません」はやや語気が強く、断言し過ぎているきらいがあるからである。「見えない」とはっきり言ってしまうと記号の向き云々じゃなく「C」そのものさえ見えていない状況を連想させるが、実際には「C」の姿それ自体は少なくとも見えている訳だから、その分ぼかして表現しようとした結果「分かりません」に落ち着いているというのは、ある意味自然な成り行きだと言えるのだ。
だが、それでも私はこの「分かりません」の風潮に異を唱えたい。何故ならこの言葉は、明確な物言いを避けたがるという日本人の悪癖が非常によく表れているものだからである。「見えません」じゃ不自然だから、「見えません」ほど状況を断定せずそれでいて応用範囲の広い汎用的言い回しに逃げ続けてきた日本人。そんな国民性が作り上げた、これは悪しき習慣だ。このままではいけない。このグローバル化時代、島国ゆえのガラパゴス文化だと揶揄されるのは携帯電話だけで十分。人として、現代人として、己の主義主張は強く顕示していかなければならないのだ。想像してみてほしい、アメリカ人による視力検査の光景を。彼らは「C」がぼやけて見えても、決して「I don't understand」「I don't know」などとは言わず、きっと「I don't see」と答えるだろう。日本人もそれを見習っていこうではないか。そもそもアメリカ人が視力検査にランドルト環を用いるのか、はたまた日本同様保健の先生相手に視力検査を行うかどうかは知らないにしてもだ。
「見えません」 いいではないか。これ以上なく明瞭で、無駄がない。凛としているとはこういうことを言うのだろう。次代を担う子供達には、是非毅然とした態度でこう答えてほしい。腐った習慣に毒されたまま大人になってしまった我々はもう手遅れだが、君達は違うのだから。君達こそが、国際社会に通用する新しい日本人像をこれから作り上げていくのだから。もしそれで保健の先生が怪訝な表情をしたりするようなら、「私は先生が指し示したランドルト環の隙間がどちらの方角にあるのかよく見えません」と馬鹿丁寧に言ってやればいい。所詮向こうは旧時代の人間、いちいち相手をするまでもない。保健の先生何するものぞ。因習俗習くそくらえ。
視力検査が日本を変える。さあ、新しい時代の幕開けだ。



14/12/21(日) 第1088回 満足する銀とは何だ?

メダルの満足度は銀<銅<金、とよく言われる。金が最高なのはいいとして、銀と銅が逆転しているのは「銀は決勝に敗れて獲得するメダル」「銅は3位決定戦に勝って獲得するメダル」だからというもので、結果の大小が必ずしも充足感と比例する訳ではないことを示す人間心理の興味深い話である。
私はかねてから、このことに疑問を抱いていた。銀メダルを悔しいと思う選手その人にではなく、そもそもこのような不条理が起きてしまう競技の構造に対してである。銀メダルの人が、金メダルに一歩及ばなかった己の不甲斐なさを無念に思うのは分かる。でも成績的には銀メダルの人より下であったはずの銅メダルの人が、見た目にも銀メダルの人より充実した顔をしていたりすることがあるのは解せない。世界規模の大会ともなればその上位入賞者同士の戦いは時の運でひっくり返ったりもするほど実力が拮抗する世界になるが、その中でもはっきり「1位」「2位」「3位」と序列を与え、しかも表彰台などという子供にも分かりやすい格差表現器具を用いて勝者と敗者の力関係を露骨に描写し、更にあろうことかその姿を全世界に放映したりもするのだから、この序列はもっと揺るぎないものであってくれなければ選手達の沽券に関わりかねないではないか。この欠陥のある競技形態がために、ただ4位の人に勝ったというだけで自分以上に満ち足りた表情をされ、その模様が世界中の人々に晒され、結果見た目の印象だけで「あの銀メダルの人は銅メダルの人より弱く見えるのによく我が物顔で銀メダルを受け取れるよね」などと思われてしまったりしたら、それは今後の選手生命をも左右しかねない風評被害たり得るではないか。つまり私が言いたいのは、「金メダルの人は必ずや銀メダルの人と銅メダルの人に勝った表情をしている」べきで、「銀メダルの人は必ずや金メダルの人には敗れたが銅メダルの人には勝った表情をしている」べきで、「銅メダルの人は必ずや金メダルの人と銀メダルの人に敗れた表情をしている」べきで、このことは誰の目にも明らかでなければならないということなのだ。そしてその原則を保てていない現状のシステムは、競技として健全と言えないのではないかと思うのである。
では、この問題を解決するには具体的にどうすればいいのか。決勝を成績上位3名による戦いにできれば最も分かり易いが、それまで1対1だったのを決勝だけいきなり1対1対1にするのは無理があり過ぎる。3人の総当たり戦にすれば試合のルールに手を入れなくても対応可能かとも考えたが、1勝1敗で3人横並びになってポイント差で決着、なんてことになると、これまで確固たる地位にあった金メダルの人の印象すら揺らぎかねず、一層の違和感が生まれかねないのでこれも却下か。巴戦というのもあるが、あれは初めに控えに回った選手が不利になると分かっているので、準決勝終了時点で同じ土俵に立った3人の優劣を決する手段としては不適と言わざるを得ない。
ここはもっとシンプルに考えよう。現状の仕組みの問題点は「銀メダルの人が銅メダルの人に勝って終わっていないこと」なのだから、3位決定戦と決勝戦の終了後に、銀メダルの人と銅メダルの人による2位決定戦を執り行うことにするのだ。こうすれば、金メダルの人が銀メダルの人に勝って終わるのと同様、銀メダルの人も銅メダルの人に勝って終わることができ、表彰台に立つ3人の順序と満足度と客観的な印象が完全に一致する。唯一の問題は、その2位決定戦で仮に銀メダルの人が負けた場合、当然その人は銅メダルの人へ降格となり、ここに「1度は決勝へ勝ち上がったにもかかわらず銅メダル」「(組み合わせによっては)準決勝で1度勝っている相手が銀メダルなのに自分は銅メダル」という展開もあり得る点だが、いかんせん人の心情は、「終わり良ければすべて良し」という言葉によく表されているように最後の一手の良し悪しで大きく形を変えるものであるから、ただの過程に過ぎない準決勝の結果どうこうより最後の2位決定戦の結果の方をよほど重要視してそっちを優先させるのは仕方のないことと言うか、むしろ自然の成り行きであり、即ち些細な問題である。大体、元はと言えば銀メダルの栄光に輝いていながら銅メダルの人より不満げな表情をしていたことがこの話の発端だった訳で、その不満を綺麗さっぱり払拭し「納得の銀メダル」を獲得するチャンスが新たに生まれる訳だから、感謝されることはあっても非難される筋合いはないはずだ。やはりこれこそが、本議題に対する最良の解決策と言えるだろう。
かくして、世の全てのトーナメント制競技に2位決定戦制度が導入され、世界から銀<銅<金の矛盾は消え去ったのであった。めでたしめでたし。

――10年後

かつてメダルの満足度は銀<銅<金、とよく言われていた。金が最高なのはいいとして、銀と銅が逆転しているのは「銀は決勝に敗れて獲得するメダル」「銅は3位決定戦に勝って獲得するメダル」だからというものだ。そしてこの不合理を解消するため、世の全てのトーナメント制競技に2位決定戦なる制度が設けられたことは記憶にも新しい。
だが私はかねてから、この制度に疑問を抱いていた。「1度は決勝へ勝ち上がったにもかかわらず銅メダル」に終わる選手がいることや、「(組み合わせによっては)準決勝で1度勝っている相手が銀メダルなのに自分は銅メダル」となる選手がいることそれ自体にではなく、表彰台に立っている3人のうち、唯一銅メダルの人だけが悔いのある表情をしていることに対してである。確かに銅メダルの人は、3人の中でただ1人だけ負けて競技を終えるのだから、このようになってしまうのも仕方のないことではある。しかしそうは言っても世界第3位とは紛れもない偉業だ。ただの人が到達できる領域ではない。非凡な才能に恵まれ、努力と研鑽に勤しみ、時には運をも味方に付けて表彰台へと辿り着いた選ばれし人間の1人なのだから、この選手にもまた、会心の面持ちでいてほしいといつも思っているのは私だけではないはずだ。そして実際、銅メダルの人には「満足の内に競技を終えられる」よう便宜を図ってもらえるだけの功績がある。近年ますます興行的側面を際立たせているプロスポーツ大会開催において、言わば銅メダルの人はその大会による経済効果へ3番目に大きく寄与した人間なのだから、そのくらいの権利は認められて当然なのである。だから今こそもう一度考えたい。かつて、銀メダルの人へ「納得の銀メダル」獲得のチャンスが与えられたように、銅メダルの人へも「納得の銅メダル」獲得のチャンスを設けようではないか。
話は簡単である。現状の仕組みの問題点は「銅メダルの人が負けて終わっていること」なのだから、2位決定戦の終了後に、銅メダルの人と4位の人による3位決定戦を執り行うことにするのだ。こうすれば、金メダルの人が銀メダルの人に勝って終わるのと同様、銀メダルの人が銅メダルの人に勝って終わるのと同様、銅メダルの人も4位の人に勝って終わることができ、表彰台に立つ3人の順序と満足度と客観的な印象が完全に一致するうえ皆一様に晴れ晴れとした表情で肩を並べることができる。唯一の問題は、その3位決定戦で仮に銅メダルの人が負けた場合、当然その人は4位の人へ降格となり、ここに「1度は2位決定戦へ勝ち上がったにもかかわらず4位」「(組み合わせによっては)決勝前の3位決定戦で1度勝っている相手が銅メダルなのに自分は4位」どころか「1度は決勝へ勝ち上がったにもかかわらず2位決定戦に負けて銅メダル降格になったあと更に3位決定戦にも負けて4位」という展開もあり得る点だが、いかんせん人の心情は、「終わり良ければすべて良し」が云々であるから即ち些細な問題である。ほらほら、これでもう悔いが残る余地は無いね。感謝の言葉は?
かくして、世の全てのトーナメント制競技に2位決定戦後の3位決定戦制度が導入され、世界から悔いある銅メダルの違和感は消え去ったのであった。めでたしめでたし。



14/12/31(水) 第1089回 復活のF(atalbrain.com)

今年の妄想針千本の動静を一言で表すとしたら、それは「復活」である。
5月、「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語」の観劇記で過去一番の長文を載せて以降、堰を切ったように週一更新期間へと突入し、結局今年は「ゲーム日誌」「俺的事典」含め今日までで計36日も更新できてしまった。社会人7年目、今まで「せめて週一くらいは」と思いながらも実現できなかったこの定期更新を、何故突然始められたのかは全くもって謎である。そしていつまで続けられるのかも謎である。何しろあまりに不確かな「やる気」の上に成り立っているので、いつこの意欲が尽きるものやら見当も付かないからだ。案外、この年またぎの節目が「やり切った感」を出させ、来年になった途端不定期更新に逆戻りするかもしれない。先のことは分からない。ただ、人のやる気というものは、出そう出さねばと思うほど顔を覗かせなくなることを私はよく知っているので、これといって特に気負ったりはせず、来年も週一ペースでやる気が湧いてくれればいいなと願っておこうと思う。まるで他人事のように言うが、それは事実だ。プログラム開発において「プログラム 3日経ったら 他人のもの」という格言めいた言葉があるように、3日後の自分は今の自分とはまるで別人なのである。3日後ですらそうなのだから、来週、それどころか来年を迎えるほど間が空けば、その頃の私は恐らく福山雅治と見紛うくらいの別人になっているはずなのである。つまり今の私があれこれ考えたところでどうせ来年の私はそんなこと忘れ去っているのだから、来年のことは来年の自分に悩んでもらうことにして、今ここにいる私は今年の更新活動よくやったねと自分自身を労っておればいいのだ。

さて、更新頻度の話はともかく、更新内容に関することなら、5月からの半年ちょっとの中で新たな発見があった。ほとんど放置に近い期間を経てから心機一転定期的に「雑文」を書いていて、私がやりたいことはこの「雑文」に集約されているのだなあということを再認識したのであった。
「雑文」を書くのは楽しい。ことに社会人になって以降、更新回数が減ると共に「雑文」長文化の傾向が顕著になったのは、前回分掲載からの期間が空くことで書きたい事柄が溜まりがちになるからだと思っていたのだが、このページ内の文章を見ると分かる通り、週一程度の更新になっても文章量は減るどころかむしろ増えつつあるくらいで、このことにも「雑文」を書くことの楽しさはよく表れている。ああいった風に、一見真面目に見えてその実ふざけたことしか言ってない文章を長々と書くのが好きだ。突っ込み不在のボケをただ並べ立てるのが好きだ。たまにナンセンスギャグを挟み込んでみたりするのが好きだ。
そして改めて当サイトでやってきたことを振り返ってみると、「雑文」以外のコンテンツも、その中身は「雑文」と大差ないものだという事実に気付いたのだった。
例えば「ゲーム日誌」は、特に「聖剣伝説4」以降に顕著だが、「ゲームのプレイ記」をテーマとした「雑文」に他ならない。しかもその傾向は近年ますます際立っており、直近の「ゼルダの伝説 神々のトライフォース2」ではとうとう本題(であるはず)のプレイ模様がたった1文だけなどという回まで登場してしまった。でも、プレイ内容そのものを「読ませる文章」としてまとめる才の無い私には、「雑文」然とした最近のゲーム日誌の方がよっぽど面白いと思えるし、しばらく経ってから見返す分にも読むに耐える内容になっていると思うので、多分今後もこの方針が基本になることだろう。ゲームをプレイするだけでも体力を要するようになってしまった今、更に力を費やすことになる「ゲーム日誌」を来年以降書く機会があるかどうかは分からないが。
「妄想」は、FFの矛盾考察をテーマとした「雑文」である。その意味で、理論の根拠提示にこだわり過ぎるようになった真面目一辺倒の後期のネタより、多少無茶な話し運びと分かってはいつつ思いのままを言い散らかし、元々のコンテンツ名により近い「妄想」「妄言」を書いていた「メネ」とかの方が、どちらかと言えば楽しんでやれていたことは否定できない。また当時の気持ちで色々考えを巡らせてみたら新ネタを書けたりするんだろうか。
「歪曲」は、ストーリー解説をテーマにした「雑文」である。これは分かり易い。実際、「歪曲」と「雑文」との間には何一つ違いなんて無い。にもかかわらずあれの更新が頓挫しっ放しなのは、「雑文」に比べ1回当たりの更新労力が段違いに多かったからだが、しかしながらここ最近の「雑文」との比較なら案外いい勝負かもしれない。意外と今の流れに乗じて再開したらそこそこ書けたりして。
「愚痴」は、FFの不満点に文句を言う体で書く「雑文」である。「雑文」である以上、冗談であることが大前提なのだが、本当の批判に見えてしまう回があることが今にしてみれば反省点だ。
「俺的事典」は、FFに登場する単語にターゲットを絞った「雑文」である。突っ込みを入れるという触れ込みなので、ボケオンパレードの「雑文」の逆を行っているように思えなくもないが、あれは「至ってどうでもいい所に突っ込むボケ」なので、やはりこれも「雑文」の同類なのであった。もっとも、「突っ込みを入れる」この前提すら無視してストレートに「雑文」的一言で完結している単語も多いけれど。
詰まる所、このサイトはあれこれやっているように見えて、実際は「雑文」一本でこの11年間やって来たということなのだ。またこれは、「これしかやって来なかった」ことを示しているだけでなく、「これしか能がない」ことを意味するものでもある。そのことは、今日に至るまでで例外なくこのサイトから姿を消した、「Report」「MIDI」「Work」という「雑文的でないコンテンツ」の面々がよくよく物語っている。
この事実を私はどう捉えればいいのだろう。(人から見て面白いかどうかはともかく)自分では面白いと思えるレベルの「雑文的文章」を書く能が皆無ではなかったらしいことを素直に喜んでいていいのだろうか。否、やはりそうではない。私に「雑文書きの能しかない」この事実はつまり、妄想針千本にはもう一切の伸び代が無いということの証明ではないか。確かにここ数年、新コンテンツ案を練ろうとすると決まって「あれ、これ雑文と何ら変わりないじゃん」との結論に至って話が立ち消えになったことは何度もあったが、これも即ち本サイトの進化の道がとうに途絶えていることの証左ではないか。この事実に即して考えると、これから先、どう抗おうと本サイトには「雑文」の域を出る新感覚コンテンツが誕生することはなく、延々同じ発想だけで文章を書き続けるものだから近い将来ネタ切れになって「雑文的文章」の更新すら不可能になり、先細りになって消える未来が約束されていることになる。そう、今年演じられた「復活のF」は、短期的には手放しで喜べる出来事だったのかもしれないが、長期的には「次のステージへ足を踏み入れられないまま袋小路へ向かって盲進する」という絶望的結末への第一歩だったのである。
人の発想力にも限界があるのだと言う。ならば、30歳台に乗っている私の発想力が既にピークを過ぎていることは疑いの余地がない。となると、次のように思えてくるのだ。このまま「雑文」だけを書いてサイトの一生を終えるか、それとも何か新しいことをやれるか、その最後の分岐点は思ったよりも近い未来にあるのではないか。或いは、年齢的な意味での「最後の分岐点」を迎える頃に、妄想針千本へ情熱を傾けられるほどの更新意欲バイオリズムが上手く重なるかどうかだって分からないことを考えると、今やる気を出せているこのタイミングこそが、「雑文でないこと」を始められる正真正銘最後のチャンスなのではないか。もしこれが正しいとすれば、もうあまり悠長なことは言っていられない。「雑文」とは趣を違えた新コンテンツの考案が今、急務なのである。
では、具体的には何をするのか。これを考えたい。まず、

はい、という訳で、こんな感じで現状の問題点と課題をまとめておいたので、以後の対応は後任の方にお任せします。
まあ、そうは言っても目下の目標は、今日まで何とか継続してこれた定期更新を途切れさせないことだと思いますので、まずは年明け後、成人の日の3連休辺りで2015年一発目の「雑文」更新を普通に行うところから始められるといいかと思いますよ。
それでは、後は宜しくお願い致します。>来年の自分



15/01/10(土) 第1090回 引継資料

はて困った。
今年に入り私は、昨年一杯でいなくなった人の後任として新業務に就いたのだが、その初仕事を前にして途方に暮れているのであった。何から手を付けていいものか分からない。それどころか最終的に何が出来ていればいいのかも正直分かってない。新年早々こんな様子じゃ前途も多難だが、勿論私だって、進んでこんな状況に陥ろうとした訳ではないのだ。こうなったのも全部前任者が悪いのである。ろくな引き継ぎもしてくれないまま仕事を全部押し付けて自分はさっさと姿を消してしまうのだから。もうちょっと、後に残る人のことを考えて動いてほしかったものだけれど、それは今更言っても詮無いことか。
思い返してみれば、前任者とは知らない仲ではなかったのだが、確かに以前から不出来な人間らしさが見えることも無くはなかった気がする。
まず文章を読むのが遅い。丁寧に読み込み過ぎるきらいがある。聞いた話では、ビデオゲームの攻略本を1週間かけて読むとかどうとか。
プレッシャーに弱い。ストレスを感じ過ぎたせいかは分からないが、数年前に十二指腸潰瘍で入院したんだったっけか。
朝に弱い。最近は加齢のせいか多少寝起きは早くなったらしいけど、昔は昼過ぎまで寝ていることもざらだったとか。あと早起きできるようになっても寝起きが不機嫌そうなのは変わらない。
インターネット中毒気味。さすがに仕事中はしないが、休日は日がな一日ネット三昧。
ゲーム中毒気味。さすがに仕事中はしないが、休日は日がな一日ゲーム三昧。
部屋が汚い。お世辞にも知人を招き入れたりなんてできそうにない。
出不精。土日に1歩も外出しないなんてことは日常茶飯事。
猫背。「気を付けないと」と言うだけ言って、矯正の気配無し。
これに加えて今回の一件である。前任者は社会人7年目らしく、そのくらいだったら、業務引き継ぎの大事さはもう十分把握していて当然なんだと思っていたけど、そうではないのかなあ。
ただ、そんな無責任な前任者も、何も無しに全部丸投げというのはさすがに酷いと思ったのか、テキストファイルを1つだけ残してくれていた。「neta.txt」なるこのファイルには、今後私が作業を進める上で、その取っ掛かりになるネタを箇条書きにしてあるとのことだ。どれどれ…

 ネクタイを上手に締められないとその日一日気分が乗らない
 しゃっくりの出易い日

なるほど、日記のような感じのことを書くのか。

 自由研究で入賞
 その昔「自分は本当はこの家の子供ではないのではないか」と考えたことがある

昔の思い出を交えたりもすると。

 物凄い猫背
 身体の軸が左に傾いている
 電車でうたた寝している人が常に片側の方向にだけ傾くのは地軸の影響

やけに体幹に関する記述が多いのは、猫背へのコンプレックスから来るものなのだろうか。

 坊ちゃんが池に落ちた。どら息子ーっ
 2と4と5は不憫だ
 エスカレーターがいつまで経ってもエスカレートしてくれない

ちょっと何が言いたいのか分かりません。

 あああああああああ!
 タケタケタケカケ
 起承承承承承承承承承承承転(検閲削除)結

うーん…

まあ、悩んでいても何にもならない。この作業を引き取った事実は覆らないんだから、やるだけやってみるとするか。
という訳で、去年の自分に引けを取らない文章を書いていきたいと思いますので、2015年もこの「雑文」をよろしくお願い致します。


過去ログ108へ 過去ログ110へ 最新の雑文へ戻る  過去ログ一覧へ  トップページへ

ラシックス