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05/04/01(金) 第151回 エイプリルフール2005

何だかあんな形で今問題になってる「竹島の日」を話題に持ち出してしまって果たして良かったのだろうかと今更ながらに思っている訳なんだけれども、でも今日はエイプリルフールだからそれ嘘かもしんない。っつーか「竹島の日」制定も一応「竹島の事を世間に知ってもらう事」が目的だったみたいな事言ってるから、微々たるものながらそれの助力になったんじゃないかと勝手に思っておく。

ともあれ今日はエイプリルフールである。巷で些細な嘘や下らない嘘が頻発する日だ。
特にウェブ上なんかだと、現実と比べて思想、行為、発言等による表現に対しての責任感が薄くなりがちなのが影響してこれが氾濫しているのではないだろうか。
それは別に悪い事ではない。この日一日の為に色々と考えて、場合によっては相応の準備までして、些細な、或いは下らない嘘をついていられるのは、その分だけ心に余裕がある事の表れであるからだ。その嘘が些細であれば些細であるだけ、下らなければ下らないだけ、馬鹿馬鹿しければ馬鹿馬鹿しいだけ、より強く日本は平和だなあ、との思いを再認識させられよう。
ただ、そうでありながら、私の人生においてこのエイプリルフールは嘘とは無縁であり続けるものだった。実はお世辞にもそうとは言えない人間なのに何故か私は普段「真面目」だと思われがちで、下手な嘘をついても「真面目な発言」だと受け取られかねないのだ。それを危惧するあまり実際にはこれまで嘘をついてみた事はないんだけれども、もし本当に「真面目な発言」だと取られたらどうなる? 「あ、いやいや、今の嘘うそ」なんて言ってみ? 瞬間場の空気が冷める事請け合いだから。そうなる事が濃厚なのに敢えてわざわざ嘘をつきにいく必要はないわなあ。

まあ、そんなこんなで現実において嘘をつくのは難しいかもしれないけれど、今はこうしてサイトを持ち、ウェブ上で好き勝手な発言を日々しているのだから、こういう場で一度嘘をつき倒してみるってのはいいかもね。
よし、じゃあ来年のエイプリルフールにこの日誌を書く機会があったら、これでもかって位嘘ばっか書いちゃろ。

オイそこ、「来年まで続いてるかどうか怪しいもんだ」とか言わない様に。



05/04/02(土) 第152回 実は危険だ手信号

手信号。それは自転車に乗っている際、他の通行者に対し自分がこれから行おうとしている行動を知らせる為に片手を用いる表現方法の事だ。自動車でいうウインカーとかに相当するものの事で、その種類としては、右折、左折、停止の三種類がある。実は他にあったりする様な事があるかどうかは知らん。
この手信号、自転車に乗る際のルールを小学校等で教わる時に誰もが習い、一度は練習として実践させられるのであるが、その誰もが日常で実際には活用しないという不思議な存在である。そこに横断歩道を渡る際のルールの一つである「手を挙げる」に似たものを感じないではない。
そんな手信号なのであるけれども、私は先日とあるお爺さんがこれを使っているのを見てしまった。私の人生において手信号を実際に使用している人を見たのはこれが初めての事だ。ちょっとした感動である。
と、ここで私ははたと考えた。今見た信号は右折だったっけ、左折だったっけ、はたまた停止だったっけ? 手信号はその種類がたった三つしかなく、いずれも単純な動作でありながら普段使わない為に最早正確な所なんぞ全くもって忘れてしまっているのだ。どれが横でどれが斜め下でどれが腕を直角に曲げるんだったかなんて全然覚えてない。つーかどれをどっちの手でやるんだったかも覚えてない。

よく考えてもみたら、折角手信号を使ってても他人に伝わらなきゃ全然意味が無いよなあ。私の手信号に対する認識率が世の平均的な認識率であると言うつもりはないけれど。
て言うか意味が無いっていうよりはむしろ危なかったりするんじゃないの? 例えば先のお爺さんの話じゃないけれど、向こうからやってきた自転車に乗ってる人が手信号を使っていた時、本人は右折のつもりで右折の信号を出したのに、相手が左折だって判断しちゃう事もあり得る訳で。しかもその「相手」っていうのが自動車に乗っている人だったらちょっとそれは大変な事になってしまいかねないし。更に言うなら、手信号を違えて判断するのは「相手」側に限った話じゃない訳で。例えば本人が右折のつもりで左折の信号を出したらそんな時に限って相手がそれを左折だと知ってたりとか。更に更に言うなら本人が右折のつもりで左折の信号を出したら、向かいからやってきた人もそれを右折信号だと勘違いしてたから事無きを得たかと思った矢先に、今しがた交差点を曲がろうとしていた自動車に乗っている人が左折を停止だと勘違いしてたから自転車止まるんだと思ってたら止まらなかったんであわや大事故に、なんて事も起こり得る訳で。

そんな訳で、手信号に対する教育方針かもしくは制度を抜本的に改革せねばならんのでは、と他人事の様に考えている今日この頃です。



05/04/03(日) 第153回 テレビジャック

最近は多忙化に伴って時間的に少なくなる傾向にはあれど、テレビというものを毎日目にする私にとって、田舎地方に住んでいる事で見る事が出来ないテレビ局の番組に思いを馳せる事があります。無い物ねだり的なものかもしれませんが、自分の住んでいる地域で見れないテレビ番組というのはえてして面白そうに感じられるんですよ。
実際、深夜とか土日の昼間に放送している事がある本来は決して見る事の出来ないテレビ局の番組とかを見てると面白かったりしますし。まあそういった番組は本放送である程度好評だったからこそこちらでも放送される訳なんで、それらがこぞってある程度面白いのはもしかしたら当然の事なのかもしれませんが。

それはともかくとして、そういう風に地元でやってないテレビ局の番組を、時期や時間帯をずらして放送する形態をとっていると、本来なら見られない様な光景を目の当たりにする事があります。
例えば同じ芸能人だったりが二つ以上の番組に同時に出てたりする事がちょくちょくありますが、でもこれは一方が再放送とかだとよく見る光景かもしれませんね。
でも、ここらの地域にはテレビ朝日系列のテレビ局が無いのに、民法三局全てでテレビ朝日の番組を放送していたのには流石に驚かされました。
その時だけはちょっとだけ都会気分です。いや、事実上一局しか映ってないからより一層田舎なのか?



05/04/04(月) 第154回 練達した話術

自動車学校の教習とかでよく、反射神経に関する話をする時に、相手側の任意のタイミングで落とされる適当な長さの紙か何かを指で挟んでキャッチする、という実験でそれを説明する事があります。
この実験は「いつ紙が落とされるのか」という事に集中していれば、いとも簡単にその紙はキャッチ出来るけれども、他の事に注意が向いている状態では瞬時の判断能力が若干鈍り、それ故紙をキャッチする事が出来ないというもので、脇見運転や携帯電話を使用しながらの運転が如何に危険なものであるかを説明するものなのですが、私はこれを見る度にややハラハラさせられてしまうのです。
と言うのも、こういった実験において相手側がこちら側の人間の気を逸らそうとしてもその意図がバレバレである事があり、その場合には本来掴めない筈の紙を掴めてしまう人が現れ得るからです。実際に、会話をしていれば一般には掴めない筈の紙を掴んでしまった知人を一人知っています。
では、その様な意図しない成功者が現れた時、一体何が起こるでしょうか。相手は「他の事に気が回っていると瞬時の判断能力が鈍る」という説明に繋げたい訳で、ここでは失敗する事を前提として実験を行っている訳ですから、そこで成功されてしまっては話の筋が根底から折られた事になります。多分、その場にはどうにも微妙な空気が流れてしまう事でしょう。
話には流れというものがあります。空気というものがあります。もし貴方が自動車学校なりでこの実験を代表者として体験する事になったなら、例え相手の意図がバレバレであっても、わざと成功しないでおくのが、話の流れを読める大人というものでしょう。無論、周りに「わざと失敗した」様に見られない為には相応のテクニックがいりそうですが。

とは言え、一般に車の運転に関する様な説明、或いは講義をする人というのは、それまでに何度も、殆ど同じ内容の事を説明してきた経験があるものと思います。彼等にはそれなりにキャリアがあります。そんな百戦錬磨の彼等なら、もし上記の様に「意図しない成功者」が現れてしまった時でも、それに対する上手い対処法を過去の経験から学んでいるのでは、と考えられなくはないですよね。
そこで、それこそ一瞬の判断能力が求められるものの、この実験を行う上でこちらの気を逸らそうとした時、もしその「気の逸らせ方」が極々自然だったなら、恐らくその人はこれまで多くの人達に対して同様の実験をしてきたベテランでしょう、そういう場合に限っては、紙を掴んでしまっても上手い具合に本題へと話を繋げられる事を期待出来るかもしれません。例えベテランじゃなかったとしても、上手に相手の気を逸らせる話術があるのなら、それは期待するに十分な気がします。
ただし、いざこちらの気を逸らそうとなった時にその「気の逸らせ方」があまりにも不自然で魂胆が見え見えであったなら、恐らくその人はまだそんなに経験を積んでいません、そんな人が相手の時に紙を掴んでしまったとしたら、ほぼ間違い無くその場には冷めた空気が漂ってしまう事でしょう。そればかりは避けるべきです。多分、その場にいる殆ど全ての人がそれを切に願っています。

その他、「紙だけに集中している段階で紙を掴む事に失敗する」なんていうケースも考えられますが、流石にこれはかなりのベテランが相手でなければ上手くまとめるのは不可能でしょう。私としては、ちょっと推奨しかねます。



05/04/05(火) 第155回 結局の所乗せられている

久し振りにとある自動販売機で飲み物を購入したら、突然「大吉」だの「凶」だのと書いてあるルーレットの様なものが表示されて、「小吉」の所でストップしたかと思ったら最後に「残念でした。また今度、ね!」と出て来た。
む、いつの間にこんな仕様になったのだろうか。以前は確か、コーヒーを買う時には「今正にコーヒーを入れてますよ」と誇示しているかの様なイメージ画像が表示されていたのだけれど。
ただ、今気になるのはそんな事ではなくて、最後の「ね!」の部分にも何かしら思わない事が無い訳ではないもののそういう訳でもなくて、もしこのルーレットで「大吉」が出たらどうなるのだろう、という事だ。
「小吉」で「残念でした」って事はもしかしたら「凶」でも「中吉」でも同じメッセージが表示されるのかもしれない事は想像がつくのだが、いざ「大吉」になった時に何が現れるのかは分からない。こういったルーレット的なものと言えば、まず思い付くものとしては「当たりが出たらもう一本」なのだが、この自動販売機には「『大吉』が出たらもう一つ」といった感じの表記が見受けられないので、もしかしたら「おめでとう」と表示されるだけかもしれない。或いは「おめでとう。また今度、ね!」である事も否定は出来ないだろう。
結局他にメリットが無いのだとすればどんなメッセージが表示されようとも「ケチだなあ」と思わざるを得ないのだけれど、でもそのメッセージを一度見てみたいと密かに思ってしまっている私は、何と言うか、敗者だ。

とは言え、その自動販売機が売っているのは缶飲料ではなく、紙コップに飲み物を入れて出すタイプのものなので、気前良く「もう一つどうぞ」とかって言われても、それその場で飲んでしまわなければならない訳で、じゃあいらねーよっていうのが正直な所なんだけど。



05/04/06(水) 第156回 不屈の裸眼

今日、およそ一年振りに視力を測ったら右目が0.8、左目が1.0でした。去年も同様の結果だったので、この一年で視力が悪化してはいなかったという事になります。日本人の平均的視力がどれ程のものであるか私は知らないんですが、この数値は普段の私の生活を顧みるに意外と高いものと言えるでしょう。
何故か分かりませんが、かねてから私は目を苛め抜くかの様な人生を送る中で、中々視力が落ちていく事がありませんでした。小学生時代は基本的に両目共1.5。しかもこれは1.5よりも上の視力を測る検査が行われなかった状況下でのものです。いわゆる所のカウンターストップというやつです。ピーク時ともなると右目で2.0を記録した事も一度のみですがありました。あれは確か中学一年辺りの事だったと思いますが。
その一度限りの2.0を境に私の視力は徐々に徐々に衰えていく事となります。やはりそうなった最も大きな要因はパソコンを扱い始めたからなんでしょうねえ。でもなあ、パソコンに触れ始める前は前で、今現在ゲーム+パソコンに費やしている時間と同レベルの時間をゲームだけに費やしていた事も珍しくなかった筈なんだけどなあ。何で昔は視力が落ちていく兆候すらなかったんだろ。

まあそれはともかくとしても、取り敢えず依然として目に一切優しくない生活をしていながら、去年の水準を保てていたからまあ良かったです。とは言え、このまま悪化の一途を辿って0.8を切るとなると少し事情が変わってくるかもしれないなあ。気を付けなければ。



05/04/07(木) 第157回 第3のビール

近頃「第3のビール」なるものが話題を呼んでいるとか。普段全くもってお酒は飲まない私ですが、こればっかりは気になって気になってしょうがありません。
聞く所によれば麦芽を使っていないとか何とかで、税金がかからないから安く買えるとかどうとか。でも呼び名がねえ。どうなんですか、「第3のビール」って。始めから飲む気全く無しの私が言うのはなんですけど、その呼び方はちょっと戴けないというものですよ。
かつてビールを対象にかけられていた税金を避けられる存在として「発泡酒」なるものが登場しました。それに続く酒税対策ビールって事で「第3のビール」だという事なんですけれども、これはもう安直とかいうレベルの話じゃありません。「ビール」、「発泡酒」、「第3のビール」、これらを「三大ビール」と呼ぶのが適切かどうかは分かりませんが、その「三大ビール」の名称を一つ一つ考えてみればそれは分かる事です。
まず「ビール」 これはねえ。英語ですからねえ。既に世間にも定着し切っている事ですし、これに異は唱えられないでしょう。長い物には巻かれろ。
次に「発泡酒」 発砲している酒です。その特徴を見事に言い表している名前と言えます。語呂も良し。
そして「第3のビール」 何と言ってもこの名前の最も良くない所は、「の」が入っている事で単語になっていない事でしょう。更に自ら「第3」を謳う事で二番煎じという感じも強く受けます。

そんな訳で、「第3のビール」は何とも野暮ったい印象を受けるんですが、このままこれを野放しにしていると更なる問題が発生する事になります。 もし、その安さが影響してこれまでにない程の好評を博し、ビールに匹敵する位の確固たる地位を得たりなんかしたらどうなるでしょうか。その結果、世には「第3のビール」という名を冠した新しい言葉が次々と登場、蔓延してしまう事になるのです。第3のビール瓶、第3のビール腹、第3のビアガーデン…更には缶第3のビールや生第3のビール、あまつさえ「取り敢えず、第3のビール」みたいな事にまで。
私は、そんな無秩序がこの日本を覆い尽くす前に、早く「第3のビール」の良い呼び方が登場する事を願って止まないのです。
もしか実はもうあったりなんかしたらゴメンなさいね。



05/04/08(金) 第158回 紐如きに翻弄される人生

とにかく寝付きの悪い私は寝ようと思っても寝られないままゴロゴロモソモソとしている状態を三十分程過ごす事はかなり日常的で、場合によっては一時間近く眠れない事もあります。その割になのか、或いはそれ故になのか、寝起きがやたらと悪いんで、これまで何度となく朝と夜の状態が逆転したらさぞかし快適な生活を送れるんだろうなあ、なんて儚い夢を抱いてましたよ。
まあそんな夢はさておき、寝ようと思っている時の寝付きがそれだけ悪いにも拘らず、寝るべきでない状況下では容赦無く睡魔が襲ってくるのがこれまた困りものなんですよ。折角眠れそうになったんだからあんまりそれを無駄にしたくないのはやまやまなんですけど寝ちゃいけないというのは結構苦痛です。で、しょうがないんでその時は頑張って起きてるんですけど、結局いざ眠ろうとなった頃にはすっかり目が冴えてしまっているのです。何でだ。
極めつけはあれですね。もう寝ていいんだけど、まだ寝るつもりはなくて、まだ寝るつもりはないんだけど、眠くなってきた時。これは先の様な「寝るべきでない状況」ではありませんので、そのまま寝てしまっていい訳です。私としても、折角表れ始めた眠気をおめおめと逃がすのは勿体無い所ですから、そんな日は予定を早めて寝てしまおうと思う事になるんですが、世の中そんなに甘くはないのであります。
それまでまだ寝るつもりがなかったという事は、今部屋には明るい状態です。私は「蛍光灯が煌々と照らされている状況でないと眠れない人」ではないので、これから実際に寝る為には部屋の明かりを消す必要があります。そこで、部屋の明かりを消す為に一旦立ち上がり、おもむろに蛍光灯の紐を引きます。勿論、勢い余ってもう一度明かりをつけてしまわない様に留意しつつ
では、いざ、眠ろう。お休みなさい…



……

………

…………

……………眠れん!!

確かに先程まで閉じかけていた瞼は、今となってはパッチリと見開けてしまうのでした。それと言うのも、実に「立ち上がって蛍光灯を消す」という、それだけの行動が原因で、目が冴えてしまっていたのです。私と睡魔の相性が極めて悪いという事を証明してしまう事実であります。
あーあ、タイマー設定とかして、勝手に消えてくれる蛍光灯があればなあ。って、多分それ位の事は全然不可能な事じゃないとは思うんだけど、でも「紐を引くタイプの蛍光灯」が明かりである私の部屋にそんなハイテクノロジーは夢のまた夢ですね。それだったら朝と夜の眠気逆転の方が幾らも現実的か。



05/04/09(土) 第159回 つーか何もかもに翻弄されている人生

一昨日がウンザリする程暑かったから昨日はちょっと薄着をしていたらやけに寒くなるし、しかも昨日は踏切内に立ち往生していたトラックと電車がぶつかったとかで電車が一時間近く止まったし、今日ふと気付いたらこの日誌の第99回と第100回がいつの間にか消えてたし…ちょっと何か思い通りにいかない事が頻発している。四月に入って一週間と少し。まだ本格的な忙しさはやってきてはないけど、ちょっとずつストレスが溜まっていってる感じがするなあ。
今日は休みなんだけど何かとやらなければならない事があったんで日誌は書かないでおこうと思ったんですけども、消えていた二日分の日誌を簡単に書いたついでに短く書き殴っておく事にしました。

あ、ついでに書いとこう。次にプレイするゲームが決まりました。次は「FINAL FANTASY TACTICS ADVANCE」でいきます。まだ買ってないけど、まあ近々買います。
考えてもみれば昨年十一月にプレイを終えた「FF10-2 IN+LM」以来五ヶ月振りのFFです。そんなになるか。
それを終えたら、FFTの二周目に手を付けたいものですね。時期によってはFF12発売日との折り合いがつくかどうか分からなくなりますけど。



05/04/10(日) 第160回 水泡に帰す努力

FF8についての意見で「魔法をいちいちドローすんのが面倒臭い」っていうのを聞く事がよくあるんだけど、私としてはちょっとそれは違う様に思っていて、あの魔法関連のシステムっていうのは、単にドローポイントだのモンスターだのからドローする事よりも、各種精製系アビリティを使って魔法を精製していく事、もっと言うなら「どうすればこの魔法が手に入れられるだろうか」という手順を模索する事にこそ醍醐味があると感じてるんですよ。実際精製系のアビリティを用いればドロー作業を行う必要はない訳で、その為には何かしらのアイテムが必要だったりはするけどそれを集める作業はドロー程単調じゃないだろうし。まあ、アイテム収集作業とドロー作業のどっちがかったるいかっていうのも人それぞれなんでしょうけど。
私自身は「どうすれば目的の魔法を精製出来るか」の手順を構築する事も、必要なアイテムを集める事も、それ以前にドロー作業も面倒とは思わなかったのでこのシステムに対して一切の文句は無かったんですが、魔法精製の何たるかを知らないまま、「ドローが面倒臭い」事だけでFF8の魔法システムを敬遠しているのはちょっと勿体無い気がするんですよね。
勿論それは、「どうすれば目的の魔法を精製出来るか」という手順を確立出来るだけの攻略情報を得られる状況にいる事が前提でありまして、私の様に周囲の情報をまるっきり遮断しながらプレイしている方に対しては「魔法精製を有効活用すればいいのに」とは中々言えないんですが、実の所それ以前に私には「こうすればもっと効率的にプレイ出来るのに」という類の意見を言う資格自体があまりないのです。

これまで少なくない数のゲームをプレイしてきたにも拘らず、とかく私はその効率が悪いのです。
「これをするとイベントが進みそうだ」っていう行為は積極的に後回しにし、「ここに行くとイベントが進みそうだ」っていう場所は積極的に後回しにし、普く町人村人には律儀に話しかけるというのは最早基本、ただ、それについては「ゲームを隅々まで楽しむ」という意味においては無駄な行為ではありませんのでいいとしましょう。しかし中には、その意味、目的が根底から疑問視されてしまう行為もあるんですよね。
特にかつての私の極めて悪いプレイ効率を象徴しているものと言えばDQ5です。DQ5と言えば、最初にサンタローズの洞窟を攻略する事になる訳ですが、この段階で実に10までレベルを上げていたんですよ。どういう事だ。更に続くレヌール城で15、妖精の村で18、ラインハットで20というハイペースでした。これはちょっと異常だと言えるでしょう。今考えてみると何でそんな労力を使っていたのか本気で疑問に思います。
同様の現象はFF5でも見られました。最初の風の神殿で10、トルナ運河前で15、船の墓場で18、北の山で20…何なんだろう、その10とか15とかっていう数字に意味はあるのか?
確か当時は、「このレベルまで上げないと攻略出来ない訳では当然ないが、その先々の糧になるから」とかいう理由でそういった暴挙に出てたと思うんですが、「序盤で100回戦うより中盤で20回、終盤で1回戦った方が実入りが大きい訳だから、序盤でそんなに頑張っても無駄」である事に気付いたのは結構最近になってからの事でした。

そんな訳で「序盤での要らぬ修行」からは卒業した私ですが、それでもまだDQ8での装備品調達とかで、時間の浪費が随所に見られます。そういった行為からの卒業はいつになるかな…


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