05/12/19(月) 第321回 結婚披露宴が好きだ
FFの作曲家として有名な植松伸夫氏が以前「週刊ファミ通」で連載していたコラムの中に、「結婚披露宴が嫌いだ」と題されたものがある。個人的に、私も氏のその文章を読んでいちいち共感していたのだが、先日の土曜日(家を空けていた日だ)、その結婚披露宴に出席してきた。我が姉の結婚式並びに結婚披露宴である。
私がこういった結婚披露宴に出席するのは、記憶の限りでは今回が三度目だったのだが、一度目は物心の付く前の事であって、親から話を聞く事がある程度だし、二度目も小学校入学前の話だったので覚えているのは会場の漠然とした光景のみ。即ち事実上今回が初めての結婚式&結婚披露宴出席と相成った訳だ。
で、実際出席してみて思った。
…感動した。
「感動」という言葉は今やあまりに紋切り型になり過ぎていて、ただ「感動した」と言うだけでは実の所こちらの心情はその大部分が伝わらないかもしれないのだが、しかしただ純粋に感動した。
これが友人知人や、或いは更に遠い関係の人のものだったりしたのであれば、ここまでの感情は生まれなかったのだろう。やはり血の繋がった関係であればこそだ。ただ例え血が繋がっていたとしても、もしそれが兄や弟だったりしたなら、やはりそこまでの感動はなかったんじゃないかな。やっぱり嫁ぐ、そして見送るっていうのは特別なものだ、つくづくそう感じていた。
新婦たる彼女は始終、綺麗なウェディングドレスに身を包んでいたけれど、正直言うと、私はそれを直視出来なかった。見ちゃうと、感極まって泣きそうになってくるからだ、親でもなかろうに。実際父よりも泣いていたかもしれない、何でそこまで感動したのかは分からないけれど。
式と、披露宴が終わって感じた事がある。「結婚はこんなに素晴らしいものだったのか」
私という人間はこれまで結婚について何かしら具体的な願望だの、展望だのを考えた事は一度もなかった。子供の頃は「結婚なんてしたくない」とまで言っていた人間である。それが、まだ物事をよく知らぬ子供の戯言であったとしても、しかし今もって「多分いつかはするんだろうけど、生涯独身もそれはそれで」くらいに思っていたのだ。
しかし一昨日、そんな私の結婚観はガラッと変わる事となった。そりゃ主役二人のあんな幸せそうな顔を見せられたら、そうもなってしまうというものだ、本当に。これからは「結婚」とか、それに縁起でもないが「離婚」とかいう事象の絡む話題の捉え方が変わるんだろうな。
植松氏が「嫌いだ」と言う、そして私も好きではない「往々にしてスベる素人芸」の類の盛り上げというかは、何かの配慮だったのか今回は一切なく、その事もあって今回の結婚披露宴はまこと最高のものであると感じた。
でも、やっぱりこの先あんまり出たくはないかな。特に近しい人間の結婚だと、泣いちゃうの我慢するだけで大変だから(笑)
いやしかし、姉の結婚で涙々だったとなると、もし私に娘が出来たとして、その子が結婚しちゃうとなったらその時は何を思うんだろうなあ。
05/12/20(火) 第322回 忙しくなくない日常
先週まで、何はなくとも優先すべき事項だった結婚式関連の事が無事終わって、さあようやっと日常が戻ってきたぞと、ようやっとゲームが出来るぞとそんな事を思ったりしたのだがさにあらず、今私の下に戻ってきたのは「忙しくない日常」などではなく、以前通りの「忙しくなくない日常」であって、更に言うなら年末を迎えその以前と比べても多少ばかり大変さが増している訳なので、厳密に言えば今私の隣に居ついて離れちゃくれないのは「もっと忙しくなくない日常」という事になろうか。
いやしかしだ、ふと気付いてみれば12月も早残す所10日余りにまでなってしまった訳だが、「ゲーム日誌」の最終更新日が10/30となっている事からも察せられる通り、ここの所全然ゲームが出来ていない。「ロマサガMS八周クリア計画は結局どうなったのか?」なんて言われても「さあ?」と返す他ない。いやいやいや、いずれやるつもりではいるけれど。
考えてもみると凄いぞ。何せ一ヶ月半もの間この私がゲームという娯楽から離れて生活してるんだ。実に一年の1/8に当たる期間をだ。この調子だと今年中にまとまった時間がとれないのももう殆ど確実だろうから、この数字が見る見る内に1/6へ近似していくのはもう明らかというものだし。
以前から自分で自分の事を冗談半分本気半分位で「ゲーム中毒だ」なんて言ってたけども、どうだ、二ヶ月ゲームなしで生きられるらしい事が分かったとなると、意外とそんな重症でもなかったんじゃないのかな。とか何とか言ってたら、いざ「ゲームがプレイ不可能な環境」に移った時に禁断症状が出ちゃったりするもんなんだけど。
今年がこのまま終わるとすれば、今年プレイしたゲームって「DQ8」(二周目)に始まって、「ゼル伝 ふしぎのぼうし」、「FFT-A」、「FFT」(二周目)、「FF4」(二周目)、「ロマサガMS」と、列挙するとそれなりにやってる様には見えるけど、初プレイ初クリアを果たしたものに限ると実に三作品だけだ。やっぱり全盛期に比べると随分数が落ちている様な。
忙しいのはどうにもなんない訳だから、自分の中でもある程度制限かけてプレイするゲームを本当に一部のものに限っているってのに、来年には「FF7DC」と「FF12」が相次いで現れちゃうもんだからそれでもなおプレイしたいゲームは後を絶たないんだよなあ。
あーあ、早いとこ今のごたごたが一段落して「比較的前よりは忙しくなくなくない日」が来ないもんかなあ。
05/12/21(水) 第323回 恐怖の休日代替日
明後日、明々後日、弥の明後日は今年最後の三連休という事になっており、私も、まあ状況的に三日間丸々自由に過ごせる訳はまずないだろうなとは分かっていながらもしかしそれを楽しみにしていたのだが、何か聞く所によると今夜から明日にかけては天気が大荒れになるとかで、居住地域の関係上このままいくともしかしたら明日は強制休日になってしまうのではという状況に立たされている。
つまり、そうとなると思いがけず四日間もの連休になってしまう訳だ。四日間て。流石にこの雪だから何処かに出かけられるという訳じゃなかろうけど、でもそれだけの時間があったらこのご時世、行こうと思えば世界中の何処にだって行けちゃうだけの時間だよ。さーて何しよっかなー、久々にロマサガMSの五周目なんぞ始めちゃおっかなー、それともこれでもかってくらい寝まくってやろうかなー、あー、何したらいいか迷っちゃうなー、でもそうやって迷っちゃうだけの時間があるんだからそれもしょうがないよわーいわーいなんてそんな訳ねーだろバカヤロウ。
明日期せずして休まざるを得なくなるっていう事はだ、何処か別の日でその皺寄せをしなきゃいけないって事だろう。ただでさえ皆が忙しく振舞うこの年末、世界的に見ても人々が働き過ぎだというこの日本社会の中にあって、天候云々が理由で休日がポッと一日現れる訳がないだろうが。
だからと言って、明日大雪が降っている事はもう逃れようのない現実なのであって、その中をこれまた大幅な遅延が確実な電車に揺られて行くというのも辛いというもの。
休んで辛し、休まずとも辛し。私はどうすればいいのだろうか。一つだけ分かっている事は、そうして振り回される運命の当人には一切の決断権が与えられていないという事である。
05/12/22(木) 第324回 強制的四連休に思うそれとは別の憂い
結局今日は強制休日になったとさ。行きたくったって電車自体が運休してたりとか、三、四時間も遅れたりとかしてるからもう本当にどうしようもなかった訳で。迂闊に向こうの方まで出かけてたら危うく帰って来れなくなる所だったぞおい。
いやしかし、これで本当に四連休だよ。そんなにいらないよ、何処かにズイッと入ってくる今日分の日程の事考えたら本当に。
まあでもね、折角の休みではある訳ですから、恐らく今年最後なのであろうこのフリータイムを謳歌してやるよ? 予定では「妄想」の新作をこの連休中に一つ投入するし、買ってからもう随分な時間が経ってしまってるFF7ACも見る予定だ。おうともよ、勿論それだけじゃあないぞ、来たる年末年始に私を待ち受けている数日ばかりの休日を、今度こそ精一杯、限界までくつろぎ倒す為にも、この連休中になるべく私に課せられている題目を片付けてしまっておくんだうはははは。
「一般常識」さもなければ「道徳感」たるものを着々と育んでこられたであろう皆様方におかれては、最早改めて言う事でないとは思うが一応述べておくのであれば、さあ一番に何を優先するかと言われた時にまず選ぶのは「妄想」の新作でもなければFF7ACでもないぞ。取り敢えず私が何にも増して手を付けておくべきなのは他ならぬ私自身への課題達だ。であるからして、これから三日間の間に「妄想」の更新がないどころか他コンテンツの更新がなかったとしたって文句なぞ寄せないでおくれよ、寄せないでおくれよう。
とまあ、何処かテンションがおかしくも見えるがちょっと真面目に話をするとだ、これから先サイトを運営していくに当たっては、今よりもうちょっと更新頻度を落とさないといかんなあと思っているのである。前回更新以降は特別に忙しかったから例外と見なすとして今は大体8〜10日位のペースで現状毎日更新の「雑文」「俺的事典」以外のコンテンツを更新してる訳だけど、これを半月に一回程度のペースに落とさないと絶対この先やって行けないのだ。これは誰あろう私が言ってる事だから信じて戴くしかないのだが。
まあ思う所はあるのだけれど。半月に一回じゃやっぱり少ないかなあとか、でもこういうバカ文章を日々書く中でこれ以上奮闘しろというのも酷な話であるのは確かであるし。
このサイトを語る上でこれまで度々問題にしてきた事と言えばもう一つ、コンテンツの若干の薄さがあるが、これについては最近この位の方がいいなあと思う様になってきた。見る側の皆様がどう思うかは分からないけれど、今の状況で闇雲にコンテンツを増やしたとしたら、それぞれのコンテンツの更新頻度がその分だけ下がっていくのは明白だからね。
ただそれでも、近々新コンテンツを一つ始動させたいとは思っている。ただ、そう思い始めてから二ヶ月程経ってしまった様な気もするから、その「近々」がさあいつの事になるのかは神のみぞ知る、いやいや、神にすら分からない所なのだけれど。
05/12/23(金) 第325回 年賀状を書こう
強制四連休二日目。天気もひとまず落ち着いておだやかな一日を過ごす。
「妄想」新作を書く。今日一日で2467文字書く。予定より大分少ない。本当に明日、明後日の内に公開出来るのかな。
さて、先週土曜日にあった身内の結婚式出席とかいう事があって今年は随分遅くなってしまったのだが、今年も残り八日。そろそろ年賀状を書かなければならない。
我が家では数年前から年賀状作成に際して専用ソフトを用い、パソコンにて作る事になったのであるが(ちなみにそれ以前はプリントゴッコ)、これパソコンでやる様になったからって、作業時間が大幅に短くなるとは限らないもんなんだよね。
表の宛先はいいよ。手書き時代よりも遥かに早く刷り上げてくれる。これについてはもう全く申し分ないというものだ。でも裏の絵柄の方はどうだ。かつてのプリントゴッコだったらばだ、雛形になる絵を一つ選んだら後は機械作業でペッタンペッタンとやってればまこと素早く何十枚という年賀状が完成したものだけど、さあパソコンの専用ソフトを利用するとなったらどうだろう。背景を決めて、干支の絵をどれにするか決めて、挨拶の文言を決めて、かてて加えて配置とかを細かく調整して…自由度が高いばっかりに、実は全然楽だったりはしない。印刷についてもそうだ、少なくとも家にあるプリンターは結構前に購入した物だから、カラー印刷しようものなら一枚につきそれはもう時間がかかるかかる。何だろうかね、これじゃあ何の為にソフトを買ったのかね、そう自問してしまうのも致し方ないというものじゃなかろうか。はっきりとメリットに働いたのが認識出来るのって住所録を作成する事による宛先印刷だけど、でもそれWordでも出来るし。
結局一年に一度しか使わないから、毎年毎年使い方を忘れてしまってるのも中々歯痒いものがあるんだよなあ。ええっと、宛名を連名にするのってどうすればよかったんだっけ。ああっ、干支の絵は何処にあるんだっ!?
とまあ、何か色々言ったけれども、本当に言いたい文句はこれである。
あのー、まあ確かに家でパソコンを最も使えるのは自分であって、それはまあ認めるにやぶさかではないんだけど、だからって他の人の年賀状も全部私が担当する事になってるのはどうだろう? パソコンが全く使えない訳じゃないんだから、丸投げじゃなしに少しは使い方を勉強してみてもいいんじゃないかと思うんだけどなー。
そうじゃなくても、せめて、せめて私に「頑張ったけどダメだったから今年も頼む」的な頼み方をして下さい。お願いですから、ただ何にもなしで「じゃあ今年も宜しく」と言うだけなのは…ちょっと…
さ、今年も年賀状を書こう。
…他人のな。
05/12/24(土) 第326回 ある意味奇跡の目撃者
そう言えば自分はある意味奇跡の目撃者だなあ、なんて事を思った。
開かずの踏切なんてのが時々問題になっているのを聞き、そういった話題を耳にする度に「都会人は大変だなあ」と感じる一方で、基本的に30分〜1時間間隔でしか電車が踏切を通過しない様な地域に住んでるもんだから「自分には関係のない話だなあ」とも感じていた。
いやしかしだ、開かずの踏切でなくたって踏切に引っ掛かったらイラついてしまうぞ。特にこっちの場合運転手は普通に通過出来ると思って走ってる事が珍しくないんだから、運悪く遮断機に降りられちゃうとそれは本当に極めて運が悪かったという事であって、そんな己の不運さをただただ嘆くしかなくなってしまうのである。
と、この事を受けて思ったのだ。「自分はある意味奇跡の目撃者だなあ」
踏切の遮断機が降りる時というのは、言うまでもなくそこを電車が通過する時だ。つまりこれは主観を逆に捉えて、電車に乗っている側の人間の立場になってみると、そういう人達からすれば踏切の遮断機はいつだって降りているという事になる訳だ。当たり前だろう、その遮断機はお前等の為に降りてんの。
以前から私は日々長距離間を電車で往復している事を述べているが、そうなるとだ、つまり私は、そうして電車で移動する最中、常に「こんな田舎で踏切に引っ掛かってしまった不運なドライバー達」を見ているという事になる。
ただ引っ掛かるというだけで十分に稀、しかるに電車に乗っている限りはそんな稀な出来事満載。故に奇跡と、ある意味ね。
05/12/25(日) 第327回 来年は閏年だ
来年、実に七年振りとなる閏秒が実施されるとの事だ。
ご存知でない方の為に簡単に説明しておこう。「閏秒」とは、極めて高精度である原子時計の実現後、地球の自転が実は徐々に遅くなっている事が判明し、その為にやはり徐々にずれていってしまう時刻をその都度修正する為に、あるタイミングで挿入する一秒の事である。「閏年」が「日を挿入する」ものである事はご存知の事と思うが、その秒版と考えて戴ければいいだろう。その閏秒が、来年実施されるのである。
その事実を知ったのはちょっと前の事だったが、私はそれ以前から閏秒の事を知っていた。何年だったか前に、実際に一秒が挿入されたタイミングをニュースで取り上げていたのを見ていたからだ。いやしかし、まさかあれから七年も経ってたなんて。度々言うけど、時の経つのは早いものである。
さて、その閏秒なのであるが、私はこれにちょっとした疑問を抱いている。勿論「そんなたった一秒位わざわざ調整する必要もないじゃん」とか言うつもりは全くないのだが。そうではなく、何故この事を「閏秒」と言うのか、そのネーミングに疑問をぶつけたいのだ。
「閏年」とはつまり、「平年よりも一日分だけ日数が多い年」の事だ、それは分かっている。これを基準に考えるとするなら、来年の元旦に生じるのは「普通よりも一秒分だけ秒数が多い分」、即ち「閏分」とでも言うべきなのではないだろうか。「閏年」は時間を挿入される側の立場で物を言っていながら、何故「閏秒」は時間を挿入する側の立場に立っているのだろう。この違いが何とも気持ち悪く感じられてしまうのである。「閏年」の対義語は「平年」であるらしく、ここにおいても「年」の読み方が音訓で違っている等という気持ち悪さもあるが、「閏年」には「じゅんねん」なる読み方もあるからそれはいいとして、閏年と閏秒についてはどちらかが主観を変えて、前者の名称を「閏日」にするか後者の名称を「閏分」にするかするべきではあるまいか。つーかしなさい。
いや待てよ、ここで私は思った。ある特定の時刻に一秒が挿入される事によって、「普通よりも一秒分だけ秒数が多い分」ここでは仮に「閏分」とした分が生じるのは確かだが、しかしそれは同時に「普通よりも一秒分だけ秒数が多い時間」人呼んで「閏時間」でもあるし、そう考えていけば「閏日」とも「閏月」とも、あまつさえ「閏年」とも言って差し支えなくなってしまう事になる。
ほー、そうだったのか、じゃあもうこれ全部統一して「閏年」って呼んでしまってはどうか。したら来年は閏年だね。日数は365日だけど、秒数が31536001秒だからね。
この際だから「閏年」の定義も改めてしまおう。これまでの定義が「西暦年が4で割り切れかつ100で割り切れない年または400で割り切れる年」だった訳だから、これからはこうだ。
「西暦年が4で割り切れかつ100で割り切れない年または400で割り切れる年ただし不規則な地球の自転速度の変化具合により非周期的であり上記非該当年の可能性有り」
…分かりづれー!
05/12/28(水) 第328回 アルファベット暗号
EIBIISHIIDHIIIIEHUZIIEICHIAIJEIKEIERUEMUENUOOPIIKYUUAARUESUTHIIYUUBUIDABURYUUEKKUSUWAIZETTO
何か、思い付きだけで「アルファベットの読みをローマ字打ち」してみました。
それだけっす。
…いや、本当に何にもないです。すんませんね、たまにはこういう日もあるって事で。
……と見せかけて実は……
マジで何もなかったりする。
次回予告:「アルファベットの読みをローマ字打ちしようと思ったら実は入力モードがかな入力」編
つーか次回に持ち越すのも気が引けるんでここでやってしまおう。
いにこににとくににしくににににいくなつににいにそくにちにまいにのい
にのちすんちのな
じゃなかった以下略。
05/12/29(木) 第329回 2の話
げに忌まわしきは「2」の奴である。
私が何の話をしているのかと言うと、
この様ないわゆるデジタル数字とでも言うのか、についてだ。
と言っても、それだけではやはり私が何を言いたいのか殆どの人には分からない事だろうと思うので補足するが、私が今言っているのは、
についての話である。
有り体に言って、
についての話である。
さて、お分かりの通りデジタル数字は上辺に下辺に左上辺に左下辺に右上辺に右下辺に中央辺と、全部で七つの辺によって構成されているが、その右下辺についてあの「2」の奴が、ただ一人やっちゃってるのだ。
0から9まで、全ての数字の右下辺をご覧戴ければ分かる事と思う。2以外の9種の数字については右下辺を使用しているのに、問題の2だけ使用していないのである。
どうだろう、この空気を読んでない感じ。この場違い感。他の奴は全員が全員、あのたった2辺しか使用しないという1ですら右下辺の牙城だけは頑なに守り通してきたと言うのに。
もし、もしだぞ、君がその右下辺を煌々と輝かせていたらばだ、右下辺については常時点けててもよくなっていた筈じゃないか。それが君たった一人のわがままでこんな事になってしまってる。その現状を君は本当に分かってるのかい?
げに忌まわしきは「2」の奴である。
ま、物によっては「E」とかの数字以外の文字を表示させる場合もあるんだから、ただ2の奴だけを非難しちゃいけないんだけど。
05/12/30(金) 第330回 100の話
げに紛らわしきは「100」の奴である。
私が何の話をしているのかと言うと、英単語についてだ。
話に入る前に、是非これをご覧の皆様にはここでまず「100」を英語で書いてみて戴きたい。果たしてどれだけの人がこれを正確に書けるだろう。
まあ、もしかしてそれは大抵の人にとって「one」だの「two」だのいう位に常識的な事かもしれないのだが、しかし少なくとも私にとってはその限りではない。大体にしてあまり使う機会のない単語である事もあるからだろうが、いざこれを書くとなった時、私はいつも悩んでしまうのである。
五文字目にくるのが「r」か「l」かでまず悩む。でもこれはいつも程なく答えが出て来る。正しいのは「r」である。
しかし本当の難関はこの後だ。いよいよ最後の文字を書くという段になって、私はその筆を止めざるを得なくなってしまうのだ。
「ハンドレット」だっけ、それとも「ハンドレッド」だっけ?
h,a,n,d,r,e...とまで書いた所で、最後が「t」だったのか、それとも「d」だったのかがさあ分からない。何かどっちもあり得そうだから何となくの見当すら付かない。
でもこんな世間的には簡単な単語にいつまでも悩んでいる訳にはいかない。と言ってどちらかよく分からないままうやむやになるのもどうも気持ち悪くて嫌だ。結果として私は、手元にある電子辞書なり普通の辞書なりを引いて、或いはパソコンを使っているなら文章校正してみる等して解を得るという手間を強いられる事になるのであった。
げに紛らわしきは「100」の奴である。
何せそうして答えを得た瞬間、私は「t」だ「d」だという議論以前に「hand」じゃなく正しくは「hund」である事を知るのだ。
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