過去ログ34へ  過去ログ36へ  最新の雑文へ戻る  過去ログ一覧へ  トップページへ


06/01/12(木) 第341回 じゃんけんの不文律(その3)

「グー」は「石」
「チョキ」は「鋏」
「パー」は「紙」

「鋏」は「石」を切れないから「鋏」<「石」
「鋏」は「紙」を切り刻むから「鋏」>「紙」
「紙」は「石」を包み込むから「紙」>「石」

貴方はこれだけをして、じゃんけんというものの全てを知った気にはなっていないだろうか。はっきり言ってしまえばそれは間違いだ。「石」を意味する「グー」、「鋏」を意味する「チョキ」、「紙」を意味する「パー」という三種の手によって繰り広げられる戦い、それがじゃんけんであるが、その戦いには時にその三手のいずれをも凌駕する「第四の手」が姿を現すのだ。
「第四の手」それこそ、「チョキ」の型から更に親指を立てた型である。これを俗に何と言うのか私は知らないのだが、これは薬指と小指の部分が「グー」、人差し指と中指の部分が「チョキ」、立てられた三本の指と掌が「パー」を表しているという事で、何と相手の如何なる手にも勝ててしまうという究極の一手なのである。
勿論、異論はあろう、反論もあろう。その手をルールとして許容してしまえば、これまでで日本の小さな争いという争いを統治するまでの市民権を得るに至ったじゃんけんが正々堂々もへったくれもないものになってしまうではないか。巷に「第四の手」が蔓延してしまうではないか。
ただちょっと待て、本当にそうと言い切れるか? 何の根拠もなしにただ「第四の手」だけを排除する事は、言わば差別にもなりかねない行為ではないか。私はそんな世の風潮を見過ごしてはいられない。だから考えよう、「第四の手」というものを。

一言に「『グー』にも『チョキ』にも『パー』にも勝つ手」とは言うものの、その実態は言葉が醸し出す楽勝ムードとは少々趣を違える。
例えば「第四の手」vs「パー」という状況を考えてみよう。この場合、第四の手側に標準装備されている鋏によって紙が切り刻まれてしまったとしたら、文句なく「パー」は負けてしまったと言える。しかしどうだ、「パー」はただ「第四の手」の前に立ち尽くしているばかりという訳じゃなかろう。何となれば彼には第四の手の一翼を担っている「石部」を倒せる可能性が秘められているのだから。
そう、第四の手と言えども正真正銘オールマイティという訳ではない。基本「石」と「鋏」と「紙」から構成されている以上、そこには必ずや弱点が存在する。そこに立ち向かうのが「紙」であるならば、最低でも彼は第四の手の「石パーツ」を撃砕出来る可能性を持っているのだ。
無論、そうして「石パーツ」を撃砕出来たとて、その後すぐに残る鋏によって引導が渡される事になるのは確実。よってこれが勝敗に大きく関わるという事はないのだが、しかしこの事を踏まえると俄然考えたくなってくるのが、次の二者による戦いだ。

「第四の手」vs「第四の手」

「じゃんけんは心理戦だ」とよく言われるが、これこそ「心理戦」の名に相応しい戦いと言えよう。双方が「グー」「チョキ」「パー」という三つのパーツを擁している中で、まず誰を出撃させるのか、まずどのパーツをターゲットにするのか。相手はどう出て来るのか。その奥深さは単に九通りのパターンしか持ち合わせていない普通のじゃんけんの比ではない。
ここで大事になってくるのは、昨日の考察で明らかとなった「『石』は積極的に攻撃を仕掛けてこない」という事実である。つまり、鋏は無闇に石を攻撃せずに、冷静でいさえすれば無敵なのだ。
という訳で石パーツは後回しにし、他のパーツの撃破を優先させるとしよう。と言っても鋏については前述の通り、相手から仕掛けてきてくれない限り何ともならないのだから、ここで狙うべきは紙パーツである。しからば、と紙パーツ討伐の為に出陣する鋏パーツ。しかし話は簡単ではない。何故なら恐らくは相手も同じ考えの下に鋏パーツを出してくるであろうからだ。
ここで、万が一にも自分の鋏と相手の鋏とを取っ組み合わせてはならない。そうして事態が膠着状態になったその瞬間、後は残った両者の紙パーツが、それぞれ相手の石パーツを打破した段階で勝負は決着、つまり「あいこ」という結果に終わってしまうからだ。
ここでは一か八か、向かって来る相手の鋏をかわし敵の紙パーツへと一直線に向かっていきたい。更に容赦なく迫りくる相手の鋏には、守りの一手として石パーツを盾に使って凌ぐのだ。もしそれで、自陣の紙パーツが健在のまま相手の紙パーツを倒す事が出来たなら、もう大方の勝負は貰った様なものだろう。後は、相手の紙パーツを倒した返す刀で自陣を攻めている鋏パーツと相打てば、残るのは両者の石パーツと、自陣の紙パーツのみである。最後の石について、どう料理するかはその時の気分なり何なり、ともかく貴方に任せるとしよう。

如何だろうか。ただ「グー」か「チョキ」か「パー」を出し、その組み合わせによって勝敗を決していただけのじゃんけんが、「第四の手」の介入によってこれ程までにスピード、タイミング、戦略性を重要とする戦いへと変貌を遂げるのだ。
「じゃんけんは格闘技だ」と言われる事がある。そしてその真理は、「第四の手」にこそある。



06/01/13(金) 第342回 じゃんけんの不文律(その4)

「グー」は「石」
「チョキ」は「鋏」
「パー」は「紙」

「鋏」は「石」を切れないから「鋏」<「石」
「鋏」は「紙」を切り刻むから「鋏」>「紙」
「紙」は「石」を包み込むから「紙」>「石」

そして昨日はこれに加えて、じゃんけんというものの戦いをより一層白熱させてくれる事が期待される「第四の手」について、その可能性を考察したのだが、じゃんけんの可能性を広げる余地はまだ他にもある。
「グー」「チョキ」「パー」三手即ち「石」「鋏」「紙」三物質の優劣がそれだ。これまで三日間にもわたる考察の中で少しずつ浮き彫りとなってきた三者の性格、そしてそこから導き出される各々の弱点を的確につけば、これまで劣勢の立場にあった相手にすら勝機が見えるかもしれないのである。
例えば「石」を例にとって考えてみよう。昨日までで、あまり積極的に攻撃を仕掛けるタイプの奴ではない事が分かったこの石だが、ここは一つ決起して紙に立ち向かってみるのだ。いつもなら何もしない内にただ包まれて終わりだった所を、一世一代の大勝負とばかりに飛び掛るのだ。石だってやる時はやる、その勢いのままに紙を突き破ってやれ。その時歴史は動く。これまで人々の間の決め事だったじゃんけんに関しての不文律がものの見事に崩壊し、「グー」は「パー」に勝つのである。
「チョキ」も「グー」に勝てる、ただし条件付きだが。石の弱点、それ即ち閉所恐怖症である事だった。これを利用すればいいのだ。紙がそうしている様に、石を包み込んでしまえばさしたる攻撃もなく勝利を手にする事が出来よう。ただ、自分一人ではそんな芸当は不可能であるから、ここは仕方がないが数多くの同志が必要となる。肝心の石の大きさにもよるが、石一個に対して鋏は二、三十と言った所か。「石1vs鋏30」 ルールに則りさえするのなら石の一人勝ちに終わるこの戦いが、鋏勢の一致団結によっては結果を覆すのも無理な事ではない。
「パー」についてだが、残念ながら彼が「チョキ」に勝てる見込みはないと言わざるを得ない。流石に薄っぺらい紙風情が金属製物質たる鋏に楯突くのが間違いだったか。どう足掻いても精々鋏の奴を石よろしく包み込んで、しかし閉所恐怖症でもない鋏が身動きを取れなくなりながらも決して根を上げない状況のまま結果として引き分けに持ち込むのがやっとである。

こうしてみると、これまでその強さが果てしなく均等で平等だと思われていた「グー」「チョキ」「パー」にも、何かしらの相違点、そしてそれに付随する優劣がありそうな気がする。

基本的にはその場を動かず、相手の出方に任せるばかりの「グー」
黙っていれば「グー」相手にすらあいこに持ち込めるのに、いつもいつも無謀な戦いを挑んでしまう無鉄砲な「チョキ」
「グー」の閉所恐怖症という弱点を上手くついて、絶対不利だった戦いに活路を見出した「パー」

さあ、貴方はどの手を出しますか?



06/01/14(土) 第343回 じゃんけんの不文律(その5)

「グー」は「石」
「チョキ」は「鋏」
「パー」は「紙」

「鋏」は「石」を切れないから「鋏」<「石」
「鋏」は「紙」を切り刻むから「鋏」>「紙」
「紙」は「石」を包み込むから「紙」>「石」

そしてこれに加わる「グー」にも「チョキ」にも「パー」にも勝てるという「第四の手」 しかしよくよく考えてもみれば、この第四の手がグー、チョキ、パーと対峙した所で、それが即第四の手の勝利に繋がる訳でない事は先日明らかとなった。所詮第四の手も既存の手の集合体、相手がグーなら鋏パーツは歯が立たないし、相手がチョキなら紙パーツは切り刻まれる運命にあるだろうし、相手がパーなら石パーツに明日はないのだから。ただ第四の手は、後の二パーツが敗れずして残ったのをいい事に、残りのパーツで相手を倒す事によって、「2/3:0」というあまりに中途半端な形でそれとなく勝っていたに過ぎない。これも全て日本という国が、多数決こそ物を言う民主主義国家であるがこそだ。他の国じゃこうはいかんかもしれんぞ、そこの所は留意しておいた方がいいだろう、第四の手君は。

さてだ、そこで私は考えたい。第四の手の様に、勝つ為に必ずや犠牲を伴う事を余儀なくされるものではなく、正真正銘どんな手が相手でも勝てる「究極の手」というものは存在しないのだろうかと、いや、存在しないならしないで、それを作り出してみようじゃないかと。グーにもチョキにもパーにも勝てる手、それ即ち三手の寄せ集めに過ぎない「第四の手」にすら勝ててしまう正に「究極の手」たり得る。そんな一手は、はて。
まず何はなくとも荒くれ者の鋏を何とかしなければならないが、打撃に強い奴には一つ熱で攻めてみよう。これでもかという程の熱によってドロドロに溶かしてやるのだ。しかもそれはそのまま紙対策にもなろうし。さて、では石はどうするか。石の奴に熱を与えてしまっては場合にもよるだろうが逆効果に転じないとは言い切れない。ふむ、ここはやはり速攻策で、一気に砕いてしまいたい所だ。

以上より私は、じゃんけんという、日本人が生涯で行う恐らくは最も高頻度であろう勝負事に関し、この一手を「究極の手」としてここに提唱する。
石、鋏、紙、並びに第四の手に続く「究極の手」 それは…

溶岩(でっかめ)

呼び方は音節数を揃えるとしたら英語名から拝借して「ラヴァ」とかか? グー、チョキ、パー、ラヴァ。どう譲歩しても違和感は否めないが。発音がいちいち難儀だったら「ラバ」でも良し。
一つ問題になるのは如何にして片手で、溶岩(でっかめ)を容易に想像出来、尚且つ他のどの手と比較しても瞬時に区別が可能な相違性のある形状を表現するかだが、そこの辺りは皆様に任せる事とする。

ちなみにラバvsラバになった場合、より大きい岩を表現した方が勝利なので、手が大きい人が有利という甚だ不公平なゲームになってしまいかねないが、まあその辺りは我慢して戴きたい次第である。



06/01/15(日) 第344回 じゃんけんと私(前置き)

昨日までじゃんけんという勝負に関し万が一にも人前で嬉々としてしかし真面目に情熱を持って愛を持って雄弁な語り口で以って喋ろうとするなら必ずや白い目で見られ場合によってはそれら人達との関係すら根本から清算しようとも言われかねない戯言を述べてきた。つーか私は元々この「じゃんけんの不文律」については二回位で終わるつもりだったのだが、それがいつの間にか五回にも膨れ上がっていた、恐ろしい事である。という訳でこれからようやく本論に入るのだが、考えてもみると結局本論はこれまで書いた「じゃんけんの不文律」とは一切の関係がない事に気が付いた、恐ろしい事である。

と、その前に一つ。ここでこれをご覧の方達と是非実際にじゃんけんをしてみたい。
それが本論でどう関係するとかそういった訳ではないのだが、ただ単に、「第四の手」も「ラバ」も何にもなしの純粋なじゃんけんを、こんなにもじゃんけんの事について書き散らしたんだからこの機会に是非ともやりたいなあと思ったのだ。お暇なら勝負してやってって下さい。

三回勝負で行きます。それでは…

じゃん…

けん…

ぽん!!


本論は次回。



06/01/16(月) 第345回 じゃんけんと私(本論)

という訳で本論なのだが、とにかく私が言いたいのはこれに尽きるのである。

じゃんけんに弱い

これまで約一週間にもわたってじゃんけんに関するあることない事をぐだぐだぐだぐだぐだぐだと述べ倒していて今更何だが、そりゃもう弱くて仕方がないのであった。つーか、「第四の手」がどーだ「ラバ」がどーだとか言ってたら勝てないのも当然とかいう事なのか、もしかして。
私がじゃんけんに弱い理由は幾つかあるが、中でも原因として大きなウェイトを占めているのではないかと思われるのが「初手の選択」だ。
これまでに何度か、「第一手はチョキの確率が高い」という話を聞いた事がある様な気がする。実際その様な定説は存在するらしく、それがどこまで信憑性のあるものなのかは分からないのだがしかし、私はそういう人なのであった。指摘されるまで気付きもしなかったが、咄嗟の勝負とか、無意識下での戦いとなると第一手チョキの確率は実に九割五分(推定)、面白い位にチョキを出してしまい、そしてまんまと相手方のグーにやられてしまうのだ。それでも、指摘されて以降は大分ましになったと自覚しているけれど。

勿論、第一手を凌げたってじゃあ後は安泰かって言ったらそんな訳はなくて、第二手以降であっても負け率はさして変化するでもない。ただ、じゃんけんに強い人間が何故そんなに強いのかが全く分からないんだから、自分が何故こんなに弱いのかも全然分かんなくて、全然原因が見えてこないのだけれど、うーん、でも一つにはあれがあるかもしれない。
変な話かもしれないのだが、パーを出すのが苦手なのだ。と言って、どうしても掌が丸まってしまうドラえもん体質なので中々にしてパーの形を作れないとかいう事ではない。
パーと言えば勿論手をこれでもかと言う位に広げる形を取るのであるが、私にはこれがどうしても「無防備」に感じられてしまうのだ。グーはいい。先日の性格等々の話題にもある種通じる部分があるが、グーはその存在自体が防御である、防御の権化である。チョキもまだいい、親指、薬指、小指辺りが何となく守ってる感じを出してる風に感じられる。だがパーはどうだ。ただでさえ単なる紙である、あまつさえノーガード戦法である、矢吹丈である、力石徹である、丹下段平である、白木葉子である、そろそろ大分違ってきたかも知れぬ。

ともかく、ノーガード戦法と言えばジョーなのである。私はジョーではないし、そしてジョーにはなれないのである。例えどんなに願ったって、どんなに憧れたって、どんなに頑張ったって、私はジョーではないし、故にジョーは私ではないのだ。
ジョー、思うに彼はじゃんけんにあってもノーガード戦法が常だったのではなかろうか。私が初手チョキ人間だった様に、彼は初手パー人間だったに違いない。

だとすれば、ジョー、君もじゃんけんには弱かったんだな。



06/01/17(火) 第346回 いろは歌

丸々一週間、じゃんけんについて話をしていたのだが、まさか大オチが「あしたのジョー」だったなんて。誰にも読めなかった展開である、何となれば私にだって当日まで読めなかったのだから。

それはともかくとして、ずっと前に「みんなのうた」で「いろはまつり」という歌がある。
タイトルからも分かる通り、これは「いろはにほへと…」から始まるいろは歌を題材にしており、その歌詞はこうだ。

いろはにほへと
ちるぬるをわか
よたれそつね
ならむういの
おくやまけふこえてあさきゆめみしえひもせす
ん!

ちょっと違う所があるかもしれないが、概ねこんな感じであった。
これを「ドレファレファッファラー」(キーは異なるかもしれないが)というメロディーに乗せて歌うのであるが、しかしどうだろう、これはこれでいいのだろうか。
実に二十年程も前の話であるから今の若い人達は知らないのかもしれないが、しかし我々の世代にとってみれば、これが「いろは歌」というものとの出会いであった人間が殆どだった事だろう。かく言う私もそうであった。
考えてもみれば、これは罪と言えなくもないのだ。何故か。元々このいろは歌は無常観を歌う仏教的内容の詩を、七五調にてしたためた歌である(呪いがどうたらという説もあるらしいが今はそれはおいておいてだ)。原本を見てみると分かる事だが、

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

前述の「いろはまつり」における歌詞は完全に元々の意味を無視し、ただ都合のいい所で好き好きに切ってしまっており、七五調の美しさは最早微塵も感じられなくなっているのである。幼少の頃に何度も「いろはまつり」を聴いていて、「いろは歌」と言えば「いろはにほーへとー♪」だとしか思っていなかったのだから、いざ本来の歌を知った私に走った衝撃たるや。まるで別物じゃないの。
即ち私が言いたいのはこれだ。あの当時、まこと多くの少年少女に「いろは歌」というものをただの五十音の並びとして認識させてしまった「いろはまつり」の存在は、考え方によっては罪であると言えなくもないと。

今もって、私にとって「いろは歌」の区切り所は「と」であって「か」である。まあ、それが生きていく上でさして問題になるという訳ではないのだけれど。



06/01/18(水) 第347回 ジャネーの法則

初めにこれだけ言っておく。今日このネタを取り扱おうと思ったのは別にフジテレビジョン系列テレビ放送局水曜九時放送の「トリビアの泉」を見たからという訳ではない。勿論それを信じる信じないは皆様の自由であり、信じてもらえなかった場合は勿論信じてもらったからとてじゃあどうだという事はないのだが。

閑話休題。
「時間が経つのが早く感じられる様になった」
そんな話を耳にする事はよくある。私もこれまで何度か言ってきた事だった。そしてそれは皆様方におかれても身近な感覚であるかもしれない。
一言に「短い」と言っても、どの程度短く感じるのか、それはその時一体何をしているのかでいちいち変わる事になる。一般的には、楽しい事に熱中している最中はより早く感じられ、辛い事に従事している最中はより遅く感じられる傾向にある訳だ。
私にとって、私の身の回りに流れる時間を最も早く動かす存在、それがテレビゲームであった。今や去りしあの日々には、平日で三時間、休日ともなれば六時間がそれぞれプレイ時間の最低水準という、もう絶対に帰って来ないのであろう生活を送っていたこの私だが、ともかく六時間即ち1/4日とかいうべらぼうな時間を浪費していたあの日々ですら、当該の時間帯はそれはそれは短いものだった、うん。

さて、そうとなると私の周りの時間は近年流れが遅くなってきたのではないかという議論が巻き起こりかねない。先にも触れたが最近は昔に比べて大幅にゲームへ費やす時間が減少したからだ。
しかし実際はどうだ、何の事はない、今だって時間の経ち方は十分過ぎる程早い、何だったら昔よりももっと早い。理由は簡単である、勿論私が年を取ったというのも当然挙げられてしかるべき原因の一つではあるが、事態は更に単純だ。私のすぐ側に、時間経過という観点にかけてはゲームに匹敵する程の伏兵がいたからだ。私はそいつの存在によって、否応なく「今年ももう終わりかよ」的な思いに捉われさせられているのである。
伏兵、それこそ「ストーブ」その人だ。こいつは恐ろしい。何がって、「楽しい」「辛い」とは無関係な立場にいて一見今回の件に関しては無縁そうな素振りをしている所が恐ろしい。
一体ストーブの何がそこまで私の時間を急かしてしまうのか? その鍵となるのは「自動消火機能」にこそある。大抵のストーブには今や、使用者不在といった不測の事態への対策として、三時間程したら自動的に消火する機能が備わっている。ただ、普通に使っている時にすら三時間経った段階で消えてしまわれては寒くなって堪ったもんじゃないって事でこの機能には同時に、それを押すと連続点火時間を0からカウントし直す「三時間延長」といったボタンも装備されている。勿論、そのボタンがあるからと言って不意に火を消してしまわれては元も子もない訳だから、連続点火時間が三時間に近似するやストーブは「ピーッ」なり「ピピピピ」なり、とにかく「『三時間延長』押すか消すかしなさいよ」という事をアラームにて使用者に通知するといった寸法だ。

でだ、このアラームが曲者だったのである。具体的に言うと、「いつもいつもアラームに鳴られてしまう」のだ。基本、このアラームというものは、使用者に対し何らかの危険性を示唆する為に存在するのだから、まあちょっとばかりうるさい。そこでこちらとしては、出来る事ならこれを鳴らさずにおきたいものだ。アラームを鳴らさずにかつストーブを使用し続けるにはどうすればいいか、簡単である、当該アラームが鳴り始める前の段階で「三時間延長」ボタンを先押ししておけばいいのだ。
ところが、だ、これが思った以上に出来ない。何か他の作業をしている間についつい時間を忘れ、そして鳴り始められてしまう。あろう事か知能を持たないアラーム如きに先回りさせられているのだ、しかも酷い時には一日に三、四回も。恥辱である、屈辱である。
その事を気にするせいか、私はまだ点火から三時間経過には程遠い時間帯にも拘らず「三時間延長」ボタンを押してしまったりする時がある。
無論、そうしていれば延々とアラームに鳴られてしまう事はないのであるが、しかしこの敗北感、これは何故に感じるものなのだろうな。

それにしても、そうしていちいちアラームの事を気にしてしまう辺り、実はストーブは時間経過の遅延を招いてくれているのかもしれないなあ、ふとそう思った。
そう思いつつ、今もまた押すのであった。



06/01/19(木) 第348回 真・ジャネーの法則

ただ「時間が早く経過する」というファクターだけで昨日は「ジャネーの法則」なんてそれっぽいタイトルを付けてしまった訳だが、更新してから肝心の法則云々の事については微塵も触れていなかった事に気付いた。だもんで今日はジャネーの法則について。
まず何はなくとも、一体それは何ぞやという人の為にこの法則の解説をば。

生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する

とどのつまりこれは我々が「年を取ると時間の経ち方が早く感じられる」というその甚だ漠然とした思いを何と数値化してしまったものである。つーか決め付けんなよジャネーさんよくやった。

さて、私は昨日まで「ジャネーの法則」の何たるかを知ってはいなかった。昨日ふとテレビをつけたらたまたまやっていた「トリビアの泉」を見て初めてその存在を知ったのだ(一応釘を刺しておくが、昨日のネタはフジテレビジョン系列テレビ放送局水曜九時放送の「トリビアの泉」を見たから書いたという訳ではない。勿論それを信 (略)。
そんな訳で昨日人知れず「ジャネーの法則」と検索窓にタイプしてはそれを検索し、結果上記の解説文を得たのである。が、その言葉だけでは如何せん分かり難いというのが正直な所か。私以外の多くの人間も殆ど同じ事を考えていた様で、大抵の解説ページにはその具体例が併記されていた。
そしてある事を不思議に思ったのだった。まずは実際に以下の「ジャネーの法則」具体例をご覧戴きたい。

1歳の赤ちゃんの感じる1日は、30歳の大人の感じる1ヶ月に相当する。
逆に見れば、30歳の大人の感じる1年は、1歳の赤ちゃんの感じる僅か12日間にしか相当しない。

何故だろう、何処の「ジャネーの法則」をテーマとしているページでも、これと全く同じ例を挙げていたのだ。今や寿命八十年だ百年だといわれるこの時代にあって、年齢という要素が取り得る数値の幅は随分と広いぞ。なのに何故1歳と30歳か。こと個人サイトで扱っているのなら、自分もしくは自分世代の年齢を当てはめてみてこそそれはようやっと大きな意味を持つ様になる法則なのではないか。
そしてその内に私は気付く。何故30歳かはともかくとしても、1歳という年齢を持ち出すのは比較計算が楽だからだったのだなあと。
改めて法則の解説に目をやってみると、「逆数」という文字が見て取れる。逆数とはつまり対象とする数の分子と分母を交換した数の事であって、つまり1の逆数はそのまま1となるので、30の逆数1/30が即ちそのまま「感じる時間の長さ」となるという寸法である。
ふむふむなるほどー、それは分かった。でもそれがどうしたというのか。だからって何故自分に即した例を考えようとしないのか? 20代の青年諸氏なら30歳の部分は20歳として計算するべきであろうし、誰だって1歳なんて頃の事は覚えてないんだからこの部分だって5歳だの10歳だのに置き換えてしかるべきだ。「『比例』とか『逆数』とか言われても分からない」? 何を言う。やってる事は比とか分数とか掛け算とか、いずれも小学校レベルの計算問題に過ぎないんだぞ。それにちょっとばかり上記解説読解の為の日本語認識能力さえあれば誰だって普通に出来る事じゃないか。一体こんな事で何音を上げてるんだ。
ええい面倒臭い、こうなったら私がやってやる。おい貸せ、アンタ何歳? 19歳。ほー、で、比較したい年齢は。小学校一年生時代。じゃあ6歳としようか。
ったく本当に、今時の大学生は分数も出来ないとかいう話を聞かなくもないけど、こんなにもかねー。

ええっと? 19の逆数は1/19で、6の逆数は1/6だから? あー、その比は1/19:1/6で、で、で、えー、えーー、あ、そうだ、A:B=C:D=A×D=B×Cだから…ってそれこの式の何処で使うんだよ。そうじゃなくて、両方の数に19をかけて1:6/19だから、そう、19歳の貴方は6歳の頃に比べて6/19倍だけ時間の経ち方を早く感じてるって事になる訳だ…ってそんな事は計算しなくても何となく分かるだろ、ってか分かってないの? あれ?



06/01/20(金) 第349回 FF7DC発売目前

何だかんだで割とすぐに買おうかなと思っていたFF7DCの発売がいつの間にやら本当にすぐそこに迫っていた。「後でいいや後で」と思い続けて保留し続けた「購買予約申し入れ」は今日に至ってなお実行に移されていない。
そんな訳で、と言うかどんな訳かもよく分からないが、

FF7DC買うの止めます。

あ、いや、正確には遅らせます。FF12を二周クリアした後辺りまで。
つっても、何も私の中にFF7への愛がないとか薄れたとかいう事ではないし、「COMPILATION of FFVII」への興味がなくなったとか元からないとかいう事でもないし、久々のアクションゲームに怖気付いた訳でもない。ただ、その前にロマサガMSやりたいし、「FF7 ULTIMANIAΩ」読みたいし、この間姉夫婦から戴いたPSPも動かしてみたいのだ。

って、それじゃあ結局FF7DCの優先順位が何気に低かったという事に違いはなくなるじゃないか。



06/01/21(土) 第350回 言ってはいけない一言

そりゃもう憂慮していたぞ。そしたらどうか、早速各地で不具合が発生した様で、一部じゃやり直しだ、とかいう話もあったそうじゃないか。
大学入試センター試験英語のリスニングについてである。

考えてもみれば、今時の大学受験生はさぞかし大変な思いをする様になったものよなあとしみじみ思うばかりである。何年だか前に受験科目の増加が話題になった事があった様に思うが、かてて加えて今年からはリスニングというのだから。
リスニング。私に言わせればそれは考えられなかった事態である。何故か周りから「頭が良い」と見られがち(しかしどうなんだそれは)な私なのだが、しかし大学入試センター試験を毎年開催し、今や受験必須と言われるまでの地位にまで上り詰めた独立行政法人大学入試センターはそこの所違うぞ。この大学入試センターという所は私に幾科目かのテストを受けさせただけでだ、何の事はない、私が本当は別段頭が良い訳じゃなかったという事を、と言うかどちらかと言えば「頭が良い」と形容するには憚られる程度の頭脳だった事をビシィッと指摘したのだ。ハハハ、凄ぇなあ、笑い事じゃないぞ。
そんな訳だから、もし数年違いで自分がリスニングテストを受ける羽目になってしまっていたらば、恐らくは一層惨憺たる現実が待っていたのだろうなと思うし、だからこそ私は今の、そして未来の大学受験生に対してはある種の畏怖の念を禁じ得なかったりするのである。だから頑張れ、受験生。

まあ、他人事だけどな


過去ログ34へ  過去ログ36へ  最新の雑文へ戻る  過去ログ一覧へ  トップページへ

ラシックス