06/06/22(木) 第461回 もしも日本が、ブラジルに負けたら…
さあさあ、いよいよ何時間か後に始まるという事になった日本 vs ブラジル。折角なので見たいのだが、今回は深夜という事でそれも叶わぬ様である。せめて明日が休日ならちょっとばかりは頑張って起きていようかという気になりながら結局二時には床に就くんだろうが、如何せん平日であるからしてさらさら頑張ってみる気もない。本当、こういう時に徹夜の覚悟で臨める勇気と体力のある人が羨ましい。まあ、そんな勇気と体力があったとて今日に関して言えばやっぱり私は寝ちゃうんだろうが。
この前の話であるが 、いつの間にやら一般の人からの「日本がブラジルに勝ったら云々」宣言は一万件を越えている様だ。まあ中にはおふざけで、何だかお祭り騒ぎじゃねーか的な乗りでもし勝ったりなんかしても決行する気なんて端からない様な宣言を投稿した人もいようけども、それにしたって一万超。流石の関心度である。
ただ思う事は、こういうのって、我も我もと多くの人が乗っている今は全然問題ないと思うし、万が一勝っちゃう様な事があったらその時こそ盛り上がりは最高潮に達するイベントだとは思うんだけれど、仮に負けたか、もっと中途半端に引き分けたかした時の、人々の引き具合というのが懸念されるという事。
何しろ、当該イベントの趣旨を杓子定規に読み解くならば、日本代表が勝たずして試合を終えたその時、同じ希望と情熱の下に集った一万の宣言は、その全てが呆気なく「なかった事」になってしまうからだ。そこに、「負けちゃったけれど、日本代表の皆の頑張りに感動したから思い切って宣言した事を実行します」みたいなご都合主義は存在しない。あくまでもこのイベントの裏に隠れているのは「勝ったら○○します。でも負けたら何もしませんよ」というある意味固い決意の秘められたメッセージなのである。
そう、もし日本代表がブラジルに負けるか引き分ければ、誰かさんは喫煙し続けるし、誰かさんはダイエットを取り止める。誰かさんはトマト嫌いのままで、また別の誰かさんは今後もズルズルとペーパードライバー歴を積み重ねるのだ。ある人は想い人への告白の勇気を削がれる。またある人は結婚のタイミングを一つ失う。親孝行するつもりだったけれどしなくなる人も出てきそうなら、海外留学に踏み切れぬまま日本国内でくすぶり続ける人も現れそうだ。ある人などは、「ゆとり教育で3になった円周率を3.14に戻すよう文部省へ絶対に負けられない戦いを挑みに行きます」という、何もブラジルに勝たなかろうが(恐らくこの人の意図する所では)既にして達せられている事を宣言しているのだがともあれこういう人の熱い意気込みすらも全て「なかった事」になってしまうのである。これは由々しき事態と言わざるを得ない。
そして私は、日曜をいつもの週末以上にゆったりと過ごす事になる訳だが、さて、前回の宣言は、まるで滅茶苦茶で不可能な事を言っている訳ではない分リアルである。まあ、勝ちはしないんじゃないかと踏んでいるのだが、もし勝ったとしたらそれはその時考えるとしよう。
06/06/23(金) 第462回 なかった事になった決意
そういう訳で、負けた。
本放送を見ていないどころかまだスポーツニュースも見ていないので、日本の先制ゴールだったらしい一点目の状況が如何な感じだったのかも、それから日本がどの様に傾いていったのかもよく分からないのだが、少なくとも「流石はブラジル」とつい言ってしまえる内容だったみたいね。四点も入れられちゃあね。
さて、完敗したという事で、私が昨日苦言を呈していた「懸念」 これがどうやら現実のものとなったらしい。一万人の決意という決意が、予選敗退という、しかも勝利なしという最悪の結果と共に、情熱という情熱と一緒になってお流れとなるこの虚しさたるや。今一度ご覧戴きたい。 昨日までは、否、今日の明け方前までそれはとてもいい雰囲気だったのに、今になって感じるこの儚さは一体何なんだ。ブラジルに勝つ――しかもあわよくば二点差以上で――なんてのは奇跡以外の何物でもないのは初めから分かっていた事なのに。
もしも日本代表の精鋭達が奇跡を起こしたら――叶わぬ夢ではないと、端から一欠片だった望みをしかししっかと握り締め、そしてその希望が一握りであればこそ長大化するのであろう感動や感慨を力にしようと自分自身と固い約束を交わした人々は、あまり時間を置かずして普段の生活へと戻っていくのだろう。私もまた。
まあ正直言えばね、この前ああは言ったけどね、後々になってから本当に勝っちゃったらどうしようかなんて事を考えてたしね、内心では勝たれてもちょっとなあと、ちょっぴりだが思っていたのは内緒である。
ささ、これからは決勝トーナメントの高レベルな試合を見て楽しもうじゃないかい。
06/06/24(土) 第463回 人間ガリバーの悲劇
ガリバーは損な人間だなあと、常々思うのである。ガリバー、即ち「ガリバー旅行記」の、あのガリバーである。
突然だが、貴方はガリバーについてどの様な認識を、どの様な知識をお持ちだろうか。実際に「ガリバー旅行記」を読んだ事のない方なら、せいぜい巨人であると述べるのが精一杯ではなかろうか。他に頑張って捻り出したとしても、目が覚めたら縛り上げられていた事と、「旅行記」と言うからには旅人なんだろうなあ、というその位のものではないかと思う。
だがしかし、これこそがフェイクなのであった。もし貴方が、今挙げられた様な認識をガリバーに対して持っているとするなら、それは甚だしい勘違いなのである。ガリバーは巨人ではない。
そうだ、ガリバーは巨人ではない。そんな事知ってるよと思わず言いたくなる人も大勢いようが、そんな事もお構いなしに私は声を大にして言う。ガリバーは巨人ではない。ガリバーは、何の因果か、乗っていた船が大岩にぶつかり転覆した結果、小人の国へと迷い込んでしまった普通の人間なのである。
そもそも「ガリバー旅行記」は、小人の国へ行ったガリバーの逸話のみが綴られているのではない。ガリバーは他にも多くの場所へと旅に出ている身であり、それらについての話だってきちんと「旅行記」では語られている筈なのである。そればかりか実は彼は、小人の国を去ったその次に巨人の国へも行っていた。にも拘らず、何故だか小人の国での一件だけを知るばかりで、いつしかそれが旅の一つに過ぎないのだという事すら忘れ去って、周囲の人間達との相対的イメージから勝手に彼を巨人として捉えた我々。
彼の本当の悲劇はここから始まった。考えてみても戴きたい。仮に、かの旅行記で有名なガリバー氏と対面する機会に恵まれたとしたら。
貴方は歓喜した。ガリバーに会えるのだ。こんなチャンス、人生に一度あるかないかである。貴方の目は今や爛々と輝いている。まるで長年の夢が叶ったとでも言う様に、夢と希望に包まれている。
だがそれは貴方が、「これから『ガリバー旅行記』のガリバーと会えるんだ」と思っていたからではないのだった。何を思ったか貴方はその時、「これから自分は巨人に会えるんだ」と思ってしまっていたのである。嗚呼、物知らぬ人間の、何と身勝手な事よ。
いよいよガリバーとの対面である。そわそわしてきた貴方。ふと、ある事が気になって辺りを見渡す。「こんな普通の部屋にガリバーは入って来れるんだろうか」 自問する貴方。しかし次の瞬間、その問いに自答する時間を与えられる事なくして、その時は来た。
扉が開く。そして入って来た――男、ガリバーではない。男は軽く会釈をした、様に見えた。「様に見えた」というのは、貴方がその男の次に入室するのであろうと予測したガリバーの登場を注視するがあまり、男の方を殆ど見ていなかった事を意味している。
否応なしに上がっていくボルテージ。いやが上にも増長する緊張感。しかし、男の他に部屋へと入って来る者は一人としていなかった。
部屋には貴方と、先程入室した謎の男と、通訳の人が一人。貴方は、まさかそんな筈がないと思いつつ、恐る恐る男に聞いてみるのだった。
「まさか…あ、いや…(咳払い)…えー、っと、貴方が、ガリバーさんですか?」
そして男は言った。
「そうです」
まさか本人を目の前に言えた事じゃないから口にこそ出さなかったが、しかし貴方は心の中で彼を断罪するのである。「何だよ、普通のオッサンじゃねーか」
無論、ガリバーには何の非もないのだ。無知は罪だと言う。ガリバーという人間は、無学にして小人の国へと行った事しか知らない我々日本人の作り出した悲劇の被害者なのである。
彼がどの程度の身長だったのかは分からない。しかしもしも中肉中背(しかも日本的に)だったり、更にもしかして自分よりも背が低かったりしたとしたら、実際の対面時における落胆度は極大値を記録する事になってしまう。その時、彼の心に与えるダメージが同様に極大値である事は言うまでもない。
だから私は願うのだ。ガリバー、貴方が誰か、貴方の事を知る人物と出会う時に、せめてその相手へ与えるショックが微小なものとなる様に、貴方が身長2m超の長身であらん事を…と。
06/06/26(月) 第464回 奇跡と悔恨の二日間
ここの所事前に立てた予定を予定通りにこなしていく傾向が強くなっている。
一重に、これは喜ばしい事だ。これまではどんだけ程「あれをいつまでに片付けて、それ以降の時間は自由に使おう」とか思っても現実はそう上手く事が運んでくれず、自由時間となる筈だった時間もズルズルと拘束時間に飲み込まれてしまうのが常だった。それがこの週末はどうだ。月曜日から精力的にこの一週間、自分の身に課せられている課題という課題をやっつけ、見事土日二日間の大半をその手中に収める事に成功したのだ。して、私はDVDを二作品三枚見た。
DVD二作品だなんて、最近の私からしたら考えられない位の大躍進。時間にしたら、6時間とか、6時間30分とかだったかな。勿論、あんなに平日で無理しなくても、かつ恒常的にこれ位の時間が取れる様ならもっと精神的にゆったりした生活が送れるんだろうけど。
それに、奇跡的に6時間超の時間を割けたからって、それで満足出来ていた訳でもない。本当に私は先天的にすら時間の使い方が下手なんじゃないかと思わされるのだが、折角の大幅に取れた空き時間を迎えるとなると、途端に体調を崩したり眠くなったりするのだ。昨日もご多分に洩れず一昨日の夜辺りから軽い頭痛がするわ、昨日の夕方、DVDも後一時間かそこらで終わろうかという所になって急激に睡魔に襲われ寝てしまうわで、後になってから「また勿体無い事したもんだなあ」と思ったものである。散々とまでは言わないけどさ、これだとその日の為にいつも以上に作業を詰め込んだ金曜日までが報われないしね。
まあまあ、過ぎた事をとやかく言うのはこの辺りで止めておく事にするにしてもだ、明日には我が家にFF12アルティマニア御大が二冊と、「VOICES」DVDと、そして何やらがやってくる予定である。昨今のスケジュールの合間を縫ってアルティマニアを読むだ、DVD観賞にかまけるだなんて事は出来る筈もないなんて百も承知であるから、ふむ、となると次の週末も昨日、一昨日の様な感じで迎えられる様な振る舞いが求められる事になろう。そうかそうか。じゃあ頑張りますか。幸いにも、今週は明日の山場を乗り切ったら後はかなり楽そうであるしね。
一つ気になるのは、一昨日の夜突然表出した頭痛が、昨日を経て今日に至るまで、徐々にではあるが悪化の一途を辿っているという事である。おいおい、明日帰り遅いのに。今日はさっさと寝た方が良いかあ。でもそれだと、この後少しずつでもやっつけていく予定だったあれやこれやが週末にまで押してしまうしなあ…
06/06/27(火) 第465回 一人「トムとジェリー」
NHK教育にて放送されている「ニャンちゅうワールド情報局」 に目下出演中の「ニャンちゅう」なるキャラクターがいるが、このニャンちゅう、その名の通りで猫と鼠って事は、もしかすると有事の際とかには、己の身を削っての自給自足なんていう荒業が可能だったりするのでは。
なんてな事をふとした時に考えたのだが、さて、上記の文章において決定的に間違っているのは以下のどれか。
ニャンちゅうは鼠の着ぐるみを着た猫であるだけで、猫と鼠の混合生物という訳ではない。
ニャンちゅうの生態系はともかく、純なる子供達の夢を壊そうとしたその姿勢。
そんな事よりももっと根本的な私の人間性。
うーん。
06/06/29(木) 第466回 永遠の先駆け
海外の新作映画公開とか、或いは人気映画のDVDが発売、なんて事になった時に、こういうキャッチフレーズでもってCMがテレビ放映されている事がある。
「本国に先駆けて先行公開!」
「本国に先駆けて先行発売!」
私はこういうのを見る度に、猜疑的な目でそれを見てしまう。
例えば、お隣韓国でこれこれこういう映画が製作されたと言っては、それをわざわざ日本に持ってきて、母国で日の目を見る前だってのに公開するのだ。例えばアメリカでこうこうこういった映画が製作されたと言っては、それをわざわざあの広い太平洋を横断してまで日本へ持ち込むや日本国民の目に晒すという行為に出るのだ、それら映画の監督、もしくはプロデューサー、さもなければ販売戦略担当部長殿は。実際誰がその辺りの事の決定を下しているのかはよく分からない事なのだが。
さて、一体全体彼等は何故その力作をまず国外へと持ち出そうとするのだろうか。いやむしろこう思う。こういったケースは割かし珍しいものでもないと見受けるが、じゃあ何で日本という国は、そんなに色々な映画の先行公開が行われる程の優遇を受けているのだろう、と。
そこで思った訳だ。近年メディアの影響力というものはますます大きくなるばかりであるが、これもそんな、言わば一つの情報操作だったのではなかろうかと。日本で先行公開或いは先行発売、これ自体がそもそも嘘なんじゃないのかと。「先行」という言葉が付される事によって、確実にプレミア感の増す事になる対象媒体。そう、この仕組みを利用して、本当は世界一早い訳でもないのに「全世界に先駆けて」とかいう文句を謳ったりしていたのである。あまつさえ日本のみならずどの国でだって同様の事を調子良くも謳っていたのである。ともすると、本国では既に公開日を過ぎているにも拘らず「先行公開」と銘打たれている可能性も否定は出来まい。なあに、日本人はどちらかというと馬鹿側にカテゴライズされる人民だから、眼前のお得感に見とれるばかりでそんな事には気付きやしないよ。
「もしバレたらバレたで、それがまた良い宣伝にもなるし」なんていう随分とあくどいセリフすら浮かんできたものだが、まあ、何でもかんでも先行だ先行だと言っている状況でもないんで、実際はそんな事ないんだろうね。
と、もう一つ考えた事がある。
「先行公開」という言葉を全く捻くれずに受け取ると、それは勿論本国での公開はまだだという事になるんだけれども、もし、今後も公開予定がなかったりなんかしたら…
相応の労力、相応の資金、相当の時間をかけて製作した映画が、何かしらのトラブルによってか、或いは試写会以降評判ががた落ちで何処の映画館も取り扱ってくれなくなったかして少なくとも当面、国内公開は無理そうだという事になった。精一杯取り組んだプロジェクトの生んだ一つの成果があろう事か没になろうとしている。いやそれ以前に、没になられては今後の日常生活そのものに幾らかの支障が出てきてしまいかねない。かくなる上は、と思い立った彼は、その映画を携え、「本国に先駆けて先行公開」の謳い文句と共に世界各国を巡る旅に出るのである。
こすい。こすいぞ監督。いや、まあ、嘘ではないが。
06/06/30(金) 第467回 より一層の多機能化へ向けて提言
「携帯電話の機能の中で最も使用する頻度が少ないのは電話機能である」
こんな皮肉めいた事が言われる様になって久しい。私は以前も言った事のある通りで携帯電話というものはあったら便利だがないならないで別にそれでも、という立場の人間である為によくその実態が分からないのだが、とにかく世相はそういう事であるらしい。
携帯電話が誕生して二十年余り。その間、特に近年における携帯電話機器の進化たるやそれはそれは目を見張るものがあった事はご存知だろう。と言って、私自身はあまり分かっていない向きがあるので、ここで一体今現在の携帯電話にどの様な機能が備わっているのか、整理しておく意味もかねて調べてみる事にした。するとまあ、液晶搭載、メール(と言うかそもそも文字列入力)、時計、目覚まし時計、発信/着信履歴管理、電話帳、メモ帳、スケジュール帳、電卓、デジカメ、デジカム、インターネット、ゲーム、音楽プレイヤー、料金支払、テレビ電話、電話、とこの様にボロボロ出て来た。「昔の携帯電話はこんなに大きかったんですよ」的な事を扱うテレビ番組とかはよく見かけるので、若い人そうでない人問わず往年の携帯電話の重厚なる佇まいを知る人は多いと思うが、改めて考えてもみれば、その頃の携帯電話には今や必須補助機能である時計すら搭載されていなかった訳だ。時計の付いていない携帯電話…うーん、こればっかりは私もなくなってしまわれると困る事になるかもしれない。それはさておき、携帯電話に備わっている機能の方はまだまだあろうが、取り敢えずはこの辺りにしておく。
さて本題であるが、そんな多機能である所の携帯電話、これが何故か世の中では「ケータイ」という呼び名でもって口に出される事になった。
私は別に言葉の省略を片っ端から断罪したがる人間ではないので、「携帯電話」という単語を何らかの形に短縮する事についてとやかく言うつもりはないのだ。だがしかし、私と同様の疑問をふと感じた事のある人も多い筈である。何故、何故「携帯電話」は「電話」というその中心的本質的機能を見事に無視して「携帯」という略され方をされる様になったのだろうか。何故「携電」とかではなく「ケータイ」として人々に認知される事になったのだろうか。
そしてここで思ったのである。冒頭の一文を思い返してみて戴きたい。「携帯電話の機能の中で最も使用する頻度が少ないのは電話機能である」 確固たる事実であるかはどうにせよ少なからず電話機能というものが蔑ろにされている感のある事については確かな現実。これを鑑みた時、ふと思ったのだ。「携帯電話」を「ケータイ」と略したのが誰であるかは分からないが、そういった人間達が、携帯電話の未来に「最早『電話』とは言い難い形態」を無意識にしろ感じ取ったから、だからこそ敢えて「電話」と称する事を止めたのではないか。通話機能の重要度希薄化と「ケータイ」呼称という両者の事象は偶然的に引き合ったのではなく、実は必然だったのではないか、と。なるほど、自分で言っておいて何だが、これは興味深い。
だが仮にそうだとしても、やはり思わざるを得ないのであった。確かに多機能ではあるが「何でも出来る」という訳でもない。だのに世の全ての携帯道具を代表するかの様な名を充てられるのは身分不相応なのではないのかと。そして言いたい。「携帯電話」が「携帯」の名をほしいままに出来るのは、この世の中に存在するありとあらゆる「携帯○○」の機能を充足する様になってからにしろと。
さあさあさあ、まずはこれだ。
「携帯トイレ」
ケータイ。その未来は暗い。
06/07/01(土) 第468回 一生のお願い
我々人間の間には、特に小学生辺りの年代に多い様に思うが、「一生のお願い」なるルールがある。
「一生のお願い」 略さずに言うと「一生に一度のお願い」 誰か他人に対し、「もう金輪際わがままな事は言わないし何かを強要したりする事もないから」という前提の下に、どうしても聞き入れて欲しい願い事をその相手へ向けて述べるものである。
この「一生のお願い」には、他の「懇願」に相当する行為にはない三つの大きな特徴がある。まず一つは、仮にも自分の一生に関わる様な問題であると言うのに、対して願いそのものがその重大さに全く釣り合っていない点。二つ目に、「これが生涯最後のお願い」という前提があるにも拘らず割と容易にその誓いが破られる点。そして、親しい友人等、近親の人間に対してしか使われないものであるという点である。
この三つの特徴、それも主に二つ目の理由のせいで、この世の中にはまこと無責任な「一生のお願い」が氾濫している。さも「貴方しかいないんだ」と言いたげな目をして「一生のお願いだから」と言い、渋々何かしらのお願いを聞き入れてもらったかと思えば、その数日後にはそんな恩の事なんて綺麗に忘れてまた「一生のお願い」を口にしたりするのだ。
我々がごく親しい人間にしか「一生のお願い」を口に出来ないのは、それが「『一生』なんてどうせ口だけだ」と、ある程度暗黙の了解として認識されてしまっているが故に、仮に言ってみた所で誰一人として言葉の真意を汲み取ってくれそうにないからに他ならない。だから我々は、極めて親しい知人か誰かに、しかも尚且つ冗談として述べる場合に限り、「一生のお願い」を利用する事が出来るのだと無意識に考えてしまっている訳だ。
だが私は思うのである。もしもこの暗黙の内に定まっているルールが取り払われ、「一生のお願い」が正しく一生のお願いとして正当に機能してくれる事があれば、と。
そう、我々には、世の中の全ての人間に対して一生に一度だけ「一生のお願い」を進言してみる権利が与えられるのだ。これは素晴らしい話である。何しろ一生に一度という前段の下に行われる交渉であるのだから、そうでない場合に比べて大胆な要求を提示する事も出来るであろうし、何よりこれが現実と化したその瞬間貴方には、国内だけでも都合1億2000万回超、世界規模で言えば60億回超の「一生のお願い」行使権が発生する事になるのだから。
無論、だからと言って、いきなり赤の他人に対して「一生のお願いですから100万円下さい」なんて言っても相手が応じてくれる筈はない。勘違いしてはならない。「一生のお願い」とはそうでないお願いと比べて多少大きな要望を出せるだけのものなのであって、何も突き付けられた相手はそれを拒否出来ないとかいうルールがある訳ではないのだ。だから幾ら一生と言えど見も知らぬ人間に対して出来るお願いというものはたかが知れたものなのである。そうではなく、この決め事の真価はやはり近親の人間に対して振るわれた時にこそ発揮されるものなのだ。
重要なのは、相手には拒否権があるという事。「100万円くれ」なんていう願いは正直言って馬鹿の言う戯言だ。そうではなく、ここではもっと現実的な、例えば「10万円貸してくれ」といった願いを相手に述べてみるべきである。貴方と知人、両者共に社会人なのであれば、全く無茶な願い事という訳でもあるまい。そればかりでなく今貴方は一生に一度のお願いを行使しているのだ。相手だってそれを分かって聞いている。相手方がよほどお金の貸し借りにうるさい人間であったりしない限り、「一度なのだから。それに、貸すだけだし」という事で、割と友好的に応じてくれる筈。さもなければ、貴方の知人は貴方の事を何処かで信用していないか、貴方の人間性にほんのちょっとだけ問題があるという事である。
さて、ここからが重要だ。貴方は無事10万円を借りた。しかし借りているだけである。いずれこれは返さなくてはなるまい。だがもしここで、突然「どうする事も出来ない事情により借金を返済する事が出来なくなる」状況に陥るとすれば。
大事なのは、それを故意に引き起こすという事である。具体的には、貴方が社会人であるのなら会社を退社したり遠方へ転勤になる直前、そうでないならば学校の転向でもいいし上京を間近に控えた時でも、とにかく、近々住居が大きく動く直前に、それを知らない人を掴まえて「一生のお願い」をした後に、消えてしまうという寸法だ。そういったお願いをした人々とはもう会う事もないと確信していれば尚更「一生のお願い」を惜しまずに使う事が出来るだろう。
この一連の流れにおける、相手へのお願いが「一生のお願い」である事の必要性はただ一つである。仮に知人へのお願いが「一生のお願い」でなかったとすれば、その知人は5万円しか貸してくれなかったかもしれない。しかしそれが「生涯最後」を謳う事で10万円にまで引き上げられるのだ。どうせ今後の人生で再会する事もないのなら、である。
「一生のお願い」 そこには、普段ならまず叶えてくれそうにない願いを、何処までなら許容してくれるのか、何処までなら要求を吊り上げられるか、そんな相手との駆け引きが存在する。
06/07/04(火) 第469回 目算結構
先日の話であるが、証明写真が必要な書類を前に、私は悩んでいた。
その書類に貼付しなければならないのは縦4cm×横3cmの写真である。で、手元には大きさの異なった二種類の証明用写真があった。
が、ここで困ったのである。どちらが4cm×3cmなのかがよく分からない。双方の写真が随分と大きさを違えている訳もないのだが、しかしだからと言って正確な3cmを指で測る事もそう言えば出来そうになく、結局どちらの写真を見ても何となく4cm×3cmでおかしくない様に見えてきてしまうのであった。
勿論、ここで間違った方の写真を選択する訳にはいかない。私はやにわに定規を取り出そうとした。しかるに、何故だか定規が見当たらない。
さていよいよ困り果てた。写真の大きさを知らなければならない。なのに定規はない。三角定規の様な定規に準ずる道具も何処に行ったのやら見付からなかった(勿論面倒臭かったか知らないが本腰入れて探してなんかいない)。こんな時、貴方なら如何にして写真の縦横の長さを求めるだろうか。
私は少しばかり煩わしい事を承知の上で、それでもその時丁度インターネット利用中であったもので、わざわざ検索して調べてみる事にした。今や何の事だって分かる知識の海だから、実物縮尺の定規画像なんてまあ普通にあるだろうと思った訳だ。その読み通り、程無くして、画像ではなかったが定規のフリーソフトなるものを見付け、無事写真のサイズを知るに至ったのである。
そんな私が、かような手順を踏むまでもなく、写真を書類の貼付欄にある枠にあてがってみればたちどころにして適切なサイズの写真がどれかという事を判断出来たなあという事に気付いたのは、今日になっての事であった。
06/07/06(木) 第470回 市長懇談会出席
一月程前に 「某県某市の某市長とお会いする事となった」と言っていたが、先日の事、実際にお会いした。
当日の出席者は三十人かいただろうか。その我々とそして市長とが車座になり、そして各々が市政についての意見や質問を述べそれについて市長にお答え戴くという、僅かに一時間強の短い懇談会ではあったが、しかし中々良い機会であった。
時間的な問題のせいで当日出席者の全員は到底発言出来なかったのが残念な所ではあった。が、実際に市長と対話出来た十名程度の人間の中に、この、当該市内在住でないどころか同じ県内にすら暮らしていないその日唯一の男だったであろう私は見事に切り込んできたぞ。つっても、自主的に挙手するなりして発言した訳ではなく、一ヶ月前に書いて提出し集められた出席者全員分の事前質問票の中から予め当日発表者が選定、つまり「市長との懇談会」の名に相応しい類の質問がピックアップされた中に私がたまたまいただけであって、懇談会開催の何日か前に関係者の方からその旨電話連絡で承っていたという事なのであるが。
この前にも書いていた事だけれども、この会への出席自体が能動的決断による行動ではない私にとって、かてて加えて市長と一対一の対話なんて事になったのは計算外も甚だしい事態であった。なるべくなら、丁重にお断りしたい位であった。それもこれも、大概の事を知らない市の市政について聞けと言われても一体何聞けばいいんだって感じだったから「現在、全国規模で少子化等の影響による人口の減少が憂慮されていますが、市長はこの人口減少問題をどの様に考えていますか。また○○市として何か対策を考えておられますか」という言ってしまえば当たり障りのない意見を書いてしまっていたからである。
最初から全員が発言出来ない事さえ分かってれば、もうちょっと真面目腐ってない意見でも書いておいたろうになあ。いや、かと思えば、前回「小学生或いはぎりぎり許されて中学生までがいい所の質問」と手酷く斬り捨てた「何で市長になろうと思ったんですか」が実際質問の一つにあったものだから全く油断も出来ないのだが。とは言ってもね、今回について言えばこれはね、場の空気を多少緩める意味での選出だったのかもしれないけれどもね。その割にはその質問が出て来たのは懇談会も終わりに近付いた、最後から二人目の発言者辺りでの事だったけどね。
とまあ随分な言い草であるが、冒頭で「良い機会であった」と述べた様に、現役市長のお言葉を聞けたのは良い経験だったし、実際この会に出席出来て良かったとも思っている。
それだけに残念でならないのは、直接対話する事へのあまりの緊張からか、私からの質問に対する市長の回答のみろくすっぽ記憶していない事か。
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