04/07/13(火) 第61回 寝惚けている時
「その他のやりこみ」
帰りの電車の車中、停車駅にて突然、見る筈の無いこんな文字列を見かけて驚きました。
(あぁ、見間違いか…)
今日は都合により予定より一時間近くも早く家を出発しないといけなかったので、いつも激しい眠気が更に激しく、それでも一応移動中等の合間合間で少しずつ寝てはいた筈なんですが、帰りの車内ではかなり限界に近付いており、夢と現実の狭間を行き来していた事で、うっかり読み違えてしまったのでした。
こういう風にウトウトとしている時とか、寝惚けている時の人間の挙動と言えば、人それぞれで色々あるものと思われますが、こと私に関して言うと他には、延々とある特定の曲が頭の中で流れ続ける、という現象があります。
かねてから電車の中ではする事が何も無かったので、早く音楽を聴ける状況を整えたいなあ、と思いはしつつも未だに全く行動に出ておらず、しょうがないのでずっと頭の中で独り寂しくサウンドトラックを流しているのですが、そこに眠気が重なりますと、直前に流れていた曲が留まる事無く流れ続けるのです。
勿論完全に寝てしまっている時まで、言うなれば夢の中でまでその音楽が流れている事は無いでしょうけど、ふと目が覚めた時には流れているのです。眠気が、次の曲は何にしようかという事を考える思考能力すら奪ってしまっているのでしょうか。延々と終わる気配が無い、という点は、ゲーム音楽ならではのものかもしれませんね。
更に他には、極めて楽しみにしている事や、逆に極めて不安な事が翌日に控えているとあまり深い眠りにつけず、目覚める直前になるに連れて、度々目を覚ましつつその合間で夢を見る事がよくあります。
夢の内容はと言いますと、その楽しみにしている事や不安な事についての事なのですが、一つ興味深い点は、いつもは究極のネガティブ人間である私が、それでも心の奥底に「こうあって欲しい」という願望が眠っているからなのか、不安に思っている事柄の夢を見る場合、夢の中では満更でもない展開になっている事が殆どなんですよね。夢であるだけに、時には現実との区別が付かなくなる時があり、不安事項を無事乗り切った事で勝手に安堵していたら実は夢だった、なんて事もよくあってしまうのですが。
不安な事に関してそうなのですから、一方の楽しみな事に関してはもう大変です。私で最も顕著にそれが見られるのは、ずっと待っていたゲームがいよいよ発売になって、いざ明日買いに行けるぞ、となった日でしょうか。
最近で、と言っても少し前の話ですが、かなり印象に残っているのは「FINAL FANTASY 10」とか「DRAGON QUEST 7」を購入する時の事ですね。この二作品についてはどちらとも、予約をしないまま発売日近辺で購入、という状況でしたから、「もし購入出来ればいよいよプレイ出来る」というこの上ない期待感と「もし購入出来なければ、少なくとも一週間はまた我慢しなければならない」という不安感が激しく交錯していた事を覚えています。特にここいらは田舎であるだけに、一旦売り切れると今度はいつ入荷するか分からなくなる可能性すらはらんでいるんですよね。それは脅威そのものです。
そんな状態だったものですから、夢も大変な事になっていました。繰り返し朝方に目が覚め、その内の何度かは「あぁ、夢か…」と、やや落胆する事も。夢の中では何度か無事に商品を購入出来ていたのです。もしかしたらその勢いで、知る筈も無いのにプレイを開始した事もあったかもしれません。
夢は私に新作ゲームのストーリーの妄想もさせるのか。事前情報はほぼ無いに等しいのに。
寝惚け恐るべし、である。
あ、ちなみに、冒頭にある見間違えの元々の文字列は、「その他のごみ」でした。
04/07/14(水) 第62回 夢から醒めて
「FINAL FANTASY 10」や「DRAGON QUEST 7」を購入する日の起床直前には、頻繁にそれについての夢を見るという話を昨日書きましたけれども、果たしてその、期待やら不安やらが具現化して映像となったそれが、どの程度まで正夢になったのか、というのをどうせなので今日は書きます。
DQ7を買おうと目論んだのは確か発売日当日の事であったと記憶しております。買うつもりはこの上ない事であるにもかかわらず何故か予約しようとしないというおかしな行動を取る私ですが、当日になってもその余裕であるかの様な素振りは変わらず、一応開店と同時に入れる様な時間帯に外出はしたものの、それも家族の誰かがたまたま用事があった為に、じゃあ私も、という感じでついていった形に過ぎず、そうでなければ午後になってからでも悠々と出かけるつもりでいた位です。もしも購入出来なければ、予定がことごとく崩れる形となって、自分が最も困ろうものなのに。
近辺にゲームショップというものが無いどころか、専門店に関して言えば少し遠出しても殆ど無いもので、一応あるにはあるんですが一人気ままに出かける訳ではない以上わがままを言って「(周囲の人間から言わせれば)たかがゲーム一つの為に」少なくない時間を割く訳にはいかなかったものですから、その日はデパート内の一角にある小さなゲームショップにまずは焦点を絞る事に。
「果たしてそんな所にDQ7が置いてあるだろうか」という不安と「そこはDQというビッグタイトルだから流石に無い事は無いだろう」というささやかな期待とが入り混じる中、開店時間になると共に入店。
そのデパート自体普段は行く事が無いもので、普段の雰囲気というものがどういった感じであるかは知りませんが、何やら周囲の様子が違います。私は勿論ゲームショップの方へ一目散に歩いて行っていた訳ですが、周りを見ると、明らかに何らかの確固たる目的があるぞと言わんばかりの眼差しをした人々が何人も、往々にして私より足早に、私と同じ方向へ歩いて行くではありませんか。
「これはまさか…」
と思って私もやや速度を上げてかの地へ向かったものの時既に遅し。ゲームショップの小さなスペースはいつもよりも遥かに高いであろう人口密度を誇っており、ズラズラと陳列してある商品達の中に、明らかに不自然に空いたスペースが存在しています。開店から数分もしない出来事だったでしょう、瞬く間に店頭にあったDQ7は人々の手に渡っていったのでありました。中には勝ち誇った表情を浮かべてDQ7を手にしている人の姿も見受けられます。
ウムム…こうなるのであれば、もう少しなりふり構わずここに来るべきだったか…? そんな事を考えつつ未練がましそうにDQ7が置いてあったであろうスペースを眺める私。
と、ここで私に一つの考えが。
この店の規模から考えれば、確かにDQ7を置く為に大きめのスペースを取っているとは言える。しかし、広さ的にそこに置けるのは高々10本少々かそこらの筈だ。
これは結果論ですが、PSソフトとしては初めてで、もしかしたら未だに唯一かもしれない400万本超の売り上げを記録したDQ7の事である。いくらこの店が小さかろうが、僅か初回入荷が10本程度であるという事が考えられるだろうか? もしかしたら、まだカウンター奥には陽の目を見てないDQ7が置いてあるのではないだろうか? 私が商品入荷に関して一切の事を任されているのであれば、たった十数本しか入荷させない筈が無い。
私より早くに店に到着したにも拘らずソフトを購入出来なかった人々が残念そうに店を後にしたり、チームプレーを繰り広げているのか、他店に派遣されていると思われる友人とコンタクトを取ったりしながら、続々とここを去っていく中、私はそのゲームショップに隣接するCDショップに留まり、店員さんの動向を伺う事に。
すると数分後、周りの人々も完全に去りつつあったその時。おもむろに店員の一人が新たなDQ7十数本を先程のスペースへ並べ始めたのです!!
「勝った…」
その瞬間私はそう思いました。既に人だかりは無くなっています。私はほくそ笑みつつゆっくりと歩を進めてDQ7の元へ近付いて行き、経営学までも導入した完全なる理論の構築の元に、無事DQ7を手に入れたのでありました。
なのに、同日別の店を訪れてみると、そこにはDQ7が二十本近くは並んでいて唖然としてしまいましたが。
さて、時は移りてその翌年。今度はFF10という大作との戦いがやって来ました。記憶に寄ればFF10を購入しようとしたのは発売日翌日。一日経っているという事で少々不安は募っていましたが、前年の「DQ7が二十本事件」の事がありましたので「まあ大丈夫かな」という感じで、やはり予約も無く、その時はまず「DQ7二十本事件」が起こったその店を訪れる事に。
ところが、あの時の影は何処へやら。店内へ入るまでもなく、入り口付近には無常にも「FF10売り切れ」の文字が……まあそれでも一応確かめたくなるのは人間のサガであろうというもので、店内に踏み入っては見事に淡く残っていた期待をもその数分後に打ち砕かれてしまった私は、出かける前までの余裕は何処へ行ったのか、この上ない不安を募らせながらもう一店、その日行く予定だった店へ。
ちなみにその店は先のデパートとはまた違う店なんですけれども、時間的にはそこがラストチャンスであります。幾ら経営学を用いても「売り切れ」と大々的に書かれては太刀打ちできませんからねぇ……もしもこれで駄目だったら、遅いけど予約をして少なからず確約だけでも得て帰ろうと、半ば覚悟の様な感じを抱きつつそこへ向かいましたとも。
店へ到着したらば取り敢えずは真っ先に入り口付近に「売り切れ」の貼り紙が無い事を確認。それでも拭い去れない不安と、でもやっぱり交錯する期待とでもでもやっぱり生じてしまう緊張とが入り混じる複雑な心境の中、慎重に店内へ足を運ぶとそこには……ありました。
それは伝説の再来だった。有るわ在るわ。横では無く、本棚的に縦に並べられたFF10が、興奮のあまりに数えてはいませんでしたがやはり二十本はあったかと思います。
ある事が確認出来たのなら後はこちらのもの。私はほくそ笑みつつゆっくりと歩を進めてFF10の元へ近付いて行き、そこに理論は介在してはいませんでしたが、無事FF10を手に入れたのでありました。
…といった感じで、一応夢は現実のものとなっている訳ですが、上の二例に限らなければ、期待とは裏腹に失敗した経験もあります。
やっぱり今後は予約した方がいいですよねえ…
大体、サントラ類はあんなにも集め腐っているのに、予約特典とかにはさして執着心が無いのが自分でも不思議な所です…
04/07/16(金) 第63回 定期券紛失
それは昨日の事だった。
嫌な予感はしていた。今日はもしかしたらバスに間に合わないかもしれない。
刻々とバスの時間は近付いているのに、どうも帰れる気配が無い。
ようやく帰れる段になった頃には、バス到着予定時刻の三分前になってしまっていた。バス停までは急いでも五分はかかってしまう。しかし「ああ、こんな事なら普段からこういう事態に備えて運動でもしておけばよかった」等とは思う筈もなく、「バスを一本遅らせた事で帰宅が二時間少々遅くなっても、その日限りで決着するそんな問題の為にわざわざ運動なんて」と思ってしまう私である。そんな話はどうでもいい。
例えバス停に二分遅れて到着する事が止むを得ないとしても、諦めるのはまだ早いというもの。何故ならばそのバスは、私が乗るバス停に到着するまでの間に少なくとも二十のバス停を経由しているのだ。しかも時間帯も時間帯だけに、往々にしてそのバスは予定時間よりも遅れて到着するのである。
私は走った。これだけ走るのはいつ振りだろうかと思う程に走った。道中知人に遭遇したが別れの挨拶もそこそこに私は走った。無我夢中で走った。日頃運動していない事が祟ってか、すぐに息切れしてしまったがそれでも私は走った。二時間以上も帰宅が遅れるのが嫌だったから私は走った。ようやく遠方にバス停が見える位置まで来た所で、まさに今バスが到着したのを見て私は走った。バスは私の存在に気付こう筈もなく、無常に発車したが、それでも私は一縷の望みに賭けて走った。
私は乗り遅れた。何だかんだ言って乗り遅れるのは久し振りの事である。次のバスはいつだろう。四十五分後とある。
四十五分という時間の長さと、全力で走った事による疲労感と、乗り遅れた事のショックで、バスを待っている時は酷く暑く感じられた。天気も良くない。何やら怪しげな黒い雲が近付いて来ている。まだ二時間弱は鳥取を離れられないというのに。辛い。
途中近くにある自動販売機で飲み物を買って喉を潤し、ようやく落ち着いてからしばらく、無事に雨が降り始める前にバスが到着。まさにやっとの思いで私はそのバスへ乗ったのだった。
涼やかな車内に入って座席に座り、「今日は災難だったなあ」と思いつつ一安心。天気の事は心配ではあるけれどもこのまま何とか雨に遭う前に鳥取を離れられるかな、と思いながら一息ついた私。しかし、本当の災難はここからだったのだ。
バスが駅に到着する少し前になり、降りる用意をしていた時、私はふと気付いた。
胸ポケットに入れていた筈の定期入れが無い…
私は慌てた。取り敢えず座席周辺を見回してみる。無い。勿論荷物の中も確認してみる。無い。
まさか何処かに落としたのか…? 頭が真っ白になった。
もしかしたら全力でバス停に向かって走っている時に落としてしまったのだろうか。しかし、それを確認したいのは山々だが、今すぐ引き返せる距離ではない。いちいちまたバスを使って引き返していては、本当にいつ帰れるものか分からない。
取り敢えずバス代は現金で支払って降り、時間や状況的にもう今日はどうしようもないという事で、電車も同様にして現金で乗車券を買って家路に着いた私だったが…
続く
04/07/17(土) 第64回 定期券発見
私はこの上なく焦っていた。
もしも私が鳥取在住の人間であれば、これ程に深刻な話にはならなかっただろう。例え定期券を紛失したとしても、多くとも高々バス代しか移動費がかさまないからだ。
しかし現実は違う。実際には100kmもの距離を電車で移動し、尚且つバスの移動費がかかっている。定期券を用いずに移動するとなれば、瞬く間に少なくない額のお金が舞って行ってしまうのは明らかである。
これはかなりの事態である。とは言え既に家に着いてしまった私が今すぐに出来る事が何も無いのも事実。不安はどうしても拭い去れなかったが、それでも今日はと割り切って、落ち着いて今日一日の行動をゆっくりと思い出しつつ、眠りにつく事にした。
そして翌日。勝負の日である。
恐らく、落とした定期券が見付かるとすれば今日である可能性が最も高いであろう。つまりそれは逆に言えば、もしも今日発見する事が出来なければ、もう諦めなければならないかもしれないという覚悟を決める必要が出てきてしまうという事である。
落ち着いて思い返す。少なくとも行きのバスを降りる時に定期券を提示したので落としたとすればその後であろう。幸い昨日は頻繁に歩き回ってはいないので、考えられる場所はかなり限られている。やはり慌ててバス停へ向かって走っている時に落としたのだろうか。
そんな事は本当は言ってられないのだが、とにかく暑いのであまり外をウロウロと歩き回りたくはない。私は綿密に何処をどの様な順番で探すかという計画を立て、その勝負に臨んだのだった。
現金で運賃を支払ってバスを降りると、即座に道路を挟んで向かい側のバス停へ向かい、そこから昨日大急ぎで走った道程を逆に辿っていく。昨日とは大きく異なり普通に歩くよりも更にゆっくりと。
時間的に最も見付かる可能性が高いのが今日であるとすれば、場所的に最も見付かる可能性が高いのは、昨日一目散に走っていたこの区間である。つまり、もしもここで見付からないとすれば、それから先、時間が経つ毎に、そして探して歩き回る毎に、無常にも定期券からは遠ざかってしまうという事だ。
しかし、定期券は見付からなかった。見落とした可能性もあるにはあるが、周囲の見渡しはいい方である、引き返してもう一度確認するまでもなく、昨日全速力で走ったその区間に定期券が落ちていなかった事はほぼ明らかとなってしまった。
昨日、予定より一本遅いバスを待っている時よりも暑さが身に応えた。その暑さが思考能力すら減退させる。もう見付けられないだろうか?
いや、まだ可能性はある。別の場所に落とした可能性だって少ないながらにある上、周辺の見渡しがいいという事は、落ちている定期券を見付けた誰かが落とし物として届けてくれているかもしれない。名前も書いてある事であるし。という事で、取り敢えず一旦涼むという意味でも、定期券が落とし物として届けられていないかを確認しに行く事にした。
建物内部のやや冷ややかな空気に極楽を感じるのは、幾ら状況が状況とはいっても禁じ得ない所であるが、それも程々にしてしかるべき部署へ出向いた私は、恐る恐る昨日どうやら定期券を落とした様だとの旨を伝えてみた。
すると…あった。担当者の方が見覚えのある定期入れを差し出したのだ。どうやらとある方が届けて下さった模様。
その時の安堵感と言ったらそれは大変なものであった事はご想像戴ける事と思う。本当に半ば覚悟を決めていたのだ。
それに、その日は帰宅時は勿論、帰宅の途に着くまでの間においても、事ある毎に定期券を持っている事を確認し、その度にいちいち幸せを感じていた事も言うまでも無い事と思う。それだけの反動を生み出すだけの深い不安だったのだ。
そんなこんなで、解決してみれば定期券が私の手元を離れていたのは十二時間に満たないものだったのだが、しかし100km間一往復分で、定期券を所持していた場合に比べて4,170円も多い出費を伴ってしまった。それを思うと、一日経った段階で手元に返って来て本当に良かったと感じる所である。
又、金銭面とは関係無い部分で、無事に返って来た事自体も勿論良かったと思うばかりである。何となれば、先日の日誌で明らかにしたばかりであるが、人間の手で定期券を確認する作業にはどうしても落ち度が付きまとってしまうものなので、幾ら定期券を提示している人間とその定期券に書かれている所持者名が異なっていたとしても、残念な事にそれに気付かないまま改札を通過出来てしまう可能性が高いと思われるので、もしも定期券を拾った人が悪意ある人間であったとしたら、その気になれば幾らでも悪用出来てしまうからだ。
流石に駅員さんを見くびり過ぎているだろうか。しかしどういう意見を展開させようにも、私の手元には実例が存在しないので推論しか述べられないのである。だからと言って実例を集める等という冒険が出来よう筈もない事は以前に言った通りである。
そこで、勇気あるそこの貴方にこの気になる謎を解決する大役を任命したい所なのだが…
引き受けてくれる方。連絡を待つ。
04/07/18(日) 第65回 梅雨前線がやや南下するので夕方から雨が降るでしょう
昨日はそんな天気予報が発表されていました。
ほーら言わんこっちゃない。
梅雨明けした日の日誌の最後の方に「もう一波乱あってもおかしくない様な気がしているのですが」なんて書いてましたけど、本当にその通りになってしまったじゃないか。
梅雨前線? 所によっては雷を伴うでしょう? 梅雨は一週間も前に終わったんじゃなかったのか!
しかもこれがタイミングの悪い事に、昨日は急遽出て来いと言われて午後から出かけなきゃならなかったのですよ。これはまさか梅雨明け前数日間の天候の不安定さを奇跡的に連日避け続けられた私に対しての埋め合わせなのかと思ってしまうのも当然というものでしょう。
もー…梅雨明け宣言をあの時点で出すのは、流石に時期尚早だったんじゃないんですか? 大体昨日の話に限らず、三日前の帰りの電車内では遠方に雷が落ちるのを見てしまいましたし。定期入れ落としてそんな事に気を遣っている余裕なんて無かったというのに。
これだから即信用して安心する事だけは出来なかったんですよね〜…ブツブツ…
…という不平と不満と愚痴を述べたいところだったのですが、結局昨日は家を出てから向こうへ到着、用事終了、帰宅、就寝に至るまで、深刻な事態になる事はありませんでした。
う〜む…残念だ…(オイ)
04/07/19(月) 第66回 わたしたわしわたしたわ
「私たわし渡したわ」
こんな妙ちきりんな音を持つ言葉が突然頭に浮かんで来たのですが、もしかしてと思って考えてみるとこの文、回文になっています。
回文とは、その文章を平仮名に直してみると、始めから読んでも終わりから読んでも同じ音を持つ文章の事です。例として有名なものを一つ挙げるとすれば、「たけやぶやけた」とかでしょうか。対象を文章に限らなければ、よく言われていると思われるのはトマトとか新聞紙、後は「逆さ」という言葉自体もそうかもしれませんね。
この回文。当然ながら長い文章になればなる程作り出すのは難しくなり、中には無理矢理作った事で非常に苦しくなってしまったものが見受けられる事もあります。なので、何の脈絡も無く「わたしたわしわたしたわ」が湧いて出て来たのは奇跡に近いものがありますよね。十一文字という長さを誇っていながら、無理に文章を作ろうとした結果生じた苦しげな部分も存在しない。実際にこの言葉が発せられる状況がどれだけあるのかという疑問はあるものの、そこまで規制してしまうと、現在知られている回文の大半についても同様の事が問われてしまいかねないので、それはまあいいとしましょうよ。もしかしたら既に似たような文があった可能性は十分にありますが、もしあったとしても、その前知識が無い状態でこの文章を思い付いた事は揺るぎ様の無い事実なので、この奇跡性も又揺るがないのです。
ところがその一方で、事実上際限無く長い回文をいとも容易く作り出してしまう人も存在します。例えば上の例に出た「トマト」や「新聞紙」が、回文の例として話題に上った時、平然と「新聞紙トマト新聞紙」とか言ってしまう人の事です。確かにこのメカニズムを用いれば、「新聞紙逆さ新聞紙」とか、「トマト竹薮焼けたトマト」とか、「逆さトマト新聞紙竹薮焼けた私たわし渡したわ竹薮やけた新聞紙トマト逆さ」とか、延々とバリエーションを増やしていけます。「新聞紙とトマトと新聞紙」の様に接続詞を合わせて用いれば、ちゃんとした文章っぽくもなります。
しかし、達成感に著しく欠けてしまうにも拘らず、程無くして虚しさが押し寄せて来てしまうのがこういった回文の特徴です。いやでも、もしかしたら初めてこのメカニズムに気付いた人、即ち人類史上初めて「新聞紙トマト新聞紙」と言ってしまった人は、私と同じく感動に打ちひしがれたのかもしれませんね。「私はこんなに長く、接続詞を用いれば文章としても決して破綻しない回文を作り出す事に成功したのだ!!」みたいに。多分その人にも程無くして虚しさが押し寄せてしまったと思いますけど。
さて、話は「わたしたわしわたしたわ」の方に戻りますが、この文章は「し」三文字、「た」四文字、「わ」四文字によって構成されていますが、この三種類の文字を使って出来る言葉やらを考えると、私、たわし、渡したの他に、綿、足し、下、鷲、皺、等々結構あります。それを利用するとこの文章は、一切形を変えずして様々な意味を持たせる事も出来るという凄さをはらんでいるのです。
例えば、「渡した鷲渡したわ」。これはこのままだと何やら意味が通らない文ですが、こうするとどうでしょう。「渡した…鷲渡したわ!!」何だか「やった…やったぞ!!」的な達成感を感じさせる文章になりました。何の為に鷲を渡したかったのかは知りませんが。
他には、「渡した鷲は足したわ」。「わ」を接続詞の「は」とする事にはもしかしたら賛否両論あるのかもしれませんが、回文は音で遊ぶものなので、私は別に問題無いと考えています。文の意味としては、誰かに渡した鷲が、足したんですよ。何を足したのかは知りませんが。
更には、「渡したわ、皺足したわ」。何を渡した事によって何故皺が増えたのかは知りませんが。
又、文頭と文末に「よ」を加えて、「世渡したわし渡したわよ」の様にマイナーチェンジを図る事も出来ます。
……「世渡したわし」というのが何かは知りませんが。
04/07/20(火) 第67回 「ジャッジメント」だそうであります
「戦隊もの」というジャンルの特撮番組があります。私自身、今では勿論の事かもしれませんが昔から殆ど見ていなかった事もあり、詳しい話をするとボロしか出て来ないのでそれは止めときます。
ただ、そんな私も、過去に一つだけ毎週の様にチェックしていた作品があるのです。何レンジャーであったかは忘れましたけど。
実はそれも子供の頃という訳ではなく、五年程前という比較的最近の話なのですが、何故その作品だけをチェックしていたかと言いますと、ある日テレビに映ったオープニング映像を見ていたら、よく知っている声優さんが悪役の声で出演している事を偶然発見してしまったのです。
その悪役というのが、戦隊もの特撮番組において次々とやって来ては散って行くザコ敵だったなら、私がその作品を観たのはその週に留まったのでしょうけど、結構重要な位置にいる、ゲームで言うならラスボスより一段格下の大ボス、あ、良い例があった、シーモアみたいな感じだと思って戴ければそれでいいでしょう、そういった感じの立場だったものですから、そいつが倒されるまで結構長期に亘って見続ける事になっていました。
その結果、一年に二回お正月と夏休みに会う歳の離れた戦隊もの好きの従兄弟がその年によって違う巨大ロボットの玩具を見せ付けては必殺技やら設定やらを流暢に捲くし立てるその言葉を聞いて例年ならば「うん…うん」と頷くばかりだったのですが、その年だけは中々に話題に付いて行ける程度になっていたという何とも複雑な気分にさせる事実が明らかになってしまったのでした。
さて話は変わって、今は「特捜戦隊デカレンジャー」とやらが放送していますが、このデカレンジャー、初めて聞いた時は戸惑いを覚えましたね。「ん? デカレンジャー?」と。
それもその筈。初めて聞いた時に私はこれを「大レンジャー」、即ち「デカいレンジャー」だと勘違いしていたのです。デカい部隊、となるとウルトラマン並の大きさになる訳なのだろうかと、そうしたら戦隊ものではお馴染みの巨大ロボットはどんな事になってしまうのだろうかと、そんな考えが瞬時に広がってしまった訳です。
それだけに、デカレンジャーが「大レンジャー」ではなくて「刑事レンジャー」だと気付いた時の衝撃と言ったら複雑なものがありました。その複雑さ加減と言ったら言うなれば、恐竜戦隊ジュウレンジャーが「十レンジャー」ではなくて「獣レンジャー」だと知った時のそれに匹敵すると言えば分かり易いでしょう。分かり難いか。
04/07/21(水) 第68回 人間の眼力
これを見た時、人間であればこの線分が織り成す立体構造を容易に把握出来ますが、ロボットの場合は単純にはそうはいかず、如何にしてそれを上手く認識させるか、とか、それの具体的方法の一つとか、そんな話に出くわしました。
立体構造。つまりそれは、正面にある突き当たりから右に折れ曲がっている通路的なもの、という事になる訳ですが、人間とは不思議な生き物でありまして、ふとした時にこれがカエル、或いはアメンボ、或いは平泳ぎをしている何者かに見えたのです。
で、一度そう見えてしまうともう大変。先程まで正常に機能していた筈の私の眼はたちまちにして、立体に見せているそれを立体とは認識しないロボットのそれよりもタチが悪くなり、中々元の立体を認識させてくれなくなります。そのままジッと見ていると可愛く見えてきてしまう事すらあるからそれまた厄介です。
人間の眼とは奥が深いものですなぁ…
04/07/22(木) 第69回 市内巡回の勧め
帰る時間帯により、時折「駅直行」ではなく「市内巡回」のバスに乗る事があります。
この市内巡回バスですけれども、一旦駅前を乗客に見せるかの様に接近しつつそのまま通過して市内を回りに行くので、特に初めてそのバスに乗った人を始めとして、「駅には停まらないのか」と聞かれたりとかいう小さなトラブルが絶えない様です。どうせ駅前をかすめて行くんだったら、一旦そこで降ろしてくれてもいい様な気がしてしまうのは恐らく乗って移動するだけの人間の身勝手極まりない意見でしかないのでしょう。
その代わりと言っては何ですが、そのバスでは、駅前をかすめる一つ手前のバス停に停まる際に「駅にお急ぎの方もここでお降り下さい」というアナウンスが流れます。
さて、今日の事。
今日はいつもに比べて早めに帰れる事になり、普段通りのスケジュールであれば乗る事は全く無い市内巡回バスに乗って駅まで行く事になりました。
で、何事も無く駅手前のバス停に辿り着きますと、いつもそのバス停で降りるのとは比較にならない数の人がそこでバスを降り、その内の殆どが駅へ向かって歩いて行きます。
恐らくその方達は「駅にお急ぎの方」なのでしょうねえ。本当にこの暑い中お疲れ様です。如何せん電車の本数が少ないものですから、そう簡単に予定の電車を一本遅らせる訳にもいかないのでしょう。
そんな中、彼等と同じく予定の電車を一本遅らせる訳にいこう筈も無い私はと言えば、当然の様にこれからいざ市内を巡回しようかというバスの中に留まっています。何故か。
簡単な話です。少しでも長く涼んでいたいが為なのです。もう少し詳しく説明しますと、確かに電車の本数は少なく、予定を一本でも遅らせれば帰宅時間が著しく遅くなりかねません。ですがそれ以前に、私が乗るべき電車は距離的に快速か特急に限りたい所なので、該当する電車は限られ、事実上更に本数は少なくなってしまいます。そうなると、折角急いで駅の一つ手前のバス停で降りて、少々の距離を歩いて駅に到着したとしても、一旦市内を巡回して駅に到着したバスを降りた時と、結局は同じ電車に乗る事になるのです。だったら、少しでも長くバスで涼むのが得策というものです。
最近では似た様な時間に市内巡回バスとそうでないバスとが来る場合、もしくは似た様な時間帯にそれら二種類のバスが駅に到着する場合は、わざわざ前者を選んで乗ったりするという手段に出る様にもなりました。
どちらのバスに乗ろうが運賃には変わりが無いのだから、タダで供給されているに等しい冷気を利用しない手はありませんよね。
そこの貴方。「何もそんなに躍起になって涼まなくても」みたいな目でこちらを見ない様に。全てこの暑さが悪いのです。この異常な暑さが悪いのですっ!!
04/07/23(金) 第70回 食堂のチキンカツ
新天地へ出向く様になり、その地での食事に際してひいきにしている食堂というものがあります。
一般に田舎は都会よりもあらゆる物の物価が安い傾向があり、レストラン等でのメニューの価格も例に漏れず比較的安価なのですが、その食堂ときたらそんな中にあって尚且つその「田舎的平均値」よりもやや安く、だからと言って悪戯に量が少ない訳ではないので、私に限らず多くの人の人気を得ている様で、昼時ともなればいつも多くの人がひしめいております。
さてこの四ヶ月、昼食はと言えばコンビニ等で購入した弁当類を食べるかその食堂に行くか、という感じでしたので、結構な回数足を運んだ事になるのですが、通い詰めるに連れてある事が不思議に感じられて仕方なくなる様になりました。
まず、今現在牛丼が休止中との事。これは不思議でも何でもありません。アメリカ産牛肉の輸入停止に伴う牛丼飢饉の流れはここにまで例外無くやって来ていたのです。今では極々たまに特別復活させる以外は全くやっていないとか。私が初めてその食堂に行った時には既に休止されていたので、いつ頃から止めているのか、詳しい所は分からないのですが、まあ恐らくあの辺りの時期の事でしょう。何とも残念な事です。
そして同様に、チキンカツ丼が休止になっています。少し前に大問題となった鳥インフルエンザの影響なのでしょうか。これも残念な所…ん?
いやいや待て待て、チキンカツ丼は確かに休止中ですけど、一方で親子丼の方は普通に毎日やっている様なんですが…? 注文される方も結構いる様ですし、誰あろう私も昨日の昼食はそうでしたし。
それだけではありません。親子丼が通常営業しているだけでなく、「チキンカツ」単体ならば、固定メニューではなく日替わり定食なので一定期間毎ですが、しかし何度と無く登場しているのです。
これは何故だ? 何故チキンカツは定期的に登場するのに、その日に限ってもチキンカツ丼は休止なのだ? あまつさえチキンカツカレーも休止なのだ?
そんな不思議がいよいよ募ってきた今日の事。いつもの様に食堂を訪れると、何と通い始めてもうすぐ四ヶ月となる今となって初めて、チキンカツ丼とチキンカツカレーがやっている光景を目の当たりにしたのです。まあ毎日訪れている訳ではないので恐らく少なくとも四ヶ月振りだ、なんて事は無いでしょうが。
そうとなれば誰が迷おうものでしょうか。私は即座にチキンカツ丼を注文する事に。
ああ、でもそう言えば昨日も丼物だったんだよなあ…カレーにしとくべきだったかなあ…
いやいや、ちゃんとバランスを考えた食事さえ心掛ければ、幾ら二日連続で昼食が丼物であろうがそれはいいのだ。
で、今度こんな日に出くわしたら、今度はチキンカツカレーを食べよう。
その店の鶏肉はかなり美味しいという事を、親子丼を食べていて再三感じていたので非常に期待していましたけれども、やはりその期待に違わず、とても美味しくチキンカツ丼を戴いた次第であります。
…結局その日の昼食は、バランス云々は何処へやら、チキンカツ丼のみに終始してしまったのだけれど…
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