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07/07/03(火) 第791回 雷雲専門気象予報士

飯だけを頼りに乗り切って来たぞ。塩で食べる唐揚げが美味しゅうございました。

昨日気象庁のサイトの話が出た時に、ふと思い出した。最近はとかく、便利な世の中になったもんだなあと。我々は、望みさえすれば、いつでも気象庁さんのサイト等々によって雨雲の強さ、動き、範囲を立ち所に知る事が出来るのだから。

一昔、我が家にインターネット環境が整うまではと言えばそれはそれは大変だったものである。何せ、所望する気象情報を得られるソースが唯一テレビしか存在しない(新聞にも天気予報は載ってるが日に一回の情報じゃ不十分極まりないし、177に電話してみた所で注意報・警報や明日の予報位しか聞けずあまり有益でもない)上、そのテレビによる情報ですら正午前、午後2時乃至3時前、午後7時前、午後9時乃至10時前、テレビ放送終了前の五回程度しかその機会がない。午後7時前までの放送はテレビを悠長に見ていられる状況にない事が殆どだから事実上チャンスは二回である。だがしかし、一日は何時間だ。この間DVDを猛烈に欲しくなってしまった件により再認識した通り、一日は24時間だ。その24時間に頼れる情報が二回とはあまりに心許ない。しかも両者は空気を読まず時間的に近しいと来ている。仕方がないから、どうしても午前中の気象状況を確認したい場合にはわざわざ早朝、テレビ放送開始近辺に編成されている事の多い天気予報を予約録画していたりしたものだ。
さて、そんな数少ないチャンスをものにして天気予報に有り付いたとしても、ただただその放送を指をくわえて見ている様ではいけない。何しろ、私がいちいち天気予報を注視するという事は即ち大気の状態が不安定である事をほぼ直接的に意味する訳で、つまり今後の動向を正確に見極めなくてはならないからだ。
やはり、雨雲の状態を把握する上で最も打って付けなのは雨雲レーダーの画像だろう。直近1時間程の雨雲の動きを10分刻みで表示するこの画像から、これから雨が本格的に強くなるのか、はたまたもうすぐ止んでくれるのかといった基本的事項は勿論、雨雲の対時間進行度からその後の動きとペースを推定して何時頃に雨が降り始めるか、ピークはいつ頃か、過ぎ去るまでにどの位の時間がかかるのかを計算するのだ。レーダー画像を繰り返し参照してより正確性の高い結論を出す事が求められる場合には、本放送を視聴しているにも拘らずその上ビデオ録画する事も辞さない。そうする事で天気の回復するタイミングを大まかにでも知れていれば、その後天気予報放送がなくたって「また降り出すかなあ」なんて心配をする事もなくなるから。

それが今はインターネット環境さえあればいつでもレーダー画像を、それも1時間後までの予測付き(往々にして役に立たんが)で見られるから、以前の様な「これを逃したらもう数時間は情報なしだ」っていう緊迫感はなくなったもんだよね。嬉しい限りだ。
ところで、梅雨前線が北上するとかで明日はまた荒れるらしいから、明日もまた宜しくと言っておこう。逐一アクセスすっからな。



07/07/04(水) 第792回 ジョージ・エリミネーター・ワシントン

「斧」という文字には「父」が含まれているが、斧と父と言えばかの有名なワシントンの桜の話を思い出す。ある日ワシントンは庭で遊んでいる折、何を間違ったか父の大切にしていた桜の木を斧で切り倒してしまった。翌日、その事を知った父が息子に問いただした所、息子は正直に事の顛末を話した。父は、本当の事を包み隠さず話してくれたその意気に感じ、息子の事を褒めたのだった。という話である。
私は前々からどうもこの話には違和感を感じていた。だって、真実を口にした行為そのものは偉かったかもしれないが、現実には被害が出ているのだ。ともすれば隠蔽されていたこの事件を自ら明るみに出した功績を評価したい父親の気持ちも分からないではないが、やはりこの判断は父親が、我が子を過度の色眼鏡で見ていたからこそのものだったと言わざるを得まい。何しろ父親の決断に際しては幼き少年の愚行によって切り倒された桜の木の心情が、針の先で突いた程も考慮されていない。子供の気持ちをおもんぱかってあげるのなら、桜の気持ちにもなってみるべきじゃないのか。
百歩譲って、意識というものの存在しない植物(一部異論はあろうが今回は植物論について語り合っている暇はないのでその辺り割愛)を、今回の件に当たりそれは色々と思慮したであろう人間の子供とを同列に並べるのが不適切だとしても、やはり父親のワシントン少年に対する処遇が我が子故の多大な補正がかかったものだとの疑念は拭えないと言える。何となればそこには、桜の木を切り倒された当事者たる父親の思いが加味されていないではないか。彼は本当にその桜の木を大切にしていたのか? 父親に言われて初めて「自分がやりました」と言っただけで、指摘されるまでは確かにだんまりを決め込んでいた犯人の事をただ許すのならばまだしも褒めまでしておいて、貴方は本当にその桜の木の事を愛していたと言えるのか? これは私の勝手な予想だが、もしか桜の木を切ってしまったのが息子でないとしたら、貴方はすかさず斧を手にして犯人を断罪しようとしたのではないか。それが他人の子供ならこっ酷く叱り付けていたのではないか。いささか突飛で強引な理論であるかもしれないが、「桜の木を大切にしていた」のに「(結果的には)褒めた」という矛盾した行動を取ってしまった貴方なら、そう思われても仕方がないと認識されておくべきだ。
私は何も、父親はワシントン少年の事をこっ酷く叱れと言いたい訳ではない。かと言って、あの場で少年を断罪しておくべきだったと言うつもりも毛頭ない。ただ、まだ判断力に欠けている子供が誤った行動を取った時にそれを叱らないでいては、また同じ轍を踏む可能性があるんじゃないのかと言いたいのだ。正直に話した事については一定以上評価しよう。そしてそれは評価されなければならない事だ。だがそれは直前の失態を帳消しにしてくれるものであってはならないのだ。あくまで叱る事は叱り、その上で褒める事を褒めなければ。

かくして、違和感の根元は明らかとなった。本当に断罪されるべきだったのはワシントンよりもむしろ、教育の何たるかを見誤った父親の方であったのだ。よーし、ワシントン、あの人が悪い人だよー。行け。



07/07/05(木) 第793回 ジョージ・バーサーカー・ワシントン

「斧」という文字には「斤」が含まれているが、「斤」と言えばパンであるが、つまりパンの上に父が乗っている訳であるが、パンの上に父と言えばかの有名なワシントンのパンの話を思い出す。ある日ワシントンの父は台所で遊んでいる折、何を間違ったか皆の大切にしていたパンを踏み付けてしまった。翌日、その事を知ったワシントンが父に問いただした所、父は正直に事の顛末を話した。ワシントンは、本当の事を包み隠さず話してくれたその意気に感じるよりも家族の大事な食料を台無しにした事への怒りの方が先に立って、父に斧を向けたのだった。という話である。

うむ、違和感なし。



07/07/06(金) 第794回 ワシントン謀略

大変な事実を知った。一昨日のネタの引き合いに出した「ワシントンの斧」の話、これ、実は作り話であるかもしれないというのだ。
事の委細はこうである。そもそもあの話は子供向けのワシントンの伝記「逸話で綴るワシントンの生涯」に載っているのだが、掲載されたのは第五版からで、初版から第四版までには登場していなかった。こういった事実から、伝記の著者メーソン・ロック・ウィームズが第五版発行に際し、子供達への教訓の一つとしてこの話を作り上げたのではないかと言われているのだ。
真実かどうかは定かでない。しかし定かにする必要もない。何しろ私はそんな逸話を題材としてあの、アメリカ合衆国の初代大統領である所のジョージ・ワシントン氏をあろう事か本能のままに斧を振り回す狂人殺人鬼であるかの様に表現していたのだ。そんなブラックジョークをかますに当たって、土台となる逸話の真実性にほんの少しでも疑いがかけられている様なら、私は危険極まりない綱渡りをしてまで斧ネタを強行掲載するべきではなかった。
しかし考えてもみると、元を辿れば悪いのはワシントンに切ってもいない桜を切らせ、褒めてもないワシントンを褒めさせた結果、ワシントンの素行を悪く見せ父親の教育方針が一般から外れている様な受け取り方をされかねない表現でもってこの様な話を作ったウィームズの方である。彼がこんな、道徳観を培うにしてはあまりに中途半端でズレた話さえでっち上げなければ、ワシントン親子の愚かさを衆目に晒す事もなかったし、また私によってワシントンの殺人鬼性を見出されたりする事もなかったのだ。彼がもう少し思慮深い人間でさえあったなら、彼自身の浅はかな行為によって故人の評判を不当に落とさずとも済んだだろうと思うと、私はそこにジョージ・ワシントンアメリカ合衆国初代大統領の無念を見る様である。

そう言えば、この話の教訓って「嘘をついてはいけない」なんだって?
お前が言うなよ。



07/07/07(土) 第795回 15光年の遠距離恋愛

彦星「まーた皆好き勝手な事お願いしてるけど、誰か一人くらい短冊に『織姫と彦星が会えますように』とか書いてくれたりしないもんなのかね」


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜天の川〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


織姫「はいはい、自分が一番自分が一番。日本人は謙虚よねー」



07/07/08(日) 第796回 来年の今までさようなら

さて困った。今日は昨日の七夕小ネタに続く形で通常サイズの七夕ネタでも書こうと思ったのだが、気付いてみれば既にして七夕は終わってしまっているではないか。別に、ハッピーマンデー法だかで体育の日が三日ずれたり成人の日が二日ずれたりとかいう事が普通に起きるこのご時世、7月8日に七夕ネタを披露したって何ら不都合な事はないだろうが、しかし片や60年余り前に制定されたばかりの祝日、片や1000年以上前に中国から伝わったとされる行事である。やはりそれだけ長きにわたって受け継がれ、未だ国民の間にしっかと定着しているものを軽々しく扱うべきではない。ここは、至極残念ではあるが、次回七夕までネタを温存しておくしかないだろう。断腸の思いでの決断であった。
しかしそこで困った訳だ。次回七夕と言うといつの事になるだろうかと一考してみたのだが、私の計算が間違っていなければ次回の七夕は実に一年も先、2008年7月7日になるのである。これは予想外であった。何しろ私は、三ヶ月もすれば次の機会が巡ってくるだろうくらいの考えで軽々しく「ネタは次回まで取っときゃいいね」なんて事を決めてしまったのだ。
迂闊である。しかし驚いてばかりもいられない。「七夕は一年に一度」 私はこの衝撃的事実を早急に受け止め、それを前提に次の事を考えていかなければならないのだ。そう、少なくともこの先一年、七夕がやって来ないとなるのなら話は変わる。一年後、2008年になって、まだ私がこうして毎日毎日「雑文」を書いていられる状況にあるかどうかなんて分からないからだ。この「雑文」自体はもう三年も前から書いているが、三年前から二年前、二年前から一年前、そして一年前から今にかけ、その時々では紆余曲折していながらもあまり変わらず続けてこられた様に、今年から来年にかけてもやはり書き続けていきたいと思ってはいる。ただ、今年から来年にかけての一年間は、これまでの三年よりもよっぽど変化に富んだ一年になるであろう事がもう分かっている。今より忙しくなるかどうかはまだ分からないが、そうなる可能性も十分にある以上、安易に無責任な発言はするべきではないだろう。
しかしそうなると、仮に来年は今年と比べても随分と忙しくなると仮定する場合、今日温存すると決められた七夕ネタは金輪際日の目を見る機会の与えられないまま私のパソコンの中に眠り続け、いつかパソコン毎寿命を迎える事になるであろう。もし首尾良く現行のネタ帳ファイル「ネタ.txt」(仮名)が次代のパソコンへ移行出来たとしても、「雑文」が書かれない限り一生ネタ帳の中に留まり続ける運命は変わらない。それはあまりにも不憫ではあるまいか。だが私は、正に今日、2007年7月8日以降2008年7月6日以前の間に七夕ネタを消化する上で最も適切だったであろうタイミングをふいにした。今更撤回出来るものでもない。撤回出来るものであるかどうかに拘らず、七夕から二日以上経っているのに平然と七夕ネタを語っているその光景を想像してみれば、やはりない。

かくして当該七夕ネタは、来年の7月7日、私が「雑文」を書けるだけの状況下にあれば放出、なければ封印という全く運次第の岐路に立たされる事となった。
言わば被害者となったそのネタには心からお詫び申し上げたい。私がもう少し早く「七夕は一年に一度」という事実を知っていれば、こんな事にはならなかったのに。



07/07/09(月) 第797回 男達よ、野生に目覚めよ

「かじる」という行為が至高である事は、世の誰もが反論しまい。特に男子諸君にとっては。
あまねく全ての男子にとって、「かじる」という行為は言ってみれば憧れである。それは、何かを「かじる」事が男子共通の憧憬の対象である「ワイルドさ」を体現しているからだ。
男たるもの、やはりワイルドでない生き方をするよりはワイルドな生き方を目指していきたいものであるが、実践してみるには一筋縄じゃいかないのが「ワイルド」である(大体にして人間という生き物は野生の何たるかなど完全に忘れ去っているし、だからと言って形だけでもそれっぽくしてみようと荒々しい素振りを振りまいてみた所でそれはただの「粗暴な人」に過ぎないのだから)。そう、我々と「ワイルドさ」とはかなり対極をなしている関係なのだ。と言うかだからこそ「ワイルドさ」は永遠の羨望の的なのだ。ところが、我々にはたった一つだけ、極めて簡易に件の「ワイルドさ」を手に入れられる方法が存在する。それこそが即ち、冒頭から話題に出ている「かじる」なのである。

「かじる」のワイルドさは凄まじい。歯を剥き出しにするフォルム。力任せに噛みちぎる攻撃性。「かじる」の前には最早箸の持ち方がどうだとか口を開けて咀嚼するのは行儀が悪いとかいう細々した面倒臭いマナーなど意味をなさない。ただそこにあるのは、圧倒的な力を持つ捕食者と食べられてしまう運命を決定付けられた被食者との間にある絶対的な支配関係だ。「今日も僕達人間の為に食べられてくれてどうもありがとう。いただきます」なんていう感謝の精神すらそこには存在しないし、してはいけないのである。人間の作ってきたルールを人間自らが捨て、己の欲求が為にかじり付くその様が思い起こさせる「ワイルドさ」とは果たしてライオンのそれか、はたまた古代恐竜のそれか。いずれにしろ、ただただ一方的に、独善的にむさぼり食ってこその「かじる」は、我々人間が無意識の内に取っている最後の野生的行動なのかもしれない。

さあ、世の男子達よ、かじるのだ。かじって、かじって、かじり付きまくり、夢にまで見た「ワイルドさ」をその手にするのだ。手にしてみた所で、「俺、今格好良いなあ」という酷い自己満足に浸る他はこれといった活用法もないのが難点であるが。かじり終わった途端に消え失せてしまうんじゃセックスアピールにもなりゃせんしね。間髪入れずかじり続けるんなら別かもしれんが。



07/07/10(火) 第798回 男達よ、高みを臨め

ところで、ただ「かじる」と言ってもその「かじる」対象が何であるかによって、生まれる「ワイルドさ」もまた千差万別である事は容易に想像されるが、ではここで考えたい。一体何をかじればより効果的に「ワイルドさ」を表現する事が出来るだろうか。私はこの問に、それはとうもろこしであると答えたい。

とうもろこしをかじった時のワイルドさは凄い。「かじる」という行為が一般的に持つワイルドさは昨日述べた通り、歯を剥き出しにする見た目と対象を噛みちぎる(時には引きちぎる)荒々しさとにあるのだが、これがとうもろこしを食べる時には更に別の要素が加わりそれぞれが相乗効果を生み出して実にこの世のものとも思えない野生的人間の姿を形作るのである。
説明しよう。第一に、とうもろこしは比較的サイズが大きい。大抵の場合人間の口のサイズよりも大きい。この為とうもろこしを食べる際には大口を開ける必要があるのだが、これがまずワイルドだ。食欲を満たす事にかけて一切の遠慮や躊躇を見出させない態度は正に野生そのもの。ちなみにここでは、とうもろこしの粒を一つ一つ(或いは一列ごと指でもぎ取って)綺麗に食べていく類の人間は相手にしていない。あくまで今話題に上がっているのはとうもろこしをむんずと素手で掴み取り、食後に残された芯の見た目が少々汚くなる事なんて一顧だにせず直接食らい付く様な人間なのだ。
第二に、かじり付いた時にとうもろこしと歯とによって発せられる音がワイルドだ。行儀良く食べようと思えばそれなりであるにも拘らず豪快にしようと意識するなら幾らでも豪快になるあの音を文字としてどう表せばいいのか私にはよく分からないが、ポイントは恐らく多数の粒状の物体から成り立つ食べ物であるという事と、多少のジューシーさを兼ね備えているという点だろう。それによって咀嚼時の音は二重三重、それ以上の重厚さを持ち、聞く者の聴覚にとてつもない説得力を与えるのだ。
そしてとどめに、芯の存在が絶妙なアクセントを効かせていると言える。ワイルドな人間を目指す上では食べるものだってワイルドであるに越した事がないのは自明だが、その点とうもろこしならば、その(一口にし切れない)大きさに比例する芯のサイズが、食前は勿論一通り食べ終わった後にさえ存在感を放ち続けてくれるであろうからだ。これが焼き鳥やバーベキューならこうはいくまい。食べている最中こそとうもろこしといい勝負が出来るかもしれないが(咀嚼音で劣るものの、やはりワイルドさの観点から言えば肉というのはそれだけで強い)、如何せん後に残された串が弱々しい事この上ない。昨日は課題として残されていた「かじっていない時のワイルドさ」にまで踏み込んだとうもろこしはやはり偉大だと言えるのだ。
以上の点より、ワイルドさを生み出す最も効果的な食材はとうもろこしであると結論された。世の男子諸君にあっては是非実践されるべし。

唯一食後、歯の間に挟まった皮をほじくり出す作業が極めてみみっちいけどな。



07/07/11(水) 第799回 けむかむおにいさんの「ざつぶん」Q&A

Q.
しりあいにとってもなかのわるいこがいます。そこでそのこがぶろぐにかいていたねたに、
そのねたがまったくおもしろくないとりろんてきにせつめいしたこめんとをかきこめないかと
つねづねあたまをなやませています。どうしたらいいでしょうか。おしえてください。
(長野県戸隠市:とくめいきぼうさん

A.
なるほど、嫌いなお友達がいるんだね。でもお兄さんは、その子が嫌いだからってその子のブログを
荒らしたりなんかしちゃいけないと思うんだ。
君はブログを持ってるのかな? 仮に持っているとして、
君の書いた記事に「つまらない」っていうコメントが寄せられたらどう思う?
世の中、君の事を嫌いな人は多分一杯いると思うけど、その人達がこぞって君のブログに押しかけて、
「この記事はここがこうだからつまらない」とか
「このネタはオチの文章を最初に持って来た方がずっと面白かっただろうね( ゚,_・・゚)」とか
「こんなん批評する価値もないでしょ」とかいうコメントを残したらどう思う?
それは君だって嫌でしょ? つまりその子にとって嫌な事は、自分にとっても嫌な事なんだ。
自分がされて嫌な事は、人に対してやっちゃいけない。覚えておいてね。
うーん、ちょっと難しかったかな? じゃあこういう話はどうだろう。
君はまだまだ小さいけど、これから大きくなっていく中で色んな人達と出会うと思う。
そしてその中には、今君と仲が悪い子以上に嫌に感じる人だっていると思う。
世の中は広いからね。たまに「なんだコイツ、ちょっと殴ってやりてーーーっ」って思っちゃう人も中にはいるのが現実なんだ。
運悪くそういう人と長期間接触しなきゃなんない環境に置かれた場合、
「殴りたい」ってのが段々「首を絞めたい」にシフトしていったりするのもよくある話。
君もいつか、大きくなって、高校を出て、大学を出て、社会人になった頃には、
本気で首を絞めたくなる様な人と出会う事になると思うけど、
だからと言って本当にその人の首を絞めちゃったらマズいよね。
殺人罪はどんなに軽くても五年以上の懲役だって言うよ。
しかも動機が私怨だって言うんなら情状酌量も認められないと思う。
刑務所に入っちゃうと、お父さんやお母さんが悲しんじゃうよね。
だから、刑務所に入る様な事をしちゃ、いけないよね。
そう、例えどんなに心底首を絞めたい人に出会ったとしても、本当にそれを行動に移しちゃいけないんだ。
だから、君がどんなにその子のブログを荒らしたいと思っていたとしても、それを本当に行動に移しちゃいけないんだよ。
湧き上がった不満を、ただぶつける事で静めるんじゃなく、嫌いな人とも上手に付き合っていける処世術を身に付けようね。
(住所不定:kemkamお兄さん)



07/07/12(木) 第800回 てんとう虫コミックス7巻第1話

楽しくない! これからもずうっと「妄想針千本」を新規に更新しない!


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