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07/06/23(土) 第781回 脱獄への希求

たまにはテレビの話。

数ヶ月前の事になるが、ある日の深夜、ふとテレビでやっていたアメリカ製ドラマ「プリズン・ブレイク」を見て「面白いなあ」と思った事があった。その翌週か翌々週、またもやたまたま同番組が放送されていたのに出くわしたのでやはり「面白いなあ」なんて事を思いながらそれを見ていたのだが、その週の終わり方があまりに視聴者の期待を煽る終わり方だったのだろうか、私はその術中に陥り見事に「次は見なければ」という気分にさせられ、番組の放送時間帯をしっかり記憶したのであった。
今思えば、実に軽薄な行動だったと言わざるを得ない。私は私の、「これは面白い」と思ったものに対する病的なのめり込み様と、滅多として飽きを感じようとしない性格と、無意識下で更なる面白みを探し出そうとする好奇心と、対象に関する可能な限り全ての要素を網羅しておきたいとする完全主義を甘く見ていた。油断であった。以降、何週間かにわたって番組を見、その度順調に引き込まれていった私は、いつしか番組の熱烈とも言えるファンと化していたのであった。
私の不幸たる点は、この番組を本格的に見始めたのが第11話か、12話だったという事である。当然私は思った。「それ以前も見たいではないか」 しかしそこは流石の田舎。近辺にDVDレンタルショップは存在しない。インターネットという近代兵器を用いればこのご時世、何処ぞの動画投稿サイトででも見る事は出来たろうが、それをするのは私の性には合わないというもの。だが、まるで八方ふさがりな私にヤミ金業者であるかに手を差し伸べる存在はいたのであった。ご存知、Amazon.com御大である。
Amazon.com御大は凄いぞ。何せ、トップページにある検索窓に「プリズン・ブレイク」辺りの単語を放り込んでしまえば後はクリック一発、同番組のDVD-BOX情報を提供してくれるのだから。して数日後、私の家には第13話までの収録されたDVD-BOX1が届けられた。
しかし本当に厄介な自分は、ここからその本領を発揮する。DVD-BOX1を買ったのなら、DVD-BOX2も欲しい…! 正直、とんでもない欲求が湧き上がってきたものだと思った。BOX1はテレビ放送でも見ていないエピソードが多数収録されていた訳だからまだしも、BOX2に収録されている内容は一度テレビで見ているのだ。だが私の完全制覇欲はどうやら静まってくれない。苦渋の決断であった。と同時に、極めて愚かな決断でもあった。私は、残す所二話となっていたテレビ放送の視聴を敢えて止め、自ら踏ん切りを付け、言っても立て続けにDVD-BOXを二作買えるだけの余裕もなかったからそれなりに悶々とした期間を設けた上で、BOX2を手中にしてしまったのである。

恐るべし己の完全制覇欲。ここでBOX2の購入を踏み止まれた様なら、私の家にはFF全作のサントラが並んでたりはしなかったろうな。



07/06/24(日) 第782回 逃走への希求

まだまだテレビの話。

昨日の続きになるが、「プリズン・ブレイク」のDVD-BOX2を手に入れる少し前、この番組にはアメリカで人気を博した作品としてはお馴染みの「シーズン2」なるいわゆる続編が存在する事を知った。「シーズン1」にグイグイと引き込まれた私としては当然その放送を楽しみにしていた。次こそ1話から見始めれば、何ならビデオにでも録っておけば、今度は別にDVDを買いたくなる事もなかろう、とも。
だが、シーズン1終了後当然の様にシーズン2を放送してくれるものとばかり思っていた地元テレビ局は、その編成に大きな期待を寄せていた一視聴者の思いを裏切った。シーズン1最終話からしばらく、その時間帯ではテレビ朝日系列のものと思しきドラマが始まってしまったのだ。
もっとも、今が本家アメリカでシーズン2の放送を終えたばかりであるというタイミングから考えれば、もう少し時間を置けば、地元ででも放送予定が組まれる可能性は否定出来ない。しかし一旦日本のドラマが放送を開始してしまったという事は少なくとも三ヶ月は指をくわえて待たなければならないという事であり、その上三ヶ月待った所でシーズン2の放送に有り付けるという保証はなかった。
日本テレビ系列では五月下旬から放送が始まっているというのに田舎に住んでいるというだけの事で三ヶ月以上のしかも不確か極まりないお預けを食らうなどという事が果たして許されようか。答えは簡単だ。許される。ただの一視聴者に過ぎない人間のわがままで向こう三ヶ月〜半年の放送スケジュールが左右されてしまうなんて事はあってはならない事態だからだ。だが、その現実は私にとって耐え難いものであった。何とかして見られないのか? これから三ヶ月、報われるとも限らない苦しみを味わうしか道はないのか?
最終的に私がAmazon.com御大の力を借りると結論するまでに時間はかからなかった。何せAmazon.com御大は凄いのだ。トップページにある検索窓に「プリズン・ブレイク シーズン2」辺りの単語を放り込んでしまえば後はクリック一発、同番組の DVD-BOX情報を提供してくれるのだから。して数日後、私の家には第13話までの収録されたシーズン2DVD-BOX1が届けられた。

そして今私は、BOX1収録全話の視聴終了後、未発売のBOX2をそれこそ三ヶ月以上にわたって待たされたりする事のない様、ドラマと同じ週一のペースで大事に大事に見進めている。



07/06/25(月) 第783回 24時間蟻地獄

テレビの話はもうちょっとだけ続くんじゃ。

丁度地元で「プリズン・ブレイク」シーズン1の放送が終わった頃、別の局で「LOST」なるこれまたアメリカ製のドラマが放送を開始した。この「LOST」、本家アメリカでの人気は高いらしく、と言うか高いからこそこうして海を越えて日本へとやって来た訳なのだが、しかし日本での評判はと言うと私が見聞きした限りではやけに好評な意見とやけに不評な意見とに二分されている様で、ストーリー的には興味があったのだがいまいち買ったり借りたりしてまで見ようという気にはなれなかった。しかし折り良くテレビ放送されるという事ではないか。これは運が良い。私は、「プリズン・ブレイク」にはまり込んだ経緯についてこれっぽっちも反省する様子を見せず、ついつい「LOST」も見始めてしまうのであった。
見ての感想だけれど、率直に言って、面白い。シナリオの性格から酷評する人の意見も分かるし、またダラダラと何年もかけてシリーズ化する事によって批判が生まれる事についても理解出来るが、少なからず、多分に恋愛の方へ傾倒するばかりのドラマを見ているよりはずっと面白い。ただわざわざ大枚はたいてDVDを買う程じゃないかな。まだ7話までしか放送されてないから、今後更に見ていくに従ってまた変わっていっちゃうのかもしれないが。と言うか、シーズン6での完結が決定しているらしいこの「LOST」シリーズを地元のテレビ局が最後まで放送してくれるとは到底思わないから、結局結末見たさに未放送分のDVDを買う羽目になってしまいそうなのだが。

ところで、「プリズン・ブレイク」「LOST」と、今まで「Xファイル」程度しか知らなかったアメリカ製ドラマが立て続けに面白いとなれば、いよいよ私はあの作品への興味を沸き立たせてしまう事を禁じ得なくなってくる。「24」 文字にしちゃうと随分簡素だが、最早説明は不要か。
「24」も見たい。しかしブームに乗るにはあまりに遅過ぎた。流行り廃れがどうとかいう事ではなく、既にシーズン6まで存在する「24」のDVDを全て買うとなるとどう少なく見積もっても数万円の費用がかかってしまうからだ。一時期、日本のテレビがこぞって「24」の話題を取り扱ったり、或いは「24」のパロディを放送していたりして、かくいう私もその時期にこの作品の事を知ったのだが、強烈な興味を抱いてしまった今となっては、あの時素直に流行りに乗っかってたらなあ…と思ってしまうばかりである。もっとも、それにしたってDVDにかけるお金の総額は一切変わりないか、何だったら発売直後に購入するせいでむしろそっちの方が高くついたりしてしまう訳だが。
人によってはこう言うかもしれない。「興味があるにはあるが実際に見てみたら性に合わなかったりするかもしれない。試しにシーズン1のDVDを買って見てみて、それがつまらなければ以降のDVDを買う事はなくなるんだから、まず最初は気軽に買ってもいいのでは」 それは確かに一理あると言えよう。だがしかし同時に、私にとっては適用されない理論であるとも言えよう。何となれば、私が「24」を見て同作品にはまり込まない訳がないのだ。これまでこの番組はシーズン2の一話とシーズン3の一場面とシーズン4の二、三話と運悪く「プリズン・ブレイク」シーズン1DVD-BOX1について来たシーズン5の初回を見たが、いずれにしろ例外なく面白かったのだから。そんな私が建前上「取り敢えず買ってみる」としてシーズン1のDVD-BOXを買った所で、シーズン2以降のDVDを欲しくならない訳がないというものだ。
私は今、目の前の「越えていいものか分からない一線」を前に頭を悩ませている。この間の自分へのご褒美としてDVD-BOXを一つ二つ買っても全然罰は当たらないとは思うが、そうと決めた瞬間、私は更に五つ六つとDVD-BOXを買わなければならない運命を背負う事になるのだ(恐ろしい事に、「24」主役の俳優とはシーズン8までの契約が既にして交わされているという)。

一度踏み込んでは決して戻れない魔の領域。果たして私はそこへ勇敢にも踏み込んで行くべきか? しばらくはまた悶々とした日々を送る事になりそうだ。



07/06/26(火) 第784回 貧乏神を遠ざけろ

ちょっと調べてみたら何だ、「24」のDVD-BOXには通常のでかい箱の奴の他にサイズを小さくした尚且つお手頃価格の「ハンディBOX」やら、その「ハンディBOX」が3シーズン分まとめられた尚且つ更にお手頃価格の「トリロジーBOX」やらなんてのもあるんだな。どうした事だ、これじゃまるで「24」シリーズの敷居が下がった様ではないか。まったくけしからん。先日の件のご褒美はこれにしようか。ちょっと高くつくが、放送開始七年目になってようやく見始めるという出遅れ加減の私には丁度良い。

んで、シーズン1〜3を立て続けに見て私の中の「24」欲が多少は満足された所で、満を持してFF12二周目を再開させようか。気付けば、もう三週間も経てば半年停滞になっちゃうんだなあ。それでも今自分が何処にいて、これから何をするのかっていうのをはっきり記憶出来ているのは、一重に私がこの半年間、事ある毎にFF12の事を気にかけてきたからか。腐ってもゲーム人間だからね。ギルヴェガン前とかいう中途半端な場所で中途終了なんて事にはさせないとも。何かと口を酸っぱくして当たってきた様な気がする「レヴァナント・ウィング」だってまだプレイする気は満々にあるんだからな。
でだ、流石に半年もゲームほぼノータッチだと新たにプレイしたい作品もチラホラと出て来てるから、そろそろ本気出して、それらを順を追ってやっていきたい。流石にここら辺りになってくると、現状ではまだまだ希望的観測の色が濃いかな? でも「ゼルダの伝説 夢幻の砂時計」とかCMで見てて「やりてえええ」ってなどうにもしようのない気分にさせられるんだよね。はあ、しばらくは「夢を見る島」で我慢するか。

そういや、ゲームの話になったから触れておく事とするが、スクウェア・エニックスが今年度中はPS3用ゲームソフトを発売しない方針でいくとかどうとか。そりゃまあ、今多額の開発費を投じて制作した所でハードの販売台数以上の売上げは望めないですもんね。ゲーム開発の素人が見たって、今敢えてPS3向けのゲームを作っている会社はまるで自ら喜んで深みに嵌まりに行っている様にしか見えない。どうすんだソニー。今日「コスト削減で巻き返しを」なんて社長が言ってる記事を見かけたけど、正直そんな悠長な事言ってられる状況なのかソニー。
後、コナミがPS3向けのソフトをXbox360でも発売させるらしい事も随分と気になる。コナミのPS3向けソフトって何だ? やっぱりそれっていうのはMGS4の事なのか? だとすると、ソニー陣営には非常に申し訳ない話になるが、私がPS3を買いたいと思う二台理由の内の一角が失われていよいよ「FF13の為だけに数万はねーよ」っていう声を上げなきゃならん状況になるんだけれども。つーか実際、「24」のトリロジーBOXが全72話収録の50余時間で二万円を切ってくるんだから、やっぱりFF13の為だけに数万はねーわな。
まあこうなったらあれか。スクウェア・エニックスもコナミに追随してFF13をマルチプラットフォーム化してくれるのを祈っておくか。そうしたら綺麗さっぱり数万円の「ゲーム機でない何か」とは完全に縁を切る事が出来るだろうし。

てかまあ、ここ最近のリメイク乱発利益重視の経営方針から損益に関係する事柄については相当敏感になっている事が見て取れる聡明なスクエニ陣は、わざわざ私が祈らずとも自然と「妥当な道」を見付けてそちらへ方向転換してくれるとは思っているけれどもね。



07/06/27(水) 第785回 最後には思いもしなかった衝撃の事実が明らかに!

つーか今になって気付いたけど、もしスクエニがFF13シリーズをXbox360でも発売してくれたら、買わなくてよくなったPS3分のお金を何ら気兼ねなく「24」シリーズのDVDに当てられるじゃんよ。実にそれだけで現状シーズン6までが放送されたこのシリーズのDVDを網羅出来ちゃうんじゃなかろうか。私は今初めて、PS3を、希望小売価格が五万円を軽々超過していなければならなかった程のものに仕立て上げたソニーの世界に名立たる技術力とやらと、そこをプラットフォームとして希望小売価格がいよいよ一万円に届いてしまいそうなソフトを作ると決意したスクウェア・エニックスの覚悟に称賛を送りたい。彼等がPS3という次世代ゲームハードを本気で作り、そしてFF13という映像技術の粋を結集したゲームソフトを本気で作ろうとし、もって私にあの高額ハードを買わせようという気に少しでもさせたからこそ、今私は数万円の出費が事実上浮いた事にこの上ない喜びを感じられているのだから。
だから、だからスクウェア・エニックスよ、もう二度と裏切るな。もっとも彼等はまだ正式にFF13をXbox360でも提供すると発表した訳では全然ないから一度だって「FF13の為にこそPS3を購入しスタンバイしていた者達」を裏切ってはいないのだが、これで「FF13はPS3独占供給ですよ」なんて事になったら一度は浮いた数万円の出費が改めて発生し私の身と心はボロボロになってそんな惨劇を招いたスクウェア・エニックス陣を怨まずにはいられなくなってしまうぞ。
なもんでまあ、結局これは「お願い」という事になるが、生活がかかっています。どうかどうかXbox360にもその恩恵を授けて下さい。さもないとFF13並びにヴェルサスの売上げが各々一本ずつ減る事になりますよ。

えっ!? 痛くも痒くもないって!? そんな!!



07/06/28(木) 第786回 偉大な先人の謙遜

例えば、今年クリアしたゲームの数が0本だった私が、仮に来年5本のゲームをクリアしたとして、来年末にでもその総評と称し「今年は去年の5倍ものゲームをクリアしました。生粋のゲーム人間もようやく本調子を取り戻してきましたね」なんて言ったとしたら、貴方はどう思うだろう。
例えば、公開3年目において「雑文」並びに「俺的事典」以外のコンテンツの更新回数が0回だった私が、仮に公開4年目で5回更新出来たとして、再来年2月の公開4周年記念にでもその総評と称し「今年は去年の5倍も更新出来ました。来年はもう5倍更新出来る様頑張ります」などと抜かしたとしたら、貴方はどう思うだろう。
つまりこういう事だ。「それは5倍じゃない」 そう、5は0の5倍じゃない。より数学的に表せば、0×5=5じゃない。0×5=0だ。5倍して5になるのは1であって、0じゃない。この、それ自体は小学校時分に習う筈の知識を、何故だか勘違いしている人が時々いる。そして、なまじそれが数学的にはかなり基本的な知識であるばっかりに、上記の様な発言には大概「0を5倍しても5にはなんないっすよ」的な突っ込みが浴びせ掛けられる事になるのだ。
私は数学が好きな人間である。であるからして、自ら上述した類のミスを犯す様な事はしない。だが私は、先の勘違いを口にしてしまった人に出くわしたとしても、その間違いを、まるで得意気になって己の教養をひけらかすかの如く正そうとしたりはしない。むしろ私は、その誤りに「5倍じゃない」と突っ込みを入れる人の方こそ無粋だと思う。

「0が5になったから5倍」との話に対して安易に「5倍じゃない」と突っ込む人には、0だったものが5になるという事についての認識が欠けていると言わざるを得まい。こんな言葉を聞いた事はないだろうか。「1を10にするよりも、0を1にする方が何倍も大変だ」
そう、既にして一定の基準のものが存在する何かを伸ばしていくのは大変な事だが、0から何か新たに1つのものを生み出すのはそれ以上に大変な事だ。極々身近なものではサイト運営が良い例である。しっかりした基盤(ここではサイトの方針や運営に関する知識等に当たる)が整ってさえいればそれを大きくするのは努力次第でどうとでもなる事だが、その基盤を構築する為のアイデア――往々にして斬新である必要のある――を捻り出すのは一筋縄では行かないのだから。断っておくが、ここで言う「サイト」にここの様なサイトは含まれていない。ここの様なサイト、例えば「妄想針千本」で言うなら、ここはただただ「FINAL FANTASY」という「1以上だった既存のゲーム」を(明後日の方向へ)伸ばしているだけで、0から生まれてなどいないからだ。
この事から、「0→1」を成す事の凄さが理解出来よう。そして、「0→5」を「5倍じゃない」と突っ込んでしまう事の野暮さも。5倍とは即ち「1→5」という事であり、それは「0→1」の偉大さとは比べるべくもない変化に過ぎないのであり、間違っても「0→1」と比較してはならないし、ましてや両者を同列に扱ったりしてはならないのだ。

「生みの苦しみ」という言葉がある。我々はその言葉の意味をよく知るべきだ。
そして、0→5を「5倍」と表現するのはむしろ謙虚さの表れなのだという事を、よく知るべきだ。



07/06/29(金) 第787回 偉大な先人から有難いお言葉を頂戴します

「つかね、別に『0→5』を表現するのに適した言葉がないって訳じゃないんよ。こういった時には『5ポイント増加した』と言えばいいんだから。もしかしたら『ポイント』って言葉は百分率で表された2つの数値の差の事を言う時のものかもしれんけど、拡大解釈すれば何て事ない何て事ない。『5倍』ほどの酷い間違いでもあるまいし。って、じゃあ何でわざわざ酷い方の『5倍』だなんていう表現を使うのかって? そりゃあんた当然でしょ。『5ポイント増えた』なんて言ってもインパクトがないもの。世の中インパクト勝負だからさ、だったら俺は多少の間違いはあってもインパクトの強い『5倍』と言い続けるね。『5倍』って凄いじゃん。1が5になって、5が25になる辺りはまだそうでもないけど、25は125になるんだぜ。それに引き換え『5ポイント』ってどうよ。0が5になるのは凄いかもしんないかもだけど25はたった30にしかなんねーんだもんな。くっだんね」

偉大な先人



07/06/30(土) 第788回 こういうのでいいんだよ、こういうので

前々から随分と気にしていた久住昌之原作・谷口ジロー作画の「孤独のグルメ」という作品を今日遂に読んだのだが、これが良い。メシを食う事が主題で、ただメシを食うというだけの漫画。だがそれが良い。ついつい一冊全てを、作者のあとがきに代えたエピソードまで含め一気読みしてしまうと、読み終わる頃には空腹感で一杯になってしまっていた。
以前書いていた様に(第595回・第596回)、私自身、日常生活において食事の有り様については重要視しているものだから、この作品の主人公である男の気持ちにはいたく共感するばかりであった。食へのスタンスばかりでなく、酒を飲めない事や、繁盛の為に並ぶ事には拒否感を示す点など、細かい所にも自分との共通項を見出せるものだから余計にまた。
作中に登場するメニューの殆どが、いわゆる「グルメ漫画」に出て来る様なご大層で煌びやかなものでなく、餃子だカレーだ、はたまたコンビニのおでんだとかいうものばかりだから、それだけ鮮明にその味、匂い、食感を想像出来る点がこの作品の良い所であり、同時に、容赦ない食欲を喚起する意味で罪でもある。しばらく私の一存で決められる食事メニューは何処かこの作品をトレースする様なものになってしまう事だろう。

作者はあとがきの冒頭にこう記す。「入った事のない飲食店に入る時にある種の『勇気』がいるのはなぜだろう」 私にはこの言葉もよく分かる。こと最近は県外遠征が多くなっており、出先ではその都度昼食に、はたまた夕食に、時には朝食にと、いちいち何処で食べるかで悩んでいる私には「正に」な問題だ。
入念な計画を立てでもしていない限りはまず食事所を探すのだが、しかし見当違いの場所を歩いているといつまで経っても見付からない。驚いた事に、どんな都会に行っても、料理屋のない所にはないものなのだという事をこの間身をもって知った。明らかに寂れているとかいう訳でもなく、普通にビル街で、人通りもそこそこあると言うのにだ。とは言え、私がお世話になる都会なんてのはまだまだ駅前の範疇を出ない事が殆どであるから、大抵の場合数分も歩けば数軒の料理屋を見付けるのは難くない。だが、ここからがいよいよ「勇気」の出番だ。
作者もあとがきの冒頭で「勇気」について自問していながら、はっきりとした答えは出ていないのであるが、私にも何故「勇気」が要るのか、その躊躇の正体はよく分からない。でもそれは、「食」というものが利己的な行為である事に起因しているのではないか。その様な気がする。食事は利己的だ。もう少し言えば独りよがりだ。牛や豚を殺して食べ――という点でも利己的だが、ここで言う「利己的」とはもっと基本的な、「自分の食べたいものを食べる」「自分のペースで食べる」「自分の心地良く感じる環境で食べる」といった心情に関してだ。より基本に立ち返れば、「己の空腹を満たす」という事が既に利己的であるとも言える。ある料理屋に赴き、その時だけでも今いる料理屋のルールに従うという事は、そんな独善的で、自らが支配してしかるべき行為を少なからず制限する事になる。それが過去に入った事のない、未踏の領域だとしたら? その店にどんなルールがあるか知れない。食事に関してどんな「拘束」を受けたものか分からない。折角の、一日に三度しかない「食欲を満たすチャンス」を、不当にがんじがらめにされる事で不意にしたくはない。そんな不安感が、初めての店へ入ろうとする足を渋らせるのではないだろうか。勿論、よくは分からないが。
でも、大抵の場合、「勇気」を出して入ってみたらそこを出る時には満足気な顔を浮かべているものだ。でも、幾度そんな経験を繰り返しても、「勇気」が不要になるなんて事はない。不思議なものである。

話は随分とずれた様だが、「孤独のグルメ」 お勧めです。



07/07/01(日) 第789回 舌だけが上れなかった大人の階段

「孤独のグルメ」の主人公は思う。「そうだ。これは子供の頃キライだった味だ」 第10話「東京都杉並区西荻窪のおまかせ定食」の回にて自然食の店で出て来たほうれん草のおひたしを食べた時の科白である。
これを読んで思った。私はまだまだ子供の味覚をしているんだなあと。昨日もリンクした以前の「雑文」にて「カレーライスが今この歳になっても相変わらず大好きで」とあるが、この一節からもその事がよく分かる。いわゆる「子供っぽい」食べ物が大好物なんだな。ハンバーグは、頻繁に食べる訳じゃあないが、好きだし、オムライスだって、一年に一回食べるか食べないか位の頻度でしかお目にかからないが、好きだし、ナポリタンも、オムライス以上に食した経験こそ少ないが、あれば食べるし。
よく「大人になると味覚が変わる」と言われるが、私でもその内そうなるのだろうか。これは私にとって一種の不安でもあった。「カレーライスがその内嫌いになってしまうのだろうか」という不安ではなく、「食事の真髄を堪能し切れずして一生を終えてしまうかもしれない」という不安。誰の、どんな話を聞いても同じく思う事だが、大人になって「大人の味わい」を知った人達は一様にして「味覚子供」の私よりもずっと食事を楽しんでいる様に見えるのだ。そしてこの事は、大人の味覚を持った人々が、言ってしまえば大味な料理でしか「美味しさ」というものを感じられない「味覚子供」達とは違って、繊細な奥行きのある味わいを感じ取る事が出来るのであろう点から、恐らく正しい。
そして、だからこそ、私は不安だ。もしこのまま一生「味覚子供」のままでいたらと思うと、生涯食事の本当の楽しみをいうものを知らないままでいるのかと思うと、人生の二割程を無駄にしてしまうかの様な気がして仕方がないのである。
味覚ってのは、何が理由で変わるもんなのかね。理由としては、成長による身体の変化がもたらすものと、食生活そのものの変化によるものとが考えられると思うけど、前者は少し考え難い年齢になって来ている様な感じだから、意識して食生活を変えていく努力が必要になる訳か。って事はだ、大味な料理を好む傾向にある私は、大味な料理にありがちな「濃い味」に慣れ切ってしまった舌をまず改善すべく、精進料理であるかの薄味メニューに打てもしない舌鼓を打って食材本来の味を楽しめる舌を手に入れるべしという事なんだな。それはつまり、しばらくカレーライスを食うのは控えろという事なんだな。よーしよしよし。



えぇー。



07/07/02(月) 第790回 な(7)ぐ(9)れ(0)…殴れ!

つくづく私の生活は天気によって左右されているなあと思うのであり、それもごく一部の、「雷」という気象現象に酷く振り回されているなあと思うのであり、つまり私が言いたいのはこういう事だ。昨夜の荒れ様も酷かった、と。
雷は定期的にやって来るものである。また、酷く憔悴させられる様な出来事に遭うとついその旨「雑文」に書き殴ってしまいたくものである。そして、雷とは私を酷く憔悴させるものである。かかる見識から自然と「私は『雑文』内に定期的に雷関係の文章を書く」という客観的事実が導き出されるが故、「また雷の話か」と思われた方はそこの所をよくよく理解した上で、今日については諦めて戴きたい。明日に迫った久し振りの県外遠征準備の事もあり、今日は全くもって実のある話が出来そうにない。
さて、昨日の荒れ様の話だが、何が酷かったって、私を午前五時頃までまともに寝かせなかった辺りが酷かった。五時を少し回った辺りで気象庁のサイトにて雨雲の様子を伺うとようやく雷雲も去ろうかという感じだったからそれから慌てて睡眠をむさぼりにいったのだが、五時じゃあもう無理とかいう話じゃなかったね。寝てみるが早いか、すぐ明るくなりやがって。つーか寝る時にすら既に薄っすら明るかったろう。
ってかね、そういう事情もあって、明日の準備がどうこう言うよりとにかく眠くて堪らないから今日は実のある話が出来ないんだ。じゃあ明日になったら実のある話が出来るんだねとか言われてもそれはそれで全く別の話だから変にお約束して責任の発生する形にはしたくないんだけれども、ひとまず今日はこれで終わりという事にさせて戴きたいんだ。

とにかく、タイトルからして中身のない「雑文」などさっさと切り上げて、んでもってさっさと寝る。
明日は今から既に面倒臭いけど、まあ飯だけを楽しみに乗り切ってくるとするよ。


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