07/07/24(火) 第811回 [姓] 天秤 [名]
世の中には二種類の人間がいる。名前(ここでは姓と名を合わせたフルネーム)が四文字の人間と、三文字の人間である。二文字並びに五文字以上の方、今回は出番がございませんので本日は閲覧のみでお楽しみの上、またの機会をお待ち下さい。
さて、その二種類の人間の内、日本人において圧倒的多数を占めるのは恐らく前者だろう。特に、苗字二文字、名前二文字の組み合わせを持つ人が殆どではあるまいか。苗字は鈴木を筆頭に二文字のものがズラッと並ぶし、名前にしたって苗字程の差ではないのかもしれないが二文字のものが主流だと思われる。これは私がこれまでの二十余年の人生から弾き出した推論であり、これが間違っているという事は即ち私の人生が根本から否定される事を意味する為、安易な粗探しは控えて戴く様ここに進言しておく。
さて、今回の話の主題はそうした主流の人間達ではなく、名前が三文字の比較的少数派な人間達についてである。結論から言おう。名前が三文字の人はそれだけで損だ。
いきなり何を言うのかと思われるかもしれないが、しかしこれは真理だ。例えば思い浮かべてみてほしいのである。様々なケースにおいて、自らの名前を書面に書き記す場面の事を。名前が四文字の人は、ただでさえ苗字と名前の間で調和が取れているから、全体のバランスが取り易いのだ。対して三文字の人はどうだ。苗字と名前の字数比率が1:2、或いは2:1である。これは実に倍ほどの違いもある。自己を規定するという意味の上では苗字も名前も同じ位の重要性を持っているにも拘らず、両者は量に換算して倍ほどの違いにもなってしまっているのだ。更に想像してみてほしい。この対比を苗字が100文字の人間に当てはめるとすると、その人間の名前は何と200文字という事になってしまう。それほどの差があってどうして整然としたバランスを取る事が出来ようか。
この問題は人生のあらゆる局面で表出する。教科書への記名、テスト用紙への記名、受験願書への記名、履歴書への記名、入社承諾書への記名、始末書への記名、退職届への記名、遺書への記名。その時々で、しかしうんざりするほど何度も何度も、それは名前が三文字の人に降りかかる。そしてその人によって書かれた三文字は、苗字か名前のどちらかが他方の倍もの、明らかに無駄な自己主張をし続けるのだ。
かかる具合に、名前が三文字の人はただそれだけで損である。彼等が、人生の端々で感じる己が名の持つバランスの悪さ、そしてそこから来るほんの小さな(だが頻度が頻度だけに着実にダメージを蓄積させてくる)違和感は、名前が四文字の、そんな思いは露も知らずに生きている人々に対する言わば共通のコンプレックスである。だが、無理にバランスを整えようとでもして字数が一文字の方を倍の大きさで書いてしまったりすればたちまちにして横か縦かに引き伸ばされたそちらの文字の方が世間の注目をさらってしまう。運命とは非情だ。運命とは過酷だ。名前が三文字の人間が、ただそれだけの理由で一文字名前を増やせる様には、今の日本の仕組みはなっていないからだ。あまねく全ての人間は、親の意向によって名前を苗字と併せて三文字とされてしまったが最後、結婚して苗字の字数が変わる場合を除いて死ぬまでその僅かな違和感のある名前と添い遂げなければならないのだ。そのやるせなさ、推して知るべし。
ところで今回は、名前が四文字の人の内苗字と名前が二文字ずつでない人間について言及していないが、特に苗字が一文字の者に告ぐ。幾ら三文字は嫌だからと言って、間違っても我が子に三文字の名を付け四文字でまとめたりしてしまってはならない。
何となれば、苗字一文字に対して名前が三文字だとその比率は1:3にもなり、これは実に三倍ほどの違いにもなって(以下略)
07/07/25(水) 第812回 メンテナンス実施のお知らせ
な…何っ……これでは…更新出来ない…
誰が何と言おうと…更新出来ない……
メンテナンスじゃ仕方がない…メンテナンスじゃなければ…更新出来たのだが……
おしまい
07/07/26(木) 第813回 ないはずの距離が広がる時
真っ昼間ど真ん中という驚愕のメンテナンスも終わったので話を続ける。
世の中には二種類の人間がいる。姓が一文字の人間と、姓が二文字以上の人間である。二文字以上の方、今回は出番がございませんので本日は閲覧のみでお楽しみの上、またの機会をお待ち下さい。
先日、名前が四文字の人間と比べて名前が三文字の人間は実に様々な局面で損をしてしまうという事について熱弁を振るったが、同様にして、姓が一文字かそうでないかによって大別されるその両者にもまた優劣関係が存在している事を貴方はご存知だろうか。
今回も結論から述べるとしよう。姓が一文字の人間はそれだけで損だ。何故か。私はその根拠に大きく二つの理由を挙げよう。
例えば、貴方が電話を受け取る時の事を考えてみてほしい。電話機が鳴る。受話器を取る。相手方が「もしもし」と喋り出す。否、その前にまず貴方が喋る。「はい、○○です」 ここで○○内に入れられるのは貴方の苗字である。「はい、山本です」「はい、石黒です」「はい、大川です」 こういった塩梅である。そして今しがた例に挙げた三者はいずれも「姓が二文字の人間」達である。ではこれが一文字になるとどうか。ご覧戴こう。
「はい、関です」「はい、角です」「はい、岡です」
字面で見る限りじゃ何の事だか分からないかもしれない。だが声に出して読み上げてみる事でそれは顕在化する。実際に貴方も読んでみて戴きたい。「はい、山本です」「はい、関です」
バランスである。前回話題となったバランスが、ここでも論点として浮上する。やはり今回も、バランスが悪いのだ。文字列としてではなく、音声としてのバランスが。そうだ、「これから電話で会話をとり行いますよ」という要請への、言わば了解の返事と言える切っ掛けの挨拶としては、漢字一文字の苗字を名乗るにはほんの少し短いのだ。この事が分かり難ければ、姓が音節にして一音節の方を例にとって改めて電話のシーンを思い浮かべてみると宜しかろう。「はい、阿ですが」 実際におられるとは言えどここまで極端になれば貴方にも、電話口で短い姓を名乗るという事の得も言われぬ不安定感を感じ取る事が出来るのではあるまいか。
この事実を意識して改めて口に出してみよう。「はい、山本です」 やはり山本さんが醸し出す安定感は並のものではない。「はい、関です」 はっきり駄目だと断罪する訳ではないが、どうも土台がしっかりしていない感がある。せめてもう一音節欲しいのだ。そうするだけで関さんと、関さんに電話をかけてきた相手口の方とが非常に心地良い中で通信の了解を取り合え、もってスムーズに会話へと移行する事が出来るだろうに。つまりそれは返して言えば、「はい、関です」と不安定な切り出しをしてしまう事が関さん並びに相手口の人に「何とも言えない不足感的なもやもや」を与えてしまい、それがその後の会話までずっと尾を引いてしまう事になるのである。
そしてこの弊害が、当事者の人生に大きな影を落とす事は想像に難くない。人によれば記名以上の頻度でもって襲い掛かる電話受信。その全てのケースで上記問題は発生するのだ。そしてこの問題はその他の姓に関する問題と同様、やはり簡単に解決可能な類のものではない。例えば、下手に安定感を求めるばかりに「はい、関信一です」とフルネームでの自己紹介などしてしまえば、姓のみを名乗る場合とは比較にならない程の安定感を得られる代わりにそれとは全く別の不快感を相手方に与えてしまうからだ。その不快の多くは、大抵の電話相手が知りたくもない個人情報を馴れ馴れしく口にする人間に対して喚起される「気持ち悪い」であり、それは事によると「キモい」である。
今や日常を生きる上で電話は不可分の存在になったと言える。携帯電話の普及は生活と電話との関係をより密接にした。そんな中で、誰かからかかってきた電話を取るなんて事は誰にだっていつでも起こるし、幾らでも起こる。その電話信号受信というイベントが発生する度、必ずや相手との間に若干の――だが確実にお互いが気まずいと感じる――間を作り出すか、さもなければ「キモい」と思われてしまう人間達の苦悩、推して知るべし。
もっとも、今回の話にも多くの例外があり、上記の話はただ「姓が漢字一文字の人間は電話口で変な空気を作ってしまう『傾向がある』」と言っているに過ぎない。実際姓が二文字だが読みの音節も二文字である人(小野、古賀、瀬戸など)は存在するし、姓は一文字だが、読みの音節は三文字以上の人(林、南、橘など)だっている。
だが私は、そういった例外に当たる人々の事をそんなに憂えてはいない。何故なら、彼等は「姓が一字かつ読みの音節が二字以下」の人達と比べ明らかに「まし」だからだ。確かに彼等は彼等でそれぞれに苦労を背負っているのかもしれない。前者に当たる人は今回の本論同様電話を取る毎に極々僅かな苦痛を味わっている事だろうし、後者に当たる人は電話でこそ苦労しないが記名時の名前とのバランス取りについて心労が絶えないだろうとは思う。しかし考えてもみてほしい。今回の話の中心となった人々は、そのどちらの苦しみにも直面した人生を送り、そしてこれからも送っていく運命にあるのだ。
人間、突き詰めれば文字を書いているか電話に出ているかのどちらかを行っていると言っても過言ではない。そのどちらでも心にチクチクと痛みを感じて生きていく彼等の、その未来を思えば――
「絶望」の二文字がこんなに似合う人種もいまい。
07/07/27(金) 第814回 他人の様な気がしない他人と他人でしかない他人
非常に地味に「ゼルダの伝説 ふしぎのぼうし」の二周目を開始したのだが、それをわざわざ書くまでもないなあと思うので話を続ける。
世の中には二種類の人間がいる。姓か名(或いはそのどちらも)が一文字の人間と、姓も名も二文字以上の人間である。姓も名も二文字以上の方、今回は出番がございませんので本日は閲覧のみでお楽しみの上、またの機会をお待ち下さい。
昨日の話の中心は姓が一文字の人間であり、名の方に関して一切の関与はなかった。だが今日は名が一文字の人間にも深く関わってくる話である。更に今回は、前回「姓が二文字だがその読みも二文字」もいた様なものとは違い、姓か名が一文字である人間とそうでない人間とがより明確に分類化される。例によって結論から述べよう。姓が一文字の人間はそれだけで損だ。
例えば貴方は、こんな経験がないだろうか。「検索エンジンで自分の名前を検索する」 この日本の何処かに、自分と同姓同名の人間がいるのかどうか。いるのだとすれば、その人は一体どの様な人物なのか。人の持つ些細な好奇心が近代技術と融合する事によって生まれた、ほんのちょっとしたお遊びである。
さて、ではこのお遊びに関して、姓が一文字の人間はどういう点で損だと言うのか。それは姓が一文字の人間とそうでない人間の検索結果を比較してみれば明らかである。例えば、「林田賢治」を検索してみた場合、そこには林田賢治氏に関するページがずらりと並ぶ事になる。当然である。だが「森信弘」を検索してみるとどうか。そこには確かに森信弘氏に関するページが表示されるのだが、よくよく見ると別人が紛れ込んでいる事に気付くだろう。ウェブページ全体から検索されたその中には、森信弘氏とは恐らく何の関係もない北森信弘氏や、西森信弘氏、はたまた奥森信弘氏といった面々の姿を確認出来るのである。名が一文字の人間についても同様の事が言える。「佐伯誠」という名を持つ人がその名で検索すれば、意図してもいない佐伯誠司氏の名前がヒットしてしまったりするのである。「林」姓に至っては大林、小林、松林などに加え、東海林姓まで引っ掛かってくるという混雑振りである。
これらは実際に検索して確認してみた訳ではないから本当に北森氏や西森氏の名前が出てくるかどうかは知らない(よって、もし仮に著名な方の名前がヒットしたりしても私がその方を存じなかっただけで他意はないし、貴方の名前だったとしても他意はない)。だがこういった現象は少なからず現実に起こる。それらは一般の検索で言うノイズに当たる存在となって、目的の情報を探そうとする「姓か名が一文字の人間」達を苛立たせるのだ。
もっとも、これはたかがほんのちょっとしたお遊びであり、そんな、言ってしまえば下らない行為を掴まえて損だ得だと叫ぶのはどうかと思われる方もいるかもしれない。しかしこの世知辛い日本社会、お世辞にも好景気になったとは言えない日本情勢。こうした時代に生き、どうしたって心が荒んでいってしまう中でふと立ち寄ってみた心のオアシスにすら煩わされるその不憫さ、推して知るべし。
当然、今回の話にも例外があって、例えば姓が二文字であっても「谷川→長谷川」の様なノイズがヒットする可能性は十分にある。
ただ、そんな例は「(一文字姓)→(二文字姓)」に比べて圧倒的に少ないだろうから、それ位の事は我慢せいよ。
07/07/31(火) 第815回 真の損
こうしてFF12が軌道に乗ってきちゃうと、ついこの前始めた「ゼルダの伝説 ふしぎのぼうし」二周目が全然進まなくなってしまうのだが、まあ中途半端にいつまでも残しておく方が何となしに気持ち悪いので可及的速やかに片付けようという事にして話を続ける。
世の中には二種類の人間がいる。姓が二文字かつ名が二文字かつ姓の読みが三文字以上の人間と、「姓が二文字かつ名が二文字かつ姓の読みが二文字以下」または「姓が二文字かつ名が二文字でない」人間である。名前(ここでは姓と名を合わせたフルネーム)が二文字並びに五文字以上の方、今回は出番がございませんので本日は閲覧のみでお楽しみの上、またの機会をお待ち下さい。
段々と「二種類」の区分の仕方が煩雑になってきたがそんな事は露程も気にせず慣例に従って本日も結論から述べる。姓が二文字かつ名が二文字かつ姓の読みが三文字以上の人間は普通だ。
そう、普通だ。あまりにも普通だ。どのくらい普通であるかと言うと、日本人の一般的氏名が「姓が二文字かつ名が二文字かつ姓の読みが三文字以上の人間」であるくらい普通だ。
普通であるが故に、姓が一文字だったり姓の読みが二文字だったりする人間の様にネタにされる事がない。言い換えればネタになる様な面白さをはらんでいない。その月並さ、推して知るべし。
ところで、一連の氏名ネタで一度も話題に上らなかった「名前(ここでは姓と名を合わせたフルネーム)が五文字以上かつ姓と名の文字数差が一文字以下」の方、以降出番はございませんのでこれからも閲覧のみでお楽しみの上、来もしないまたの機会なんかをお待ちにならないで下さい。
07/08/01(水) 第816回 四男坊の懐を覗いてみれば
FF12のプレイを再開して、こんな思いを新たにしている。「何だかんだ言ってFF12はやっぱり面白い」 そして、「その面白さを演出する最も大きな要素はバトル周りのシステムである」と。
かねてからFF12の肝はバトルにこそあると思っていた私であるが、ガンビットの使い勝手を先日改めて知り、その思いはますます強くなったと言える。ガンビットへ全ての戦術を託す事に若干の抵抗感を感じていた為、もといガンビットを相手に応じて変更するのが極めて面倒臭かった為に以前は「たたかう」とHP回復以外の殆どの行動をコマンド入力にて行っており、それが理由でバトルを楽しむ余裕なんてものを持ち合わせられる筈がなかった。だが蘇生や補助魔法をガンビットに組み込み自身のボタン入力量を劇的に減らす事でゆとりが生まれ、戦いの大局を見る事が出来る様になり、よりストレートにその面白味を感じられたのである。
首尾良くこれからサブイベント群突入という事もあって、私のFF12二周目に向ける意欲はプレイ開始以降一、二を争う程に高いと言える。しかしそれは好ましい事実である反面困った事態を引き起こしてもいた。
「FINAL FANTASY 12 INTERNATIONAL ZODIAC JOB SYSTEM」という甚だ長ったらしいタイトルのゲームソフトがある。来週の木曜、8/9に発売になるいわゆるFF12のインターナショナル版ソフトである。発売されるという事は、そのソフトを購入するか否か、我々あまねく全ての消費者にはそれを選択する権利が与えられているという事であるが、何を隠そうこの私、これを購入してみてもいいのではと思い始めているのだ。
いつだったかに書いた事かどうかよく覚えていないが、このインターナショナル版FF12という、またもや行使されたスクエニ流お手軽小金稼ぎに乗っかるつもりは割と最近までなかった。それもそうだ。二周目ですらまだ全工程の半分も終えていないのに、それが終わってさあインターナショナル版で三周目だなんて愚行を犯せる筈はないからだ。当時の私には二周目を積極的に進める意欲もそんなにはなかったから(勿論それ以上にプレイに充てる時間そのものがなかった)、二周目をクリアした時点でまだまだ続けてFF12をやるだけの気力が残っている筈もなかった。だが、話を聞く所によればインターナショナル版ではタイトルにまで掲げられている様にジョブシステムが採用されていると言う。ライセンスボードはジョブ毎に全12種類が存在すると言う。これまで完全自動だったゲストキャラクターにもガンビットを設定出来る様になったと言う。つまり、FF12の「売り」たるバトル面が、一層強化されるらしいのである。
だからこそ、困った。ジョブシステムが採用されたという事は、従来のFF12における問題点であった「キャラクター各々の特徴のなさ」が改善されるかもしれないという事であり、ライセンスさえ習得させれば誰を起用してもよかったこれまでのバトルに比べ深みの生まれる可能性が高い。回復魔法を修得不可能なジョブがいるのかとかいう事は知らないが、そういう感じの方向へ変化しているのだとすれば、バトルに関して各キャラクターが一層性格付けされるのは必至だし、また常に「まだリザーブメンバーがいるから全然安心だな」とはならないかもしれない点で緊張感が良い方へ増してくれそうだ。ガンビットをゲストキャラクターに設定可能である点は、あれだけ好き勝手な行動を取りやがったレダスを制御出来る様になるというだけでもう魅力である。即ち、欲しくならない理由が見付けられないのであった。
目下唯一の汚点は、ゲストキャラがパーティーキャラと同等に扱えるという事でもしかしたらアイテムをヴァン達と共有するかもしれず、仮にそうなるものだとするとあれだけのインチキっ振りを誇ったラーサーの「ポーション乱用貴族スペシャル」が使用出来なくなるかもしれない事である。
FF12インターナショナルを買うか買わぬか。全てお前にかかってるぞ、ラーサー。
07/08/02(木) 第817回 今度はしっかり飛び降りろ
実の所、FF12インターナショナルを今でも買い控えようと思っているのにはもう一つ大きな理由がある。果たして、バトル周りのシステム変更点を堪能する為に7000円ばかりの出費をしてしまっていいのだろうかと思っているのだ。
繰り返すが、FF12という作品における一番の面白味はバトルにあると思っている。だからこそ今回の改変には、どちらかと言えばシナリオの方へと傾倒していたFF7やFF10のインターナショナル版よりも大きな期待を寄せているのである。だが、FF12の醍醐味がバトルであると言い切る事は同時にこう言っているという事でもある。「FF12を楽しみ切ったと言えるのは高ランクモブを筆頭とした超ボスクラスの面々と戦ってこそである」
ここがネックだ。この論理に従えば、私はまだまだFF12の真髄を知り尽くしてはいない事になるが、その点はこれから実際にやっていこうと思っているのだからさして問題ではない。だがしかし、二周目でモブ連中との死闘を一通り繰り広げた上で三周目でもまた同じ事をやれるかと言うとそれは正直言って分からないのだ。戦うだけなら幾らでも戦えるが、勝つ為には相応の準備が要る。それ相応の準備にはそれ相応の時間が要る。レベル上げを主とした往々にして単調極まりない作業(それも経験済み)に従事する為の時間を新たに取るだけの、また取っても特に差し支えがないと判断されるだけの余裕が果たして今後の私にあるだろうか。それは怪しいのだ。即ち、インターナショナル版を買ってみたはいいが、超ボス連中とのバトルというFF12一番の楽しみを泣く泣く切り捨てなければならなくなるかもしれないのである。
バトルを楽しみに買ったのに、そのバトルを楽しみ切れないのでは本末転倒もいい所だ。特に、本作のディレクター伊藤裕之氏の言葉を鵜呑みにするなら日本版よりかずっと難易度が下げられている(やり込み要素を除く)らしい今回は余計に。確かに「トライアルモード」とかいう新モードには興味ありだ。「強くてニューゲーム」の存在はよもやマイナスに作用する訳がない。でも7000円ばかり払って温いバトルしかプレイ出来ない様なら、残念だが、インターナショナルシリーズとしては過去一番の期待度を誇ったと言ってもいい本作を諦める事も致し方ないと思うのである。
勿論これは、私が本作に対してバトル関連以外での魅力を見出す事さえ出来ればすぐにでも解決する問題である。だのに簡単には解決の糸口が見付かりそうにない辺り、それは私には難しい事の様だ。
「今度は違和感ないボイスでイベントを楽しめるよ」という精一杯の皮肉でもってシナリオ面への期待感を表明する事も出来ないじゃないが、でも本心じゃないしね。
07/08/03(金) 第818回 ビバ俺
昨日、トップページのアクセスカウンターが100000を数えた。普段アクセス数についての話をする事はないが、ネタもない事なので 多分桁上がりを迎えるのも今回が最後だろうと思うので、この場を借りてお礼を述べさせて戴く。
今日まで、当サイトのトップページを読み込んで下さった延べ100000人の皆様、ありがとうございました。
でも、サイト公開から昨日までの902日間、1日に1回は自分がアクセスしてたから正確には延べ100000-902=99098人の皆様、ありがとうございました。
でも、3日に1日は2回自分がアクセスしてたから正確には延べ99098-300=98798人の皆様、ありがとうございました。
でも、10日に1日は3回自分がアクセスしてたから正確には延べ98798-(180-30)=98648人の皆様、ありがとうございました。
でも、2005年2月12日に一般公開を始めるまでの408日間、私とごく一部の方がカウンターを200幾らにまで回してたから、私以外の訪問者によるカウントを端数と捉えると正確には述べ98648-200=98448人の皆様、ありがとうございました。
このサイトを今日まで続けてこられたのは間違いなく訪問者の皆様の、「ちょっと見てみようかな」という興味があってこそのものです。中でも、延べ1552人もの訪問者を動員したお方の功績は筆舌に尽くし難いものがあると言えます。サイト公開後は勿論、公開前から当サイトに足しげく通い詰め、のみならずこの3年半このサイトに更新ネタを提供し続けるなんて事は並の人間には出来た事じゃないと言ってもいいでしょう。
改めて心から感謝致します。もし貴方がいなければ、私は今日、ここにこうして謝辞をお伝えする機会に恵まれなかったのですから。あ、いや、サイトそのものが続かなかったからという意味じゃなくて、1500人分のカウントが失われちゃったらまだ100000人に届いてないなという意味で。
07/08/06(月) 第819回 あまりにも早すぎた裏切り
孫は言った。
「お爺ちゃんこそ、いつまでも心配かけさせないでよね。お爺ちゃんだけの身体じゃないんだからさ」
だったら自転車を押したりなんかしてやらないでくれ。
大日本住友製薬|CMサイト
07/08/07(火) 第820回 次々と明るみに出る本性
信じ難い事ではあった。あの純朴そうな孫がさも自分を心の底から心配している風を装いながら、本心ではちっともそうと思ってはいなかったのだから。信じられないのも無理はない。他人の目から見ても納得するまでには時間がかかったのだ。それが血縁関係にある相手、しかも往々にして我が子より可愛い孫の所業となれば尚更。だが裏切りはあった。それもあまりに直接的な方法によって。この瞬間から、祖父は可愛い孫に対する一抹の猜疑心を抱くのである。
そして祖父は、独り悩み抜くのであった。ひとたび疑いを持ってしまうと、孫の一挙手一投足に何らかの「裏」がある様な気がしてならないのだ。
例えば、彼女が裏切り行為に出る直前に言ってくれた言葉がそうだ。
「お爺ちゃんこそ、いつまでも心配かけさせないでよね。お爺ちゃんだけの身体じゃないんだからさ」
素直に受け止めるのなら、これは「あまり年齢に見合ってない無理な事をするのは控えた方が良いよ」という心優しい言葉だったのかもしれなかった。だが今はこれが「いつまでも心配かけられる位ならさっさといなくなってくれればいいのに」と聞こえてしまう。あまつさえ「お爺ちゃんだけの身体じゃない」の件に保険金関連の事情が絡んでいるのではないかとすら思ってしまう始末。祖父は苦悶した。孫の本音に悲しみ、またそうである確証がないにも拘らず孫の事を悪く考えてしまう自分に自己嫌悪して。
しかし幾ら苦しんでも疑いは晴れない。そう言えば先の言葉の直前にこんなやり取りもあった。
爺「危ないぞ杏奈。まったくお前は心配ばっかりさせて」
孫「大丈夫だよー」
この何でもない返事も、今や嘲笑に聞こえてしまう。まるで鼻で笑いながら受け答えしている様だ。「アンタとは身体の作りが違うんだからな」とでも言わんばかりに。
思い返せば、以前にはこんな事もあった。縁側で釣竿の手入れをしているとビデオカメラを回した孫がやって来て、ふっと横にあった薬に目をやったかと思えば、言ったのである。
「お爺ちゃん、お薬の時間ですよ。飲まないんですか?」
当時から違和感はあった。あまりにも他人行儀過ぎるのではないか。例えるなら、デビューしたての新人女優がまだ演技というものに慣れずたどたどしい立ち居振る舞いをしてしまうかの様な。だがそれも今となっては説明が付く。孫はあの頃からもう家族としてではなく、介護者、或いは介添人、さもなければ介錯人として自分に接していたのだ。家族の愛情などとっくになかった。
そして止めに、孫はビデオカメラを自分へ向けて、言った。
「じゃあ…病気が良くなったら、何がしたいですか?」
あれは自分に希望を持たせようとして言ったのではない。あの時自分は孫に促されながら、結局薬を飲んでいなかった。薬も飲まないのに、病気が治る訳はない。病気が治らないのに完治後の話題を持ち出す事は即ち、患者にありもしない期待を抱かせ、現実に直面した段階で一気に絶望へと叩き落す行為である事に他ならない。
何気ない質問の様だが、孫は謀っていたのだ。そしてそれは孫が、あの時自分が素直に出した質問の答えに対し、「じゃあそれが出来る様に頑張って病気を治さないと」と言うでもなくただただ小馬鹿にする態度をとった事から明らかだった。
ここで今一度思い出さねばならない。孫は、先日遂に威力的手段を行使し始めた。
残された時間は少ない。
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