07/09/28(金) 第861回 おかあさんといっしょ。そう、おかあさんといっしょ
この期に及んで「おかあさんといっしょ」ネタを引きずってだ、「父親はNHKホールで開催される恒例のコンサートにも参加出来ないのか」とか「父子家庭の人達を蔑ろにしているタイトルだ」とか書こうとしていたのだが。
ああ…そうか…昨日「おかあさんといっしょ」というタイトルに関するネタを書いてたが…もしかしてこれ、母子家庭の子供の視点で見たタイトルだったんだろうか…
だとすると、まあ…あれだな。昨日のはあまりに配慮が足りなかったな。自分がそうだからと言って、世の中の全ての子供達に親が健在だと思い込んでいたんだ。すまなかった。
と言うか、そんな実情を知っちゃうと、あの番組に出ている子供達がまるで母子家庭に育つ子供達であるかの様に見えてきて、すると不思議な事に、今まではとても無邪気に映った子供達のはしゃいでいる光景が、涙なしには見られなくなってしまうね。満面の笑顔を浮かべているあの子を見て、涙。一人気ままな行動をして全体の統率を明らかに乱しているあの子を見ても、涙。何だったら途中の「でこぼこフレンズ」とか「パンツぱんくろう」を見ながらでも、涙々。
もう私は、「おかあさんといっしょ」を見て笑顔になれそうにない。
07/09/29(土) 第862回 赤き手の戦略家
「じゃん・けん・ぽん! あーいこーでしょ! フィーバー!」
「ジャンケンマン フィーバー」である。多くの青年諸氏がこれで遊んだ経験のおありである様に、私もよく遊んだ。
メダルを入れて、じゃんけん。勝てばルーレットが回って、止まった所の数字だけメダルが貰え、負ければあまりに簡素な一言を吐かれてそれでお終い。何ともシンプルなゲームだ。熱中までした記憶はないが、何度もプレイしたのは確かで、今にして思えば一体何が嬉しくてメダルを投入していたのだろうかと疑問に思うばかりである。
ルーレットに書かれているいわゆる「配当」に当たる数字は下は1枚から上は確か20枚だったと思うが、私とジャンケンマンとの歴史の中で一度だけ最高配当の20枚が当たった事がある。「フォフォフォフォフォ」みたいな音で回るランプが夢にまで見た「20」で止まり「ヤッピー」だかの掛け声と共にジャラジャラとメダルを吐き出すジャンケンマン。あれは嬉しかった。が、すぐにそのゲームセンターはメダルの持ち帰りを禁じている事実に気付いたので、ただでさえ時間が押し気味な状況にあった私は必死になって手元にある20枚余りのメダルの消化に努めたのであった。しかしまあそれもいい思い出だ。
ところで私はじゃんけんに弱い。その事自体は以前、計六日分に及ぶ前段を経て述べた事があるのでもういいが、それはどうやら機械に対しても揺らぐ事のないものであった様で、記憶している限り、私とジャンケンマンとの戦いにおいて私があまりに気分を良くして帰って行ったなどという事はなかった。
無論、相手は機械である。内部にどの様なプログラムを埋め込まれているか知れない。奴はこちらがその手の内を見られない状況をいい事に、こちらの押したボタンによって出す手を判断する事実上の後出し行為をしているのかもしれない。だが私は奴が、機械ならではの瞬間的判断による後出しとは明らかに違った理知的戦略行為に出ていると認めざるを得ないのである。
ジャンケンマンの仕様では、向こうは後出しが仮に可能であってもこちらはそれが出来ない。メダルを投入するとやにわにジャンケンマンが「じゃん・けん…」と勝負を仕掛けてくるのだが、こちらがどの手を出すか決めボタンを押下するまで「ぽん!」に当たる処理を行わないのである。ここがまず、ミソだ。初めに向こうがこちらの都合などお構いなしに「じゃん・けん…」と切り出す事で、既にペースを握られてしまっているのだ。ここで勝負はこちらの手の入力待ち状態になり、上手くすれば一旦奪われてしまったペースを取り戻せそうにも思えるのだが、しかしそれは甘いのだ。何故なら状況は「こちらがボタンを押せば進む」ものではなくあくまで「こちらがボタンを押すのを向こうが待っている」に過ぎないのだから。一度決まった優劣を覆すのは難しい。ましてや相手が精神的揺さぶりをものともしない機械なら。我々はもうジャンケンマンの土俵の上で戦う事を余儀なくされてしまっているのだ。それで勝率を伸ばそうなど、愚の骨頂の極みである。
だがそれでも何とか、首尾良くあいこに持って行けたとしよう。しかしジャンケンマンの狡猾さはここからが本領である。やはり奴は、先程の様に、こちらを置いてきぼりにするかの如く突然に「あーいこーで」と切り出す。しかしそこで気付く。速い。実際に「ジャンケンマン フィーバー」をプレイされた事のある方なら分かる筈。明らかに「あーいこーで」の声がさっきの「じゃん・けん…」よりも1テンポ速い。これが、罠だ。さっきと同じテンポで次の勝負が始まるものと思わせてのペース変化。ここでプレイヤーは焦る。直前のボタン待ち、つまりはほぼ静的だった状態からの急激な変化に一瞬混乱してしまう。だが「しょ!」までに考える猶予はもうない。プレイヤーは、完全にジャンケンマンの術中に嵌まった形で確かな作戦もなくボタンを押してしまう。勝てる筈がないのである。もしか、あの一瞬の内に「あーいこーで」と「しょ!」の間も「じゃん・けん…」と「ぽん!」の間同様こちらがボタンを押すまでは待ち時間が発生する事を冷静に思い出し、テンポの速い「あーいこーで」に惑わされずに済んだなら次の一手の策を練る事は出来ようが、しかしそうなったとしてもそれはあいこ前の緊張状態に戻ったのみだ。依然ペースは奴にあり。所詮、負け戦だったのである。
じゃんけんとは不思議なもので、精神的に不利な状況にあると何を出しても負ける様な気がし始め、実際に何を出しても負けてしまうものだ。プレイヤーが初め、奴に「じゃん・けん…」と言わせてしまった時点で、もう勝負はついていたのだ。
ボタンを押すと、最早自分でも悟っていた事だが、プレイヤーは敗れる。そして勝者は、賭けられた銀貨を己が物にし、勝利の雄叫びを上げるのである。
「ズコー」
07/09/30(日) 第863回 もっとはっきり喋りなさい
ところで、「ジャンケンマン フィーバー」に負けた時の音声「ズコー」なのであるが、私にはこれが「まけー」と言っている様にしか聞こえない。昔がそうだっただけでなく、今も「まけー」としか聞こえない。
昔はインターネットなどもなく、世界が狭かった事もあって、しかもあの様な単純極まりないゲームはわざわざ他人と「あれって中々勝てないよなー」みたいに情報を共有し合うなんて事はなくひたすら自分とジャンケンマンとの戦いでしかなかったから、一度「まけー」と聞こえてしまったものはいつまでも修正されず、また誰からも訂正されず、自分ではそれが間違いなく正しいものであると思い込んできた。
だが、我が家にもインターネット環境が整って状況は変わった。極めて稀な事だがごくたまにジャンケンマンの話題が出ているのを見かける事があるのだが、その話に絡む例外なく全ての人が敗退時の音声を「ズコー」と表現していたのだ。これは私にとってショッキングな出来事であった。
昨日は一応大衆に迎合する形で「ズコー」と書いたものの、実の所未だに納得がいってない。いやいや、あれは「まけー」じゃないのかなと。「ズコー」じゃ、意味は通じなくはないが、しかしこれの原典は私の見当違いでなければ忍者ハットリくんだろう。だから、ハットリくんが「ズコー」を作ったのか元々あった擬音をハットリくんが広く知らしめたのかはよく分からないが、いずれにしろ一漫画から広まった、その作品に親しんでいなければ直感的に理解出来ない可能性のあるフレーズを敢えて使うだろうかとの疑念があるのではないか。それに対して「まけー」ならば万人に通じるし、そもそも筐体に堂々「まけ」と書いてあるのだから「まけー」と言っている根拠も一応はあるのだ。
もっとも、「ズコー」と聞こえない訳でもない。同じ音声が「まけー」と「ズコー」の両方に聞こえるなど一体どうした事かと思われるかもしれないが、しかしこの機械音声、時代が時代だからなのか少々くぐもっており、しかも一音節目は母音をほぼ発音してない為に聞こうと思えば「まけー」とも「ズコー」とも聞こえなくないのだ。また、勝利時の「ヤッピー」(これも本当にそうであるか怪しいが)の対比としては「ズコー」の方がより自然であるとする考え方もある。だからこそ私も、声を大にして「これは『ズコー』じゃなくて『まけー』だろ」とは言えないし、昨日のオチも「ズコー」とせざるを得なかったのだが。
謎多き「ジャンケンマン フィーバー」 今やもう気軽に遊ぶ事の出来るだけ方々で見かけたりはしなくなってしまったが、インターネットの世界は流石に広いもので、これをリアルに再現したFLASHもある。
プレイした事がある方からない方まで、そしてそもそもジャンケンマンをご存知でない方も、是非一度プレイし、華麗に敗れ去り、敗北時の音声が「ズコー」なのか「まけー」なのか、はたまたそのどちらとも違う第三の声なのかを確かめてみてほしい。
07/10/01(月) 第864回 ダメ人間のパラドックス
この一ヶ月か二ヶ月の内にやらなければならない事、可能な限りやっておくべき事、やりたい事、などが大きく五つある。内二つは趣味に関するもので、残りの三つが義務的な避けて通る事の出来ない事柄である。
その内私は、現時点で四つまでをすぐにでも取り掛かる事の出来る状況にいる。ここで悩むのであった。一体私はまず何をすべきか。
「四つの事柄」の内訳は義務的なものが二つ。趣味的なものが二つである。それぞれを義務1、義務2、趣味1、趣味2と記する事とする。
それぞれの事柄の概要を説明しよう。義務1はスピーチ原稿の執筆である。本番は四日後。義務2は対外向け演説用資料の作成である。本番はおよそ一ヵ月後だが予稿を今月半ばには作っておかなければならない。趣味1は目下進行中のテレビゲームである。例によって攻略サイトに頼っていない為はっきりとは言えないが終盤に差し掛かった辺りだと思われる。趣味2は書籍の精読である。500ページ級の書籍が2冊ある。
さて、これら四つのタスクを前に、私はどう動くべきだろうか。まずこの問題を、私の欲求を満足する事に重きを置いた観点から考察してみる。私の欲求、即ち、私は今何がしたいか。何がしたい。ゲームがしたい。ゲームをしよう。という事で趣味1を敢行する。だが今日中のクリアは絶望的だろう。何しろ先日のプレイでやや手詰まり感が出てきてしまったのである。今日これからの僅かな時間でその苦境を打開出来るとは到底考えられないのだ。そこで今日の段階では趣味1を完結させられないまま翌日を迎える。さて、翌日になって、私はその時何がしたいか。ゲームがしたい。ゲームをしよう。趣味1敢行。終わらない。翌日。ゲーム。終わら(以下略) そうこうしている内に10月5日を迎えてしまった。この日は大事な大事なとあるスピーチの為に登壇する日。だが原稿はまだ出来ていない。この四日、自堕落にも空き時間があると見るやすかさずPS2の電源を付けてコントローラを握り締めていたからである。そして哀れ何の案もないままに壇上に登った私は頻繁に言葉を詰まらせて「えー」とか「んー」とかを連発するふがいない内容に始終し身も心もボロボロになって帰って来るのだ。これはいけない。5日のスピーチはその場限りのものという訳ではなく今後の私にも関わってくるものだからやはり蔑ろにしてはいけなかった。
という事で、今度は最大限の利益を発生させる事に重きを置いた観点から考察しよう。これにおいて、趣味1と趣味2はちょっとしたリフレッシュこそ出来ても直接的な益をもたらしてくれる訳ではないから却下である。やはりここは一日でも早く目前の課題に取り組み、出来る限り質の良い内容のスピーチをお届けする事によって自身の株を上げる事に邁進すべきであろう。という事で義務1を敢行する。スピーチ、と言っても何処ぞの結婚式に表れる長ったらしい講釈を述べる親戚のおじさんとは違ってそう延々と喋り続けるものではないのでまあその日の内には軽く書き上げてしまう。翌日。義務1を完了した以上この時点で最大利益を生み出す為に私のすべき行動は義務2である。義務2を敢行する。流石の歯応えであり、ある程度の時間力を入れて義務2に励んでいると次第に疲労の色が濃くなってくる。そこで、疲れを押してまで義務2に取り組み続けるよりも一旦疲れを癒す意味で別の事をした方がより大きな利益になると判断し、趣味1への移行が図られる。だがその日中のクリアは絶望的だろう。何しろ先日のプレイでやや手詰まり感が出てきてしまったのである。今日これからの僅かな時間でその苦境を打開出来るとは到底考えられないのだ。そこで今日の段階では趣味1を完結させられないまま翌日を迎える。翌日、疲れが取れないのでゲーム。終わらない。翌日。疲れが取れない事にしてゲーム。終わら(以下略) そうこうしている内に10月5日を迎えてしまった。だが今回は大丈夫。もう原稿は出来ている。後はこれを読めばいいのだ。だが哀れ問題はないと高を括っていた私は本番の壇上に原稿を忍ばせておける様な、観衆からの目隠しとなるものなど何もない事実に驚愕し、ただぽつねんと一つマイクが置かれているだけの状況に絶望し、そんな中で堂々とカンニングペーパーよろしく手元の紙をチラチラ見ながら喋る訳にもいかず、結局スピーチはふがいない内容に始終し身も心もボロボロになって帰って来るのだ。
思い切り遊んでも、思い切り責務を果たそうとしてもスピーチはボロボロ。
これが世に言う、ダメ人間のパラドックスである。
07/10/02(火) 第865回 キショイキショイ
先日、夜中にふと目が覚めて、喉が渇いていたので一旦起き出してお茶を一杯飲もうと冷蔵庫を開けたら冷蔵庫から「キショイキショイ」という怪音が聞こえてきた。はっきり「キショイ」と言っていた訳ではないというか、そもそも寝ぼけていたから怪しかったのは冷蔵庫の異音が「キショイ」と聞こえた私の耳の方であったのかもしれないが、あまりに希少な体験をした事にいたく感激した私はしばし冷蔵庫から「キショイキショイ」と言われ続ける妙な時間を過ごし、再び眠りについたのであった。
という出来事を「雑文」のネタにでもしようと思い何の気なしに携帯電話のメモ帳に入れておいたら、後から気付いたが、「き」を入力した時の予測変換欄に「キショイ」と出て来る様になってしまった。これでは何かの折誰かに携帯電話を使われた際、自分が「キショイ」などという言葉を用いて会話する軟派な人間であるとの誤解が生じてしまいかねない。
「き」入力時の予測変換ログからはその内消えるだろうと思うが、「きしょい」入力時のログから「キショイ」の予測変換が消え去る事は二度とないだろう。日本語には「きしょい」を語頭に持つ単語など10個も存在しないからである。
誰か助けて。
07/10/03(水) 第866回 お知らせ
というタイトルのサイト内日記やブログ記事を見ると一瞬ドキリとさせられてしまう。「もしかして『閉鎖のお知らせ』なんじゃないか」という考えが頭をよぎるからである。
インターネットを利用する様になって四年と少々。今日まで、人並より少なめかとは思うがそれなりの数のサイトを見、そこの常連となり、日々の更新を見守ってきた中で、それ相応の「閉鎖劇」もまた目の当たりにしてきた。ある人はこれまで築き上げてきたコンテンツをそこに残したまま悔恨の念だけを残して去り、またある人は各コンテンツへのリンクを全て切った上で更新への情熱を失ってしまったとの挨拶で締める。かと思えば、何の言葉もなく突然全ファイルを削除して綺麗さっぱり終了という何とも豪快な最後を迎えたりする人もいる。そして、これまでの日常と全く同じ更新の形態でもって「お知らせ」というタイトルを掲げ閉鎖の挨拶をする人がいるのである。
「お知らせ」の破壊力は凄まじい。これがもっとストレートな「閉鎖のお知らせ」とか「閉鎖します」とかならこうはいかない。何となれば、それら直接的表現は一瞬の内にでも読み手に該当のサイトが閉鎖する事実を伝え、読み手はそれを受け止めるからだ。だから、残念には思うだろうけれども、「ああ、閉鎖しちゃうんだなあ」という事それ自体ははっきり認識して、そこで完結する。
だがそれが「お知らせ」だったとなれば話は違う。まず私はそのタイトルを見るにつけ、思うのである。「もしかして『閉鎖のお知らせ』なんじゃないか」 これまでこのタイトルで閉鎖のお知らせを告げたサイトを見てきた経緯と、まだこのタイトルからだけでは本当に閉鎖に関する話なのかどうなのか一切判断出来ない点がミソである。正確な判断が付かない事によって、「そうであってほしくない」「だがそうかもしれない」との葛藤が生まれ、それが緊張感を高めるのだ。本文を読んで事の次第を把握するまで、落ち着いた気分にはさせてくれないのだ。
これは当サイトの様にタイトルと本文がかなり近い位置にある場合、一瞬の内に繰り広げられる出来事である。何なら、「お知らせ」というタイトルを読む前に内容の方が目に入ってしまう為に、上述の動揺に至らない場合も当然考えられる。だがこれとは事情が違うのが、ブログだ。ブログの記事は往々にして本文の一部が別ページに分離されているものである。「続きを読む」などのリンク先にある文章がそうだ。こうした仕様が故、どうしても閲覧者側にワンクリックの手間が発生する場合、前述の事象における読み手の緊張感の持続度はタイトルと本文が極めて近い位置関係にあるケースの比ではない。こと、それが
の様になっていたとしたらもう。
「お知らせ」は言葉の魔力だ。一端の社会人が持つべき落ち着きに溢れながら、そこには絶対に揺らぐ事のない強い決意が見え隠れしている。だからこそ私は、もしその先に待つ言葉が当該サイトの終焉を告げるものであったとするなら、その文章は決していい加減な気持ちで書かれたものではないのだなと伝わってくるであろうから、驚き、焦り、緊張するのである。そのサイトがお気に入りであった分だけ。
で、そんな重要なタイトルを冠してまで私が今日伝えたかった事は何かという話であるが、それというのは明日から神奈川に行って来るので明日10/4分と、帰宅時間によっては明後日10/5分の更新がありませんよという固い固い決意なのであった。
07/10/06(土) 第867回 またな横浜
「ネタがないから神奈川紀行でも」ならまだしも、
「ネタはあるのに神奈川紀行を」である。
神奈川へ出向いたのは四ヶ月振り二回目の事だが、今回は我が家から一息に横浜に降り立った点で事情が違った。前回は前日に大阪でも用事があったからそれを済ませた上での神奈川紀行であり、連続的移動は高々大阪・神奈川間レベルのものに過ぎなかった訳だ。勿論復路は一気に帰って来たが、今回はそれが往路から敢行される。この事だけで、後に控えるスピーチとか何とかいう諸問題を一切無視しても私が憂鬱な気分を脱する事の叶わなかった状況がうかがえる。
六時間後、横浜到着。だがここから最寄のホテルに辿り着くまでにたっぷり四十分はかけるという失態を犯す。だがこれは私の落ち度によるものではない。横浜駅の構造の煩雑さが悪いのである。「頭上の看板さえ見てりゃ屋内は大丈夫」という論理が崩壊した瞬間である。決して看板を見間違えるほどにまで私の文字認識能力が崩壊した瞬間などではなく。
更に五時間後、就寝。ホテルと言えば私が過去数々の死闘を演じてきた舞台であるが、今回は二、三度目を覚ましたに留まった。ほほう、私も大分ホテル住まいに慣れてきたと見えるな。八時間寝て起床。
それから五時間後、何やかやあってスピーチ本番。直前になって想定していたよりも長い時間を充てられていたらしい事が判明し動揺したが、こんな事もあろうかとその瞬間の気分によってどれを話すか決めようとしていた三つのネタを織り交ぜながら進行。こういう所で、最悪の事を考えての準備をする自分の事を褒めたくなる様でもあり、「もっと喋れ」と言われれば「もっと喋れ」と言われたでアドリブの一つや二つ披露してやろうじゃねーかという心の余裕も持ち合わせていなかった自分の事が嫌になる様でもあり。まあ結果的には上々の出来だったんじゃないかと思うからそれはそれでいいのだが、ただ一つ、場の空気によっては本論に入る前に一笑いでもなんて思ってたのが今一歩の所で実行出来なかったのが心残りだ。至って自然に笑いを誘える人が心底羨ましい。
して、スピーチの重圧から解放されて二時間後、まだ早くはあったがその日の内に帰り着いておく必要のあった私は一足先においとまさせて戴いて帰路につく。二日連続六時間移動の復路なので身体の節々が痛いし、東京発の新幹線なので当然の様に指定席も人が一杯で一度座ったが最後思う様な身体の体勢が取れないし、一時地獄の様であったが何とか乗り切る。途中乗り換えの駅で時間があったのでラーメンを食う。美味し。そこからの電車旅は流石の田舎経由線特権を余す所なく発動し、人もまばらで随分な静けさに包まれた中、これはいいやと家から持って来ていた本を取り出し読みふけっていた。酔った。で、帰宅と。
以上、これといった見せ場もなかった昨日・一昨日の神奈川一泊二日小紀行でございました。
「ネタはあるのに神奈川紀行」 それもある程度は致し方ないね。何分、「ネタをネタとして成立する様に文章化する」のと「日記を書く」のとじゃ後者の方が断然楽ときたものだから。
07/10/07(日) 第868回 栄えてはならない町、本町
げに格好のつかないのは、本町である。そして、本町に住む人々である。
都府県名を想像してみられたい。東京都、大阪府、愛知県、広島県、秋田県、熊本県、沖縄県など色々あるが、これらは全てその名の最後に付される「都」「府」「県」を除いてもごく自然なものとして聞こえる。東京、大阪、愛知、広島、秋田、熊本、沖縄といった具合である。ちなみに「道」については「都」「府」「県」の三つとは明らかに扱われ方が異なっている(「北海道」の英語表記が「Hokkaido」であったりする)事から、ここでは除いて考えるものとする。
市名、区名についても、大体同様の事が言えると思う。各都道府県の都道府県庁所在地を例にとってみれば(新宿、神戸、名古屋、松江、仙台、鹿児島、札幌、那覇)よく分かる。
だが、町村名となってくるとそれが若干違った様子を見せてくる。もっとも、「町」や「村」抜きにでも違和感なく通る町村名など五万とある。「富士町」で「富士」なんてのは格好良さの点では全国の町村のトップに立つものではないだろうか。「大林町」で「大林」など、「町」「村」を取り除く事で人名にもよく見られる文字列となる場合も極めて自然だ。もっともこのケースでは、「不自然だな」なんて言葉を発した瞬間全国の当該人物を敵に回す事になる。「王子町」で「王子」 何やら努力だけでは埋め得られない大きな溝があるかの様だ。
さて、そこで本題、「本町」である。これの「町」を抜くとどうなるか。抜いてみよう。「本」 どうだこの、心の中に生まれる何とも言い様のない不足感。もやもや感。「本町」は、こんなにも格好がつかない。
例えば「貴方は何処の出身か」と聞かれた時、それが地元民同士の会話でなければ「滋賀県です」とでも答えたのかもしれないが、それは仮に「滋賀です」であっても何らおかしくはない。だがこれが地元民同士による会話でありお互いが何処の都道府県出身なのかという点が自明で、より区分的に細かい町名を答えなければならなかった場合に「本町です」とする事は出来ても「本です」と答える訳には決していかないのだ。
なまじ、その「本」という言葉が大概の人にとって「書籍」を連想させる極めて大衆的言葉であるがばっかりに、余計本町出身者はその名にくっつけられた「町」という行政区分を除いたりする事が出来ない。たかが行政区分に過ぎないものであるにも拘らずだ。本町とは、「本」の部分がその本質である様に見えて、その実「町」の存在なくしては誰からも町であるとの認識を持たれなくなってしまうという極めて不安定なバランスの上に成り立っている地なのである。
「本町」 何の因果か、国の定めた、国のルールに縛られ続ける悲運の町。全国には、この「『町』と共にあらねばならない運命」を背負わされた地が幾つも存在するという。
そして「本町」は、「そういう事だったら常に『町』を付けて呼んでればいいじゃないか」と、いつまでも「町」の上にあぐらをかいている様な態度ではいるべきでない。何かが間違って、「本町」が「市」としての基準を満たしてしまったりすれば、即ち「行政区分に当たる言葉を除いても普通に聞こえるべき」区分への昇格がまかり間違って現実のものとなってしまったりすれば、「本市」 こんな、最早どう転んでも不自然さしか醸し出さない史上最悪の市が誕生する事になるのだから。
07/10/08(月) 第869回 栄える準備は整っているが栄える気配がない町、大町
調べてみた所、佐賀県には「大町」という地名が存在するらしいが、しかしここは「本町」と違って随分と賢い。何故ならばここは、「町」の部分を除くにしても「大」となってしまったりしないからだ。それと言うのもこの「大町」は、「大」という名の町ではなく「大町」という町、即ち「大町町」であるからだ。
地名を「大町」としたのがいつの時代の誰だったかのかはよく知らないが、その人の功績は偉大なものだったと言えよう。シンプルな名前であればある程どうしてもつきまとう「町」除外時の違和感に対し、同じ「町」を被せるという斬新な方法でもってそれを解決するという斬新な発想もまた称えられるべきものである。「町」抜きの呼び方が不自然でなくなるのなら、「町」が二つ連なる事による若干の違和感など気になりもしない。この名からは、そんな「大町町」命名者並びにそこの住民達のそんな大らかで度量の深い人間性も垣間見る事が出来る。
「本町」もね、こういった発想を見習うべきだよ。天変地異か何かが起きて異常な人口爆発により「市」への昇格を果たしてしまう前に。町名に愛着のある古株の人間の反対論なんて一蹴すればいいって。それより「本市」になってしまってから降りかかる色々な弊害とか「やっぱ『本市』はねーよ」っていう後悔の念の方にこそ目を向けろって。「大町町」だって考えただろうと思うよ。「『大町』だったら『市』になっちゃうと『大市』か。なんかでかい市場みたいな響きだな」って。
え? 「大町町」は元は「大町村」で、市制や町村制の制定される前の事だったから、「大町」の「町」が行政区分の「町」を意識して名付けられたものじゃないって? そんな事はあるまいよ。ってかそれは、「大町」の名付け親が将来的な町制移行、市制移行の時流を読んでの結果じゃないかな。先見の妙があるお方だったんだね。
07/10/09(火) 第870回 待望の新シリーズ
往年の名作を3Dグラフィックによってリメイク。
シナリオは多数追加され、バトルは「閃き」「連携」システムの導入でより刺激的に。
数奇な運命に導かれる8人の主人公は世界を旅し、様々な人々との出会いの中でそれぞれに己の運命を知る。
そんな――ロマンシング サ・ガ 〜ミンストレルソング〜
往年の名作を製法も新たにリメイク。
鰊は多数追加され、ガスは「腐敗」「発酵」システムの導入でより刺激的に。
臭気な運命に導かれる8人の主人公は世界を旅し、様々な人々に疎まれ睨まれ避けられる。
そんな――ロマンシング サ・ガ 〜シュールストレミング〜
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