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07/10/31(水) 第891回 俺的事典針千本




07/11/01(木) 第892回 ウミガメのスープ・解答

問題はこちら

男はFF系サイト「妄想針千本」の管理人。
自他共に認めるFF狂である男は先日、FF7発売10周年記念企画として発売された「FINAL FANTASY VII 10th ANNIVERSARY POTION」を買い求めた。
もっとも男の目的は同梱の「ファイナルファンタジーVII 10thアニバーサリー アルティマニア」の方にこそあったが、残念な事にこれ単体での販売はされないらしい事を知り、仕方なくポーションを購入したのであった。
間もなくして商品が届いたが、男は憂鬱であった。それと言うのも、かつてFF12発売時に登場したポーションはすこぶる不味かったと聞く。アルティマニアの為とは言え、わざわざ口に合わないものを飲むというのは気が引けるのだ。
しかしものは考えようである。男は考えた。自分がFF系ウェブサイトの管理人である事を利用し、これを更新ネタに利用すればいいではないか。
男は一計を案じた。そうだ。FF12ポーションに関してはその味を「これを不味いと思うのはその人がゾンビだからだ」と皮肉るネタがあったが、これを踏まえたネタを展開すれば更新材料になる。
ほどなくしてネタの枠組みは出来上がった。

  俺はゾンビなんかじゃない。
→だからポーションを飲んで「不味い」などと思う筈がない。
→これを飲んだら見る見る内に身体から活力が漲ってくるだろう。
→(飲む)
→まじいいぃぃぃぃ!

こうだ。
そうと決まると話は早い。男は、何だかんだで気が進まず一ヶ月近く冷蔵庫にしまわれていたポーションを取り出し、意を決してそれを口に含んだ。………ふむ、思いの外、飲み易い。
ポーションは不味くなどなかった。むしろどちらかと言えば美味しい方の部類なのではないかと感じた。これは前回の酷評を受けたサントリーの企業努力の賜物なのだろうか。男はポーションの容器を片手にしみじみ思うと共に、頭を悩ませるのだった。
「普通に美味しいんじゃネタに出来ない…! どうしよう……」



07/11/03(土) 第893回 「893」

ヤクザ来たあああああああ!

という事で、いよいよ命の危険に晒される事となったkemkamである。思えば人生二十余年、出来るだけ波風を立てまいと静かに静かに生きてきたつもりであった。それが証拠に、私の様な人間には誰かと殴り合いの喧嘩をしたなどという高校時分の思い出はないし、ふとした因縁から生死を賭けた死闘を演じたなどという少年誌紛いの思い出もない。
だがしかし、ひょんな事から始めたウェブサイトの中のひょんな事から書き出した一つのコンテンツは、一日一日更新回数を積み重ねていく内、遂には893回の高みに辿り着いてしまった。避けられぬヤクザ。避けられ得ぬヤクザ。私は今日という日に、ヤクザを踏み越えていく事を運命付けられたのだ。
本日の更新をもって、当サイトとヤクザは非常に密接な関係を築き上げる事となる。つまりそれは、「893」というワードで検索をする事で当ページがヒットする可能性が生まれる事を意味する。これは重大な事実である。これまでその道の人との接触を禁じようとするまでもなく自然としてこなかった私が初めてそこに接点を持つ事になるのだから。
もし出来るなら、そうしたくはなかった。だがこれまで1000回近くの更新を行ってきたコンテンツの中で唯一第893回だけが欠番となってしまっていては逆に目立ちかねない。それに今日が第894回となっていたら注意深い人ならその事に気付いて、更にはお節介にも私へ進言してしまうだろう。「今日は893回の筈なのに、894回になってますよ」と。その瞬間全ては終わりである。まさかそれに続いて「いえね、ヤクザが恐いから893回はスルーって事にしたんですよ」などと言える訳がないのだ。それこそ本当にヤクザを敵に回してしまうのだ。せいぜい「あ、本当ですね。直しておきました」と素っ気ない返事をし、「雑文」の該当部分の修正作業に当たるくらいなものだろう。そして「雑文」には結局893の文字が並んでしまう。のみならずそれは「雑談掲示板」の方にまで伝播してしまう始末。二倍のリスクを背負う事になるのなら、私にはそのギャンブルには託せなかった。

ただサイト内に「893」という数字を書いたからと言ってそれが即ヤクザに結び付くという訳ではないだろうと思われる方もいるだろう。だがその認識は甘いと言わざるを得ないのだ。何故なら、私が問題の「雑文」第893回にヤクザ関連のネタを書き、もって「893」と「ヤクザ」という二つのワードが同一ページ上に書かれてしまった事で、「893」と検索した時にヒットするページの中における当ページの「ヤクザ度」はとんでもない事になっているのだから。それもこれも「893」から安易にヤクザを連想して、その上躊躇なくネタに使った私の失態である。だが私は、「何故そんな愚行を」とそれを非難する貴方に問いたい。今の時代を何と心得る? エコの時代ではないか。自然調和を重んじるエコロジーの時代であり、節約を徹底するエコノミーの時代ではないか。「MOTTAINAI」の時代ではないか。こんな世の中とあっては、例え実体のないネタでさえ無駄には出来んのだ。思い付いてしまったが運の尽き。それは生きたネタとしてこのサイトの中で消化してやらなければ、最早存在意義をなくしてしまったヤクザネタはただのゴミとして捨てられる存在へと成り下がってしまうのだ。それだけは、それだけは避けられるべきである。ゴミの様なヤクザほど使い物にならないものもない……じゃなくてじゃなくて、ヤクザほど使い物にならない様なゴミもない……いやいやいや、ヤクザもゴミ様ほどものもらい使い……

ああ、これはやばい。何だか色々やばい。何がやばいって、ヤクザの知識もまるでないのに大雑把なイメージだけでこんなふざけた事を書いてしまっている今の状況が一番やばい。



07/11/04(日) 第894回 おとしまえのお知らせ

昨日更新の「雑文」内に、特定の自営業の方々に関し著しく誤解を招く表現が含まれていました。
関係者各位の皆様に多大なご迷惑をおかけした事、深くお詫び致します。
今後はこのような事がないよう更新記事のチェック体制を強化し、本人に対しても厳しく指導していく所存です。
また、本人には事務所にて直接謝罪の意を表して戴きたい旨伝えております。つきましては、管理人不在のため本日2007年11月4日付けの更新はありませんことご承知おき下さい。
この度ご迷惑をおかけしました各方面の方々、並びに「妄想針千本」をご覧の皆様に今一度お詫びの言葉を申し上げさせて戴きます。
誠に申し訳ありませんでした。

893



07/11/05(月) 第895回 「妄想針千本」の癌発覚

何故か分からないが第900回を前にして急激に暴走気味になってきており、昨日なぞは何処まで不謹慎に迫れるかというチキンレースの様相すら呈してしまっているのでここで久々に普通の話。それも「普通のネタ」ではなくて至って普通の話。

先日この「雑文」内で「毎日サイトを更新するというこの習慣を変えるつもりは当面はない」と言っておきながら早くもそれを覆す発言をする様だが、ここの所「雑文」乃至「ゲーム日誌」の毎日更新を止めようと思う事がよくある。
それも一重に、最近の他コンテンツの更新されなさが故にである。今年に入って「雑文」「ゲーム日誌」「俺的事典」以外のコンテンツが更新された回数は僅かに三回。それも「歪曲」二回に「愚痴」一回という内訳で「妄想」にのみ関して言えば既に無更新一周年を二ヶ月も過ぎてしまった。
実際、忙しいのは事実である。六月頃に一旦目下の山場を乗り切った旨ここに書いていたが、それからしばらくして今は来年一月頃にかけての別の山場に差し掛かっている段階で、おいそれと更新作業に力を注ぐ事が出来ない。だがそれにも拘らず毎日更新しているとどうしてもこう思わざるを得ないのである。「そうして日々『雑文』の更新に費やしている時間を『妄想』に費やしていれば、間違いなくこの一年二ヶ月の間に新ネタの一つや二つは形になっただろうに」と。ちょっと帰りが遅くなったりすれば躊躇なく更新を取り止めているから今もって義務感でこれを書いているつもりはないがしかしほぼ毎日欠かさずその為に時間を割いているという状況は「極めて頻繁な更新」という揺るぎない事実となって多少なりともこのサイトの訪問者を増やしてはいたのだろう。だけれども、それはともすれば、メインコンテンツの更新に充てられた時間を蝕み、メインコンテンツの更新を阻み、もって長期的に見て自分の首を絞めている行為なのかもしれない。そう考えてしまうと、こうして2007年11月5日付け「雑文」の更新に取り掛かっている今この瞬間すら、サイトの寿命を縮める愚かな行為である様に思えてくるのである。もしその解釈が正しいのだとしたら、それは私の本意ではない。そこで思う訳だ。毎日更新を止めてみてはどうだろうかと。
具体的には、他コンテンツの更新に本腰を入れている間、「雑文」の方はお休みするという形態を取るのはどうかと思っている。普段「雑文」に割いている時間をそのまま他コンテンツの執筆に充てる事で、サイトの為に設ける時間はコンスタントに持ちながらただ「雑文」ばかり書く事にもならない。無理な時間を取る事にはならないからそれで実生活が犠牲になる事もなく、そうでありながらそれなりに全てのコンテンツが更新されてサイトの健全さとしてはより良い状態を保つ事になる。そしてこの案のキモはここである。「『俺的事典』は『雑文』の掲載、休載に拘らず更新する」
最近殊更に強く感じる様になってきたが、「俺的事典」というコンテンツはこのサイトの宝である気がする。文章という私が最も力を発揮出来るフィールドにあって題材には事欠かず毎日更新するにも現実的な時間で十分な性格のものでありなおかつウェブ上に溢れる同様の事典系コンテンツの中にあって「単語は原則ランダムに選出」「どんなマイナーな単語も解説対象」の点でオリジナリティが一応ある。極めて単純なコンセプトだけども、よくぞこうしたコンテンツを作ってくれたなあと、二年八ヶ月前の自分に言いたい。「俺的事典」がなかったら今このサイトはどうなっていた事か。ある日の更新が「ハハハ」のみというのは、あまり考えたくはない状況だ。もっともある意味では、その「ハハハ」とかいう更新とも言えない更新がまかり通るのも「俺的事典」という真っ当な更新を一方では行っているからだ、との思いが心の隅にあったからなのではとも感じるから、仮に「俺的事典」がなかったからと言って「ハハハ」単独更新が敢行されていたとは一概には言えないと思うが。

という事で今後のサイト運営に関する所見を述べてみたが、あくまで「毎日サイトを更新するというこの習慣を変えるつもりは当面はない」ので、これが採用されるかどうかは分からない。採用されるとしたら、年が明けて、年度が変わって、生活が変わって、それからというものいよいよサイト更新が厳しくなってきた、なんて状況になったとしてそれから本気で考慮する様になるだろうから、早くて来年の五月か六月頃という所か。
半年以上も先の事を何だ、とお思いかもしれないが、忘れないで戴きたい。このサイトはその運営管理に関し五ヶ年計画或いは十ヶ年計画を練って行く事も辞さないのである。



07/11/06(火) 第896回 人間関係のエキスパート

夢を見ない。
否、全く見ない訳ではない。しかしその頻度は昔と比べれば明らかに減ったし、例え見られたにしても起床する時には9割方忘れてしまっている。
だからなのか、私の記憶の中にある夢の思い出は、そのどれもが強烈な内容のものである。以下に列挙してみよう。

・白昼の悪夢
突然我が家に押し入ってきた強盗が「ごめんよ、ごめんよ」と言いながら包丁を振りかざす。
未だに不気味さを感じる嫌な夢。

・白昼のバイオハザード
突如発生したゾンビだかドラキュラだかに襲われる。追い詰められた私は二階の窓から飛び降りるというスタント顔負けのアクションをこなすが敢え無く捕まり自らもゾンビ化。だが密かに「これでもう襲われなくて済むな」と思ってしまった私は間違いなくヒーローに向いてない。

・真冬の恐怖
雪だるまに追い回される。一見コミカルな様だが本来無機質なものが動き出すという点ではそこらの人形が動いたりするホラーと同等の恐怖と言える。

・あまりにベタ
とんでもなく用を足したかったので慌ててトイレに駆け込んだらまさかの世界地図編纂。

後は、センター試験前日とか大きめのイベントでの発表前日とか何らかのプレッシャーがかけられている状況でその不安を煽る類の夢を見たりするが、とにかく全てに共通して言える事は私にストレスを与えようとしているものばかりだという点である。一体私の脳は何が嬉しくてそんな映像を感知してしまっているのだろう。もっと楽しい夢でも見て日頃の鬱憤を少しでも晴らせばいいのにと思うのだが。
だが、聞く所によれば全ての夢には意味があるという。その一般則に従って言えば私の見る殺伐とした光景だらけの夢にもまた意味はあるという事になる。ならばそこにはどんな意味があるというのだ。

私は考えた。そして一つの仮説に行き着いた。「表情」ではないだろうか。人の寝ている最中の顔というのは一体に無防備なものだが、そこにあからさまに楽しげな夢が加わるとどうなるだろう。簡単である。無防備な顔はその夢の楽しさを受けて口角を上げ、事によれば少々口を開け、そして目尻を下げる。笑顔になるのである。どんな楽しい夢を見ているのかしらと思わせるその表情は言葉で言うならニタリ顔、擬音で言うならエヘラエヘラといった所か。対して緊張感溢れる人の表情はどうか。口角は下がり、眉間に皺が寄せられて、見る見る内にムスッとしたしかめ面を形成する事となるだろう。
さて、そこで重要なのは双方の客観的見え方である。やはり人間、他人との関係の築き方如何で人生すら左右されてしまう生き物であるから、他人からの見え方が悪いよりは良くありたいものだ。つまり「ニタリ顔」と「しかめ面」ではどちらが他人から見てましな方かという事だが、これが「しかめ面」の方だと考えられるのだ。それもそうだろう。ニタリ顔の「エヘラエヘラ」としかめ面の「ムスッ」 何処を取っても気の抜け切ったエヘラエヘラが緊張感を漂わせているムスッに勝てる筈がないのだ。他人の前で気を抜き切る事が一般には避けられるべき事だという観点からしても、エヘラエヘラは他人に見せてはならない顔だと思われるのだ。
即ちこうだ。私がやけに緊迫感に満ちた夢ばかり見てしまうのは、(本来中々ない事だが)何かの間違いで私の寝顔をご覧になった人に不快な思いをさせてしまわない為に、私が人間関係を理不尽に壊してしまわない為に無意識下で取っていた措置だったのである。夢自体滅多と見ないのに、その滅多と見ない夢を見た僅かな、睡眠時間全体からすれば無視してもよかったかもしれないくらいの時間にすら他人への気配りを忘れないとは。これは他の人には中々出来ない芸当だと言えよう。

ところで、そんな私も過去一度だけ失態を犯してしまった事がある。あれだけ避けるべきとされたニタリ顔を浮かべてしまったのであろう経験があるのだ。
もしかしたらもうお気付きであろうか。そう、全てを解き放って世界地図を描いていたあの夜の事である。



07/11/07(水) 第897回 逆隣の土々呂

夢と言えば、何かにわかには信じられない様な出来事が起こった時に頬をつねって「痛い。これは夢じゃないんだ」という現状確認手段が昔から存在するが、一体あれは何なんだろうと私は思うのである。
漫画などでは昔から散見された表現だったからあまり不思議には感じていなかったが、よくよく考えてみればあの行為ほど意味のない行為はないと言える。確かに、自分で自分の頬をつねり場面が我が家の布団へと移らない事でそこが夢の中でないと認識は出来るのかもしれない。しかしどうだ、仮に夢の中で夢の様な出来事を目の当たりにした時に頬をつねってみたとして、じゃあその夢は覚めてくれるのだろうか。答えは明らかに否だ。何故なら頬をつねる事によって痛みを感じているのは夢の中の自分に過ぎないのであって、己の眠りを直接的に妨げる要因となる物理的外傷は全く負っていないからである。二階から飛び降りたりゾンビに噛み付かれたりしても夢を見続けた経験のある私が言うくらいだから間違いない。
で、だとするとこの行為は一見非常に合理的な手段である様に見えてその実何の役にも立たないどころかとんでもない欠点すら持っているものであるという事が分かる。実際に夢の中でつねってさえ目が覚めないという事は、夢の中の自分はこう思うであろうからだ。「痛い。これは夢じゃないんだ」 夢の中では痛覚が働かないという話を聞く事もあるから、それでいけば痛みを感じない違和感からそこが夢であると判断も出来るのかもしれないが、それが可能なくらいなら頬をつねりたくなる様な何事かに遭遇した段階で夢であると分かるのではあるまいか。そうなるとやはり残念な事に、正真正銘の夢であるにもかかわらず彼はそこが現実であるかの様に普通の振る舞いをし、普通の振る舞いに始終してその夢を見終えるのだ。もしも夢だと分かったなら、全てが自分の思い通りになったかもしれなかったのに。

そして目を覚ました彼は、千載一遇のチャンスを潰した悲しみを嘆いて叫ぶのである。
「夢じゃなかったけど! 夢だった!」



07/11/08(木) 第898回 逆鱗の土々呂

ふと、昨日のタイトルの「逆隣」が「逆鱗」に見えたのでこんなタイトルを付けてノープランで書き始めてみたのだが、さてどうしたものか。

巷ではあの作品には隠れたメッセージがあって、曰くメイは死んでいるだの、曰くサツキも死んでいるだの、ラストシーンの影がどうだのという話が存在する様だがそういった都市伝説紛いの話は考えない事にするのだとしても、事によればメイは死んでいてもおかしくなかったのではないかと思ったりするのである。
それもそうだ。トトロ一族がメイによって被った害の事を考えてみるといい。まず一つには、中トトロと小トトロ(正式な名前があるかどうか知らないので便宜上こう呼ぶ)が執拗に追い掛け回された事件。彼等にとっては得体の知れない巨大生物である人間に襲われたこの一件は紛れもなくその命を脅かされたものだったと言える。しかもその過程で折角拾い集めた食料用(?)のどんぐりの大半を紛失してしまう始末。無知な人間の軽率な行為が彼等の生活を著しく乱した事は言うまでもない事だ。
そして森の主たるトトロ本人も彼女の被害に遭った。喜色満面の表情でもってトトロの身体によじ登り鼻をくすぐって彼の眠りを阻害した一件は多くの方のご記憶にもあるだろう。しかも彼女は自身のその行為によって一度トトロが反応を示したと見るや今度は明らかないたずら心をもって明確な故意の下にまたもや鼻をくすぐったのである。許されざる行為。触れてはならなかった禁忌。この時彼女が(眠ったまま森の中に放置されるという仕打ちを受けながらも)生きて帰ってこられたのはトトロが再三にわたるくすぐり攻撃に遭ったにもかかわらずそれによる憤りよりもまだ眠気の方が勝っていたからに過ぎない。もしかあの時、トトロが完全に目を覚ましてしまっていたとしたら、悪意なき少女は森の聖域を蹂躙した罪をその命でもって償う事になっていただろう。

草壁メイ(享年4歳)
だが私は、森の主の温もりに触れ幸福な眠りの内に亡くなった彼女を、必ずしも悲劇の人だとは思わないのだ。



07/11/09(金) 第899回 小学校教員の葛藤

小学校での音楽の授業で今日も平和に皆一緒に何かしらの歌を歌っていると、たまに先生からこんな事を言われる。「もっと元気よく」 その言葉は大抵歌の歌い始めに発せられる。とどのつまり先生はこう言いたいのである。「元気がない。声も小さい。もっと張り切って歌いなさい」
元気が取り柄の子供達に元気がないというのはなるほど、子供を愛して止まない先生達からしてみれば見るに耐えないものだったのかもしれない。そうと思う立場にいればこそ、生徒達の間に漂うほんの僅かな空気の違いを敏感に察したのかもしれない。実際、そう呼びかける事で子供達はより明るく、より大きな声で歌う様になるのである。
似た様なものに、先生がクラス全体に向けて何らかの同意を得る類の問い掛けをし、生徒側が揃って「はい!」と答えたりした時において「もっと大きな声で」などの言葉でより大きな「はい!」を要求する場面もある。これもやはり、先生がいつもより気持ち静かな生徒達を前にしてその気持ちを奮い立たせようとしての事なのだろうか。その真意は教師でない私には分からない事かもしれないが、しかし生徒達はその言葉を受けて先程とは見違える張りのある声で先生の期待に応えるのである。

私は思うのである。何と美しい師弟関係か。先生が生徒の事を深く知っていなければ、この言葉のやり取りは生まれなかった。生徒が先生の事を慕っていなければ、この心のやり取りは生まれなかった。先生からすれば、何故今日はいつもより元気がないのか、それは分からないだろう。宿題が多く今から気落ちしているのかもしれない。体育の時間の後で少し疲れが残っているのかもしれない。或いは単に暑いのかもしれない。しかしそんな事は分からなくても構わないのだ。生徒個人が目に見えて落ち込んでいるならいざ知らず、クラス全体が著しく沈んでいる訳ではない。だとすれば本当は特別な言葉をかける必要すら実はない。クラスの雰囲気というものは生徒達が作り上げていくもので、担任は少し離れた所から全体を見守っていればそれでいいのだから。でも時には、銘々の方を向いている生徒達に一声かけて足並みを揃えてみてもいい。クラスの引率者として、波の谷間に差し掛かりつつある皆を引っ張り上げてみてもいい。それがつまり、「もっと元気よく」であり「もっと大きな声で」だったのだろうか。ふと、昔を懐かしむと共にそんな事を思った。
だが悲しいかな、先生の言葉によってクラスが一度は一致団結したのにも拘らず、曲目が次のものへ移ったり数分してまた生徒へ同意を求めたりする時にはもう初めのテンションへと戻ってしまっている事は珍しくはない。子供はしたたかなのだ。「全力を出せ」とのお達しを勝手にその場限りのものだと認識するくらいの芸当はお手の物なのだ。しかもこれは先生の生徒への振る舞いとは違い、先生を嫌っているからそう打って出ている訳ではない辺りが罪な存在であると言える。

さて、そうなると困るのは先生である。先生の胸中としては再び「もっと元気よく」と声をかけるにやぶさかでない。だが、繰り返されるそうした発言はクラス内の雰囲気への過剰な干渉を意味しないとは言い切れない。
またそれとは全く別に、何度も何度も、延いては必要な限りその都度口を挟む事でもしか生徒の自尊心を傷付けてしまいでもすれば、最近話題のモンスターペアレンツによって自分が糾弾される可能性も浮上しかねない。子供は好きだ。だがそれ以前に仕事だ。学校における自身の立場を著しく危うくするリスクを負う危険性を考えると、間違っても二度目はない、あってはならないのであった。
もっと元気に振る舞ってほしいとは思いながらも、口をつぐむ先生。そして子供達は、必要でない限り手を抜いて物事に当たる人間へと成長していく。



07/11/10(土) 第900回 小学生の葛藤

何という事だ。私はとんでもない勘違いをしていたのだ。小学生の子供達が、一度は「もっと元気に」と言われて盛り上がったにも拘らずそのすぐ後には普通の状態に戻っていたりする事があるのは何も子供達の方に問題があった訳ではなく、ましてやモンスターペアレンツ達に問題があった訳でもなかったのだ。その事実に気付いてしまった以上、今日は予定されていた「『雑文』第900回突破記念! 全て見せます『妄想針千本』の裏の裏」を急遽中止せざるを得なくなった。だがしかしそれも致し方あるまい。私だって物書きの端くれ。こんな私にも真実を伝える責任が小指の先ほどはあるのだ。

例えばこんな場面を想像してみられたい。例によって「もっと元気に」と言われて声を大きくしてみたはいいが、先生にとっては依然として元気がない様に聞こえ満足には至らず続けざまに「もっと大きい声で」と言われてしまった時の事を。確かに生徒達は初めは全力ではなかったのかもしれない。だがそれはその生徒が不真面目であるという事を意味するものではない。何をするにしたって常に100%の力を出していては到底体力がもつ筈もないのだから、誰だって普段は適度に手を抜いているのだ。そして一度「もっと元気に」と言われてもなお、それは全力で発された声ではなかったのだと思う。その時達した水準は恐らくは、各々の生徒の中でそれぞれに持っている「快活な生徒」としての基準を満たすものだったのではないか。つまり彼等は、「このくらいの声なら及第点に至るだろう」との考えの下、しかしまだ余力を残して発声したのである。
だが、それでもまだ「駄目だ」と言われてしまったとしたら? 初めの目論見が外れ、先生の求める基準値が何処にあるか分からなくなってしまったとしたら? あくまで彼等はまだ年端もいかない少年少女達だ。大して時間的余裕もない中、他に有効な策を見出すには至らず、最早彼等に残された手立ては一つである。これ以上文句を言われない様、フルパワーで声を上げる事。とにかく喉を潰すかの勢いで元気という元気を口から吐き出す事。先生から二度の指導を受け、多くの生徒は遂に本気を出す。中にはまるで悲鳴であるかの様な声を出す者もいる。そして先生は言うのだ。「よく出来ました」
さて問題はここからだ。先生が「よく出来ました」と言ってくれた事でその瞬間、クラスは一つにまとまった。だがしかしここで、その先生の言葉を鵜呑みにした生徒がいたとすればこれは厄介である。つまり、もしも「他人と話をする際はあれくらいの大きさの声を出すべきなんだ」と認識した生徒がいたとすれば。
例えば翌朝、今日も元気に登校する件の生徒が近所の顔見知りの人から声をかけられた時に、昨日先生が褒めてくれたレベルの声で「おはようございます!」などと言ったらどうなるだろう。その人は、いかにも優しそうな顔で「元気だねー」とか言ってくれるのかもしれない。だがよく見ろ。その顔は若干引き攣っているぞ。
また、例えば学校に着いてから廊下でばったり教頭先生か誰かと出くわし開口一番例の大声で「おはようございます!」などと言ったら。教頭は恐らく「おはよう」と返してくれる事とは思うが、だがよく見ろ。口角は上がっていても眉間には皺が寄っているぞ。
あまつさえ、以後しばらく授業で当てられたら大声で答え音楽の時間は全力で歌いその他とにかく発言の機会の度にキーキーと叫び声を上げていたりすると、いつかそれを褒めてくれた筈の先生にすら通信簿に「元気があり過ぎて他の子を驚かしてしまう事があります」などと書かれたりするのである(勿論これはモンスターペアレンツ対策としてオブラートに包んである表現である)。

お分かりだろう。その子は明らかに、あの日間違った認識を植え付けられた。あの叫びを「良かった」と言ったあの発言は嘘だったのだ。先生によって騙されたのだ。生徒は学期末のその日、大人の汚さを知るのである。
諸悪の根元は生徒ではなく、生徒の親でもなく、無責任に大声を求めた挙句最後にはそれを拒絶した先生の失態である。
ならば我々は、「もっと元気に」と言われない限り少しばかり気の抜けた返事しか出来ない子供達の事を無神経に「今時の子供は〜」などと批判したりは出来まい。あれは子供達が、過去の経験や伝聞から学習して得た、周囲から見限られない為の自己防衛対策なのだ。


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