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07/11/11(日) 第901回 意図しない天丼

昨日の更新後、今日の為の俺的事典を書こうとしていた時に気付いた。「前回更新分」と「前々回更新分」の両方に同じ単語が掲載されている。どうやら一昨日の更新作業中にコピペミスを犯してしまっていた様で、一昨日の更新分が「新着の単語」ページから消えてしまっていたらしいのである。
しまった。咄嗟にそう思ったが、最早どうしようもない事もすぐに分かった。ローカルファイル上で消えてしまっている以上そこからは復元しようもないし、そうなるとウェブ上のファイルが最後の望みだった事になるがたった今更新作業を終えた訳で既に上書きされてしまった。私はその時、情報のデジタル化による脆弱化に関する話を思い出していた。情報を保存する媒体は時代と共に変遷し今では半永久的に劣化しない仕様へと進化したが、それは何かの弾みで一瞬の内に消失してしまう脆さを持ち、その点では一世代前の紙媒体の方が優っているというものだ。今私が必要としているデータは私自身のミスによってだが、完全に消失し最早手の届かないものになったのである。
もっともその失われたデータは「新着の単語」ページから消え失せたのみで行別に分けられたページの方には残っている訳だから何ら深刻な問題ではなかった。だが二日、三日振りに当サイトを訪れて二日前、三日前分の更新を見ようとスクロールする方が何人かいるかもしれない事を考えると、当然そのページは本来の状態にしておく事が望まれる。だがそこにきて驚いた。いざ二日前に何の単語を追加しただろうかと考えると、それが出てこないのである。
老化。真っ先にその言葉が浮かんだ。次に浮かんだのは故・中江真司氏による「一昨日の晩ご飯、何を食べましたか?」のナレーションであった。とどのつまり、記憶力がまずい。と言うか脳がまずい。これを危惧して一時は最早ブームも過ぎ去った脳トレ関連ソフト並びにNintendoDSの購入へと心が動きかけたが、間もなく平静を取り戻しそんな血迷った行動には出ずして済んだ。
だがしかし思い出せないものは思い出せない。どうにも立ち行かなくなってしまった私は駄目元でWebArchiveに頼ってみたりもしたが、ホームページでもないページのデータがしかも都合良く昨日保存されたりなどという奇跡は勿論起こらず、あったのは直近で2007/08/24分のものであった。「ぼうぎょ」とか言われてもね。

最後の希望も絶たれた私が行き着く場所はただ一つ。「まあいいか」である。結局今日一日あのページは「セット・サジタリウス」と「らいせい」への突っ込みが二度ずつ書かれるくどい状態を皆様にお見せする事になるのであった。結果としてその旨指摘される事はなかったが、はてそれは
  1. あまりに堂々とした誤りで意外と誰にも気付かれなかった。
  2. 気付いたが別にわざわざ知らせる様な事でもなかったので報告しなかった。
  3. どうせ一日もすれば勝手に直るであろうレベルのミスをいちいちあげつらってたらこれから先掲示板が誤植報告だけで飽和してしまうので敢えて報告しなかった。
  4. 報告しちゃうと(土曜である事もあり)すぐさま対応が入るかもしれず、そうなるとこの恥ずかしいミスを他の人に見てもらえなくなるので敢えて報告しなかった。
  5. 実は誤りではなく管理人以外の誰にも分かる訳のない高度なネタだと思っていた。
の内のどれが原因だろうか。知りたくはない。



07/11/12(月) 第902回 黒歴史

昨日WebArchiveに関する話に触れたので、折角だからアーカイブにあった最古のトップページ
「最終更新日 05/02/28」とあるから、外部公開開始から半月程度のものか。まあ多くは語るまい。

※文字化けする場合は文字コードをShift_JISに。



07/11/13(火) 第903回 人生の転換点

ある休日の昼間、いつになく暇になりかと言ってゲームをする気分でもなかったから、じゃあ折角だから今の内に「雑文」を書いちゃうかなー、なんて思っておもむろにパソコンの前に座ったのだが、座ってみて驚いた。なかなか書く事が決まらない。しばらく考えてテーマを決めても、今度は全く手が動かない。頭も働いてくれない。結果的に「今日は早めに更新作業を終わらせてその分他コンテンツにでも取り掛かるか」という目論見は脆くも崩れ去り、あまりに進みが悪いからという事で一旦作業を中止後結局いつもと同じ時間帯に仕上げる運びとなったのであった。その時の内容がどれだったか、今はもう覚えていないが不思議だったのは、作業中段前と後でテーマを大きく変えた訳でも、中断中に色々案を練っていた訳でもないのに夜になって書き始めると割とスムーズに完成にまで漕ぎ着けられた事であった。
これが指す事とはつまり、私は追い詰められなければなかなか力を発揮出来ない人間であるという事実である。昼間はまだ時間的余裕があった。テーマが決まらなくても、「まだまだ悩める時間はあるな」といった思いが心の何処かにあった。これが油断と慢心を生むのだ。思えば私は昔から、面倒な事は出来るだけ後回しにする癖があった。明日出来る事は明日に。明日までには片付けていなければならないが2、3時間あれば十分こなせる類の事なら夜に。1時間あれば十分な事なら場合によっては翌朝に、などという事もあった。もっともよくそれをやらかしていたのは小学校時分の事で、それが原因で何度か痛い目に遭ってからというもの「本当にやっておかないと割と本気で立場がまずくなりかねない」事案についてはきちんと計画立てて取り組む様努力はした。だが「必ずしもやらなくたって誰に非難される訳でもない」事案についてはその限りではない訳だ。即ちそれがあの日の休日における「雑文」更新作業だったのである。

時間的余裕から来る油断が「何も今やんなくても」と一瞬でもそう思わせると、途端に思考が停止してしまうのだろうか。厄介な性質である。これはつまり、仮に事前にある程度余裕を持たせたスケジュールを組んだとしても、100%押す方向で崩れると決まっているという事だからである。「22時頃に全部片付けて、後の2時間はゲームでも」とした予定は24時頃になってようやく終わるし、「これを土曜日までに終わらせてしまって日曜日は遊びまくるぞ」とかいう計画は日曜日にまでずれ込む事が木曜日辺りには現実味を帯び始め金曜日には確定するのだ。
なまじ計画に取り掛かり始めた時はやる気もまだ満々であるだけに、次第に訪れる退廃ムードが私に与える影響は甚大である。これを防ぐには一体どうすればいいのだろう。これは今後私が、如何に有意義な人生を送れるかどうかに深く関わる重要な問題である。
この問題について考えるに当たり、まず以下の二点について述べよう。
これに、「人間はそう簡単には変われない」という絶対不変の理を適用すれば、向こう10年私がこの呪縛から逃れられないであろう事は自明である。されば、自ずと答えは導き出される。即ち、「最初から追い込まれる事前提のスケジュールを立てる」である。これならまかり間違っても「何も今やんなくても」などという甘えた考えには行き着かないし、自ら余裕を捨て去る事で初めから最後まで全力で課題に臨む事が出来るのである。

そうとなれば話は早い。後は実践あるのみだ。手始めに、明日からサイトの更新作業に入る時間を23時30分頃からとしてみよう。いつもは21時か22時頃から始めているので、上記理論に従って普段以上の効率でもって当日更新分の「雑文」を書き終える事になる。
そうして浮いた幾許かの時間はその日その日においてはちっぽけなものなのだとしても、それが数週間、数ヶ月、延いては数年も続けば積算ではとてつもない時間となるのだ。その膨大な時間を全てサイト更新の為に費やすか、それともその時々でゲームに興じるなり、本を読むなり、ぼーっと物思いにふけるなりするか。後者が有意義だと言い切りはしないが、少なくとも優雅ではある。優雅でない生き方と優雅な生き方となら、是非とも優雅な生き方をしていきたいではないか。だから私は自分で自分を追い詰めるのである。限界へと追い込むのである。

明日から優雅な人生が始まる。今日は興奮して寝られないな。



07/11/14(水) 第904回 優雅な一日

05:00 起床。
06:00 外出。
12:00 昼食を食う。
18:00 夕飯を食う。
19:00 帰宅。
19:30 しばし休憩。
20:00 風呂に入る。
20:30 しばしインターネット。
21:00 優雅にインターネット。
21:30 優雅に目下最大の懸案事項に取り組む。
23:30 さてそろそろ「雑文」でも書こうかな。
23:35 テーマを何にするか優雅に悩む。
23:40 優雅に悩む。
23:45 優雅に悩む。
23:48 ちょっとインターネットに浮気、優雅に。
23:50 優雅に焦り出す。
23:53 優雅に慌てる。
23:55 「仕方ない。今日は『優雅ネタ』でコンパクトにまとめよう」と優雅な決断。
23:56 優雅な一日をまとめる。
23:57 優雅な一日をまとめる。
23:58 ちょっと色気を出して細部に手を加えてみる優雅さを決して忘れないまま。
23:59 優雅な一日をまとめる。
24:00 優雅に完了。



07/11/15(木) 第905回 人生訓:いもははらにたまる

という訳で優雅な生活も終焉を迎え、今日は至って普通の時間に「雑文」を書いている次第である。
それにしても酷かった。その「優雅な一日」とやらは。理論上ではこんな失態を犯す筈ではなかったのだが、しかし私は二つ、大きなミスをしでかしていたのであった。
一つは、サイト更新作業に入る時間を23:30に設定した事。これはその日の内の更新を行えるギリギリの時間という事で決めたものなのだが、それによって更新時間が日付の変わる近辺の時間帯になると24:00以降になってから翌日分の「俺的事典」を書かなければならない羽目になるのである。昨日の大雑把な一日の流れをご覧戴ければ分かる通り私の朝は早い。なおかつ私は日々の睡眠時間が八時間やそこらでは足りない人間である。今日の起床は5:00ではなかったが、それにしたって24:00を大きく超えてなお起きているのは自殺行為にも等しいのだ。優雅な生活はそれを強いる。昨日実際にやってみて思ったが、毎日続けるには無理がある方針だった。
そしてもう一つは、サイト更新作業に入る時間を23:30に設定した事だ。これが意味するものは一つ。「雑文」を書く時間の猶予が30分しかないという切羽詰った状況。自分で自分を追い込んでおいてそれに文句を垂れている様じゃ本末転倒も甚だしいと思われようが、しかし私はうっかり忘れていたのである。時間的に追い込まれなければ本来の力を100%出す事が出来ないのと同時に、精神的圧迫感に極めて弱い人間であるという事を。直前まで全く別の作業をしていて、さて「雑文」だと思ったら後30分。これではプレッシャーを感じない訳にはいかないのだ。普段ギリギリの状態になってから力を発揮するのはその前にもある程度同じ作業に四苦八苦していた下地があるからで、だから、例え頑張れれば30分で「雑文」を(ネタの選定から始め)最後まで書き上げられるのだとしても、せめてもう30分程度は「慣らし」の時間が必要だったのではと思うのである。
とにもかくにも優雅な暮らしなんてものはなかった。決して楽をしようという魂胆から思った事ではなかったのだが、でも上手くはいかないもんだね。もっとも、上手な生き方なんてものは何度かつまづきながら、自分なりの工夫を重ねて見付けていくものなのかもしれないけれどもね。

さてね、今日は遅めの昼飯をたらふく食った後ひょんな事からさつまいもを一個食らってそのせいで腹が一杯になり夕飯がまともに食べられなかったあげくに昼過ぎからお腹の調子は悪いわ天気の調子は悪いわ明日からまた寒気だわで気分が優れないのでこの辺で。



07/11/16(金) 第906回 太陽神

かなり冷え込んできた。私が年がら年中長袖で生活している事は確か以前ここに書いたんだったが、今になってもなお夏場とほとんど変わらない服装でいると幾ら長袖でも流石に朝方などは寒さに震える様になってきた。
しかしこの時期の寒さは、冬本番を迎えてからのどうしようもない寒さとは違ってその時その時の状況一つで随分と感じ方を違えるものである。その大きな要因の一つが、太陽だ。
太陽は凄い。私はもうこの地球に生まれて20年以上も普遍的にそのお世話になっていた筈なのだが、今また改めてそれを実感した。太陽は凄い。太陽は今日だって、寒気の影響やら何やらで冷え切っていた空気を、ちょっと雲の切れ間から顔を覗かせるだけで少しばかり暖めた。ふっと地球を明るく照らすと、途端に感じるポカポカ陽気。1億5000万kmも離れている太陽が、その時ばかりはもっと近しい間柄の様に思える。寒さで凍りついた心をも溶かす貴方は神の使いかはたまた神か。
でもここで思ったのであった。確かに太陽の力は凄い。だがそうなってくると本当に凄いのは実は、その太陽の力をいとも簡単に遮ってしまう雲の方なのではないだろうか。勿論雲一つで太陽の光を全てシャットアウトしてしまう訳ではないが(仮にそうなら「雲」という存在はあんなにも平和的な姿形をしていないだろう)、1億5000万kmもの距離を越えてやって来た「丁度我々が欲しいと願う分だけのエネルギー」を事実上その身一つで奪うというのだから、やはりこれは並の所業ではないのだ。
そんな事を考えている内に、太陽が再び雲に隠れた。冷え込む空気。震える身体。陽の光が当たらなくなると風が吹き始める様な気がするのは果たして気のせいか。

あーあ、そんな事なら、雲ってやつは雨を降らせるものでない限り消えてくれたらいいのに。
和らいだ心はまた荒んだ。私を救えるのは太陽神か、さもなければコタツである。



07/11/18(日) 第907回 もしも願いが叶うなら

「DRAGON BALL」というのは、何故未だにあちこちでその姿を見かけるのだろう、と思う事がよくあるのである。

先日、ハリウッドで制作される実写版「DRAGON BALL」の配役が決定したとの話を聞いた。私の中でこの話というのは確か数年前に聞いたものの筈で、てっきりいつの間にか頓挫していたと思っていたので、寝耳に水の一報であった。しかしまあ、残念な事に、これほどコケるだろうなあと思わせ、大衆に不安を煽る話題もない。あの作品がどんな風に実写化されるのか、それは考えただけでおぞましいものだ。例え制作が天下の20世紀フォックスさんであろうと「名作の実写化」にまつわる負の輪廻を断ち切る事は出来まい。私は、この兵器級の映像が日本に持ち込まれる日を恐ろしく思う。直に見る事は恐らくないが、その日を期にまた一つの名作が、その生まれた地で、手酷く蹂躙されるのかと考えたりすると、思う所はあるとも。
私もかつては少年だった。当時、多くの小中生が週間少年ジャンプを読んでは一喜一憂していたのとは違い、私はもっぱらアニメの方で楽しむ人間だったが、しかしゲームに傾倒するばかりでまるでテレビには執着していなかった私が珍しく「DRAGON BALL」だけは毎週欠かさず見ていたのだから、その入れ込み様は相当なものだったのだと思う。人造人間編に入った辺りから色々と否定的な意見も目立ってきたと記憶しているが、そんな反発の声など一顧だにせず最終回まで見届けた。GTにもなるといよいよ賛否両論の声は激しさを増したと記憶しているが、そんな世論もどこ吹く風と最後の最後まで見届けた。今となっては印象的な場面を幾つかしか覚えていないが、GTの最終回のスタッフロールでZ以前のキャラクターやら声優やらスタッフやらの名前まで流れたのには少し感慨深いものを感じずにはいられなかった。
またアニメに興じる間、当然当時多数発売されていたゲームの方に手を伸ばさなかった訳がない。FC時代には「激神!! フリーザ」や「烈戦人造人間」を、SFC時代には「超サイヤ伝説」に「超武闘伝」に「超武闘伝2」を。何故かこれ以降DB関連のゲームを買う事はなかったが(「超武闘伝3」にストーリーモードがないと知ったのが直接の原因だったかな)、これらについてはいずれもはまり込んで複数回プレイ、クリアしたものである。
そんな「DRAGON BALL」 心底熱狂していたとまでは言えないが、間違いなくそれは私の青春の一つ。だからこそ思う。週間少年ジャンプでの連載が終わって12年。テレビアニメ「DRAGON BALL GT」の放送が終わって11年。もう干支も一回りするというのに、何故「DRAGON BALL」は未だにゲームになるし(中でも最新作はついひと月前に発売されたと言うではないか)、今更実写化されるし、今なお現役なのだろう。

もう3年か前の話になるが、電車に乗っているとある女子高生と思しき二人の会話が聞こえてきた。聞き耳を立てずとも耳に押し入ってくるその声によれば、二人の内の一方はこう言うのであった。

「さっきから聞いてて思ったんだけど、この電車の車掌さんの声、『DRAGON BALL』のナレーションの人の声に聞こえない?」

その問い掛けにもう一方も共感を示している様だった。
私は驚愕した。確かにその車掌さんの声は「DRAGON BALL」のナレーションの人=界王様の声の人=八奈見乗児氏の声に聞こえるのだ。だがしかしそんな事よりも私には、高校世代の人間が「DRAGON BALL」の話題で盛り上がっている事実にこそ驚いた。3年前という事はアニメが終わってからおおよそ8年。つまりGT放送当時の彼女等の年齢は恐らく8〜10歳。完全に世代を違えている訳ではないが、8年も前に終わったアニメの話題が突然出てくる辺りはやはり聞いていて異質さを感じたものである。
もっとも私が知らなかっただけで、当時「DRAGON BALL」の再放送がやっていてそれだから話題に出ただけの事だったのかもしれない。だがそうであるにしても、事実として「本放送をとっくの昔に終えたアニメ」を、「比較的流行に敏感」な若者、それも「女子」高生が共通の話題にしていたその光景に、私は「DRAGON BALL」の底力を見た。

結局、何故「DRAGON BALL」がそれだけのパワーを秘めているのかは分からないのだ。しかしあれから3年、まだ衰えを見せようとしないその活躍を見ると、もう直接関わりはせずとも、かつてのファンとしては嬉しい。
だからこそ、改めて言おう。実写化は勘弁だと。



07/11/19(月) 第908回 逆に矛盾の勧め

漫画「DRAGON BALL」のフリーザ編終盤にこの様な展開がある。「もしナメック星が消滅すると宇宙空間に放り出されるので悟空は死ぬ」 これに対して多数のDBファンは総じてこう突っ込んだ。「彼は以前ウサギ団との対決において生身で月に行ったではないか」
こうした矛盾は、作品が人気やその他の大人の事情によって長期化される内にどうしても生まれてしまうものだ。だがそうであるにもかかわらず、それはその作品をこよなく愛し作者を熱心に応援する人々の心を急激に冷ましかねないものでもあり、可能な限り注意を払う事が求められる。
だが数年以上、或いは十年、或いはもっと長期にわたって物語が続くとなると、正直いちいち細かい設定など覚えてもいられないというのが本音ではあるまいか。私だって、たった三年ちょっとしか続けていないこの「雑文」において今後、過去の言動とはつじつまが合わない意見を述べたりしないとは限らないのだ(もっともここには本音じゃない事をしれっと語るネタが多数あるので一概に漫画等作品中の矛盾とは比べられないが)。人間本質ではそうそう変わらないとは言うものの、数年もすれば考え方の一つや二つくらいなら変わるものであるし。

で、当サイトはそうした背景から生まれた矛盾にメスを入れるサイトなのであるが、今回は別に上記の様な謎がどうこうとか言うつもりはないし、これはおかしいだろうと偉そうな口を叩くつもりもない。私はむしろ、そのくらいの矛盾ならばあってもいいじゃないかとすら思う。
ただ、事実としてそうした食い違いを知った事によって気持ちが「萎える」人というのは確かにいる。「矛盾はあってはならないものだ」とは言わないけれども、矛盾が存在する事がファンの減少に直接的に繋がるのならそれは避けたい所である。でも「矛盾点を0に抑えるのは無理」である。だから私はここに、作品間で矛盾が生じてもそれが致命的なミスにはならない手段として「作品の最初期にまるで当然であるかの様にとびきりの矛盾を放り込んでおく」事を提案しよう。
どうあがいたっていつかは矛盾に満ち溢れてしまうのなら、最初から矛盾を抱えたストーリーにすればいい。後々生じた矛盾によってそれまで獲得したファンを幾らか逃してしまうのなら、まず初めの内に納得行かない展開が許せない類の人間をふるい落としておくのだ。また、その為に描く矛盾は出来る限り強烈で受け手の印象に残るものである事が望ましい。過去の展開を平然と捻じ曲げて回想する、準レギュラー辺りのキャラクターの名前が変わる、ライバルに当たる三人衆が一人増えていた、等々。可能ならば、少し前に死んだキャラクターが何事もなかったかの様に復活するくらいの事があってもいい。重要なのは、その超絶展開に触れた人達に「この作品はこういうテイストなんだな」と思わせる事である。勘違いしてはならない。ギャグにしろと言うのではないのだ。シリアスな展開の物語を描きたいのならあくまでシリアスな流れのままに、至って真顔で矛盾を入れ込むのだ。
その後は、上記のものほど極端ではない細かな矛盾を意図的に盛り込めばそれでいい。後は貴方の思うままに自由にストーリーを展開させていけばいい。その過程で、今度は自分でも気付かぬ内に悟空が宇宙では生きられない身体になってしまったりしてたとしても、それを見たファンは思う筈だ。「ああ、この作品なら(そのくらいの事は普通にあるある)」 とっくの昔に理不尽な展開を受け付けない人間は排除している為、それによるファン離れの心配も皆無だ。そしてこの手法の素晴らしい点はこうしたうっかりミスをフォローしてもらえるというだけの事ではない。何かの折、これまでにはなかった設定を新たに加えたいと思った場合に、過去のストーリー等々を一切気にする事なくそれを加えてしまえるのだ。話の都合上、これまでは平々凡々だった筈の父親が実は百戦錬磨の伝説の格闘家だった事にしてしまえるし、過去に右腕の手術の経験があった筈の主人公が実は未来から送り込まれたサイボーグだった事にしてしまえるのだ。

過去の自分に縛られ、無理に過去のアイデアに沿った話を付け加えて結局展開がつまらなくなってしまうのでは本末転倒だ。それよりも、作者の自由に、作者のやりたい様に、考え付いたアイデアを気兼ねなく投入してもらった方が間違いなく作品の雰囲気は伸び伸びとするし、仮にそのせいで全体の勢いを失わせる事になってしまったとしても、それが全力でぶつかった結果であるのならば納得が行く失敗だと言えるのである。
近く新作を描こうとする全ての人よ。否、これは漫画に限った話ではない。近く新作のシナリオに携わる全ての人よ。死者を蘇らせてみないか。自分の手掛ける作品が、いつか「超大作」などと銘打たれる事を夢見て。



07/11/20(火) 第909回 世の非道理に揉まれながら辿り着いた真理

思えば、「DRAGON BALL」の第二十三回天下一武道会クリリンvsバクテリアンにおける「お前には鼻がないじゃないかっ!」は昨日言ってた「作品の最初期にまるで当然であるかの様にとびきりの矛盾を放り込んでおく」に合致した展開だったな。何だ、あの作品は私があれこれ述べるまでもなく、些細な矛盾なんて無視して国民的人気を勝ち得るだけの下地が出来てたんじゃないか。そら悟空がいつのまにか宇宙で生きられなくなったりもするよ。するとも。

さて、戦ってばかりいればいい悟空と違って多忙を極める私は、その「忙しさ」という事実を盾に更新を怠る日々が続く今、だけれども止められないゲームは「サイトを放ったらかしにして自分だけ遊びにかまけてていいのか」という思いが背徳感となって麻薬の様に私を蝕んでいく訳だが、そうしてプレイするトルネコ3の異世界の迷宮はそれに費やす時間には一切比例する事なく断固として進展させてくれようとはせず、最早何度潜ったか何時間戦ったか定かでなくなったにも拘らず未だたった一度の地下20F到達が最高記録という醜態を晒している始末で、このままだと本当にトルネコ3を制覇する頃には昨今の女剣士アスカブームが過ぎ去ってくれているかもしれないどころかブームが去ってなお異世界の迷宮の地下1〜20階を延々とループしてやいないだろうかと半ば本気で不安に思う次第である。
ところで最近、不思議のダンジョンシリーズというやつはテンポが重要だなあと思うのである。移動はスムーズに(ダッシュも可能で)、バトル中もこちらのターンと敵のターンがポンポンポンと進んでいくテンポの良さが大事だなあと。不思議のダンジョンというのはそもそもダンジョンへ向かうのに一切の準備が要らず、ちょっとした時間があれば挑戦可能なものだ。それだけ気軽であるからこそ、一通り遊んで一旦は飽きてもまたふっとプレイしてみたくなったりする。そうだ、「気軽さ」は不思議のダンジョンの面白さを規定する重要な指標だ。だからこそ、その「気軽さ」の延長上にあるものとして、変にプレイヤーを煩わせないためのテンポの良さはあまねく全ての不思議のダンジョン関連作品が持っているべき要素なのだ。テンポを失った不思議のダンジョンがどういったものになるか。それはFF10-2のラストミッションを見れば一目瞭然である。1000回遊べるどころか3回遊べばもう十分だった伝説のダンジョンRPG。10秒かかる1ターン。悲鳴を上げるPS2。あれほどまでにスクウェアの映像嗜好を忌まわしく思った事はない。トルネコ3にしたってアイテムを拾う動作とか壷への出し入れ動作一つ一つが段々ウザったく思えてきてしまう所はあるが、あれはかろうじて及第点だったと言える。もっともそれを言うのは、ダンジョンを出るとキャラクターのレベルは1に戻るがプレイヤーの知識は上がっていき最終的に「別に無理してやんなくてもいいんじゃね」という真理へと導いてくれる伝説のダンジョンRPG「ラストミッション」を二周した人間であるが。
で、そうなると、俄然不安になってくるのは今度Wiiで発売になる「風来のシレン3」の動向である。幾ら次世代機だとは言ってもグラフィックが3Dになる本作では、残念な事にSFCでの2D絵における高速計算処理を行えるとは到底思えず、酷ければ「ラストミッション」の悪夢の再来なども考えられるのかもしれず、ただ流石にそこまで言うのはチュンソフトさんに失礼に当たるのかもしれなくても少なからず既に過去最高作と名高い女剣士アスカの出来を超える事はないと分かってしまっているのである。
折角期待を寄せていたシレン3がこうでは、Wiiへの魅力も半減だと言わざるを得ない。状況によっては即買いもありかと思ってたが、これはちょっと様子を見た方がいいかな。

そういう事なら任されよ。何しろ私の前には一年かかっても希望が見えないかもしれない異世界の迷宮が立ちはだかっているのだから。
これさえあれば後1000回遊ぶくらいの事は堅いね。



07/11/21(水) 第910回 神に誓って初心に帰れ

最近よく思う事は、アイデンティティー(ここでは「個性」や「独自性」の事を言う)はやはり誰もが持っているべきで、それは大事にされるべきものだなあという事。
勿論、アイデンティティーは誰もが持っているものである。人間一つくらいは、他人とは違う特色があるものだ。しかし、自分の活躍するフィールドにおいて同様にそれを持つのかと言えば、そうとは限らない。ある会社員のアイデンティティーは話し相手のどんな話からも会話を盛り上げるというずば抜けた聞き手の能力であるかもしれないが、ある寿司職人のアイデンティティーは猫の気持ちが分かる能力なのかもしれない。
そのアイデンティティーが個人の価値を上げるものならそれを最大限活用出来る場にいた方が、逆にそのアイデンティティーが個人の価値を貶めるものならそれとは一切無縁でいられる場にいた方が、より幸せな人生を送れる事は自明だ。だが人生そう上手くはいかないもので、40歳になっても50歳になっても自分のアイデンティティーに気付かない人が多分いれば、「自分はこの点において特別だ」との確信がありながらそれを活かせる仕事に就けなかったりする人も多分いる。恐らく、己のアイデンティティーに合った人生を送っている(それが仕事ならいわゆる「天職」に就いていると自他共に認める)人というのは一握りの存在なんだろうと思う。
人とは限るまい。物だってそうだ。何を思ってか需要もある訳でないテーマパークが「○○最大規模の!」的なキャッチフレーズ(即ちこれこそアイデンティティー)を掲げて絢爛豪華に営業を始めたが大方の予想通り右肩下がりの盛況振りで呆気なく潰れるなんて光景はこれまで何度も見聞きしてきた事だろう。或いは、FF10の人気を基に制作されたシリーズ初の正統的続編において「これまで応援してくれたファンの為」と称し一連の作品の集大成として企画され見事に立つ鳥跡を濁した伝説のダンジョンRPG「ラストミッション」が、「ジョブシステムとローグシステムの融合」という紛うことなきアイデンティティーを持っていたにも拘らず微塵ともそれを生かせずして終わった事も多くのFFファンの知る所である。
人生を上手い具合に運ぶのは難しい。だが人間の手によって形作られる物や、何らかの作品に関してはその大半にまだ一考の余地があった筈で、それだけに己のアイデンティティーを見失った振る舞いをしているなにがしかを見ると何ともやるせない気持ちになってしまうのであった。

詰まる所私が言いたいのは、明日発売のDS版DQ4にも出演中のサントハイム城神官クリフトが、PS版から追加された戦闘中命令の一つ「めいれいさせろ」によって、彼の一番のアイデンティティー「なりふり構わずザラキを連発する浅ましさ」が失われた事を、とても悲しく思うんだという事なのである。


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