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08/01/05(土) 第951回 四日坊主宣言

人間とは忘れる生き物だ。だから新年の抱負などというものは、出来れば本人のすぐ目につく場所に張り出したりして、事あるごとに自分の中で「あの日の決意に沿った生き方が出来ているかどうか」を自問自答するべきである。
だが、何という事だ。昨日で過去ログ95が終わってしまった。これまでは毎日「雑文」を書こうとする度にこのファイルを参照してたからその都度あの十ヵ条を目に焼き付けていたものだが、これでは今日以降あの決意に触れる機会が激減してしまう。だって、ただ更新作業をするに当たって「過去ログ95」なんていう何の脈絡もないファイルをわざわざ開いたりする事なんてないものねえ。

そういう訳なので、多分今年の内に再びあの抱負を振り返る事はないと思うので、仮に今後私があの言葉に反した行動を取ったりしたとしても決してそれを責めてはいけないよ。それは故意にじゃなくて、つい忘れちゃっての事だから。



08/01/06(日) 第952回 貴方の人生への刺客

人生、割と満足に生きていきたいと願うなら、その為にしなければならない事は実に多い。生活費を稼ぐ為に働く。ある水準以上の収入こそ満足な人生の為の最低条件だとするならその水準に適うレベルの大学を卒業しているか、さもなければ強力なコネ作り、或いは頭一つ抜け出る程度の発想力ないし会話力などが必要であり、またそれらを可能とする為の能力を得る準備も要る。大抵の場合、長くて20数年という限られた時間内にである。
望みの企業に就職出来たからと言って人生はそれで全て決まる訳ではない。このご時世、定年に至るまで会社が自分を雇用してくれるとは限らない。会社にい続けた所で昇進していけるかどうかとはこれまた別。更に仕事の出来云々と、同僚との人間関係が円滑であるかどうかとは無関係である。
人は、その満たされた人生の為には、有り体に言えば常に自分を磨く努力が不可欠なのであって、その具体的手段は一つ一つ挙げていてはきりがないほど。だから我々は可能ならば、人生の「出来」には深く関わらない様な、小さな小さな問題をいちいち気にかけないでいたい。理想の生き方を現実のものとする為に、時間は幾らあっても足りないのだから。
しかし人間は――つくづく思わされる事だが――完璧な生き物ではない。我々は度々、ある些細な事象に神経を集中させてしまったりするのだ。それが全くもって無駄な行為だと頭では認識しているのに。

ふとした事であるタスクが強制終了した後、改めて何らかのソフトなりを立ち上げると、強制終了以前に比べ私の手は明らかに鈍る。先程までどんなに順調に作業をこなしていたとしても、ソフト再起動後はそれがまるで嘘の様に頓挫するのだ。そしてそれは、強制終了によって一旦作業が中断され、ペースを乱されてしまった結果起きるものではない。気になるのである。パソコン画面下部のタスクバーに表示される各タスクボタンの順序が変わってしまった事が。
長年パソコンを利用しているとその内、常に利用するソフトの組み合わせというものは段々と固定化されてくるものである。そして、基本的に当該ソフトの起動アイコンの位置が不変である以上、その起動順序も。するとユーザーは、毎日毎日決まった順に並べられたタスクボタンを目にし、その順に沿った操作によって作業に従事する事になる。必然、意識していなくとも身体はその順序に慣れるだろう。そしてルールが生まれる。一番左はエクスプローラで、次にメールソフト、テキストエディタ、表計算、etc.... 結果、突然順序が入れ替わってしまうと、タスクボタンをクリックして別のタスクをアクティブ化させようとする際につい戸惑ったりしてしまうのである。目的のボタンがいつもとは違う位置に動いているから。
また悪い事に、人によってはその順序でないとしっくりこず収まりが悪いとすら感じてしまう場合もある。私がそうである。私は通常タスクバーの最も左にエクスプローラを置いているが、何かの拍子にこのウィンドウが閉じてしまうと一転、そのボタンはタスクバーの最も右に移動してしまうのだ。これが何とも気持ち悪い。操作に手間取るとかそういう事を一切無視しても私にはそれが許せない。しかし、あれだけ多機能なパソコンの事だから当然出来るかと思っていた「タスクバー内のボタンの順序入れ替え」はどうやら無理の様だ。かと言って、エクスプローラのタスクボタン一つの為にその他全てのタスクを一旦終了させるのも手間である。しょうがないからこの事は放っておいて、その日は一日エクスプローラのボタンを一番右に置きながら作業するかと思ってはみるのだが、そこはいつだって画面下部に居座っているタスクバーの事である。どんなにそこを気にすまいと思おうと、エクスプローラボタンは定期的に存在感を見せ付けては私の気を逸らしにかかるのであった。

そして牛歩戦術であるかにぴたりと止まる作業。
タスクバーが理想の人生への道を閉ざした。



08/01/07(月) 第953回 時間の対価

とかく文章を読むのが遅いという事はこの間アルティマニアが六冊溜まっている件でもほのめかしたが、それ故に、速読の出来る人間を羨ましく思うのである。
文章を、読む。それも、うっかり読み落としてしまう事がない様にほぼ全ての語句を丹念に読んで、一旦頭の中で咀嚼し、しっかり意味を認識してから次の文へと移る。流し読みというものが出来ない。文章の要旨を素早く掴む事が苦手なのかもしれない。だからとにかく時間がかかりがちになる。次のページに進んだ後で、もう一度前のページに立ち返り改めてそこの文章を再読するなどよくある事である。だもんで、たかがゲームの攻略本一冊読むのに7日も8日もかかる。そして私は、事あるごとに思うのだ。速読が出来たらいいのになあ。
速読。文章を速く読む技術。これを会得するだけでその人は、速読の出来ない人に比べて1.5倍得の多い人生を送れていると思う。同じだけの時間でより多くの本に触れる事が出来、それが延いては教養を深めたり、感性を豊かにしたり、或いは単に話のタネを増やしたりするからだ。速読一つで他の人の5割増と言うと少々誇張であるかの様に聞こえるかもしれないが、日本人に一番多い趣味が読書であるという事実(某企業・人事担当談)を鑑みればあながちこれも言い過ぎではない。
テレビなどを見ているとたまに「世界の超人大集合!」的番組に速読のスペシャリストなる人物が現れて、そういった人などが凄まじい速さで本を読んでは「読み終わりました」「えっ!? もう!?」というやり取りが行われる。その速読超人は、過去読んだ事がないとされる書籍を手に取り、1枚1枚ページをめくるなどというしち面倒臭い事はせず、ノンストップで、なおかつ中身が見えてるんだか見えてないんだかも怪しいくらいのスピードで一通り目を通してしまう。あそこまで極端になると、読んでて面白いのかなあとか、どこまで正確に(細かい部分まで)把握できてるのだろうかとか要らぬ疑問を投げかけたくもなってくるが、しかしあのくらいの速さでもって、10分くらいでアルティマニアを読み切ったら随分な時間の節約になるんだよなあと考えると、やはりあのレベルの速読術だって羨望の対象となるのである。

もっとも、実際に超人クラスの速読を実践すると、その様子は一般的な読書のイメージとはあまりにかけ離れたものだからか、それを目の当たりにした人々はこぞって「キモイ」「何あれ」「頭おかしいんじゃないの」と思われ、「キモイ」「ママー、あの人何やってんの?」「シッ! 見ちゃいけません!」と言われる羽目になる。
しかし時間は貴重である。特にアルティマニアを10分で読み終えられれば、本来その熟読に要していた1週間ほどの時間が丸ごと浮くのだ。
アルティマニア1冊につき1週間。それだけの時間を得られるのなら、「キモイ」と言われるくらいの代償、喜んで払ってくれよう。



08/01/08(火) 第954回 これからは速読超人の時代

もしかして貴方は、超人的速読を可能とする人間が得られる恩恵はただ本を速く読めるというだけの事だと思ってはいないだろうか。ともすれば「本くらいゆっくり読むから別に速読なんてマスターしなくてもいいよ」などと思ってしまっているのかもしれない。
だとしたらそれは大きな誤りであると言わざるを得ない。彼等が得ている恩恵は本を数分で読み終えられる事の他に、もう一つあるのだ。それこそ「映画のCMの最後で一瞬だけ申し訳程度にパッパッパッと表示されるクレジットを読む事が出来る」である。
これを下らない事と思うなかれ。速く読めるなら速く読めるに越した事はないがその速度は個々人に完全に一任されている読書とは違ってあれらCMは、一旦録画でもしてコマ送りで見たりでもしない限り「一瞬で読む」事を前提として作られている。つまり超人レベルの速読を習得している事が公式に求められている映像であり、「それだけの能力を持たない者お断り」というメッセージが秘められたものなのだ。速読の能力は生きていく上では全く蛇足な力だと高を括っていた大衆の持論とは裏腹に、世界は既に速読超人を求め始めていたのである。

あそこに一体何が書いてあるのか。何とかして読んでやろうと私も何らかの映画のCMを目にする度に注視しているのだが、如何せん消えるのが速すぎていつもいつも読み逃してしまう。でも、速読超人はあれを恐らく苦もなく読めるのだろう。いいなあ。羨ましいなあ。



08/01/09(水) 第955回 潜在意識への呼びかけ

真面目な話、昨日話題に出した「映画のCMの最後に慌しく表示されるクレジット」には一体何の意味があるのだろうか。
大抵あの種のクレジットはハリウッド映画のCMでよく見かける様な気がするが、とにかく読めない。クレジットというものはその作品に携わった、例えば原作者だとか脚本家だとか、或いは監督だとかプロデューサーだとか、はたまたスポンサーの名前などを観覧者に示すものである筈で、その為には観客にそれと分かる風にまじまじと見せ付けなくてはならないものの筈で、その点で言えばあれは明らかに本来の目的を果たせてはいないのだ。
ああいったCMを作る人は一体どういう考えがあってああしているのだろう。本編の見所を凝縮し、派手なアクションシーンを繋ぎ合わせたコマーシャル部のテンションとテンポを最後まで保とうと思ったらあの速さにするしかなかったという事なのか。だがそうかと思えば、泣き所満載の静かな映画でも超速クレジットは顔を見せたりする。じゃあ、「確かに我々の手によって制作された映画ではあるけれども、我々の名前をこれみよがしに誇示するほど素晴らしい仕事をしたという訳でもないので名前を画面上に出すのはある程度自制している」という謙遜の気持ちが篭められた演出だったのだろうか。いやいや、お相手はアメリカ人だぞ。一般的に言われる国民性にならって言えば、彼等がそんな所で「一歩引く美しさ」を演じてみせたりするとは思えない。大体に心底そう思っているなら、CMだけじゃなく本編のスタッフロールクレジットもテンポ良く見せて30秒で終わらせろって。
まさかとは思うが、「とにかくどういう形でも入れときゃいいだろ」という事なのだろうか。だがしかし、あの投げやりっ振りを目の当たりにしてしまえば最早それが自然であるとしか思えなくなってくる。何かの決まりで一定の関係者並びにスポンサーの名前をCM内に入れておかなければならない。かと言ってただでさえ時間の限られているCM枠の中で悠長に監督の名前などを出していたりしては本編の宣伝なんぞ一切出来ない。かくなる上は、クレジットは出来るだけ短く、出来るだけ素早く詰め込むしかない。この考え方が今の風潮を生み出してしまったのだろうか。

いずれにしても、内輪の人間に対してはまだいいとしても、そうでない人達、或いは企業に対して非常に失礼な行為であるとは思わないのだろうか。あんなに投げっ放しな扱いをしておいて。もしそこに載る筈の人間が私だったとしたら、裏切られたとまでは言わないが、何とも悲しい思いに駆られるぞ。スポンサー企業にしても、全くの好意で資金なり著作なりを提供した訳ではなくてそこには至って計算的な商い魂があった訳だが、その折角の宣伝効果が期待出来ないCMとあっては黙っちゃいない気がするのだが。
でも、超速クレジットを含むCMは現実に存在していて、それが原因で大きな問題が起きたとかいう話も聞いた事はない。つまりそれで上手く回っているという事なのか。関係者は、ほんの少しもクレジットに名を連ねる人達に悪いと思わないというのか。
まあ、そういう思いが小指の先ほどもあればああいったCMは作られなかった筈で。もうこうなったら映画CM制作担当者は、一時期話題になったサブリミナル効果張りのクレジットを合間合間に挟み込んでりゃいいんじゃないの。



08/01/10(木) 第956回 新作映画の試写会出席に必要な5つのコト

限られた参加枠に入り込めるだけの運
(或いは応募しなくとも向こうから招待されるほどの知名度と影響力)
(或いは叶姉妹である事)

自分と一緒に行ってくれる人間

おおよそ映画一本分の時間

会場までの交通費

試写会終了後のインタビューでいかにもわざとらしく「感動しました!」「最高です!」と言える演技力



08/01/11(金) 第957回 FF1・2始めました!

男はふと思うのだった。腹が減った。
そう言えば、今朝は何も食べてこなかったのだ。そう思ってからはたと考えた。別に「そう言えば」なんて言い方する必要もなく、自分はいつも朝飯を抜く人間だろうに。ちょっと都合の良い言い回しがあると、その言葉の持つ意味なんてものは二の次にして安易にそれを使いたがってしまう自分の流されやすさに、男は少し気を落とすのであった。
とにかく何か腹に入れよう。辺りを見回すが、近くに食堂はない様だ。参った。実はこの辺りには仕事の折に寄っただけで全くもって地理には疎いのだ。仕方がない。帰りがてら適当な店にでも入るか。しかしここは寂れた町だ。もしかなかなか自分の気に入る店が見付からなくて昼飯の時間がもう少しずれ込もうものなら、今度は晩飯に影響が及ぶかもしれない。そう思うと男はますます気落ちした。
さて、何を食おう。辺りに店はないが、だからと言って何でもいいから食べたいというのとは話が違う。変に迷って時間を浪費するのは最も避けたい事だが、あまり気乗りのしないものを食べるよりは今食べたいものを食べる方が良い。さて、何を食おう。男が今食べたいものをリストアップしては、それらを順序付けていく。だからどうだという訳ではなく、実際はこれから初めて見付かった店に入る事になるのだが、例えそうであっても、この空腹の中、心の底から食べたいものを想像してそれを食べる為に行動する事が、さきほどまで下がりに下がり切っていた男のテンションを多少なりとも底上げするのだ。
ちょっとすると食堂らしきものが見えてきた。助かった。ただ、その更に向こうにはカレー屋も見えた。カレーと言えば、さきほど付けたばかりの「今食べたいものランキング」において堂々の一位に輝いたメニューである。心が揺らぐ。しかし男は、初めに決めた「最初に見付けた店に入る」というルールは破れまいと、やや苦々しい思いで手前の食堂へ入る事にした。頑固一徹。男の良い所でもあり、悪い所でもある。

「いらっしゃいませー!」

流石に昼時をとっくに過ぎているとあって、客はほとんどいない。取り敢えず適当に席につき、さっさと頼んでさっさと食べてしまおうとメニューを手に取った。だが…

お食事
村自慢の羊料理 ……\1480
山ブリ虫の特製シチュー ……\1280
ほしにく ……\150
バラムフィッシュの刺身 ……\1980
付近の海直送 うまい魚〜これを食べれば今にも死にそうな人だって元気一杯!〜 \500
ベヒーモステーキ \4800

お飲物
ポーション ……\50
エーテル ……\1500
エリクサー ……\50000
気合充填ドリンクゴールドセット ……\200

…何だこれは? 何やら見た事のない料理がずらずらと並んでいる。唯一正体が分かるのは「村自慢の羊料理」くらいなもので、後は材料が何であるかすら見当がつかない。
あまりの怪しい雰囲気に男は戸惑った。ああ、さっき奥のカレー屋に入っておけば。だが時既に遅し。自分はもう席についている。もう一分もしない内に店の人が注文を聞きにくる!
改めてメニューに目を落とすが、正直、「これは安心だ」と食べられる様なものがありそうにない。こうなったら安い飲み物一つでも注文してさっさと出るのも手かなと考えていたその時、男の目にあるものが入ってきた。

サイドメニュー
妄想 ……時価
歪曲 ……時価
愚痴 ……時価
俺的事典 ……時価  New!!【FF1・2始めました!】

…怪しい。これは怪しすぎる。飲食店にあるまじき文字の羅列を目の当たりにして、遂に男は無言で店を立ち去る決意を固めた。なるべく静かに、自分の存在を悟られない様に椅子を引いて――

店員「ご注文は何になさいますかあー?」

しまった。店の人が注文を取りに来てしまった。最早この店は自分に退席のタイミングを与えてはくれない。人一倍頑固な男は、実は人一倍他人に対して気弱な男でもあった。
肩を落としつつ、しかし今一番気になっている事を店員に聞く。

男「あの…この『サイドメニュー』というのは?」
店「『サイドメニュー』になっておりますが」
男「いやいや、だから、これは具体的にはどういう…?」
店「お客様にお食事以外のサービスをご提供しています」
男「……じゃあ、この【FF1・2始めました!】っていうのは?」
店「はい、当店では本日より俺的事典におけるFF1とFF2の取り扱いを始めさせて戴きました!」
男「いやいや、そうじゃなくて、つまりこれはどういう意味?」
店「お客様がFF1とFF2もご堪能戴ける様になります」

駄目だこれは。埒が明かない。
店員とのコミュニケーションを断念した男は、一刻も早くこの店を後にする事にして、ここで最も安いポーションを頼み注文を終えた。
ほどなくしてポーションが来た。案外見た目は爽やかだ。そして一口。
まずい。



08/01/12(土) 第958回 オリジナルが最初にあこがれる人の痛み

取り敢えず、昨日の混沌を目の当たりにさせてしまった方々には申し訳ないと言いたい。あれは一体どうしてああいう風になってしまったのだろうか。
書いている途中でこれはあまりまとまりのない仕上がりになってしまいそうだなあという事が分かっていたのだが、止められなかった。既にその時には店に入るくらいまで文章が出来上がってしまっており、実話でもないあんな話に元々考えていたのとは別の気の利いたオチを付けるなんて事は出来なかったからである。かと言って書き直すには時間が勿体ないし、ここまで書き上げたものを消してしまうのも勿体ない。なもんで、あまり気乗りはしなかったのだがそのまま続きを書く事にしたのだ。
したらまあ、あの体たらくだった訳だ。もうちょっとコンパクトにして見た目だけでもさっぱりさせれば印象は随分違ったと思うのに。
でもこの世の中、上には上がいるもので、今日雑談掲示板の方に多数投稿されていた文章はそれはそれは凄いものであった。一部抜粋。

ほこりっぽい履歴開かれて、あなたをもたらす史家イヴァリース本土では過去のです。
両大戦間の紛争では、少年には、 2つの歴史が変更されました。 1つは、臨時の知恵dilida 、
ラムサールは、正義だ。彼ら貴族不当な戦争を挑発されている検索の真実は、
ことが判明した高齢者の自信を持つが、持ち株の手には、罰金的な響きの名前聖石の宝物は、
生き馬の目を抜くの特徴の一つである獣のは、おそらくこれが、彼らの崇高なバトンとは、本質的に華美なローブです。

詰まる所、履歴には埃が被っており、紛争においてラムサール条約は正義であり、戦争の影で自信ありげな高齢者が暗躍しており、違法な宝物は持株会社の手に渡って生き馬の目を抜き、恐らくバトンはローブという事。FFTである。
昨日の混沌っ振りもそこそこだったが、私もまだまだだな。もっと精進せねば。ってか、これ何処の翻訳よ。

という事で遅ればせながら、昨日から「俺的事典」におけるFF1、FF2の単語の掲載を始めた。
結局巻末インデックス付きの攻略本は買わなかったので今回は単語のまとめから始めたが、実際にやってみて記憶にない単語の多さに驚いた。これまでも、特にFF4とかFF5とかを中心に細かい単語とかを覚えていなかった事は多々あったが、FC作品はこれまで掲載対称にしていた作品と比べ明らかにその量が多い。これが時代か。忘れるものだなあ。しかも、忘れたからと調べようとも、原則オリジナル版に準拠した突っ込みを入れる事にしている私にとって、FC版よりもよっぽどGBA版とかPS版とかの関連サイトがヒットする状況がFF1・2を扱う上では少々大変である。スクウェア陣のリメイク乱発姿勢のせいで。スクウェア陣のお手軽小金儲けのせいで。

この分だと、まだ調べ始めてないけど、FF3も相当苦戦する事が予想される。1年半前なら、DS版などというノイズが引っ掛かってくる事なんてなかったのに。



08/01/13(日) 第959回 供給者と被供給者とのすれ違い

しかし、これで「俺的事典」ではFF11を除き全てのナンバリングタイトルを網羅出来た訳だが、これは素直に「めでたしめでたし」と言えるかというと少し事情が違う。
需要である。FF1〜3だけを扱わないのはどうかと常々思っていたからこうして始めてはみたが、果たしてどれだけの人がFF1やFF2の、それも時にマイナーすぎる言葉が登場する事に期待を寄せられると言うのか。一般にFFの中で1、2を争う人気と言われるFF7やFF10のものならまだしも、20年前の産物である作品を取り上げる事にどれだけの人が肯定的でいてくれるだろうか。まあそんな事を言い始めたら例え最新作のFF12だろうが「66Eエリア 01号室」などという幾ら何でもマニアック過ぎる単語ばかりを扱う様ならそんなサイトには用がない訳であるが、それでも一般的にはより近い時代のものほど需要が高くなる傾向が強い筈である。FF1やFF2が時代の壁を越えて熱狂的な人気に恵まれているという話も特には聞かないし。だから、一旦始めたからには止めはしないが、今回の事は「閲覧側の満足度」という観点から言えば必ずしもプラスではなかったのではなかろうかと思っているのである。

この問題の原因の一端は、10日区切りで単語選別対象作品を2作品ずつ順番に回している今の更新スタイルにもある。現在更新対象となっている作品は1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,10-2,12,Tの13作なので、ある作品の単語を10日掲載し終わると、次にその作品の番が巡ってくるまでに60〜70日もかかってしまうのだ。いないとは思うが、もしか当サイトの常連さんの中にFFのある1作品だけが好きで好きでたまらなく、他の諸々の作品が嫌いで嫌いでたまらなく、とにかくそれがFF7ならFF7に関する更新だけを楽しみにしている変人のお方がおられるとすれば、その人は「俺的事典」にFF7の単語が掲載される夢の様な期間が過ぎるとその後は実に悶々とした気分で2ヶ月近くもの時を過ごさなくてはならないのである。その間はここに来なければいいではないかと思われる方もいるかもしれないが、流石に2ヶ月来ないとなるとその内「俺的事典」の事なんぞうっかり忘れてしまい、思い出した時には既に次のFF7掲載期間を過ぎてしまってたりするかもしれず、仮にそうなってしまうと今や2000語を軽く超えたログの中から根気良く新たに追加された単語を探し出す拷問の様な作業に明け暮れなくてはならなくなる。これがまた、2ヶ月という期間のやっかいな所なのだ。
FF12が参加する前はサイクルが40〜50日と、これでさえまあ十分長いとは言えたが、ここにきてそれはいよいよ際立ってきた。こうなったら全作品の単語を十把一絡げにして20000語くらいになりそうな数の中から抽選を行うスタイルに変えようかと思ったのだが、そうすると単語数の多い作品の登場回数が必然的に増え、場合によっては作品間に7倍ほどの掲載頻度の差が出て来てしまう事になり、これは出来れば避けたい。だったら10日のサイクルを2、3日、何だったら1日毎にどんどん回していく様にするかなあと、今思案している最中である。取り敢えず新参のFF3までを10語か20語ずつ載せてから考えるとするか。
何にせよ、訪問者を最大限満足させるべき立場にある人間としては、「サイトにとってはプラスだが、見る側からすればそうではないかもしれない」ものについての扱い方を考えていかなければならない。もっとも、今になって突然それらの需要が高まったりすればこの様に悩んだりする事もなくなるのであるが。

うむ、そういう事なら致し方あるまい。今しばらくスクウェア陣には初期FFのリメイクを乱発してもらって、新たなファン層の獲得に努めてもらうとするか。
手始めにDS版FF1・2辺りをお願いします。



08/01/14(月) 第960回 新興宗教

ウィンドウズの「ゲーム」フォルダにデフォルトで入っている事で知られる「マインスイーパ」 要は地雷を踏まない様にしながら全マスを踏破するゲームであるが、このゲームの仕様として「最初の一手では絶対に地雷を踏まない」というルールがある事は有名である。難易度によって数の違う、幾つもあるマスの、何処を踏んでもそれが第一歩である限りゲームは終わらないのだ。
私はこれを神の慈悲だと考えている。地雷が埋まっている場所はゲーム開始前には決まっている筈で、当然プレイヤーの中には一手目で早くも地雷のあるマスを踏んでしまう者もいる筈だが、現実にはそうはならない。つまりこれは神が、地雷に関するヒントを何一つ与えられていない状態であったにもかかわらず勘だけを頼りにある地点を踏みしめ死んでしまう人間を忍びなく思ったが為に、救済措置として我々の命を救ってくれているのではないのだろうか。正真正銘、何も出来る事のない最初の決断において、運だけで生死が分かたれる不条理な運命を嘆いた神の思し召しである。

ところで「マインスイーパ」には、そのマスに地雷があるかどうか分かる様になる裏技がある事も広く知られている。使うと「マインスイーパ」の面白味が根こそぎ奪われてしまうというある意味凶悪な技であるが、これで試しに、本当に地雷のマスを踏んでもそれが一手目ならば助かるのかどうかを検証してみた。ゲームを起動させ、速やかにコマンドを入力し、適当な地雷のあるマスを踏む。すると確かにゲームオーバーにはならず、そのマスには普通に周囲にある地雷の数を示す数字が表示された。神は確かにいるのだ。
更に調べてみた所、一手目で地雷を踏んだ場合、全ての地雷の位置が再配置されるのではなく、足元にあった地雷のみ別の(最も左上の?)マスに再配置される事が判明した。まるでその地雷だけが意思を持って動いているかの様に…
ん、という事は?

ここに、「地雷=神」説が浮上した。


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