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07/12/26(水) 第941回 異世界プレゼンテーション

まずい。現在鋭意プレイ中のトルネコ3異世界の迷宮ポポロ編が楽しくてたまらない。この間遂に念願の20階突破を果たしてこのダンジョンの真髄を味わってしまってからというもの暇があればプレイしたくなってうずうずしてしまう。そして私はまた26階までふらっと足を伸ばしてしまったのであった。
異世界の迷宮の魔力は凄まじい。2002年のゲームが今更私の心を掴んでいるという事実そのものも凄まじいが、その本当の凄さというものはそんな時代観念とは全く別の所にある。少し列挙してみよう。
これにポポロ特性として盾装備不可、武器はうみどりの爪限定(攻撃力1)、巻物使用不可、矢使用不可などの制限が加わる。
思い返せば辛酸を嘗めさせられた経験の連続である。上記にある通りこれまで20Fを突破した事は二度しかなく、その影には数々の悲劇があった。「これさえ当たれば勝てる」と思いながら繰り出した一手が空振りしたりするなんてのはいつもの事。混乱した仲間に殴り殺されるのだってタップペンギーの前には日常茶飯事。ピンチに陥って飲んだ弟切草がひとくいばこでアウト。腹が減って食べた最後のパンがひとくいばこで餓死。操作ミスで店長のガーゴイルにバーサーカーの種を投げてしまう…などなど。
苦労も絶えない。各階を罠チェック込みでじっくり探索する為には満腹度0状態でHPをホイミスライムに回復してもらいながら歩き回る事がよくあるが、そのホイミスライムが一度の冒険で3匹も4匹も仲間になる事があれば何匹倒そうが一向に起き上がってきてくれない事もある。そもそも仲間の勧誘状況がその後の難易度に直接影響するポポロ編にあって、起き上がってくれなくてもいい魔物ばかりが起き上がって本当に仲間に欲しい面々が全くもって起き上がってくれないなんて事はザラだ。
んで、たった一手で死に瀕する危険が満載なのも難度を際立たせている理由の一つだ。ほぼ丸腰のポポロにとって魔物召喚罠なぞ踏んでしまえばそれだけで死ねる。ワープ罠で仲間とはぐれてしまったらもう死ねる。先に満腹度0状態を保ったまま探索を行う旨述べたが、その状況では大型地雷一発で正真正銘死ねる(HP1→腹減り)。

とまあ、こんな感じのトルネコ3異世界の迷宮ポポロ編。私がどっぷりとはまり込んだその理由の一端でもお伝え出来ただろうか。これは是非来年、皆様にもやってもらいたいゲームだね。


クソゲーじゃないよ。



07/12/27(木) 第942回 タンパク質を愛した男

ふとして左手の親指の爪を見るとおかしな隆起がそこにあった。
その隆起は爪の中ほどに、爪を横切る様にふた山あって、爪の先端のカーブとほぼ並行に走っていた。
手で触ってもはっきりと盛り上がっているのが分かる。私は言い知れぬ不安に襲われた。原因不明の現象。何らかの外圧が加わって内側にへこんでいるのなら分からなくもないのに明らかに外側に突き出ているのだ。爪が。それも二ヶ所。あまりに不思議な光景に、これはもしや何かよろしくない病気なのではと思ったりもした。だがその爪は、私に痛みを与えるなどして異常を訴え掛ける様子もなければ、見る見る内に余計盛り上がって事態を悪化させる様子もなく、ただそこにあった。いざ自分の爪が盛り上がって分かった事だが、日常生活に支障が生じる様でなければ爪の隆起などというものは割と無視出来る些細な問題である。それに、言ってしまえばその部位はただ多少変形した爪なのであって、たかがそんな事の為に誰かにその旨相談したりするのもはばかられた。だから、正直気になって仕方はないが、あまり構わない様に努めようと思ったのである。
しばらく日が経って、何の気なしに爪を見てみると、隆起した部分は初めてそれに気付いた時よりも気持ち上の方へ移動していた。爪が伸びたのである。なるほど。依然として隆起の原因は不明だったが、ある程度時間を置けば最終的にはこの不安の基を除去してしまえる。その事実に気付いてから、私はその日を待ち遠しく思う様になったのだった。
日に日に先端の方へと上り詰めていく謎の盛り上がり。爪の伸び具合など、一日単位で見てはっきりと分かるものではないが、それでも私は早くこの隆起と決別したい一心で、毎日左親指の爪の具合を確認し続けた。人生においてあれだけ爪の成長について意識的になったのは初めてである。いつもは気付いたら爪切りが必要な状態になっているくらい爪についてはずぼらだったのに、あの頃は何かにつけて爪の状態を確認したものである。
何日かごとに、目に見えて隆起部分が上昇したのを確認していると、その内私は、何というか、その爪に特別な感情を抱く様になった。日々少しずつ伸びていく爪と、その伸び具合を気にかける自分。順調に成長していると嬉しくなり、そうでなければ先々の伸びっぷりが楽しみになった。何かの拍子でこの隆起が失われては最後にそれを切除するという目標もなくなってしまうからと必要以上に気を使い、保護に努めた。即ち母性である。爪とは、自分のDNAを分けたという意味では正に子供と同じ己の「分身」だ。つまり爪の成長を待ち望み、爪の成長を喜ぶとは、自身の子供の成長を喜ぶ事と同じ。私は、今必死になって自身の中の膿を出そうとしている爪を、毎日毎日一番近い所から見守ってきて、愚痴一つ垂れず文句一つ言わず、弱音も吐かないその健気さに愛おしさを感じたのであった。
それから数週間、我が愛しの左親指爪は遂に問題の隆起を指の外側へと追いやった。頑張った。よくやった。後は親たる私がそっと手を差し伸べるだけだ。
その夜、膿は取り除かれた。およそ二ヶ月にわたる戦いに終止符が打たれた瞬間である。
だが、私の胸の内は本懐を遂げた嬉しさに満ちてなどいなかった。私は気付いたのだ。今私の身体から離れたおかしな形状のこの爪も、私の愛した左親指爪の、れっきとした一部なのだと。何という事だ。私は、ただそれが、周りとは違った外見を有しているというだけで、これといった不都合もないのに辛く当たってしまった。差別はすまい、差別はいけないと心では思っていながら、しかし無意識に差別してしまっていたのだ。爪は、何一つ悪くなかったのに。そして私は誓うのであった。この償いは一生をかけて行うと。必ずや後世に私の無知と、非道と、そして君の存在を語り継いでいこうと。

次の日を迎えると、私の爪への愛は冷めた。
それもその筈である。今そこにあるのはただの爪なのだ。



07/12/28(金) 第943回 豚肉

一貫性があるかないか、という話だったら、それはあった方がいいと誰もが言うだろう。誰だって、他人への態度や仕事への取り組み方、或いはちょっとした趣向や物事の考え方などがコロコロ変わる人間よりは、一本芯の通った、周りの環境に流される事のない人間の方がいいだろうし、また自分もその様な人間でありたいと思う筈である。
という訳で、明日からは「豚汁」の事を「ぶたじる」と読もう。さもなければ明日から「豚肉」は「とんにく」である。

明日からの人生が、また一つ素晴らしくなる様に。



07/12/29(土) 第944回 豚の汁戦争

さて皆さん、「豚汁」を「ぶたじる」と読んでいますか? 読んでいる人は、素晴らしい人生を送っている人。そうでない人は、素晴らしい人生を送れていない人。元々「ぶたじる」と読んでいた人は、その事を自覚してより素晴らしい人生を送れる様になった人です。

ところで、我が家では昔から「豚汁」を「ぶたじる」と読んでいた。父も母も、祖父も祖母もである。更に人様の家で豚汁をご馳走になるという経験はなく、ましてや友達と豚汁の話題で盛り上がったりした事もなかったので、幼少の頃から「ぶたじる」「ぶたじる」と言われ続けてきた私の中では「豚汁」は当然「ぶたじる」と読むものだと思い込む様になった。
しかし少し成長してテレビをよく見る様になると、稀に豚汁の話題が登場する事もあり、それを目にしたりした。グルメ番組か何かでいかにも美味しそうな豚汁が食膳に出されては、宍戸錠あたりの人がいかにも美味しそうにそれを食す訳だが、すると宍戸錠は決まってこう言うのであった。「この『とんじる』美味しいですねえ」
「とんじる」 それが「豚汁」を意味する言葉だという事は流石に分かったが、「豚汁」と言えば「ぶたじる」だと決めてかかっていた私にとってこれは違和感以外の何物でもなかった。だがしかしテレビの中に出て来る人は誰もが、麻木久仁子も石田純一も渡辺正行も山田邦子も生島ヒロシも芳本美代子も国生さゆりも勝俣州和も「豚汁」を「とんじる」と読むのであった。まるで我が家の方がマイノリティーだと言わんばかりに。
我が家の方がマイノリティー。それが事実であると気付いたのはそれからしばらく経ってからの事だった。

とは言えどうも納得が行かない。昨日も言ってた事だが「豚肉」は「ぶたにく」と訓読みしておいて(牛、豚、鶏の三種の中では唯一豚だけが訓読み限定である)どうして「豚汁」では音読みで「とん」となるのか。こんな事を言うと「だったらあんたは『豚骨』を『ぶたぼね』とでも読むのか」という反論が出て来るだろうし、実際私は「豚骨」を「とんこつ」と読んではいるが、「とんじる」への疑問は何も「豚」を「とん」と読む事だけじゃない。そういう風に中途半端に音読みしちゃうもんだから次の訓読み「じる」と噛み合わなくて語感が気持ち悪いではないか。「とんじゅう」と読むならまだしもだ。
ある人は「ぶたじる」という表現が下品に聞こえるから「とんじる」と読むのだと言う。いやいやいや、しれっと言ってくれたがその発言は当の豚さんに相当失礼である事を認識するべきだ。
そしてまたある人はこう言うだろう。「そう読むと決まっているから」 これを言われると議論が議論にならなくなってしまうので禁じ手の様ではあるのだが。
しかしここで、その禁じ手に真っ向から乗っかってこんな衝撃の事実をご提供。

Yahoo!辞書 - 豚汁

「『とん-じる』 ぶたじるに同じ」
この一文は、「とんじる」という読みが「ぶたじる」に追従するものである、もとい追従するものでしかない事を指し示す。「豚汁」の読みは「ぶたじる」の方が正しいのだと、国語辞書が直々に証明した。これで「そう読むと決まっているから」とのたまった連中は目に涙を浮かべながら立ち去らざるを得ないだろう。

マイノリティーだと思われていた一派がよもやのいきなり第一勢力。
さあ皆、立ち上がるなら今だ。より素晴らしい人生を、勝ち取る為に。



07/12/30(日) 第945回 ゴータマ・シッダルタ

さて皆さん、「仏汁」を「ブッダじる」と読んでいますか? 読んでいる人は、悟りを開いた人。そうでない人は、悟りの境地に達していない人。元々「ブッダじる」と読んでいた人は、日本語を勉強し直すと良いでしょう。



07/12/31(月) 第946回 年の瀬もうだうだ

おい、「ブッダじる」とかいう下らん事を書いてたら大晦日になったぞ。どうしてくれる。

今年は随分と忙しくしていた印象の強い年だった。1月中旬に当時2ヶ月放置中だったFF12二周目を再開してみるもすぐにそんな事言ってられなくなっちゃってそこから泥沼の半年中断。でも今振り返ってみれば、今年一番緩い生活を送っていたのが実はその頃で、3月に入るとまるで普段の引き篭もりっ振りを精算するかの様な東奔西走劇を披露。西は広島から東は神奈川までを駆けずり回る生活が3ヶ月か続いてそろそろ疲れが見え隠れしてきた頃にその傾向も落ち着くとしばしの休息。その間にやっとこFF12二周目を終えられたかと思いきや秋口に入ってからは様々な場面で重要な任務を仰せつかり、あれこれと準備したり緊張したりを繰り返している内にもう師走。年の締め括りはこの間、ラスト一週間で怒涛の進みを見せた例の課題にかかり切りで、そして最後は異世界の迷宮浸りと。
一方、色々と変化に富んだ慌しい暮らしに見舞われたお陰で、その分サイトへの関わり方はどうしても薄くなった。まあ、各種コンテンツの惨憺たる状況はこの期に及んで言いもしないが、特に暮れ頃は忙しさで更新を中止したケースも何度かあった。
もっとも、それ自体はしょうがない事だ。前にも言及した事であるが、これしきのサイトの為に実生活を犠牲にするなんて愚行を犯すほど馬鹿ではない。ただ、それならそれで「今年がいまいち振るわなかったのなら来年は頑張ります」と言えればいいのだが、安易にそうと言えない状況だから心苦しい。これも何度か述べてきた様に、来年は新年度を迎える頃に東日本方面への引越しが決まっている為、生活が大幅に変わると決まっているからだ。その結果、今以上に忙しくなるかもしれないし、もしかしたら多少は余裕のある生活が訪れるかもしれない。どう転ぶかは向こうさんへ行ってみなけりゃ分からない。でも多分現実は前者だし、例え後者だとしてもど田舎から都会への移転による生活レベルの激変に慣れるまではいずれにしろ安定した更新は臨めそうにない。
という事は、まあ、残念なお知らせを致しますが、ただいま絶賛更新停止期間最長記録更新中の妄なにがしとか、なにがし曲とかいうコンテンツは、ともすると来年もあまり大きな動きなく年の暮れを迎えてしまいかねないと、そういう事です。
ねえ、出来る事なら、私もこんな暗いお話をして一年を締め括りたくはない。でも思ったんだ。大晦日の今日こういうカミングアウトをしとけば、明日からの正月による浮かれ気分でみんな割と速めにその事を忘れてくれるというか、水に流してくれるんじゃないかって。

これといって特別な事を書いたでもなく、今年の更新はこれにてお終い。2008年も妄想針千本、もとい雑文針千本をどうぞ宜しく。



08/01/01(火) 第947回 2008年・今年の抱負

決断は素早く。
休日も9時には起きる。
散財を控える。
面倒な事を後回しにしない。
「妄想」を更新する。
「歪曲」FF1編を完結させる。
「俺的事典」毎日更新。
積まれる一方のアルティマニア3冊を読む。
雷を克服。
都会に負けない。

うーん、1勝9敗か。



08/01/02(水) 第948回 立ち止まらない人生へ

という事で、どれが「勝」でどれが「負」なのかは皆様のご想像に任せるとして…

実際の所、今年の抱負の本命は昨日挙げたものの最初にあった「決断は素早く」である。
いつもいつもという訳ではないが、ある場面において極めて優柔不断になってしまう事がある。一人でいる時に、ある二つの義務的ではない行為のどちらをこれからやろうか、という選択において、なかなかどちらにも決められないままだらだらとした時間を過ごしてしまう時があるのだ。優柔不断は良い事だとは思ってないから誰かと一緒にいたりする場合は不要なストレスを与えたりしない為にも選択は即座にと心掛けているのだが、私もあまり意志が強い方ではないから一人の時はその意識が薄れてしまう。さしもの状況でもいついつまでにやらなきゃならない事があるなどすれば危機感やらに後押しされて動けもするが、そうでなければ「別に敢えて今やる必要もないしなあ」と考えてしまって、次の一歩が踏み出せない。
そして悪い事にはその傾向は、今悩みの種となっている選択肢が「面倒な事」でない場合でさえ降りかかる。つまり、課題1と課題2とか、掃除と洗濯とか、いずれもいささかの苦痛を伴う「面倒な事」じゃなく、例えば課題1と趣味1とか、趣味1と趣味2とかいう選択においてもいやに迷ってしまったりする事がある訳だ。
一昨日の大晦日もそうだった。あの日は休みで、昼前に起きては昼飯を食ってその後はいつもの様に部屋でごろごろとしていて、流石に一年の最後の日を(そうでなくとも貴重な暇を)こんなにも無為に過ごすのは戴けないと思いながら、夕飯までの数時間を如何にして使うか考えていた。と言っても、根っからの出不精の私である。しかも巷は大晦日。ただでさえ何もないこの町の、私がちょっと足を伸ばしてみようかなどと思う場所、区域、施設にはすべからく人が集中していると予想される。すると私は当然家にいるべきだとされ、必然時間の使い方の選択肢は大幅に狭まる事になる。結局考えた挙句に、「今夜はテレビを見ると想定して、今の内に今日更新分の『雑文』を書いておく」か、「トルネコ3・異世界の迷宮」のどちらかという、いつもの休日と何ら変わらないメニューが取り揃えられるのだった。

さて、問題はここからである。「雑文」は別に今すぐ書く必要に迫られている訳ではないが、当夜はテレビ放送に集中したくなるかもしれず、避けられるなら、テレビを見ながら「雑文」を書くというのは避けたい。でもそんな状況下で「雑文」を書いた経験はこれまで何度でもあるし、どうしてもテレビにかじり付かなければならないというものでもない。そもそも最近は熱中するほど見たいテレビ番組というものもあまりなく、それは大晦日だろうと例外ではないかもしれない。だけれどもどうせ書くのなら今書いておいた方がいいのではないか。いやいや、この間まさに「雑文」に書いた事だが時間的余裕がある状況では筆の進みが著しく遅くなる私の特性を考えると一概にそうとも言えない。さあどうするか。
やってどれだけ自分が楽しめるか、という観点なら間違いなく「雑文<異世界」が成り立つ。だがそれも「じゃあトルネコ3やるか」と決断させるに足る判断材料ではなかった。何故ならば、トルネコ3をプレイする事によって短期的には楽しめたりストレスを発散出来たりしても、どうせ途中で死んでしまって新たなストレスを背負い込む事が決定的だからである。そりゃあプレイする限りはいつだってクリアを目標にして頑張ってはいるが、明らかに私の実力はまだまだ十分なレベルに達してはいない。20階までの死亡率98%という数字がそれを示しているではないか。どうせやってみたってゴーレムかハエまどう辺りに殴り殺される。さもなければホイミンが爆死する。そうなるとどうしても悔しいし、イライラしてしまう。大晦日なのに。非常に荒んだ気持ちで新年を迎えなければならない。それは宜しくないのだ。全くおめでたくないのに「明けましておめでとうございます」とか言えないのだ。まあトルネコ3に安易に手を伸ばしたくなかったのは、その2日前だかに酷い死に方をして少し懲りごりしていたという事もあったとは思うが、ともかくそういう訳でトルネコ3もあの日私の中では「磐石」とは言えなかった。
「雑文」もどうだ。異世界もどうだ。でも他に取り立ててやる事もない。どうしよう。どうしよう。どうしよう。結局その日は「雑文」を早めに書く事で決着したが、そうと決まるまでにたっぷり2時間、ぼやぼやしながら過ごしてしまったのだった。
こうした経験はこれまでに何度もあって、流石に2時間悩むというのはこれまでになかったレベルのものだが、それにしても過去どれだけの時間を無駄にしてしまったのかと思うと後悔してもし切れない。しかし過ぎた時間はもう取り戻しようがない。ならばせめてこれからは、そんな無駄な時間の使い方はすまい。全ての局面で決断は素早く。こうして目標は定められた。

あらゆる分野において、スペシャリストには即断出来る人間である事が重要な素質として求められるという。まあ私が将来ある道のスペシャリストになれるのかどうかは置いておくとしても、即座に考え、その判断を下せる様になる事が人間kemkamの質を上げる事は間違いない。それが延いては、人間kemkamの人生の質をも底上げするのである。
より素晴らしい人生を、勝ち取る為に。ねえ、「豚汁」を「ぶたじる」と読んで満足してちゃ駄目だって事。



08/01/03(木) 第949回 祝いたくない成人式

「積まれる一方のアルティマニア3冊を読む」

これは流石に楽だろう、と思われた方は多かったかもしれない。しかし物事というものはそう簡単には思った通りに動いてくれないのも真理である。私は正直、今年の大晦日を迎えた時点で上記抱負に対し「まあ来年には読みましょう」と敗者の弁を述べている光景がありありと見える。
何しろ、まず、二周目クリア後には読もう読もうと思っていたFF12アルティマニアが、クリアから四ヶ月ほども経つのに全く開かれていない。次に、FF7の10周年記念ポーションに付いて来たA4サイズのアルティマニアも、購入から二ヶ月ほど経つのに全く開かれていない。挙句の果てにはFF7アルティマニアΩが、購入からもう二年にもなろうと言うのに未だ1ページも読まれていない現実がそこにある事である。
よしんば奇跡的な環境の激変による暇と、奇跡的なトルネコ3全ダンジョンクリアによる暇とが重なってこれら三冊の究極書籍を熟読出来たとしても、事態はそれだけでは収まらない。私は見てしまったのだ。株式会社スタジオベントスタッフさんのサイトで発表されていた、FFの20周年を記念して三部作の形態で発売される書籍の存在を。その名も「ファイナルファンタジー 20thアニバーサリー アルティマニア」 FF1からFF12までの全作品を網羅する正にファン垂涎の三冊。それの「キャラクター編」が今月末に発売になるのを皮切りに、三月には「ワールド&ストーリー編」が、五月には「バトル&スペシャル編」が登場するらしいのである。
何というかこれは、欲しいではないか。私も伊達に11以外の全FFに触れてきた訳ではないのだ。最近確かに派生ものの乱発やリメイクの乱発や、しかも今度はFF4の続編がどうたらいう話を聞いたりして多少うんざりしてはいる。だがそれは決して私のFF熱が冷め切ってしまった事を意味するものではない。とにかくこれは「買いだ」と、私の中の何かは言うのだった。
詰まる所、私が読まなければならないアルティマニアは三冊ではなく、事実上六冊だという事である。一挙に倍。ただ今持っている三冊の内、「ファイナルファンタジー7 10thアニバーサリー アルティマニア」はサイズこそデカいが薄めの仕様なので実際は倍以上。希望は一気に失われた。
ただでさえ本六冊というのは多い(生活の中心が読書になるほど時間に余裕のある状況を除き)。それがアルティマニア六冊となるとその多さはどえらい事になる。試しに手元にあるアルティマニア六冊を並べてみた。厚い。今度は縦に積んでみた。高い。尋常じゃない。

FF8,9,10S,10B,10Ω,10-2が織り成す計3344ページの巨塔。仮にこれを一年で読み終えるとすれば、私は1日につき9〜10ページをコンスタントに読了し続けなければならない。基本的に一言一句まで細かく読み解くタチの私が、である。
2008年の3日目が終わりを告げる。残るは363日――



08/01/04(金) 第950回 2008年仕事始め

正月も終わって今日から平日だと言うのにまだ今年の抱負の話を引っ張るつもりである。それと言うのも、本当はそんなつもりじゃなかったのにここ二日で例の十大抱負に関するごたくを並べ立てたので、それだったらもう全部やっちゃおうという事である。でもそれは建前で本当は「休みも終わって(また明日は休みだが)何かとテンションが落ち気味であるから新たにネタを書き起こすのも面倒だし、それだったら過去ネタのリサイクルで今日はひとまず形としよう」などという不届きな考えがあったからである。
とは言っても先の二日とは違って残りの八つにはそれぞれで一ネタ書けるほどの決意のほども思い入れもないので後は箇条書き的にパパッとまとめるに留める事とする。

休日も9時には起きる。
正月三日は10時、11時、11時30分に起きた。夜更かし万歳。夜更かしは人生の友。

散財を控える。
只今、二月下旬としていた次回通販予定日が一ヶ月ばかり早まるかどうかの瀬戸際。誰か物欲を減らす方法を教えてくれ。

面倒な事を後回しにしない。
しないよ。しないとも。ただ後回しにしちゃまずい状況で後回しにするのと、後回しにしてもまだ許容される状況で後回しにするのとは違うだろう?

「妄想」を更新する。
する。出来そうになければ前に言ってた方法を実際に実践する事になるだろう。ってか、流石にこれについて「いや、出来ないかもなあ」とかふざけた事は言えんだろ。

「歪曲」FF1編を完結させる。
これをネタとして受け取ったなら貴方は「妄想針千本」通。

「俺的事典」毎日更新。
まあ無理だ。どう頑張っても引越しで二日以上は取られる。

雷を克服。

都会に負けない。
「決断は素早く」に並ぶ、私にとっての2008年の大テーマ。恐らく今年の大晦日には、大都会の喧騒とか混雑とか、その他諸々の雰囲気について振り返って述べる私がいるだろう。その時に「意外とすんなり馴染めた」と書ける事を願うばかり。
でも現実は「やっぱり田舎暮らしが一番」だったり「水が合わない」だったり「もう人ごみは見たくない」だったりするのか。するわな。ただ漫然と暮らすだけじゃなくて、都会の都会なりの良さを見付ける様に心掛けなきゃならんか。とにかく、今は不安でしかない。

という事で、本日は簡単にて失礼。正月が終わって気落ちに歯止めがかからなく今はどんな冗談も自分を苛立たせる材料にしかなり得ないほど心が荒んでいるそこの貴方も今日はこんな場末の雑文をあまりじっくり読もうとなんてせずパパッと読んで颯爽と立ち去り今日の所はさっさと寝るべし。
そして、今日休みを取っていて正月を挟んだ大型連休を作っていた人は私の敵。


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