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08/02/28(木) 第1001回 リメイク

申し訳ありませんでした。

と、冒頭から失礼。だが私は謝らなければならない。あまりに現状に甘え過ぎてしまっていたと。
確かに、サイトの運営を逐次行っていくには辛い状況ではあった。その最たるものが日々繰り返される片道三時間の移動生活だ。距離にして100km。何処をどう見ても無茶苦茶にしか思えない生活サイクル設定になってから、それでももうひと月も経ってしまったが、しばらくすれば慣れるかななんてとんでもないとんでもない。今もってそれは重労働である。苦痛である。苦行である。
なのでまあ、そんな状況に置かれている実情にかまけて「いやあ、ちょっとサイトを更新する時間なんてないよね」とか言ったとしても、実に心優しい皆様の事なので、それを快く受け入れてもらえるだろうとは正直な所思っていたとも。で、厚かましくもその好意にすがっていたとも。でもそんな状況も二ヶ月か続いちゃうと、流石に危機感を覚え始めてきたのだ。まずい、このままじゃその内完全放置状態になってしまって、行く行くは人知れず姿を消してしまう事が目に見えている。そうなってしまわない為にも、定期的にこのサイトがまだちゃんと生きているという事をはっきりと訪問者に示せる様にしなくては。そしてその役目を果たすにはMIDIは不十分だ。大体に、現時点での主力更新対象たるMIDIが日常の忙しさによって作られなくなったから今の惨状があるんじゃないか。この危機を救う俺のメシアはMIDIなんぞではないのだ。それよりももっとこう、全く気張らずに適当な気持ちでパソコンの前に向かっていればその内に一回の更新分が出来てしまう様なものであるべきだ。そうだろう、俺のメシア。

という事で、前置きが長くなったが、本日よりここに新コンテンツ「日誌」をスタートする。当コンテンツのコンセプトは極めて単純である。「何か適当に思った事を適当に書き殴る」 まあいわゆる「日記」であるが、本当に単なる普通の日記だったりする事もあれば、もっと下らない事を書き並べる事もあるだろうと思う。と言うか、内容は何でもいいのだ。サイトの生存状況が訪問者の方々に伝わればそれでいいのだから。後は、書く側が適当に書くなら読む側も適当に読める様なものであれば。
それから、「日誌」と銘打っておきながら更新せずに平然と一日を終える日も頻出するであろう事を予め述べておく。「書いている」筈のものが「書かされている」と思ってしまう様になってはお終いですよ奥さん。それに律儀に毎日更新しなくたって、一日動きがなかったくらいで「おい、閉鎖か?」なんて思う人はまずいない。このサイトのお客さんもバカじゃないんだから。バカじゃ。

とは言うものの、「やる気があるんだぞ! 一応」っていう所を見せる為にも、しばらくは一日一更新を心掛けてやっていきたいと思う次第である。何日持つかな。一ヶ月かな。一週間かそこらかな。早いとこゲームをプレイするだけの余裕を確保出来る様になれば、ネタにも困らないだろうから二ヶ月、いや、三ヶ月も夢じゃないんだけど(笑)



08/03/01(土) 第1002回 もう安易とか言わないなんて言わないよ絶対

という事で前回のは、このコンテンツが当時「日誌」という名でスタートした日に掲載された、記念すべき第1回の文章を今の文章力、今の発想で書いたらどういった感じになるのだろうか、というのを実践してみたものである。
ちなみに、これが当時の文章。是非見比べてみて戴きたい。あれから3年9ヶ月、1000余本の文章を書いた人間は具体的にはこう変わる。もっともただ「日誌始めました」と報告する事が主体の第1回と、基本的にふざけた事を書きたい一心の第1001回とではもはや公平に比べられる要素がないのであるが。
ところで、過去のネタを再登用させてみて思った事がある。第1回の文章を今のノリで何とかネタに昇華可能だとするなら、これまで書いた1000本の文章を逐次リメイクさせていけば驚くべき事に私には都合999個ものネタが降って湧く事になるのではないかと。第1002回には第2回の、第1100には第100回の、そして第2000回には第1000回のネタをリメイクする事で、何と私は向こう4年間、「雑文」におけるネタ不足に悩まなくて済むのである。これは画期的なアイデア。私は早速とばかりに実行に移そうとした。しかし、ふと気が付いた。まだネタ的要素のほとんど見られない最初期の文章については比較的簡単にリメイク出来るかもしれない。「ネタでないもの」を「ネタ」にするのである。これは言ってしまえばどんな改変も許されるという事であり、つまり引き出しは沢山あると言えるのだ。だが第200回近辺から徐々に増加し始めた元々がネタ満載の文章を同様に改変するとなると話は容易ではない。何しろ原文がネタであるものをあくまでもネタとして書き直す訳で、その為にはそのテーマについて違った角度から切り込む必要がある訳で、にもかかわらず書き手は私一人であり、それが為にそうそう簡単に同じテーマで新たな発想が得られるとは思えないからだ。特に一つのネタとして完成されているものなんてのは付け入る余地がないと言うか、最も手軽な改訂手段である「改善」を封じられてしまった私の苦悩が見える様である。何が楽しくて、過去の自分を超えるなどという少年漫画的展開に自ら足を突っ込まなくてはならないというのだ。

こういう事を考えると、リメイクってのは難しいもんだとつくづく思わされるのである。つまり突き詰めていくと、近年そのリメイクを中心とした経営戦略を敷いているスクウェア・エニックスさんなんてのは、やはり凄いメーカーなんだなと思う訳である。例え従来の作品にシナリオクリア後の新ダンジョンと幾つかのイベントを追加しただけのバージョンアップ版を「リメイク」と呼んでいたとしてもだ。例えそれら後発のリメイク版が改悪だ改悪だと言われ続けたりしたとしてもだ。例え、リメイク版を制作する事が決定した時点の社内にはもうオリジナル版制作に関わった人間がいなかったとしてもだ。
私は、ここにまたスクウェア・エニックスの魅力を感じた。



08/03/02(日) 第1003回 雑文針二千本(仮)

妙案が浮かんだ。何もネタを新たなネタとして生まれ変わらせる必要はないのだ。元がネタ臭満載の文章だとしたら、それをネタなしの日記的文章に改変させれば、己の発想の貧困さにあえぐ事もないではないか。やってみた。


遂にやりました! 遂にこの時が来てしまいました! 思い返せばあれは2004年の5月7日、まだこのサイトが一般公開すらされていなかった頃にひっそりと始まった「日誌」というコンテンツが、サイト公開後、いつしか「雑文」へと名を変えながらコツコツ書き溜められ続けた果てに本日、累計1000回目という大台に達する事となったのです!
思い返せば色々ありましたね。最初期は、このサイト唯一の生命線として機能していたのが、サイト公開を始めてしばらく続いた勢いのある内は、メインコンテンツたる「妄想」とかの縁の下の力持ちとして定期更新の支えとなって、その勢いが失われつつある今は再び、「日誌」立ち上げ当初の立ち位置に戻った感じになっている。ただ、中でも私にとって印象深いのは、サイト公開に至るまでに積み上げた127回分の文章でしょうか。あれは、ほぼ誰の目にも晒されない状況下で書かれ続けた延べ127日の記録。もしあの時、何のリアクションも望めないにもかかわらず報われない作業に従事している事に少しでも嫌気が差していたとしたら、今こうして1000本目の日誌を書く私はいませんでした。それどころか、「妄想針千本」というサイトも最早存在しませんでした。そう考えると、あの無駄に思えた時間も決して無駄ではありませんでしたし、今となってはああいった下積みの様な時期を設けた事が正解だったと言えます。これからサイトを運営していくに当たり、様々な弊害が降りかかるでしょう。それは或いは、これまでに類のない大問題かもしれません。でもその様な壁にぶつかって、心が少し挫折へと傾きかけた時に、あの孤独な日誌書きでいた時の事を思い出せば、私は立ち直れる。誰かに語りかける様に書いていながら、その実誰にも見られなくたって半年近くもの間やってこれたのですから、少なくとも見ていて下さる方がいらっしゃればただそれだけで十分やっていける。何だったらまた一人の状況からやり直せばいいのですから。あの期間というのは、今このサイトを運営している私の大きな礎です。

まだまだ当サイトは生きてますが、メインコンテンツの方はと言えば閑古鳥で、もうとっくの昔に更新を止めてしまったサイトであるかの様に見えてしまうのは事実です。ですが、今しばらくはそうした状態が続いてしまうのも致し方ない所だと言わざるを得ません。でもそれ自体はしょうがない事で、受け入れなければならない現実なのですから、ならば私はサイトがその様な状況にある間せめてもの行いとして、これからもまた「雑文」を更新し続ける事でサイトの生存だけは訴え続けていきたいと、訪問者の皆様方に最低限の追加更新だけは提供していきたいと、そう思うのです。願わくは、そうした地道な努力の果てに、「雑文」第2000回の高みが覗かれる事を。

って、そんな事言ったら向こう1000日はメインコンテンツを更新しませんよと宣言している様ですが。


こんな感じか。でもやっぱりこうして見ると、あの当時の自分にはなり切れんなあ。途中からオチの一文を想定した話運びをしちゃってる所とか。
もうあの頃には戻れない。



08/03/03(月) 第1004回 「1004」

名誉の戦死者をここに述べる。(各部署につき一名・敬称略)

勇者ロトの末裔
ローレシア王子
ポカパマズさんの息子
きこりと天空人の子
光の戦士達
フリオニール
孤児
ドラえもん
じゃじゃ丸
マリオ
タマゴン
マッピー
デーモン小暮閣下
所ジョージ
孫悟空
ヨッシー
市民
トンヌラ
ガイラ
セシル
バッツ
ティナ
リンク
ボンバーマン
シフ
アバロン皇帝
ユリアン
ランディ
デュラン
トルネコ
ドンキーコングJr
クロノ
ロックマン
フィン
アルス
クラウド
スコール
ジタン
クリス
レオン
ジル
ブルース
レジーナ
セルジュ
ラムザ
マーシュ
トロデーン王国近衛兵
ティーダ
ユウナ
ヴァン
スネーク
ポポロ

以上の者を二階級特進とする。



08/03/04(火) 第1005回 貴方の知る貴方の知らない世界

大抵のゲームにおいてその流れの大筋は決まり切っているものである。初めに何らかの(こと主人公にとって不都合な)問題が起こって、主人公なりその仲間達なりが当該の問題の解決に向け奮闘し、最終的に問題は取り除かれてハッピーエンド。といった感じだ。例えばそれがマリオシリーズなら、ピーチ姫がクッパにさらわれたという問題に対してマリオ兄弟が奮闘する事によりピーチ姫を奪還という物語である。またそれが聖飢魔2悪魔の逆襲!なら、バンドメンバー四人が宿敵ゼウスによって捕らわれたという問題に対してデーモン小暮閣下が奮闘する事によりメンバーを救出、悪魔寺での大黒ミサを無事成功させるという物語である。或いはそれがRPGの類なら、作品のテーマたる「問題」が世界的、地球的な事象である場合も少なくはない。
そして大抵のゲームにおいてそれらのストーリーは後日談が語られる事はない。当然であるが。だからそのゲームをプレイしクリアした人間は、金輪際その後の展開が知らされる事はないと知っていながら、時には「その後」の事に思いを馳せたりする。
しかし稀に、一切明かされないのが原則の筈だった「その後の物語」が再び描かれ始める事がある。続編の登場である。スーパーマリオブラザーズにおけるスーパーマリオブラザーズ2。ファイナルファンタジー10におけるファイナルファンタジー10-2。或いは、メタルギアソリッドシリーズの様に初めから続編の存在を示唆する(つまりどうやらハッピーでなさそうな終わり方をする)作品もある。
こうした続編に当たる作品をプレイしていると、驚くべき傾向を見て取る事が出来る。何と、その作品の中ではまた「問題」→「奮闘」→「解決」のくだりが繰り返されていたのだ。ピーチ姫は懲りずに誘拐されたし、ラクーンシティにはウィルスが蔓延、ワイリーはいつぞやの土下座も忘れてまたもや自慢のロボットで世界征服を企んだのである。私は思った。日常は、そして世界は何と波乱に満ちているのだろうと。だって、先の問題が解決の運びになってから一体どれほど経ってからの新展開か知らないが、そんな事を言わずとも誘拐なんて一生に一度経験すれば十分だし、世界各地で次々とウィルスをばら撒かれちゃたまんないし、この世の危機を救ったその僅か二年後にまたもやこの世の危機が訪れるとかあってはならない大事だからだ。しかしそれでも、数多くの続編をプレイしてきた経緯から、こう考えざるを得ない。ゲームの世界では定期的にある一定の規模の事件が起きる。これは、私のプレイした全ての続編に当てはまった事実から導き出された結論である。
詰まる所、私は言いたいのはこういう事だ。今現在続編の登場が予定されていない(シリーズ物だが作品間の繋がりがないものを含む)、ハッピーエンドで完結とされた筈の世界においても、また何らかの事件が起きているであろう。サルーインなき世界にはその内より凶悪な邪神が誕生するし、聖飢魔2のメンバーは次のライブ前辺りでまた姿を消すし、団を解散しそれぞれの道を歩む事になったユウナ、リュック、パインの三人は今後一、二年の内に再び結集しなければならない事情を抱える事になるのだ。
恐ろしい事には、それら世界に真の平和が訪れる事は決してない。ピーチ姫はいくつになってもさらわれ続け、トルネコ親子が不思議のダンジョンの呪縛を解く事は叶わず、一度でも世界滅亡の危機を経験してしまった世界は以後定期的に同レベルの脅威に晒されてしまう運命なのだ。

永遠に抜け出せない血の輪廻。また明日も何処かの世界が、この運命に引き込まれる。



08/03/05(水) 第1006回 神になる事の代償

ところで、ゲームの世界では一定期間毎に延々と何らかの事態が巻き起こる事が示されたが、具体的にどういった事が起こるかについての運命まで決まっている訳ではない。何故ならば、FF10が発売された当時にヴェグナガンという単語を知る人間はいなかっただろうし、そもそも初作の売上げが悪ければ仮に続編が予定されていたとしてもその話ごと消滅する場合があるし、制作途中ででもシナリオの大筋が大幅に変更されるケースはあり得る事だからだ。
つまり、「何かが起こる」運命である事は揺るぎないが、「何が起こるか」は未定である。踏み込んで言えば、それが決まるのは続編の制作が正式決定した瞬間であり、企画がまとまった瞬間であり、開発におけるあらゆる段階においてである。
だとすれば、いわゆる「初作」に登場したキャラクターは気が気じゃあるまいな。近い内にまた世界の危機が訪れるのは避けられないが、それに立ち向かう過程で自分にどんな不幸が降りかかるのか、その決定権の全てを開発スタッフが握っているんだもんな。前作で活躍したキャラクターが続編で死ぬケースは珍しくない。もしかしたら次は自分が殺されるかもしれない。そんな理不尽な運命を避ける為には、少々のストライキやテロ紛いの行為もある程度はやむを得まいな。

業界が全体的に新作の制作を嫌い、過去のヒット作の続編ばかりを作り、キャラクター達の未来を過度に左右させている今、彼らの憤りは爆発寸前にまで至っていると言える。彼らがその大義の為に、実力行使に出る日はもう遠くないだろう。その時、安パイを失ったゲーム業界は真の意味で危機に陥るだろう。



08/03/07(金) 第1007回 となりのポポロ

誰かがこっそり 小石を裏で見つけて
親父に憧れ 抱き始めたら不思議のダンジョンの
素敵な冒険始まる
となりのポポロ ポポロ  ポポロ ポポロ
文字が読めない 今年で12歳
となりのポポロ ポポロ  ポポロ ポポロ
武器すら扱えない ある武器商人の愛しの息子

スラリン ベスター モンジャにドラきち連れて
ホイミン狙って 7階辺りでしつこく粘ったら
立派な異世界中毒
となりのポポロ ポポロ  ポポロ ポポロ
タップペンギー 増やして稼ぎます
となりのポポロ ポポロ  ポポロ ポポロ
ふと目を離したら、仲間に訪れるペンギン地獄

となりのポポロ ポポロ  ポポロ ポポロ
サンダーラット ゴーレム おおめだま
となりのポポロ ポポロ  ポポロ ポポロ
子供の時にだけ 異常なほど強い不思議な出会い



08/03/08(土) 第1008回 人生で最も身近な寂しさよ

食事をした後に煙草を一服、という人がいる。最近では世間から随分疎まれている存在なのではと思う。一人先に食べ終わってやにわに煙草を取り出すと、食事に同席していた煙草嫌いの人間が言うのである。「人が食べてるのに煙草なんて吸うなよ」 或いはこうだ。「食事時に煙草を吸うなんて信じられんわ」 さもなければ、敢えて何も口にしないまま苦虫を噛み潰した様な顔を密かに浮かべるという仕草を本人に見せるだろう。それだけ今の世は喫煙者に対する風当たりが厳しい。
かくいう私も、飲食直後の喫煙については常々疑問符を浮かべていた。そんなタイミングで吸ってしまっては食事そのものの美味さによる満足感が台無しになってしまうとしか考えられなかったからだ。喉元過ぎれば熱さを忘れるの原理で、飲み込んでしまえば食の質なんてものはないに等しくなってしまうからそんな事を気にする必要なぞないという理論なのだろうか。それとも根っからの煙草好きが乗じて、食後の煙草がまるでデザートであるかの様に作用して、最後にこれで締めないとどうも食べた気になれないという事情があるのだろうか。ともかく、これは煙草好きの人間にしか理解出来ない心情であり、近年輪をかけて食事を重要視する様になってきた私には無縁の行為であると信じて疑わなかった。
だが、灯台下暗しとはよく言ったものである。他人に対して饒舌な人間ほど、自分の事はよく見えていない様で、ふと考えてみれば似た様な行為を自分も日常的に取っている事に気付いたのだ。
無論、私にとってのそれは煙草ではない。では何か。飴である。飴を舐めるのである。食後にである。飴。飴は甘い。甘いは砂糖。砂糖は白い。白いは豆腐。豆腐は四角。死角は見えない。見えないは将来の年金生活。という事で飴は甘いのだが、先の「食事そのものの美味さによる満足感を台無しにしてしまう」という観点から言えば甘ったるい飴はその条件を満たすには十分である。だのに私は飴を舐める。性懲りもなくだ。
もっとも、毎食毎食飴を舐めている訳ではない。少なくとも携行する事はないので、外食の際には舐めない。当然、買い置きがなかったので舐めたくても舐められないケースは結構ある。そうした状況に置かれた時、気付かされるのだ。あ、何だか口元が寂しい。何か口に頬張っていたい。もうちょっと食べたいという意味ではない。そうじゃなくて、すぐ飲み込んでしまえる食べ物じゃなくって、しばらく口を動かしておける何かが欲しい。でもない。何だか物足りない。そして私はそわそわしてしまうのであった。
何という事だ。あれだけ私が理解し難いと雄弁に語った筈の「食後に一服人間」と私との間には何一つ差がなかった。「食後に一服人間」は「食後に一粒人間」の私における飴玉と同じくらいたばこが煙草が好きなだけで、食事自体の満足感とかとは完全に独立した欲求に基づき、気分を落ち着かせる為に煙草を吸っているに過ぎなかったのだ。なーんだ。そういう事ならどんどん吸うと良いよ。

いやいやいやいや。



08/03/09(日) 第1009回 ガムの終わり

ある日私は、手元に飴がなかったので仕方なくガムを噛んでいた。
普段は十数分も噛み続けたら捨てるのであるが、
その日は何の気なしに惰性で噛み続けていたら、
ある時、口の中のガムが、突然分離し始めたかと思えば、
どんなに一つにまとめようと頑張っても泣き別れしてしまうガムの破片達が、
終いには溶けて無くなった。
私は、初めての出来事にしばし唖然としていたが、
何か一つの事をやり遂げた達成感にも満たされていた。
ガムには存在しないものと思っていたよもやのゴール。
それは、数時間以上にも及ぶ死闘に耐える精神力と、
ほんの少しの運に味方された者だけが辿り着く事の許される聖地なのである。



08/03/10(月) 第1010回 零れ落ちたプライド

まだ飴ちゃん談義を続けようとしているのだが。
好きな飴、というものは勿論ある。中でも昔から私が舐めているのが黒飴である。あの黒砂糖の濃厚な甘みが良い。何かこう落ち着いているというか、派手派手しさがない雰囲気も良い。でもバリエーションには乏しいし、濃厚であるが故に一度に幾つか舐めるのには向いていないから、どうも黒飴それだけを買うという行為に出るのには抵抗がある。なのでこれは他の飴と一緒に買うか、あくまでサブ的位置付けにある飴だと言えよう。
飴とは厳密にはカテゴリーが異なるが、事実上同義であるという事なら氷砂糖の魅力を騙らずにはおれまい。あれは一体何だ。極端な事を言ってしまえば単なる砂糖なのに、でも何個食べても飽きない。ちょっとした遠出の際に食べる氷砂糖の美味さもさることながら、家でぼやぼやしながら食っても美味い。よく登山には氷砂糖、なんてのはよく聞くが、そこは氷砂糖、今時分に絶賛自室待機中であっても美味いものは美味い。氷砂糖を果実酒の製造に用いる事を知ったのは実は割と近年の事だったが、酒の苦手な私に言わせてみれば何をふざけた事をと言った感じである(まあ氷砂糖にも果実酒用のものとかがあるんだろうけど)。やはり氷砂糖はそのまま食べてこそ至高だ。でも最近とんとご無沙汰だな。久し振りに食べたい。

で、特に今よく食後のお供になっているのがドロップだ。これはまあ、味にこそ黒飴の様な上品さや氷砂糖の様な控え目さなどのない、言わば子供向けの味になっているのであるが、何しろ味の種類が豊富なものでついつい手が伸びてしまう。とは言うものの、ドロップも氷砂糖同様最近になるまでもう何年も食べていた訳ではなかった。だが、ある時私は見てしまったのである。とあるコンビニに売られていた、袋詰めのドロップを。ドロップと言えば缶に入っているものだとばかり思っていた訳で、そこに現れた袋状のドロップは私に今世紀最大級の衝撃を走らせるには十分な存在だったのだ。ある人は多分、この袋詰めドロップに対してこんな事を言ったりするのだろう。「ドロップは缶でなきゃ」「こんじゃ風情がねえやね」 私もそう思わないではなかった。だが、一粒一粒が密閉された小袋に包まれているが為に、時間が経つに連れ次第に外気に触れてしまい段々ベタベタしてくるという缶詰めドロップの欠点を解消した事実と、「かつての少年時代を思い出して買わずにはいられなくなる商法」に私はうっかり引っ掛かってしまい、二分後には、私は「ドロップ」と書かれたレシートをレジの人から貰っていたのであった。
ドロップなんて何年振りだろうなあ。多少のわくわく感と共に早速開けてみる。だが、そこあったのは少年の頃の輝かしい思い出などではなく、まるで信じ難い光景だった。いちごとか、レモンとか、グレープとか、或いはかつて嫌いで嫌いで仕方なかったハッカとか、そうしたお馴染みの顔触れの中に紛れていたのだ。「チョコ」という奴が。
「チョコ」である。言わずもがなの、「チョコレート」である。ドロップにチョコ味だと。一体何を考えているのだ。ドロップを袋詰めして売り出した事には一定の理解を示した私も、これにばかりは噛み付かざるを得ないとも。チョコはねーって。その袋詰めドロップの詳細をよくよく確かめてみた訳じゃなかったから何処の社の商品だか知んないけど、幾ら子供受けしそうだからって安易にチョコ味を作るとかそれはどうかと思うな。やっぱりドロップって言うとさあ。日本人としてはあの国民的アニメ映画「火垂るの墓」を思い浮かべる訳でしょう。その中で節子がいかにも嬉しそうにドロップを頬張る姿に何かしら思う所があった訳でしょう。そのね、あの作品における重要なアイテムの一つたるドロップにね、チョコ味なんていう風情もへったくれもない味が含まれていてはいけない事だと思うんだよ。そういうさ、広く一般的な国民感情ってものがある以上あの商品を企画した会社さんっていうのは少し配慮が足りなかったんじゃないかと思うなあ。「全てのドロップは『火垂るの墓』ベースである事」と言ってる訳ではないんだよ。各社が各社なりのオリジナリティを出す為にどんどん新しい味を追加したっていい。でもチョコはないわー。もうちょっと思慮ってものが欲しかった。国民としては。だってあれの元ネタになったサクマ式ドロップスの味の種類からしても分かるでしょう。ちょっとほら、貴社の為にWikipediaで引いてきてあげたからちょっと読んでみたらどうだい。ね、味の一覧が書いてあるよ。イチゴ、レモン、オレンジ、パイン、メロン、ハッカ、ブドウ、チョ……

ちょ…ちょ……ちょいと急用を思い出したので本日はこれにて失礼。


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