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08/02/17(日) 第991回 ファンよさらば

世の中には二種類の人間がいる。アクセス数を至上の指標としてサイトを運営している人間と、さしてアクセス数にこだわってはいない人間である。
さて、

「かつてサイトを訪問してくれていた人がいつの頃からか来なくなる」

その前者の人間にとって、サイトを運営にあたりこれほど悲しい出来事もあるまい。誰かに見てもらえればそれでいいという思いで初めたホームページ。しかし人間は欲深い生き物であるから、ある程度の人に見てもらえる様になると今度は継続的に来てもらいたいと思う様になるものだ。そしてそうした人が実際に現れると、それが更なる更新の糧になる。定期的にアクセスしてくれる人をもっと増やそうと奮起する。その努力は、よっぽど間違った方向を向いていない限りは、一定の成果に繋がるものだと思う。
だが現実は甘くはない。ある事柄に強烈な興味を抱くのが人間なら、それらへの興味を(時として些細な事を切っ掛けに、それも急激に)失う事があるのも人間である。サイトへの継続的訪問者は、残念だが増える一方ではない。ある日を境に馴染みの顔が一人減ったりする。気付いてみたら、あの人からのコメントがここ一ヶ月は見られなくなっていた。そして全てのサイト管理者は直面するのだ。ただ頑張るだけでは超えられない一つの限界点に。
一般のサイトだと、そうした限界点は目に付き難いものである。日々誰かによって作られるウェブサイトの大半が一日に数千人や或いは数万人規模、はたまたそれ以上の訪問者を相手にする様な巨大サイトへと成長する事はなく、ほとんどはもっと小規模で、故に多少の訪問者減少傾向が顕著に表れないからである。先日の当サイトアクセス数まとめで見た訪問者減少も、あれは一年分の流れを一気に見てるから辛うじて分かっただけの事で、もっと細かく区切って見ていたとすれば気が付かない程度のものだっただろう。或いは、アクセス解析でも置いて日毎の全アクセスにおける訪問者別の訪問回数だの訪問ペースだのをいちいち分析すればどんなに規模の小さいサイトであろうが何らかの傾向を見出す事は出来るだろうが、たかがサイト運営にそこまでしてしまってはもうある種の狂気だ。大概の人間は(例えとにかくアクセス数を伸ばしたいと思っていたとしても)そこまでの情熱を持ってウェブサイト制作に取り組んでいる訳ではないだろう。つまりこの事は、アクセス数第一を信条としている管理人にとっては大きな問題となる。サイトの訪問者がまだ少ない内は常連訪問者の消失やアクセス数の伸び率の低下などの変化をどうしても見落としがちになってしまうからだ。

しかしその一般には分かり辛い指標を、どんなに小さな規模のものにおいても明確な数値として表すシステムを提供するサービスが存在する。それがYahoo!ブログである。これについてはかつて「雑文」で触れた事がある。そう、「ファン」機能だ。「貴方のブログをこよなく愛し定期的な巡回対象にしていますよ」という意思表示として存在するYahoo!ブログのファン機能。これ即ち自分が作るブログの人気度であり、それは当該ブログの常連訪問者の数とは等価ではないが(何故ならそもそもYahoo!のIDを持った人間でないとファン登録出来ない)、固定客がどの程度いるのかを知る一つの判断材料にはなってくれる。
これなら、日によって大きく波があり短期的な流れではいまいち傾向の掴み難いアクセス数とは違い、自身のサイトが訪問者にとってどのくらい魅力あるものなのかを一目で認識出来る。勿論ここには、以前述べた様にファン数がまだ少ない内から減ってしまったりした時のショックを受け止めなくてはならなくなるかもしれないというリスクはあるのだが、そこは本気でお客を掴みたいと思っている管理人の事だ。多少のファン離れなんてものともせず、すぐにでもその原因を突き止めてその点の改善、及び更なる発展に繋げていってくれる筈である。
その筈であった。だが我々は、またYahoo!ブログのファン機能を提案しそれを実装した人は、ある重大な一つの事実を忘れていた。人間は欲深い生き物であるという事を。普通に、ファン機能などない単なるサイトなら良かった。「ファン」という概念は確かに存在していても目に見えるものではなかったから。しかしそれが「ファン」という項目として数字で目の前に表されると、一部の人間は思ってしまうのであった。この「ファン」とやらはいて当たり前のものである、と。
つまり、そういった類の人によればこうだ。「ファン」という項目があって「ファン登録」という機能があるのだから、私のブログを気に入った人はすべからくこの登録作業をするべきである。勿論大抵はもっと物腰が柔らかだが。場合によっては更に、ファン登録をしてくれた暁には、貴方のブログを私もファン登録する、という旨の文章が続けられる事もある。これは何という事か。「ファン」とは、ただそのブログを好きであるという事とは少し違うものである筈なのに。「ファン」とは、もう少しだけ高尚な思いである筈なのに。特に「ファン登録のお返しに自分もファン登録」というくだりからは、最早数字上のファン数を増やせればそれで満足であるかにさえ思えてくる。実際、ファン数の増加を狙って他人のブログをファン登録する人はいるのではないだろうか。ファン登録の為のファン登録。そうして増えたファンはただの形式的なファンであるかもしれないのに。むしろその可能性の方が高いというのに。
そして「数字上のファン数を増やせさえすればそれでいい」という思いは、こうして集められた「いて当たり前のファン」が減った時、最もあらわになる。その人にとって一番の価値であるファンが目に見えて減ったのだからある程度の憤りを感じたのだろうが、その憤りが直接ブログ上に表出したりする。即ち「何故ファン登録を解除したのか」と怒気を含んで言うのである。驚く事に、そこに「ああ、ファンが減ったのは自分の書く記事がどうにもつまらなかったからなんだな」という自省の念はどう譲歩してみても汲み取れない。あるのは、自分に無断で自分のブログのファンでなくなった事に対する、昨日までファンだった人に対する怒りのみである。そのファン離れした人は、必ずしも本当に自分のブログが好きでファンになってもらった訳ではないのに、ファンを止める事について自身には責任がないと断言しているのだ。

「あって当たり前」 我々が無意識の内にそう思ってしまっているものは身の回りに幾つもある。水道がそうだ。電気がそうだ。車がそうだ。交通網そのものがそうだ。でも、幾らファンの数を明示されたからと言っても、その後ろにある人の心までも「あって当たり前」だと思う人間になってしまいたくはないものだ。
だから、アクセス数の限界に直面した時は、何かの折に常連訪問者が今やアクセスしてくれていない事を知った時は、考えよう。何故客は去ったか。単純な飽きか、何かその人にとって非常に不快に感じられる事でも書いてしまったか、或いは管理人の人間性に愛想を尽かした、管理人のバカさ加減にほとほと呆れた、管理人の変人っ振りにいよいよ腹が立った、管理人の文章があまりに冗長、管理人がゲームにかまけ過ぎ、管理人の名前が無駄に複雑、管理人の考えたサイトサブタイトルが絶望的にダサいなど、理由たり得る要素は挙げていけば幾らでも出て来る。
そして、それら問題点を真摯に受け止め、明日の新規訪問者の心を掴むのである。



08/02/18(月) 第992回 暴慢振舞

昨日の話でいう「ファン第一人間」である所の人が、無断ではなくファンを辞める旨断りを入れられたら一体どう打って出るのだろう。静かに去っていったらいいものをわざわざ「私は今日限りで貴サイトのファンを辞めます」と直々に言われる訳である。無断でファン登録を解除する事に言葉を荒らげるのは褒められたものじゃないが、しかしこれに噛み付いたり不満をたらたら述べたりしない様なら、私はくだんの人達に関する評価を改めなければなるまい。ただただファンの数ばかりを気にかけているかと思いきや礼を重んじる者には真摯で丁寧な対応。全てが自己のルールに基づいている事は言ってしまえば自分勝手極まりないが、見方を変えればファンという概念に対してフェアであり続けるある種のプロ意識の様なものすら見え隠れする。
それに対して私ときたらどうだ。仮に私が「今日で貴方のサイトのファンである事を辞めます」などと言われたら、言葉では「そうですか…でもまあそれも仕方のない事ですよね。今のサイトの状態がこんなでは…」の様に非常に残念であるとの思いを伝え、最後には「これまでありがとうございました」と感謝の気持ちを伝えはすれども、心の中では「いやいや、そんな事わざわざ直接伝えたりしなくても」とか「それは何かの嫌味なのかー」とか思ったりしてしまうし、それから軽く数日は何かにつけて気落ちしてしまう事になる。その間も事あるごとに愚痴をこぼすし、「雑文」の内容も暗い話題が続くだろうし、とにかく精神衛生に悪い状態に陥ってしまうのは避けられまい。じゃあって事で少しでもそうなるのを防ぐ為にと非ファン化宣言をした当人に「そんな事言ってくれなくたって!」と悲痛な思いで苦情を請求しようとも、相手はけんか腰にあからさまな嫌がらせでそんな発言をしたのではなく、確固たる信念によって固められた意思に基づきその様な進言をしたのだという事が言葉の端々から見て取れるだけに安易にそうする事も出来ないのだ。
嗚呼、私は何と未熟な人間なのだ。もっと人として成長しなければならんな……手始めにこのサイトをファン登録制にするか。
「当サイトに二度以上アクセスした者はファン登録する事。ただし一度ファン登録した者の無断解除は認めない」

そして掲示板に続々と湧くファン辞退宣言者。困惑する管理人。妄想針千本の終演は近い。



08/02/19(火) 第993回 歴史の1ページ

FFはあって、DQはない。
FEはあって、MHはない。
FHはあって、KOFはない。

これなーんだ?


正解は……













石油暖房機の種類でしたー!

*「いやいや、問題の趣旨は分かるけど、FHって何よ、FHって
俺「何! 君は知らないのか!? 1993年にアーケードゲームとして稼動し始め、その絶大的人気から翌年にはスーパーファミコン用ソフトととしても発売された伝説の『ファイターズヒストリー』(データイースト)を!!!



08/02/20(水) 第994回 情熱熱風なんとか

そんな訳で家ではファイターズヒストリー式、もとい開放式の石油ファンヒーターを使用しており、この時期なくてはならない生活用品としてバリバリ働いているのだが、如何せんこれの扱いに困ってしまうのであった。
そもそも石油ファンヒーターとはどういうものか大雑把に言うと、灯油を燃料とし、それを燃焼させその熱を内部のファンによって外部へと送り出す仕組みのものである。送風によって熱を外へ出す為、エアコンの如く本体から熱風がのべつ幕なしに出る塩梅だ。
で、それの何が扱い難いのかという話だが、私は別に点火するのに少々技術が必要だとかいう事を言いたいのではない。仮にも電化製品だ。スイッチを押したら二分後には火がついてくれる。じゃあ灯油の補給が難儀なのかと言われても、それも違う。確かに定期的に灯油を入れなければならないのは面倒だが、それはただ面倒なだけで慣れてしまえば扱いに困る様な代物でもない。そうではなく、私が言いたいのはこういう事だ。熱い。
詰まる所、石油ファンヒーターは熱い。有り体に言って、石油ファンヒーターは熱い。そして石油ファンヒーターの熱いが故に、私は困ってしまうのである。いいか、私は別に血迷った訳ではない。暖房器具の一種なら熱くて当然だろうと言いたげなのは貴方のその私を蔑む様な目を見るだけで分かるが、そうではないんだ。
私も歳を取ったもので、近頃はめっきり寒さに弱くなってしまった。小学生時分なんぞは冬でも半袖短パン姿でいた事もあったものだが、今や長袖でいても寒さに震えてしまう。だから部屋に入った後、真っ先にする事は暖房機のスイッチを入れる事だ。そして稼動し始めるまでの二分間を暖房機の真ん前で待つ。だがこれが長い。カップラーメンを作る為の三分間と良い勝負を張るくらい長い。しかしそんな「お預け」の時間がある分、点火した時の喜びはひとしおである。だがしかし、元気良く働き始めた暖房機によって至上の幸福を味わっている筈の私は程なくして思うのである。熱い。
石油ファンヒーターに限らず暖房機から発せられている熱というものはその名の通り熱いものだ。そうでなくては話にならない。しかしその熱は物が燃えるレベルの熱さである為に、直にさらされ続けていては火傷を負いかねない。それが石油ファンヒーターの場合は機械から熱風となって私に押し付けられている訳で、同じ熱さでも一際熱く感じるのだ。勿論、熱ければ暖房機の前から離れればいい。だが厄介なのはここだ。今感じているのは「暑さ」ではなく「熱さ」 それも極めて局所的に感じた「熱さ」に過ぎないから、暖房機の前を避けて直接熱風の来ない場所に退避するとたちまちにして寒くなってきてしまう。寒いのは嫌だ。熱を求めて暖房機の前へ。熱い。
別に直接熱風を受け止めなくとも部屋全体が暖まるまでもう少し我慢すればいいと思われるかもしれない。しかし故あって私の部屋は通気性に富んだ作りになっている為、いつまで経っても部屋はぼんやりとしか温まってくれない。それでは私は永遠に安息の時を得る事が出来ないのだ。暖房機の温度設定を下げてみては? いや、稼動前の外気温が相当低い以上、何度に設定していようが稼動開始直後の奴さんの暴走を止める事は出来まい。では、送風を抑えてみては? 驚く事に我が暖房機には送風に関する設定項目が存在しない。

もどかしい暖房機のジレンマ。私はこうして、暖かくもなく寒くもなく、何とも半端な心地で冬を越すのだ。



08/02/21(木) 第995回 甘蕉論

バナナが好きだ。一時は様々な果物の中でも一番に好きだったくらい好きだ。今ではそうでもなくなってしまったのも、その時期あまりに頻繁にバナナを食した事で多少飽きがきてしまったからではないだろうか。
バナナと一言に行っても、その食べ方には人それぞれの流派があるものである。まず初めに、皮を途中まで剥いて食べるか、或いは全て剥き切ってから食べるか。その昔私は後者の食べ方をしていたものだが、いつしか前者派へと移り変わっていった。また、皮の剥き方一つ取っても三分割するか、四分割するかなどで流儀が分かれるが、これはいざ剥いてみて一剥き目がどの様に剥けたかによる所が大きく、私も常に一定の形に剥く事を意識しているという訳ではない。バナナの筋の様なものを取るかどうかも意見の分かれ所だろう。私は割と丁寧に取り除く方だ。あの筋があるとどうにも食感が悪くなっていけない。だが執拗に筋を取ろうとすると、その分指先が汚れてしまう点が歯痒い。手を汚すまいと皮を残したまま食べようとしているのにそれでは本末転倒である。実際には、あまり神経質にならずにそこそこの段階でさっさと口に頬張ってしまう思い切りの良さが要求される。
一通り食べ終わった後は残された皮を捨てるのみだが、ここでもその捨て方については侃々諤々の議論が行われる事だろう。即ち、ただ単にゴミ箱へ捨てるか、誰かに踏ませて滑らせる目的でそっと道端に置いておくか、のどちらかである。私は生まれてこの方バナナの皮をゴミ箱以外の場所に放置した経験はないが、やはり同様にバナナの皮はゴミ箱に捨てるものだと思っていた方は言うかもしれない。「皮を路上に捨てる奴なんていないって」 だがそれは違う。本当にこの世にバナナの皮を道へ捨てる人間がいなければ、「バナナの皮はとても滑り易い」という事実は我々人間にとってもっとマイナーな存在であった筈だ。しかし現実には日本人の多くが、バナナの皮によって滑って転ぶ人間の姿、その光景を記憶の何処かに持っているものだ。それさえ疑わしいのなら、周りの人間に聞いてみるといい。その人は必ずや「バナナの皮がとても滑り易い」事を知っているし、一度以上はそれを目にしているだろう。それは何故か。バナナの皮を人為的に路上へ置き去る人間がいて、そのバナナの皮を踏んで転ぶ人間がいるからだ。
しかしこれに関して疑問がない訳ではない。人間は足元に黄色く目立つバナナの皮を見過ごしてうかうかと踏んでしまう様な間抜けな生き物ではないのだ。例え道端にバナナの皮があったとしても、大抵の人はそれを避けて通る事が出来るだろう。にもかかわらずほとんどの人にはバナナの皮で滑る人間の光景が記憶にある。これは矛盾しているのだ。私達の極めて高い認識率を考えれば、道に落ちているバナナの皮を意図的に踏んで転んでいる人間が存在するとしか思えない。もっとも現在ではその考えを汲み、バナナの皮を置く人間、そして転ぶ人間、そのどちらもが「お笑い芸人」と呼ばれる類の人間によって意図的に行われているという学説が有力である様なのだが。

でも私はその説には懐疑的だ。
だってお笑いさんがバナナの皮で滑って転ぶとか、ベタ過ぎて見ないでしょ。



08/02/22(金) 第996回 バナナンバナナンバ、ナーナ

「バナナロール」をご存知だろうか。ロールと言ってもロールケーキではなく、バナナクリームをコッペパンで挟んだ菓子パンである。
バナナを使った商品は様々あるが、私はかつてこの「バナナロール」をこよなく愛していた。ただでさえバナナが好きだった私にとってバナナ風味の菓子パンであるというだけでそれは垂涎物の一品だったが、「バナナロール」はただバナナクリームが美味しいだけでなくパンも良かった。具体的には、非常にふっくら感に富んでおり食感が素晴らしかったのだ。パンの食感に関するステータスにもいくつか種類があって、先に挙げたふかふか感の他にもちもち感、パリパリ感、しっとり感など多岐にわたるが、しっとりもちもちしているものよりはもっと乾いた感じのパンの方を好む傾向にある私にとって「バナナロール」のそれはもう文句の付け所のない珠玉の出来具合だったのである。
だがそれも今は昔。いつしか「バナナロール」を店頭で見かける事はなくなった。何分昔の話である為に、何処の会社の製品だったのかもよくは分からない。今はただ、過去の思い出が美化されていけばいくほど記憶の中で感動的な味へと進化を遂げる「バナナロール」を希求して止まなくなるばかりだ。
で、その「バナナロール」が消えたのと入れ替わりに出て来た訳では全然ないのだが、近年のバナナ関連商品で代表的なものと言えばやはり山崎製パンの「まるごとバナナ」だろう。こちらはパンではなくスポンジケーキでバナナ丸ごと一本と生クリームを包んだ、「バナナロール」よりもよっぽどロールケーキっぽい一品であるが、大のバナナ好きだった私はこの「まるごとバナナ」をあまり好んで食べない。それは、以前に比べてバナナ中毒が薄らいだ傾向とは関係のない部分で、である。
「まるごとバナナ」は宜しくない。外装に「要冷蔵」だかと書いてあるが、まずここがダメだ。冷やすとバナナの食感が悪くなってしまう。どういう風に悪くなるか、具体的に説明するのは難しいが、どうも歯応えが悪くなる。常温状態に比べてやや固くなる、と表現するのはちょっと違うか。だがしかし冷やさなければ冷やさないで今度はスポンジ生地とクリームの状態に支障をきたす事になるのが厄介だ。「まるごとバナナ」を構成する三大要素は明らかにその保存方法に関して一貫したベストな方法というものが存在しないのである。そして何より、商品の品質が中のバナナの状態一つで大きく左右されてしまう点が最も痛い。誰しもがバナナの状態について「自分が思う一番の食べ頃」という認識とこだわりを持っているものだが、その点「まるごとバナナ」では購入時に中のバナナの状態を確かめられないが為に、どうしてもギャンブル性をはらんでしまうのである。不景気だ不景気だと言われる昨今、「まるごとバナナ」一つ買うのも楽じゃない。だのに消費者はもしかしたら外れバナナであるかもしれないその「まるごとバナナ」においそれと手を出したりする事は出来ないのである。
その点で、「バナナロール」の安定感は素晴らしい。バナナをバナナのまま扱わず、クリームとして提供した事がもたらした勝利である。

「バナナロール」食いたいなあ。



08/02/23(土) 第997回 





そんな、バナナを半分残しちゃう悪い子のサッちゃんには、端に固い部分がある方の半バナナをあげる。



08/02/25(月) 第998回 本当のスターとは

氷川きよしという演歌歌手がいるが、あの人の存在感は凄まじいものがある。
何を言っているかというと、毎週日曜昼0時15分から放送される「NHKのど自慢」をラジオで聞く事が多いのだが、他の歌手の人がゲストの時は全くそんな事はないのに、氷川きよしがゲストの時は司会の人に紹介される前に「今日は氷川きよしがゲストである」事が分かるのである。改めて言うが、ラジオなのに、である。
考えてみたが、こういうのをいわゆる「オーラ」って言うんだろうな。いるだけで空気が変わるというか。それが電波に乗ってラジオ聴者も感じ取れるのだから、それは並のものじゃない。私自身は演歌にはあまり接点がないから歌手氷川きよしの事はよくよく知らないのだけれど、現実にああいったオーラを感じさせられては彼を稀代の演歌歌手、いや、稀代のエンターテイナーだと表現しなければならないだろうね。その圧倒的存在感は恐らくかの五木ひろし、森進一、或いは北島三郎といった大御所の面々ですら足元にも及ばないであろう。

いやあ、本当にあの空気は何なんだろうね。オープニング曲のタイミングからするとやっぱり舞台上に出て来た所で雰囲気が変わってるんだよな。何と言うか…例えるなら、今週のゲストにご執心のおばちゃん達が一斉に黄色い声援を上げる様な感じ。



08/02/26(火) 第999回 ククク

ククク
クックックッ
クーックックッ
クッククー
クックック
クククー
クククッ
ククク…
クク…ク…
クーッ、クッ、クッ
ク……ク……グ………






08/02/26(火) 第999回 常識が覆る時

人間たる者、一度は宇宙という存在に興味を持ち、惹かれた経験がある筈だ。広大さ、神秘性、現在の科学技術をもってしても未だ明らかとならない謎の数々。地球が誕生する遥か前から存在したのであろう悠久の歴史。その果てには何があるのか。或いは、宇宙人の存在は? テーマは壮大で、そして尽きない。時にその深淵は深く考え込んだ人間を混乱に陥れるし、言い知れぬ不安を抱かせる事もある。だが宇宙というものの果てしなさが人の心を離す事はなく、故に人間はいつの世も宇宙について豊富な想像力とたくましい妄想力を発揮してきた。
その強い興味と弛まぬ試みが、種々の政治的背景にも押され結実した一つの形こそ宇宙渡航である。ガガーリンはボストーク1号で、アラン・シェパードはフリーダム7で宇宙飛行を実現した。そしてアームストロングはアポロ11号で月へと到達した。特に月面着陸の一件は世界中で生放送されたが、私は当時まだ生まれていなかったので当日の騒ぎの模様をよくは知らない。しかしその映像が多くの人々の宇宙観を変えたであろう事は容易に想像される。宇宙は今や手の届かない領域ではない。人類が歩んだ偉大な一歩は、これまで宇宙にさしたる興味を持っていなかった人の心をも掴み、宇宙開発に携わる人間やそれを志す人間を余計に釘付けにさせたのである。
また、現実の科学技術とは別に、そうした時勢の流れは一時空想表現の世界においてもいわゆるブーム的広がりを見せた。映像や文学の分野において、宇宙を題材とした主にSF作品が多く登場したのだ。そうした作品の中でも特に人気を博したものの一つに「銀河鉄道999」がある。

宇宙空間を走り、様々な銀河系の惑星に停車する銀河鉄道999に、そしてその列車に乗って旅する少年・星野鉄郎に憧れた人間は多いのではないか。特に少年諸氏なら、誰しもが内に秘める冒険心や好奇心を奮わせたのではないだろうか。もっともこの物語の主人公・星野鉄郎は、ただ単なる冒険心から銀河鉄道に乗って地球を旅立った訳ではないのだが。
銀河鉄道999の粗筋を追うとこの様な感じである。時は西暦2221年。地球の裕福な人間は自らの魂を機械の身体へと移し変え(こうした人間を機械化人と言う)、不老不死の人生を手に入れていた。しかし主人公・星野鉄郎とその母親は貧しさから、今も機械の身体を手に入れられていなかった。そんな折、鉄郎はこの宇宙に機械の身体をただで手に入れる事が出来る星が存在し、そこには銀河鉄道999号に乗る事で行けるらしいとの話を聞いた。鉄郎は母と共に銀河鉄道999号の発着駅のあるメガロポリスへ行く事を決意したが、その道中で機械伯爵の人間狩り(生身の人間は機械化人によって迫害されている)に遭い母を殺されてしまう。自らも雪原に倒れる鉄郎であったが、彼は運良く生き延びた。メーテルと名乗る謎の女性に助けられたのだ。メーテルは鉄郎に問うた。何故999に乗りたいのかと。そして鉄郎は答えた。機械化人になって、機械伯爵を殺すのだと。するとメーテルは鉄郎に、銀河鉄道999号に乗車出来るパスを渡すのであった。自分を一緒に連れて行ってくれる事を条件に。訝しむ鉄郎だったが、彼はパスを受け取り、そしてメーテルと共に地球を旅立った――
銀河鉄道に乗った鉄郎の目的は必ずしも一貫してはいない。始めは飢えや寒さを感じない身体となって幸せに暮らせる様に、それが旅立ちの時には機械伯爵への敵討ちを果たせる様に。また彼はこうも言う。「機械の身体になって永遠に生きて、永遠に星の海を旅したい」 だがいずれにしても、機械の身体を手に入れる為にという点では彼の目的は常に変わらなかった。
機械の身体。貴方ならどう思うだろうか。現在の世に、永遠の生を手に入れられる手段がある程度現実的な対価で手に入るのだとしたら。機械化人は少なくとも数百年は生きられ、部品交換に留意してさえいれば死ぬ事はないのだという。永遠の生については賛否両論あろう。だが注意されたい。機械化人である事は不老不死である事とは厳密に言えば異なる。機械化人であった所で身体を構成するパーツの大部分を失えば恐らく死ぬし、その気であれば自分から死を選択する事も出来るだろう。機械化人は死ねない訳ではない。人間の寿命は7、80年かそこらが丁度良いと思うのであれば、80年生きた段階でこの世を去れるのである。その間、人間のままならば(もしかすれば理不尽な形で)降りかかったかもしれない病などの類の問題に直面する心配もなくである。
私なら、迷う事なく機械化人となる事を所望するだろう。私は死後の世界とやらについては懐疑的な人間だから、死ぬ事に恐怖を感じた覚えは何度となくある。その恐怖心から解放されるというのだからこんなに素晴らしい事はないではないか。五体満足で100年だろうが200年だろうが生きていいのだ。まるで夢の様ではないか。
母を失った事で直接の目的は違えたが、元は鉄郎も似た様な事を思って機械の身体を欲していた。しかし銀河鉄道による旅路の果て、その鉄郎の望みが叶う事はなかった。旅の最中、時間城での機械伯爵との決戦に勝ち(機械の身体を得る事なく)、本懐を遂げた鉄郎は、命とは限りあるものであってこそそこに人としての優しさが生まれる事を悟り、永遠の命欲しさから安易に機械化してはならないのだという事に気が付いたからである。そして鉄郎は続けるのだった。機械の身体をただでくれる星へ行き、その星を破壊してしまいたい。だがこの時の鉄郎は知る由もなかった。その決意は、その実想像を遥かに絶する戦いの幕開けであるという事を。
機械化帝国。ある者が言うにはそこは、宇宙史上最大最強の大帝国。機械化人である女王プロメシュームの下、惑星プロメシュームを首都としてアンドロメダ星雲にある多数の惑星に勢力を伸ばしている機械化人の機械化人による機械化人の為の国家である。「機会化人の利益に適わない者は処刑すべし」と定められた機械法に則り、機械化人になろうとしない生身の人間を酷く嫌悪し、そうした者に対しての武力行使を辞さないという極めて危険な思想を持つ。帝国を治める女王プロメシュームの目的は全宇宙を機械化人の楽園とし、帝国の統治下として征服する事であり、つまり、鉄郎が望んだ機械の身体をくれる惑星の破壊とは、この宇宙に強大な影響力を持つ機械化帝国との全面戦争を決意した事と同義だったのである。
高々機械伯爵への復讐の物語だと思っていた筈が、最後には全宇宙を巻き込みかねない人間対機械化人の戦争の物語へ。一体誰がこの様な展開を予想し得ただろうか。一体誰が、まだ年端も行かない少年が戦争の口火を切ろうとするだなどと想像し得るだろうか。しかし、私はここに断言しよう。これは決して偶然的に決まった事ではないと。話の流れ上たまたま機械化人との戦いを決意するに至ったのではないと。もっともメーテルの目的は初めから機械化帝国の滅亡にあったのであり(彼女は銀河鉄道999によって機械化帝国を滅ぼす為の有志を惑星プロメシュームへ送り込んでいる)、その意味では鉄郎もまたそれを目的とする様になっていったのは自然だったとも言える。だが私は思うのだ。この物語は、メーテルがまだ事の真相をほのめかしてすらいない段階にあって既に、先の全面戦争に至る展開を暗に示していたと。

ヨハネの黙示録 13章18節

ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。
その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。

悪魔の数字666。破滅を導く存在に隠されているという呪われた数字。稀代の独裁者アドルフ・ヒトラーはこの数字を持っていた。また、アメリカ同時多発テロの標的となったワールドトレードセンタービルのあるニューヨーク(NEW YORK)もこの数字を持っていた。そして、鉄郎を乗せた銀河鉄道999号もまた。
勿論、銀河鉄道999号における悪魔の数字とは「999」の事を指す。本来の数字「666」を180度反転させたものである。だが何故「999」か。現行の銀河鉄道が999号のみであるならまだしも、666号は存在するというのに。
ここで私は気付く。666号は存在する。にもかかわらず人間と機械化人との最終戦争を引き起こす切っ掛けを作ったのは999号。これこそが重要である。「999」とは、つまり暗示だ。上下が逆さまである、即ち、天と地が引っ繰り返るほどの何かが起きる事の。大空と大地がこれまで当然の様に持っていた絶対的な隔たりが事実上なくなってしまう事の。詰まる所、空と地が一個の星として同じく分類される「宇宙レベル」の何かをもたらすものである事の。宇宙の支配を目論む機械化帝国と、それを阻止しようとするかつての第一勢力たる人間達の対立、闘争は正に宇宙レベルの有事だった。「999」はやはり、その惑星内で起こり得る全ての可能性を凌駕した破滅的事象を導く悪魔の数字だったのだ。
しかし疑問がない訳ではない。メーテルが大母星、惑星プロメシュームへ連れて行った「機械化帝国の滅亡を志す者達」は鉄郎一人ではない。鉄郎の他にも、あの999号に乗って多くの勇敢な人間が惑星プロメシュームへと潜り込んだ筈であった。だが本懐を遂げるべく引き金を引いたのは鉄郎だった。他の誰でもなく。或いはこの戦争を導く者とされた銀河鉄道999号自身でもなく。何故鉄郎が最後の少年であり、鉄郎によって戦いの火蓋は切られたのか。それは偶然だったのか。
答えはやはり数字にある。それを示すのが、ヒトラーやニューヨーク市に悪魔の数字が隠れている事を明らかにしたゲマトリア変換である。最後の少年、星野鉄郎(Hosino Tetsuro)とその少年を導いた女性メーテル(Maetel)の名を、A=20とし、更に長音記号(オーバーライン)を数値の繰上げとして鉄郎の最後の「o」を35(本来は34)と見なして全ての数字を足し合わせると、616となる。これは、エジプトで発見されたヨハネの黙示録の写本(オクシュリュンコス・パピルス)に悪魔の数字として記されていた数字である。二人もまた、悪魔の数字を持っていた。即ち、メーテルが雪原に倒れていた鉄郎と出会った時、鉄郎がメーテルと共に銀河鉄道に乗る事を決めた時、既に運命は決められたのである。鉄郎とメーテルの二人が、銀河鉄道999号のもたらす最終戦争のトリガーとなる運命が。
決意の果て、鉄郎は本懐を遂げる事となる。彼は機械化帝国の首都、惑星プロメシュームを消滅させ、女王プロメシュームにも引導を渡したのだ。だがしかし、機械化人を完全に根絶やした訳ではない。はたまた、この宇宙には機械化人以上の脅威がまだ潜んでいるかもしれない。何より、銀河鉄道999号はこれからも運行されていく。そうである以上、いつかまた、複数の惑星や銀河系、或いは全宇宙を巻き込む変革の時は訪れるだろう。スリーナインが悪魔の数字を持つ限り。

さて、悪魔の講釈はまだ終わらない。我々は忘れてはならない。あの「白い悪魔」も悪魔の数字を、それも「999」を持っていたという事を。
かつて私は白い悪魔、メネとモグオについて、A=100とするゲマトリア変換によって彼らが999を持つ存在である事を明らかにした。だが当時私は、悪魔の数字が上下逆になって現れるのは彼らの計画、野望が最終的には成し遂げられない事の暗示だと考えていた。間違いであった。事態は明らかに先の展開を楽観視していいものではなかったのだ。その数字はつまり、事の全てがガイアという星一つに留まらないものであると伝えているのだから。銀河鉄道999においてそれは、宇宙の支配を目論む強大な者達の存在であった。しかしこのケースにおいてそれが何であるかは具体的には分からない。だが数字だけは雄弁と語るのである。私達のまだ知らない、恐らくメネらの計画に組するのであろう更に大きな者がいるのだと。
更に私は新たな真実を知った。「999」が示すものとは、ただそこに惑星単位以上の何かが介在する事に限らない。逆転したその数字は即ち「価値観の逆転」の暗喩なのではないか。かつて機械化人となる事を心から願った鉄郎は、銀河鉄道999号による旅を経てそれが必ずしも幸福に繋がるとは限らない事を、延いては機械化帝国の滅亡を望む様になった。人間の機械化に対する価値観の逆転である。また、善悪に関する価値観の逆転すら、「999」は引き起こす。鉄郎による機械化帝国との対決は、帝国の女王プロメシュームと鉄郎の戦いとして見れば純粋な勧善懲悪の物語だったのかもしれないが、機械化帝国にも人々の暮らしは勿論あって、そこには家族もいたし、子供だっていた。そうした、ただ身体が機械であるというだけで他には鉄郎と何の変わりもない人々の生活を顧みる事なく惑星プロメシュームを消滅においやった鉄郎を絶対善と言い切れはしないのだ。もし貴方が、帝国を滅ぼした鉄郎の姿にある種のカタルシスを感じていたとしたら、それは「999」によって善悪の観念が揺らいでいた事の証拠である。
これと同じ事が、メネやモグオ、またガイアの人々に降りかかるとしたら。一見絶対悪の様に見えるメネだが、そもそもは彼の強大な魔力に異常なまでの畏怖の念を抱いた周りの者達の過ちから始まった事だ。彼が常に全ての敵であり続けると断言する事は誰にも出来ないのである。

間もなくそれは起こる。メネと、「999」が暗示する未知なる存在が相見えた時、遂に計画は始動し、対立は明示化されるだろう。そしてまた、人々の多くが自身の善悪観を左右される決定的な出来事が起こり、世界が混沌に包まれると予想される。
情勢は、人類とチョコボが手を結ぶ事によって数的には有利であり、光は確かに見えていたと言える。だがそんな希望も今はない。人々が正義と悪の境目を見失っている今、彼らは必ずしも一枚岩とは言えないのだ。



08/02/27(水) 第1000回 雑文針千本

遂に辿り着いてしまったこの高み。サイトタイトルに「針千本」と掲げておきながらこれまでただの一回もそれに即したコンテンツ展開をしてこれなかった私が、遂に到達した四桁の大台。初めサイトを停滞させておかない為に用意されたコンテンツが、サイト公開開始後しばらく主要コンテンツを支えるサブコンテンツとなりながら、今はそれも一周して再びサイト生存のキーコンテンツになったりしつつ、いつの間にか1000回。よくもこんなに書いたな。
感慨や達成感は、実の所薄い。それと言うのも、過去ログ99分を終えて過去ログ100分に移った時点で「雑文 過去ログ一覧」のページに第1000回までの枠を作っちゃったので、既に10日前には「第1000回」とこの手でタイプしちゃっていたからだ。つまりその意味で、今日この文章を書く直前にタイプされた「第1000回」の文字は二番煎じだったのである。本当の第1000回だったのに。それに「雑文 過去ログ一覧」の方には「過去ログ100」って書く感動もあったから、この期に及んで今日改めてあれこれ思ったりもしなかった訳だ。
でも、それを差し引いてもやはりこれは偉業だ。いつも自画自賛の精神に生きているこの私が珍しく自分の事をべた褒めしたくなるのも分からない話じゃない。でも今日の所はそんなはしたない行為も自制して、折角の機会なので、一度「雑文」を総括する意味でこれまで一つ気になっていたある事について調査してみる事にした。
ずばり「雑文」におけるネタ占有度はどのくらいか? 基本的にはふざけた事をだらだらと書いていくだけのこの「雑文」だが、ごくたまに真面目な話に始終する事もなくはない。いつかの記事に「直近100回分の文章を振り返った所、98日分において何らかの冗談が認められた」と述べた事があったが、あれをきちんとまとめてみようという事だ。
この前の調査では「一言でも冗談を含むか含まないか」による分別だったが、今回はもう少し細かく「全編ネタ」「一部ネタ(途中からネタ、或いはオチだけネタなど)」「ネタなし(真面目な話、或いは日記など)」の三つに分類。昨日までに掲載された999回分、全1000エントリーについて集計を行った。以下がその結果である。

分類本数
全編ネタ592
一部ネタ227
ネタなし181

第1回から順々にカウントしていくと、意外とネタ要素のない内容が多く見受けられ、「おお、思ったよりまともな事書いてるなー」なんて思っていたのだが、第200回辺りを過ぎた頃からそんな文章達は目に見えて姿を見せなくなり、変わりに増えるネタ、ネタ、ネタ……ちょっとした冗談(その日のテーマに対する単なる突っ込みに過ぎないものなど)は今回ネタ扱いしていないので、以前「98%」の中に含められた文章の中にも「ネタなし」として分類されたものはあったのだが、それでもやっぱりこの「雑文」は、今となっては完全に「ネタ雑文」と化していた。8割がネタ込みとか。しかもネタなしとされた181本の半数は第200回までに登場したものである。
単なる日記が顔を覗かせるには、辛い世の中になっちゃったね。実際、日常に関する事を書いてても「何かオチを付けなきゃ締まらんのじゃないか」って思いながら書いちゃってるもの。でもな、私はそれを「悪い傾向」と表現して日記の肩を持つ気はないし、風当たりの強くなったお前らに同情するなりしてこれとは別に日記用ページを設ける気はさらさらないぞ。ネタによって奪われた地位はお前ら自身で取り戻しなさいよ。何だってんでこのサイトの絶対権限者たる私にすがり付こうとしちゃってんの。甘えもいいとこだな。
取り敢えず四月に入ったら新生活やら何やらで日記の登場し易い風潮がしばらくは続く事になると思うから、そこがお前の最後のチャンスだと思え。それでなお復権が望めない様だったらもう引き際かもな。


参考までに、本日の文章を先の基準に従って分類すると……「一部ネタ」…かな?
いやねえ、流石に1000本の文章を一気に見直してると途中で判断基準が揺らいだりもするよね。


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