08/03/11(火) 第1011回 情報網の迷い人
いつの頃からそうなったのか分からないが、Googleで検索すると検索結果のトップに表示されたサイトに、そのサイトのコンテンツへのリンクが併せて表示されるのを時々見かける。例えばこんな具合にである。
私自身、この機能を利用する機会はほとんどないが、そのサイトがどの様な種のサイトであるかを一目で把握出来るという意味では、これを便利とする人も多いであろう良い機能だと言える。
その「コンテンツ表示機能」であるが、いつの間にやら当サイトの検索結果にも付記されている事をこの間知った。いやあ、ここも遂に一定の評価をされるだけのされる様になったのかあ、などと、この機能がどういう基準で適用されているのかを全く知らないにもかかわらず取り敢えず喜んでみたりする私である。
が、そんな喜びも束の間、検索結果をよくよく見てみると…
「戻る」
何処へ。
08/03/12(水) 第1012回 サイトロ 効果
これだけ日常とインターネットとの距離が縮まっていると、「調べ物」という行為の頼り先は完全にインターネット主体となった。昔は、辞書とか、身近では確認不可能なものなら図書館にでも言って調べたのかもしれないが、今やその全てがインターネットという仕組み一つで、つまり言ってしまえばパソコン一つで事足りるのである。当然、求めた答えを得られるまでの時間は大抵の場合今の方が早く、手間もかからないので根っからの出不精引きこもり体質の私などは家にその環境が整うや真っ先にそれに食いついて、今ではインターネットなしには調べ物一つ満足に出来ないというダメ人間を生み出す事となってしまった。近く敢行される引越し後、場合によってはひと月ほどインターネットから離れざるを得なくなる生活が待っているかもしれないが、もしかそうなった場合私はどうなってしまうのだろうか。「調べ物は全部インターネットで済ませる様になってしまった」とは言いつつインターネット通信可能な環境下に置かれる以前においてわざわざ図書館に行った覚えもないので意外と不自由のない生活がそこには待っているのかもしれないが。
で、今日はそんなどこぞのダメ人間の話ではなく、そうした調べ物の際によく利用される検索サービスについての話である。
何か調べたい事がある時に、その調べたい事そのものや、それに関するワードをキーにウェブページやデータベースを走査し、何らかの結果を返す機能。それが検索である。例えばとある漢字の読み方が分からない時にはその漢字を辞書サービス内のフォームで検索する事で読みがなを得られる。はたまた漠然と引越しについての情報を得たいという事なら、適当なサイトでもって「引越し」と検索すれば業者だとか何とかのサイトが沢山出て来る。
ただ、必ずしもある単一の言葉が検索キーになるとは限らない。場合によっては二語以上の言葉が同時に検索対象となるのだが、さて、ここが問題である。複数の単語で検索する場合、それぞれの言葉が独立している事を示す為に一般的には単語間をスペースで区切る事になっているが、私はこのスペースが半角でないと気が済まないのだ。
有名どころの検索サービスでは、区切り文字としてのスペースは半角でも全角でも結果に違いが生じる事はないし、それはちゃんと理解しているのだが、それでも全角スペースによる区切りは何となく敬遠してしまう。やはり「全角スペース」という概念が世界的には異質なものである(「和字間隔」とも言うらしいし)というイメージを何となく抱いているからなのだろう。例えば「(半角)+(半角)」といった組み合わせで検索する場合には勿論半角スペースを使用して区切るが、これが「(全角)+(全角)」でも入力モードを変更して半角スペースを挿入した後、改めて日本語入力モードにて全角ワードを打っていく訳である。誤って全角スペースで区切ってしまった時もいちいち一旦それを消して再度半角スペースによる区切りを打ち込む徹底振り。全て、全角スペースが日本独自の規格であるが故にこれを「スペース」という一つの文字として認識し、結果として一語による検索を敢行してしまうのではないかとする心配から始めた事で、粗方の検索エンジンがいつしかその点について密かに対策し終わってからというもの(或いは、私がインターネットに触れ始めた頃には既にしてその程度の問題などなくなっていたのかもしれない)、後にはただただ無意味な半角スペースにこだわる一人の男が残されただけとなったのであった。
真実に気付いても、男は半角スペースによる検索をやめない。これによるインターネットからの恩恵は皆無であるというのに。だが男は信じているのである。いつか、Yahoo!やGoogleに取って代わる次代の検索エンジンが登場した時、それが日本語完全対応化される前から全角スペースによる不具合に悩まされる事のない日が訪れる事を。
男のインターネット歴5年。世界はまだ男に厳しい。
08/03/14(金) 第1013回 ()
先の「半角スペース区切り」と同様な、意味のないこだわりを人は幾つか持つものである。例えば私のこだわりはこうだ。「丸括弧は半角で」
というか、また全角半角の話なのだが、文章内に登場したある文節や単語の注釈或いは補足的説明を書く場合などに使用する丸括弧「‘(’,‘)’」を用いるに当たり、私はいつも半角のものを使用する。日本人故に、普段キーボードで打ち込む文字はその大半が全角文字であるが、それによって発生する、「丸括弧を使用する度に発生する全角/半角切り替えの手間」なんぞどこ吹く風。そもそも私は似た様な事を二語以上の検索を実行する度に欠かさずやっているのだから、たまにしか出て来ない丸括弧の為にその程度の手間を割く事なんて何でもないのだ。
何故半角を用いるのか? と言われると返答には困る。そこには、検索時の半角スペース区切りほどの明確な理由は存在していない。コンピュータ内で扱う文字において(特に極めて一般的に取り扱われる文字セットにおいて)、全角と半角ではやはり半角の方がメジャーであるという印象があって、その為半角で表現可能なものは出来る限り半角文字で打ち込もうとしているからなのかもしれないが、具体的にどうと考えてみた事はない。
そして悪い事には、この行為には何かしらの意味や意義がある訳でもない。むしろ半角丸括弧の使用は避けられるべき文法である。半角丸括弧は、それを用いた文章の可読性を著しく落とす事があるからだ。理由は、半角故の小ささにある。小説などを読んでいるとたまに直前の開き括弧に対応する閉じ括弧を見逃してしまい、一体何処までが括弧書きの内部なのか混乱してしまう事があるが、その括弧そのものが小さければ必然その現象を読者に引き起こさせる確率が高くなるのだ。特に、括弧書き内部の文章ですら冗長になる事の多い私の文章においてそれは、「快適に読めるかどうか」という観点においては致命的である。
私はその事を以前から理解していた。括弧は小さいよりも大きい方が読み易いに決まっているのだ。そもそもその丸括弧で閉じられる文字が全角なのだから括弧も文字に対応して全角であるべきと考えればそれは非常に合理的で説得力のある意見である。だが私は今日もまた、半角丸括弧を使ってしまった。性懲りもなく。何かこれといった信念がある訳でもないのに。
決して私は頑固ではないのだ。それが証拠に、過去持っていたこだわりを今は捨てているケースもある。例えばその一つは、先の二例と同じくパソコン利用時の事で言うなら、漢字変換である。かつての私は、こうしてタイプした文章を漢字変換する際に、一般的には漢字表記されるべきでない言葉まで漢字にしたがる傾向があった。「迄(まで)」とか「等(など)」とか「又(また)」とかである。この「雑文」にも、初期の頃にはこうした変換が散見される筈である。でもそれは現在、あまり酷くない。「又私等は」とか書いてあったら幾ら何でも読み辛いだろうと思ったからである。最近では、単独で用いる場合は漢字にするが、他の漢字と連続して可読性が落ちてしまいそうなら平仮名にするなどといった臨機応変さまで身に付けた。(例:「〜した為後で…」→「〜した為あとで…)
これから分かる様に、私は頑固ではない。こんな創意工夫の心に溢れる人間が、頑固である筈はない。それでも私は半角丸括弧を使い続けるのだろうが、その事に関し悪いのは私ではないのだ。悪いのは執拗に自身を使わせる半角丸括弧の方なんだ。むしろ頑固なのはいつまで経ってもコンピュータによる文字表現に使われ続ける半角丸括弧の方なんじゃないのかな。
08/03/15(土) 第1014回 第80回選抜高校野球大会
組合せ表
「第80回選抜高校野球大会の組合せ抽選会が14日、大阪府大阪市の毎日新聞大阪本社で行われました。
大会初日、第1試合は北海道の駒大岩見沢と愛知の成章との対戦。
第2試合は宮城の東北対、滋賀の北大津。
第3試合は千葉の安房対、熊本の城北が対戦します。
大会2日目、第1試合は高知の明徳義塾と東京の関東第一。
第2試合は大阪の履正社と山口の下関商業。
第3試合は徳島の小松島と埼玉の聖望学園。
第4試合は鹿児島の鹿児島工業と茨城の水戸商業。
大会3日目、第1試合は昨年春に優勝した静岡の常葉菊川と大分の明豊との対戦。
第2試合は千葉の千葉経大付属と岡山の興譲館。
第3試合は長野の長野日大と愛媛の今治西の対戦です。
大会4日目、第1試合は兵庫の東洋大姫路と岩手の一関学院。
第2試合は鳥取の八頭と栃木の宇都宮南。
第3試合は長野の丸子修学館と和歌山の智弁和歌山が対戦します。
大会5日目、第1試合は福井の敦賀気比対、奈良の天理。
第2試合は神奈川の慶応対、山口の華陵。
第3試合は福島の聖光学院対、沖縄の沖縄尚学。
大会6日目、第1試合の京都の平安は、駒大岩見沢と成章の勝者と対戦。
第2試合の神奈川の横浜は、東北と北大津の勝者と対戦。
第3試合の三重の宇治山田商業は、安房と城北の勝者と対戦します。
大会7日目、第1試合の愛知の中京大中京は、明徳義塾と関東第一の勝者と対戦し、上位16高が3回戦へと駒を進めます。
3回戦第1試合は下関商業対履正社の勝者と、小松島対聖望学園の勝者が対戦。
3回戦第2試合は鹿児島工業対水戸商業の勝者と、平安対駒大岩見沢対成章の勝者の勝者が対戦。
3回戦第3試合は常葉菊川対明豊の勝者と、千葉経大付属対興譲館の勝者が対戦。
3回戦第4試合は長野日大対今治西の勝者と、横浜対東北対北大津の勝者の勝者が対戦。
3回戦第5試合は東洋大姫路対一関学院の勝者と、八頭対宇都宮南の勝者が対戦。
3回戦第6試合は丸子修学館対智弁和歌山の勝者と、宇治山田商業対安房対城北の勝者の勝者が対戦。
3回戦第7試合は敦賀気比対天理の勝者と、慶応対華陵の勝者が対戦。
3回戦第8試合は聖光学院対沖縄尚学の勝者と、中京大中京対明徳義塾対関東第一の勝者の勝者が対戦し、これでベスト8が出揃います。
準々決勝第1試合は下関商業対履正社の勝者対小松島対聖望学園の勝者の勝者と、鹿児島工業対水戸商業の勝者対平安対駒大岩見沢対成章の勝者の勝者の勝者が対戦。
準々決勝第2試合は常葉菊川対明豊の勝者対千葉経大付属対興譲館の勝者の勝者と、長野日大対今治西の勝者対横浜対東北対北大津の勝者の勝者の勝者が対戦。
準々決勝第3試合は東洋大姫路対一関学院の勝者対八頭対宇都宮南の勝者の勝者と、丸子修学館対智弁和歌山の勝者対宇治山田商業対安房対城北の勝者の勝者の勝者が対戦。
準々決勝第4試合は敦賀気比対天理の勝者対慶応対華陵の勝者の勝者と、聖光学院対沖縄尚学の勝者対中京大中京対明徳義塾対関東第一の勝者の勝者の勝者が対戦。いよいよベスト4が顔を揃えます。
準決勝第1試合は下関商業対履正社の勝者対小松島対聖望学園の勝者の勝者対鹿児島工業対水戸商業の勝者対平安対駒大岩見沢対成章の勝者の勝者の勝者の勝者と、常葉菊川対明豊の勝者対千葉経大付属対興譲館の勝者の勝者対長野日大対今治西の勝者対横浜対東北対北大津の勝者の勝者の勝者の勝者が対戦。
準決勝第2試合は東洋大姫路対一関学院の勝者対八頭対宇都宮南の勝者の勝者対丸子修学館対智弁和歌山の勝者対宇治山田商業対安房対城北の勝者の勝者の勝者の勝者と、敦賀気比対天理の勝者対慶応対華陵の勝者の勝者対聖光学院対沖縄尚学の勝者対中京大中京対明徳義塾対関東第一の勝者の勝者の勝者の勝者が対戦。
そして決勝は、雨などによる遅れが出なければ大会13日目、下関商業対履正社の勝者対小松島対聖望学園の勝者の勝者対鹿児島工業対水戸商業の勝者対平安対駒大岩見沢対成章の勝者の勝者の勝者の勝者対常葉菊川対明豊の勝者対千葉経大付属対興譲館の勝者の勝者対長野日大対今治西の勝者対横浜対東北対北大津の勝者の勝者の勝者の勝者の勝者と、東洋大姫路対一関学院の勝者対八頭対宇都宮南の勝者の勝者対丸子修学館対智弁和歌山の勝者対宇治山田商業対安房対城北の勝者の勝者の勝者の勝者対敦賀気比対天理の勝者対慶応対華陵の勝者の勝者対聖光学院対沖縄尚学の勝者対中京大中京対明徳義塾対関東第一の勝者の勝者の勝者の勝者の勝者によって行われます」
08/03/16(日) 第1015回 休戦協定
今日もまた死んだ。異世界の迷宮での話である。
ふと、冒険の書に記されたゲームスタートからのプレイ時間を見てみる。475時間49分とある。近年プレイしたどのRPGよりも長い時間を費やしている様だ。大抵のゲームは最低二周する私がDQ7だけはその気にならなかったものだが、そのDQ7を4、5回はクリア出来てしまうほどの時間を割いた事になる訳だ。
ダンジョンへ潜った回数は527回とある。この内の半分以上が異世界の迷宮への挑戦である事は明白である。分かり切っていた事だが、クリアまでの数多のダンジョン<<異世界の迷宮一つなのである。
そして、改めて振り返って驚いたが、私がこのゲームの本編をクリアしたのが実に5ヶ月前の事らしいのだ。つまり私は、5ヶ月間もの間異世界の迷宮に執心し、異世界の迷宮に挑み続けていたという事である。でもクリア出来ない鬼門。それが異世界の迷宮。
事の始まりは、私が「トルネコシリーズ及びシレンシリーズの、全てのダンジョンを攻略したい」と思った事にあった。何年か振りに初代のトルネコをプレイしてみたら思いの外すんなりとクリア出来てそれから不思議のダンジョンというもののシステムにはまり込んだ事は以前述べたが、それからプレイした初代シレンもそこそこの手応えと共に制覇した事でいよいよその思いを強くしたのである。で、続くGBシレンもいい感じで制覇した所までは良かったのだが、その次に巷でクソゲーと評判のトルネコ3を手に取ったのが運の尽きであった。トルネコ3が具体的にどうクソゲーなのかはこれまでにも触れてきた事なのでもう言わないが、あの日、トルネコ3を選んだその瞬間、こうして異世界の泥沼にはまり込んでしまう運命は決していたのである。この私の、基本力技が主体で突然の危機を打破する頭脳に欠け、トルネコ2は分裂の壷セットないし戦士の「とうめい」「ワナみえ」「パンおとし」コンボでもなければまともにはクリア出来ず、フェイの最終問題も分裂の壷強化の壷頼りの攻略しか出来ない程度の実力であの鬼門をおいそれと通過出来る筈はなかったのだから。
ああ、あの時アスカ見参の方を買ってたらなあ。少しは違った今があったんじゃないかと思うのになあ。あの時期に突然プレミアが付いたりしなけりゃなあ。アスカはアスカで相当高難度のダンジョンが多数用意されているらしいので仮にアスカを手に入れられていたとして、じゃあ5ヵ月後にどうなっていたかと言うとそこには今の私と同じ泥沼状態の自分がいたのかもしれないが、でも少なからず、話を聞く限り、アスカはトルネコ3よりは理不尽じゃないものなあ。あれの価格が高騰すると読めなかった先見の明のなさを恨むよ。
とまあ、こう言うとこの人そろそろ異世界に懲り懲りしてきたかという感じであるが、本当にそうなら相も変わらず今日また一つの墓標を立ててきたりはしてない訳で。何であんな理不尽なダンジョンに今も潜り続けているのだろうか。最早それを聞くのは禁忌であるかに、私の異世界への愛は異常なほど膨らんでいるのであった。
で、何で今日こんな話をしたのかと言うと、引越しを間近に控えた今、これまで酷使し続けてきたPS2にこれからも続投もらう事を決めた為、荷物郵送の関係で明日以降ゲームをプレイ出来そうになくなり、どうやら今日が5ヶ月間に及ぶ異世界挑戦のひとまずの区切りとなりそうだったからである。
引越し後はしばらく身辺が忙しいだろうし、4月に入るとそれこそ悠長にゲームをしていられる時間が取れるかどうか分からない為、再開は完全に未定である。まあ今日また良い感じの展開の中で死に、またまたうんざりしていた所だったので、その意味では良いタイミングだったのではないかと思う。でもあれだ。「手元になくなると途端にそれを見たくなったりやりたくなったりしてうずうずしてしまう症候群」の私の事だから、またすぐに異世界中毒症状が出るんだろうな。手元にあったってやりたくなる始末だもんな。
08/05/05(月) 第1016回 身分相応・不相応
サイトを運営していく上で壁となる出来事は幾つもある。が、その中でも就職と結婚ほど、それまで順調に更新を重ねてきたサイトの勢いを押し止めてきた実績のある強者はいまい。ある日を境に生活を以前のものとはまるで違う様相へと変貌させ、なおかつ基本的に個人の個人による個人の為の時間に関して大幅な制限を加える恐怖の事象。過去、この出来事を期にサイト閉鎖へと追いやられた元管理人は星の数ほどいるとも言われる。
で、今、私と私の運営するサイト「妄想針千本 〜マニアーズが祈らば〜」がその危機に立たされているという話である。西日本の片田舎から東日本の準都会に引っ越してきて約一ヶ月。これはそのまま、私が一社会人となってからの期間に通じるが、その約一ヶ月の間、今日に至るまでここは微塵とも動き出そうとはしなかった。もっともその理由の半分は、越して来てからネット環境が整うまでに思いのほか手間取ってしまったからではあったが残りの半分はそうではない。何も今日が、私の引越し後初のインターネット利用日だという訳ではないのだ。インターネット自体は、一週間ほど前には普通に不便なく使える様にはなっていた。だが、更新再開は今日までずれ込む事となった。何故か。その問題の鍵となるのが、つまり就職であるという事なのであった。
そもそも四月以降、今までの様な更新形態を持続出来るとも思っていなかったが、それにしたって私の認識は甘かったと言わざるを得まい。何しろ、家に帰って来てからサイトを更新しようなどという気になれないのである。それは時間的な余裕のあるなしには特に関係なくである。会社に所属する様になったとは言え、まだ研修中の身であって残業もないし、なので忙しさだけで言うなら今より酷い時期は前にもあった。でもそうじゃないのだ。ただ時間さえあればサイトは更新可能という訳ではないのだ。個人サイトという、私的であるにも甚だしい事にそれなりの時間を割けるだけの、心の余裕というものが少なくとも必要なのである。それが今はない。生活環境の激変にまだ馴染めない事が余裕をなくす。寝て起きたらまた満員電車に揺られなければならないのだという憂鬱感が「じゃあちょっとサイトを更新しておくかな」などとは思わせなくなる。入社から三日もすれば、まだインターネットは使えなくとも私は「あ、これはサイト運営が危うくなるだろうな」という事を悟るのであった。
日記だったら以前の様なペースで書けるかもしれない。だがネタ雑文を同様にして書いていけるとはお世辞にも言えたものじゃない。「俺的事典」なら毎日でも或いは、と思えなくもないが、前に危惧していた様に新天地へ攻略本の類は全く持って来ていないのでそれもまた難しい。つまり、ここ二年ほど、当サイトの生命線として大活躍し続けてきてくれた二本柱が共に失われる事になる。定期更新可能なコンテンツを全て失ったサイトはさてどうなる。どう希望的観測を交えて考えても、先に待つのは「運営停止」「閉鎖」という壊滅的未来でしかないのであった。
閉鎖しようと思わないのはこのサイトを立ち上げた当時から変わっていない信条の一つだが、運営停止はあり得ない事ではない。でも個人的にはそうしたくはない。どうすべきか。
とにかく、少なくとも今しばらくは、かつての更新ペースを取り戻す事は不可能である。更に言うと、恐らく金輪際不可能である。
ならば、学生身分の私に合った更新形態があの毎日更新だとするなら、今度は社会人身分の私に合った更新形態というものを見付けられれば、と思うのだが、果たしてそんなものがあるのかどうか。
2008年4月1日をもってこのサイトは迷走期に入った。新たに己の分際と日々の生活スタイルに対して過度でない運営のあり方を見付け、そしてこのトンネルを抜け出す事が出来るのは果たしていつか。乞うご期待!
んでもって、次回更新日は未定!
08/07/05(土) 第1017回 ジョバンニの挑戦
馬鹿馬鹿しさの権化、遂に蘇る。「週刊 本日の雑文」創刊。
世の中のあらゆる物事を斜め上の視点から分析。
奇をてらった解釈で世界の真実に迫る。
それは、1000日以上に及ぶ一人の男の人生史。
その全てが、圧倒的冗長さを持って毎号貴方の下に届く。
「週刊 本日の雑文」 創刊号は特製バインダーがついて、190円。書店にて。
デアゴスティーニ♪
08/10/11(土) 第1018回 THE EXPLAINED EXPERIENCE
何かFF11が今なら14日間無料体験出来るそうだとかで、ひとまずお金がかかんないんだったらちょっと試してみる価値はあるのかなーなんて、とっくの昔に見切った筈のオンラインRPGにほんの少しだけ食指が動いてしまったりしたのだが、考えてもみれば2005年の2月11日以降3年間にわたって愚直に続けてきたほぼ日刊イトイ新聞的僕の見た秩序的毎日更新が今は見る影もなくなっていたりとか、一部のオンラインゲームに見られるともっぱらの都市伝説となっている廃人症状にオフラインゲームでありながら限りなくこの私を近付かせた異世界の迷宮ですらもう2、3ヶ月は優に放置していたりするのが現状で、そういったここ半年の動向をつぶさに分析していくと、例え14日間も無料期間があったところで実際にプレイに興じられるのはその内の1日、2日がいい所で、その短時間で首尾よく「やっぱ自分にネットゲームは合わんな」となればいいようなもののもしか何かが間違って「これは面白いじゃあないか」なんて感想を抱くに至ってしまった場合結局は今回の大きな魅力だった筈である無料キャンペーンの恩恵にほとんど授かれず後は普通に普通の課金制度に甘んじてプレイ続行という憂き目を見るのであり挙句の果てに元々無いような時間を無理に割いちゃったりして睡眠時間は削るわ体調は崩すわまともに働いてくれないってんでクビになるわの三重苦、そういった未来が待っているんだと思うと、そうおいそれと手を伸ばす事は出来ませんな。んー。
………いや! 分かるぞ。私は別に読心術の使い手とかそういう類の人間ではないが、不思議と今あなたが何を考えているのか手に取るように分かる。ああ、つまりこういう事だ。「3ヶ月も更新しないでおいて、よくもまあ抜け抜けと悪びれもせず何事もなかったかのように話を進められたもんだな」と。詰まる所「何らかの謝罪的釈明的誠意がそこにはあってしかるべきだろう」と。
うーむ、分かるなあ。痛いほど分かるこの思い。だが私は敢えてその意見に苦言を呈さざるを得ない。私だって人の子だ。仮にも「更新再開」と銘打っておきながら3ヶ月も音沙汰をなくすとかいう人道ならざる行為には無論ながら非を感じるが、されど私も人の子だ。どんな状況下に置かれようが今、全日本人の内でニートの次に自由に使える時間が多いと言われる大学生時代並にPCの前に座ってなどいられないのだ。
私だって思っていた。前回分の「雑文」を更新した時には、その流れに乗ってこれからは週一で「雑文」を更新するよう心がけようと。だがあなたは知らないだろう。私が、その矢先に十二指腸潰瘍による下血と貧血でまさに絵に描いたように自宅でバタンと倒れ込んでしまった事を。床に転がったまままともに動けなくなった事に割と本気で「これはやばいのかも」と思った事を。翌日近所の診療所に駆け込んだら「もっと大きな病院で見てもらわないと」という事で人生初の救急車のお世話になりそのまま9日間の入院生活を送る事になった事を。そしてそのさなか、重湯に始まり次第に人間味を取り戻していく病院食が、都会に出て来て以降最もまともな食事だったという事実にふと気付き、つい涙しかけた事を。もっとも、私の日常を酷く遮ったのは後にも先にもこの入院だけで、今もって仕事の方は午後7時まで居残る事もない、いわゆる「まだまだ使えない新人」の域を脱しない訳だが、私が言いたいのは「この3ヶ月間どれだけサイト更新にすらかまけてられないような状況下にあったのか」ではなく、「折角『やろう』と思い立ったのに、そのタイミングでいきなりつまづかされちゃうとやる気なくしちゃうよね」という事なのである。つまりあの時、入院なんぞする羽目になってさえいなければ、私は毎週土曜日にでもこつこつと「雑文」を更新していた筈なのだ。今日辺りには、この「雑文」も1031回くらいを迎えていた筈なのだ。でもなー。入院しちゃったっていうんだもんなー。そらしょうがないのである。なかったのである。
だからという訳でもないし、お詫びという訳でもないし、それが証拠に「じゃあ来週の土曜日は更新されるんだね」と言われれば、その週は翌日曜日に恒例の資格試験(参照・参照)が待ち構えている事からくる心の余裕のなさで実際に更新は行われないだろうとは思うが、でも明日は更新を予定している。3連休なので。
でも「雑文」じゃあない。「ゲーム日誌」の方である。そう、ゲームをするのだ。何ヶ月か振りに。ゲームと言っても異世界の迷宮じゃないぞ。異世界の迷宮はもううんざりだとかいう事では全然ないのだが、今回は新しいゲームだ。そう、買ってきたのだ。ゲームをである。何ヶ月か振りに。明日はそのプレイ日誌を更新する予定である。で、何をプレイするかだが…それは明日にしとくか。
一つ言っておこう。驚くぞ。
08/12/27(土) 第1019回 展望
時間を忘れて何かをするということに酷く抵抗感を感じる性分なのである。以前に比べ自分の時間が大幅に制限されるようになってからは余計にその傾向が強くなった。まあ、根がぐうたらな人間であるから基本的には平日の朝が来てほしくはない。最近は六時起きだ。ただでさえ眠いがそれに加えて最近は寒い。生きていく上でこんなにも辛いことが果たしてあっていいのかと自問したことは過去数え切れないほどある。どれだけ辛いかと言うと、一日に私を襲う苦行の七割が起床および朝の通勤にあると感じているくらいである。そしてそれは冗談でも誇張でもないのであった。だからこそ、嫌だ。そんな辛い瞬間が、気付いたら目の前に迫ってきていたなんてことが。それはもう抵抗感と言うよりも、恐怖と言った方がいいのかもしれない。
今年、結局ゲームを一本もクリアすることなく終わりそうになっている最大の要因は決してそのために割けるだけの時間がなかったことではない。私は怖いのである。どうせ九割九分死んで無駄になることが分かっているのに延々と異世界の迷宮に潜り込んで、ふと時計を見たらもう寝なくてはならない時間になっていたりするかもしれないことが。先日万を辞してプレイを開始させた「聖剣伝説4」も再開の目処が立たないままいわゆる「積み」の状態に入っていることだって他でもない。私は怖いのである。どんなに世間からクソゲークソゲーと罵られていようがやはり個人的にはやってて楽しい聖剣伝説4にのめり込んで、そうは言っても長くはない自由な一時の体感時間が余計短くなってしまうことが。ゲームに限ったことではない。ドラマ鑑賞映画鑑賞、読書、ウェブサイト更新、全部そうだ。そういったものに集中するのを敬遠しがちになっていて、もっぱらやっていることと言えばパソコンの前でインターネットにふけりながら、でも特定の作業に従事はせずただぼやぼやとして、ことあるごとに時計に目をやる。そうすると時間の進み方が少し遅く感じられる気がするからである。
何やら、どんな病気だと思われそうな独白であるが、今日私が言いたかったのはそんな気持ちが沈むばかりの話ではない。かと言って、これを盾に取ってここ9ヶ月の更新停滞を正当化しようとしている訳でもない。まあサイトの話はサイトの話なんだけれども、そうではなくて、ここ9ヶ月のことはもう過ぎたこととして真摯に受け止めるとして、これからどうしていこうかということを話したいのだ。
今年の2月、サイト公開3周年を迎えたときに、「4年目はどうなるか」について書いた言葉を私はまだ覚えている。「3年目とあまり変わらない」 だが蓋を開けてみれば過去3年の面影はどこへやら、一度更新されたかと思えば平気で2、3ヶ月音沙汰をなくすという開店休業状態に瀕し更新履歴の欄は張り付いたように動かなくなり当時の勢いは呆気なく失われた。かと思えば未だに1日3〜40人の人がここを訪れてくれていて、そんな現実に直面するにつけ、そこの管理人は非常に申し訳ない気持ちになって一層気持ちを沈めたという。
しかし、一方ではこうも思う。これくらいの停滞状態、そう悲観することでもないじゃなかろうかと。ある大物ゲームクリエイターは言った。自身が社長を努めるゲーム開発会社のウェブサイトをリニューアルするに当たり、社のサイトであるというのに個人レベルでページを作成し、一旦ほぼ白紙に近い状態となったそのサイトについて「コツコツと厚みをましていけたらな」と。これを受けて私は思ったものである。ことサイト運営に関して、急いても仕方がないではないかと。他ならぬ私自身が、「5ヶ年計画、10ヶ年計画を辞さない」と言っていたではないかと。そして、「たかが1年ばかり更新しなかったからって、言うほど重大なことでもないよな」と。大体に、去年までのあんな連日更新なんて、そう何年も続けていける訳がなかったじゃないか。ごく普通の人間には、という意味じゃなく、冒頭で話したような性格の私には、という意味で。
何だか、結局更新停止を正当化しているかのようだが、今年1年のことを申し訳なく思っていたのは本当である。それが証拠に、「たかが1年ばかり」が「たかが2年ばかり」になってしまわないようにと、今私は考えているのだ。つまり、そろそろ動き出そうと。
「社会人身分の私に合った更新形態というものを見付けられれば」 事実上の更新停止宣言をした5月のあの日、最後にこう言っていたことは記憶にも新しい。何せ当時の回がまだこのページ内にあるのだから。で、その更新形態がどういうものかというのは未だに分かっていないが、少なくとも今現在それにもっとも近い道具を使って再始動の足がかりにしたいなと考えている。「俺的事典」である。
「俺的事典」の、このサイトにおける救世主っ振りは前にも確か触れたのでその辺りは割愛するが、ともあれ来年のテーマは「俺的事典」だろうと考えている。具体的には、年365語更新(年365日更新ではない)を目標にしたいと考えている。日に1語ずつ書いて、それを更新するのはこれまでの更新ペースに劣ると言ってもかなり厳しいと言わざるを得ないが、例えば今日のような休日に7語分ネタを溜めておいて、それを1日1語ずつ放出していくとすればかなり現実的な線なのではないだろうか。7語分考えているのに日に1語ずつ載せるか、それとも週1の7語更新にするか、そのどちらがサイトとして健全なのかは悩むところであるが、更新回数が7回なら最低7語は更新ネタが必要なのに対してそれを1回にしてしまうと必ずしも必要でない分まで用意しなくなってしまうことが危惧されるので、細く長くやる方針でいこうと思う。
しかし一言に「再始動」と言っても、全部が全部以前のように元通りになれるかと言ったらそれはまあまず無理だ。「俺的事典」の更新を再開する傍ら、「雑文」の方の更新ペースは恐らく今とほとんど変わらないまま推移することになるだろうと思う。先に「俺的事典」が来年のテーマだと言ったように、「雑文」は主役ではない。過去4年半もこのサイトの第一線で活躍し続けてきた更新回数4桁のコンテンツも、少なからず今後数年に関してはもう、主役を張ることはないのである。
こんなサイトを訪れる人は、すべからく奇特な人であるとは思うが、そんな奇特な人々も色々であるから、中には「雑文」を一番の楽しみにして来ていた人は当然いただろうし、もしかしたら今もってかつての「雑文」年360本体制の復活を望む人すらいるかもしれない。だとするなら、私は敢えて言おう。もし貴方が、妄想針千本の目玉は「雑文」を置いて他にないと思っているとすれば、長いこと悩ませて悪かったが、今が決別の時だと。時代は変わる。時代が変われば、人も変わる。その移り変わりの中で、永遠に続くと信じられていながら結局は終わりの時を迎えたものなんていくつもある。バブル、NNN今日の出来事、聖剣伝説シリーズに張られた「名作」のレッテル……これらのものに比べれば一サイトと一個人の繋がりなんて実に希薄で、あっさりと姿形をなくしてしまうものであることは明らかである。そしてそれが、今なのではないかということだ。
勿論別れは寂しいものだ。私だって今の関係を続けていけるのなら、これからもそうありたいと本心から願う。だがもはや叶わない「雑文」復権の夢を心のどこかに持ちながらここを見てくれても、それはそれで寂しいのだ。ならば、ここは思い切って、お互いが前に進むためにも、一線を引かなければ。
だがそうは言っても、こんな暗い文章で今生の別れというのはあまりに人間味がない。仮にもネタ雑文と称したコンテンツである。その更新を期待してくれた人には、それ相応の形をもって最後の挨拶とするのが最低限の礼儀であろう。
12月31日、第1020回の「雑文」を載せる。これまで、こんな文章を楽しみにしてくれていた人への、これが精一杯の餞別である。
08/12/31(水) 第1020回 人間様の言いなり
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