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06/04/14(金) 第411回 家庭内孤独

働けど働けど
我が暮らし楽にならざり
ぢっと手を見る

見ていて、思った。
右手には五本、向かって右から親指、人差し指、中指、薬指、小指と指がある。
そう言えばこれらそれぞれの指には、特に幼児相手に言う所の別称がある事を思い出した。即ち右掌を見て右側から順におとうさんゆび、おかあさんゆび、おにいさんゆび、おねえさんゆび、何故だか小指だけ判然としないのだが、あかちゃんゆびだったか。これだとあかちゃんゆびが弟乃至は妹に当たる関係の者なのか、或いは自分の赤ちゃんなのかどうかがはっきりしないのであるが、子供に対して言うのだからそれは前者なのだろう。
で、思ったのであった。かようにも親密でかようにも固く結ばれあったもしかしたら理想形とも言えるかもしれない家族の形。だがそこに、あろう事か自分の姿はないのであった。「おにいさん」「おねえさん」と呼ばれる二人の人間が存在する以上、それはその二人ではない誰かを基準にしている訳だが、勿論「おにいさんゆび」とかいう事を言われているのは自分以外の何者でもないのだからその「誰か」とは紛れもなく自分である筈なのに。
家族構成を考えるに、自分は薬指と小指の間に位置していなければならない筈の人間である。だのに何故、自分だけがこんなにも、皆の繋がり方を見ればあまりにも遠過ぎると言わざるを得ない程に離れているのだろうか。生まれながらにして別離の運命を辿る自分と家族。何たる悲劇か。嗚呼無情。
なまじその幸せ振りをこの目で見る事が出来る分、自分を欠いた五人家族への愛おしさは募るばかり。五人の家族だからこそ為し得るのであろうコンビネーションを日々見るにつけ、蚊帳の外にいる自分の境遇を思い悲しみは深まるのだ。

生涯癒える事のない悲哀の物語。神よ、何故貴方はこれだけの試練を我々人間に与えたもうたのだ。



06/04/15(土) 第412回 我が家の複雑な事情

大変な事に気が付いた。
昨日話した、家族の中で自分だけが孤立しているなんて事は取り敢えずどうでもよくなる位、大変な事に気が付いた。

私には父と母が四人ずついる!
(両手両足)



06/04/18(火) 第413回 曲がった事が大嫌い

かつて、という程昔の話でもないが、DVDという規格が世の中に現れ始め、各種メディアがこぞって「DVDとは何ぞや?」「CDとは一体何が違う?」的な特集を組んでいた頃の事を何故かよく覚えている。世の動きにほとほと疎かった事もあり当時はその聞き慣れぬ名前からしてどうにも馴染めそうにはなかったDVDであるが、今やもう映像を商品とするとなればデータ記録媒体としてまず一言目に名前が挙げられ、DVDレコーダーなんてものまで登場していよいよ劣化の激しいテープ媒体は後を追われ始めた。
CDの活躍はと言えば近年音楽CDの売り上げが落ち気味であるとは言ってもやはり一時代を築いた、DVDとは比べるべくもないものなのであって改めてここで述べる必要もないのであり、つまりまあくどくどと前置きが続いてしまっているのだが私が言いたいのは次の事なのである。
今の世の中、CD、DVDを始めとするディスク型記録媒体が数多く見られる。私は勿論、これをご覧の皆様方の多くはそういった物を買い、そういった物に触れた経験がある事だとも思う。音楽CDしかり、映画DVDしかり、PS用ゲームソフトしかり。
そこでなのであるが、貴方が、そういったディスク型記録媒体商品を購入し、もしくはレンタルし、自宅へ持ち帰って封を開け、まず最初にする事は何か。歌詞カードなり解説書なりブックレットなり、ディスクに付属の小冊子とでも言うのか、を読むだろうか、或いは開封するが一番早速当該商品を満喫するかもしれない、ちょっと変わった所だと何はなくとも円盤の中心孔に指を突っ込まない事には気分が落ち着かないなんていう人も中にはいるかもしれないけれどまあそういう人は少数派なのだと信じる事にして話を続けよう。
私は上記のいずれにも当てはまらないのである。では、CDなりDVDなりを購入した時、まず最初に何をすると言うのか。私はどうしても、中身のディスクの傾きを整えたくなってしまう人なのであった。
ディスクをケースに入れる作業は完全機械化によるものなのだから、つーか万一手作業だった所でいちいちケースに入れるディスクの向きが揃えられていたりする事なんかはない。30度曲がってたり50度曲がってたり、160度曲がってたりするケースがほぼ満遍なく出現する。典型的A型人間たる私は、このディスクの傾きがやけに気になってしょうがなくなるのだ。

だから私は、まずその購入してから幾許の時間も過ぎ去ってないディスクを取り出す。事によるとディスクの中央孔がキツキツになっている事もあり得、その場合無理に取り出そうとするとディスクが反り上がる事となりこれが割と怖いのでこの作業は事の外慎重に行う事が求められる。して、そのディスクが傾いている分だけ今度は逆方向に回転運動をさせていく。己が指で回転運動を加えるその作業自体にはさしてエネルギーを使用しない為、この時点で力が有り余っているのなら20度傾いているディスクを更に340度回して辻褄を合わせるという余裕を見せても可。かかる後に、当該ディスクのケース下部側を地面方向として盤面に書かれている色々な文字列における表記法則に何かしら不自然な点がないかどうかの判別を行い、結果異常が発見されなければそれをケースに収めるのだ。
たかがディスク盤面傾き補整、されどディスク盤面傾き補整。CDやDVD等の購入とは、この様に一瞬の油断も許されぬ己と円盤との戦いの火蓋を切る事と同義なのである。以後、重々承知した上で挑みかかるべし。



06/04/21(金) 第414回 ささやかに相殺

人間誰しも、ささやかな幸せを感じる瞬間、というものはあろう。
前回、CDやDVDを買ってそれを開封した後、最初に行う事はさて何かという題目において、私は付属の冊子を見るでもなく早速その音楽を聴くなり映像を見るなりするでもなく、まずはケースに入れられているディスクの向きを補整すると述べた。
こんな性格であるからして、それらディスクに記録されている「商品」たるデータを存分に満喫出来た後、それを再生機器から取り出す時にディスクが正面向いて出て来てくれたりすると少し嬉しかったりするのだ。ささやかな、本棟にささやかな幸せである。
ただ、これは重要な事でもあるぞ。何せ音楽乃至は映像再生機器よりディスクを取り出す時には、うっかりしてディスクに傷を付けてしまうというしかしそれは当該ディスクをケースより取り出す時と同等の危険性に加えて、あまりに運と手先の感覚が悪ければ再生機器そのものに何らかのダメージを与えてしまいかねない作業だからだ。
「そんな大袈裟な」と思う方もいようが、ともすれば、正規の向きから180度に程近いだけ回転した状態で出て来てしまったディスクを、「ディスク取り出し」と「ディスク納め入れ」との間に「持ち替え」なる作業を要さぬ様、多少腕を外側なり内側なりに捻って取り出そうとするあまりに無理をし過ぎ、利き手を損傷する可能性すらあるだけにそれは「たかが」と無視していいものではあり得ないのだ。ただディスクを取り出した後、一旦もう一方の手で持ち替えるだけで事足りるのに、それすら省略しようとして腕をある程度捻る事は、普段させない動作を腕にさせる事で先程貴方が「大袈裟」と言ったディスク及び再生機器の破損危険性を高める事になるのだから。人によっては素で腕を180度、或いはそれ以上容易く捻る事が出来その状態をもってしてなお手先の器用さに幾許の陰りを見出させないなんて事もあろうが、そういう人はそういう人で別の意味で危ないのでここでは放っておく事とする。

ここまで言えばお分かりだろう。ただでさえディスクと再生機器とに危険が及ぶディスク取り出しの作業が、運良く正規の向きで盤面を拝む事さえ出来るのならそれら、加えて己の腕に襲い掛かるその危険性を最小限に抑える事が出来るのだ。ここにささやかであれ幸せを感じずしてどうしようというものか。
改めて言う。こんな性格である事がそう感じさせる最大の要因である事は否定しないが、CDやDVDの収録内容を存分に満喫出来た後、それを再生機器から取り出す時にディスクが正面向いて出て来てくれたりすると少し嬉しかったりするのだ。ささやかな、本棟にささやかな幸せ――

ってああっ!! ここの所MGS3のプレイ日誌書いてるせいで「ほんとう」が「本棟」に変換されるのがウザったい!!



06/04/23(日) 第415回 改めまして小ネタとは何ぞや

あー、喉が痛い。喉が痛くてダルい。こうなると何かしたくても全然やる気になってくれない。あぁ、喉さえ痛くなけりゃ今日辺り「妄想」なんぞ書こうかとも思っていたのに。あ、いや、これは言い訳という事ではなくて、あの、えーっと、その。

本題。
結構前から思っていた事である。当サイトの一コンテンツたる「妄想」にあって、規模的に小さいネタを掲載するという体裁になっている所の「小ネタのページ」であるが、このページが設置からもうすぐ半年になろうとしているにも拘らず、昨年11/18に一ネタ追加して以降一切動きを見せようとしていないのだ。最も最近更新されたネタの末尾に付記されている「New!」の文字があまりに悲しい。
勿論この間、あそこを丸っきり放置していたとかそういう訳でああなったのではない。ただ、少なからず葛藤はあった。
どうも「小ネタ」の定義がはっきりとしない。以前に「最終的な文章量で決める」と述べた事はあったが、後々気付いたのだ。最初から「小ネタのページ」行きを見越して文章を書こうとする時、色々と書きたい事はあるのに「小ネタのページ」掲載である事を理由にしてなるべくコンパクトに収めようとしている自分に。元々冗長な言葉を並べてしまう傾向のある私であるが、ただ小ネタだからと言うだけで書きたい事も書けないは何か違うのではないかと思うのである。
では、「小ネタのページ」そのものを撤廃して、全ての謎について個別のページに書くか、とも思ったのだが、しかしそれもどうだ。基本的に何故文章が冗長になるのかと言えばそれは事実かどうかはっきりとしない想像の余地ありな部分について時に止めどなく妄想が膨らんでいくからそうなる私にとって、ゲーム中からはっきりと謎が解明出来、それが明確に事実と確認可能で想像を膨らませる余地のない事物についてはこれがほんのちょっとの文章量にまとまってしまうのであり、そういった少量のテキストについてまでいちいち別個に扱うというのはどうなんだと、そう考えてしまうのである。

結局そうして考えてみた所で、これまで何ヶ月か答えの出なかった問題に何かしら光明が見出せる筈も無く、どうにももやもやした感じを拭い去る事が出来ないまま、近日、「小ネタのページ」に久々二ネタ程、投入予定である。
それにしても、喉が痛いなあ。



06/04/25(火) 第416回 スイカの種

唐突に「種だけスイカ」という言葉が浮かんできたのでちょっと想像してみた。
あの小さくて黒い種が、丸々と大きく育ったスイカの切り口からこれでもかと零れ落ちるのだ。見方によっちゃあ何かしらの虫にも見えなくないあの種が…って、あまりに気味悪いから止めよう。

しかし元来スイカの種というものは若干気持ちの悪いものではなかろうか。少なくとも、気持ちの良いものである様には思えない。先に述べた様な何処か虫に見えなくもないフォルム、それだけなら他の植物の種にだってよく見られる特徴だろうがそれに加えて基本的に数粒単位ではなく必ずやそれなりの量が一同に介するその性質、それだけなら他の植物の種にだってよく見られる特徴だろうがかてて加えて予めスイカから種をほじくり出しておかない人にのみ限られはするものの「プッ」と吐き出すが為にどうしても少量の唾液と混在してしまうというその状況、それだけなら他の植物の種にだってよく見られる特徴だろうが更に付け加えればそれらは一様に黒い訳ではなくその一部は白かったりしちゃっているのだ。
何処を取っても、その気になれば育てられない事もないかもしれない点を除いては良いとこなしのスイカの種であった。

先の唾液云々の件については実際に食べる前に種をほじくり出してしまう人にとっては縁のない事だろうけど、しかし侮るなかれ、そうする事によって種の気色悪さを多少なりとも回避できたとして、ふとスイカに目をやるとやけに穴だらけになってしまったそれが結局は気持ち悪かったりするのだから。



06/04/28(金) 第417回 あすなろ白書

もう10年近く前の話か、フジテレビ系列で柴門ふみ氏原作のドラマが放送された頃からおぼろげながらに思っていた事があるのだが、それは正しくおぼろげであって、これまでまともに調べようとしなかったどころかたまにしか思い出さなかった程度の注目度であった。がしかし、たまにその単語を目にしたり耳にしたりする度に心の奥底でほんのちょっとだけ、でも確かに疑問に思っていた。

「あすなろ」とは何だ?

本当に、お恥ずかしい限りである。この別に何らかの造語であったりでもない単語が一体何を意味する事なのか、無学にして知らなかったのだ。
最近になってようやく、それですらたまたますぐにでもインターネットにて調べられる状況にあったからそうしたに過ぎなかったけれど、その単語の意味を辞書で引いてみた。「翌檜――ヒノキ科の常緑高木」とあった。そしてこうもあった。「俗に『明日は檜(ひのき)になろう』の意」
一体これはどれだけ一般に知られている事柄なのだろう。もしかして知らなかったの自分だけだったんじゃなかろうか。ふとそう思ってしまった程、いやに純粋に「へえー」と思った。
薄っすら植物である事は分かっていたけれど、まさか略語であったとは。一体いつ頃の言葉なんだろうか。事によれば昨今の何でも言葉を略す若者の事をとやかく言えなくなる程の無理矢理な縮め様である。これだったら別に檜じゃなかろうが「明日は白樺になろう」でも「明日は葉緑体になろう」でも「明日はミトコンドリアになろう」でも良い事になってしまうじゃないか。
いやしかしその強引さも、「明日は檜になろう」等というまこと前向きな発言をこれからの時代を担うのであろう若者世代の力ある発言と見るのならば、多少は許容もするべきだろうか。その飽くなき上昇志向、私は買おう。

ただ、残念な事を言う様だけれど、君は明日も翌檜だと思うよ。



06/05/01(月) 第418回 大食いチャレンジ必勝法

数年前、不幸な事故があって以降しばらく、テレビ界からは大食い及び早食いといったジャンルの番組が姿を消した。しかしその自粛の流れも沈静化の方向へ向かったのか、最近はこの手の番組が放送されているのを見かける事がある(それでさえ頻度的には随分落ちていると思うが)。
大食い番組。はたまたある番組中にある一つのコーナー規模のものも含めた大食い企画全般。その殆どは我々一般人には到底及ぶ筈もなく、想像すら出来かねるものであるが、そんな中にあって飲食店等におけるスペシャルメニュー大食いチャレンジなんてのは比較的我々に近い存在であると言えよう。実際やって食べ切れるかどうかは別としても、気力とお金とそのお金を払う覚悟さえあれば誰でも挑戦出来るのだから。
今日は大食いの中でも、そんな割かし身近な「大食いチャレンジ」の話である。何かと言えば、この大食いチャレンジに必ずや勝てる方法を伝授して差し上げようと言うのだ。是非とも心して聞いて戴きたい。

まずは大食いチャレンジの対象に何を選ぶか、である。何を口に運ばせれば、戦いを有利に進める事が出来るのか。まずはそれを選択するのだ。まあでも、実はこれはそんなに重要な要素という訳ではない。勿論、その料理がこってり味かあっさり味かだけでも戦況は激しく変化し得るものだが、そういった部分で生じる差というものは実戦における工夫次第で十分に吸収してしまえるものなのだ。
本当に大事なのは、戦いに先駆ける、そして戦いの最中の工夫だ。戦略というものを制する人間が、即ちこの戦いを制する事に繋がるのだ。
ここで、恐らくは最も相手に大きなダメージを与えるであろう極意を伝授する。味を落とすのである。つまり、大食いチャレンジ仕様の料理を作るときは、わざと少しマズめに仕上げるのだ。これだけで、相手の箸の進み具合を戦いの序盤から減退させる事が出来よう。
勿論、戦いの最中において、敵が黙々と料理を貪っている様をただ見ているのではいけない。緊迫したバトルの繰り広げられているその時期が夏に近ければ店内をより暑く、冬に近ければ店内をより寒くして敵の士気をここぞとばかり下げにかかるのだ。
この二つの作戦を実行するだけで貴方はもう殆ど勝ちを掴んだ様なものだが、駄目押しとしてもう一つ、ある程度まで食べた後、味を変えるのを目的に七味唐辛子等を振り掛ける敵対策として、一見した限り七味唐辛子の入っていると見える容器に砂糖を入れておく等しておいてもいいだろう。

大食いチャレンジとは戦いである。戦いであるという事は、その中に如何なる戦術を織り込んだかによって勝敗はどちらにも変化し得る事を意味する。
上記対策を実践すれば、貴方は普く全ての大食いチャレンジャーから料理代金をせしめる事が出来よう。世の飲食店経営者は参考にされたし。



06/05/02(火) 第419回 データ危機一髪

しっかし昨日の雷雨は酷かった。寒冷前線に向かって容赦なく温かい湿った空気が入り込む事によって生み出される雷雲だけでも、雷恐怖症の私からしたら地獄に等しい環境だと言うのに、駄目押しの様にその温かい湿った空気のせいで随分と暑かったのがかなり堪えた。
それだけで精神的疲労は相当だと言うのに、かてて加えて至近距離での落雷及び停電である。いやもう、ほとほと疲れた。何もしてなかったってのに。
それにしても今回の落雷は凄かったな。小学生時分にゴロゴロでもガラガラでもなく「バーン!!」と派手な破裂音を響かせた雷に遭遇したってのをかなり前ここに書いたけれど、今回のはあれよりも近かったんじゃないだろうか。どんな感じに光ったのかは殆ど確認出来なかったけど、音が尋常じゃなかったもの。あれだけの音になると地面という地面、壁という壁から振動を通してはっきりと空気の揺れというものを感じる事が出来るし、冗談抜きに極端な驚きからかほんのちょっと飛び上がった。寝転がってたのに。
実際、あれ何メートル位の距離だったんだろうなあ。近所じゃ電話とかがおかしくなってたとかいう話を聞いたし、やっぱりかなりだったんだろうなあ。そんな中、偶然にも我がパソコンはコンセントと非接続状態であり、奇跡的にも危機にさらされる事はなかった。

家にいる時はその使用に殆ど関係無くコンセントに繋がっている毎日であると言うに…上手い話もあったもんだ。
そんな訳なので、今日はこれからデータのバックアップを執り行う予定である。



06/05/03(水) 第420回 雑文書きはかく語りき

その後聞いた話によれば、一昨日の落雷は我が家から三軒隣の家に落ちたらしい。おいおいそんなの、本当に10メートルとか20メートルとかいう話じゃねーか。そりゃあんだけ大きな音も響かせるよ。勿論こんなのは初めての経験なのであって、至近距離での落雷によって発生する音については今回よくよく思い知らされたけど、実際肉眼で見たらどんな感じに映ったんだろうなあ。落ちたのを直接見るのなら勿論、何だったら窓から入ってくる雷光を見るだけでも私にしてみたらただ事じゃなさそう。でも、ほんのちょっと興味をそそられる様な気も。
今回を上回る近さで落雷が発生するなんて事はまあ多分ないだろうから(そうであると思いたい)、これから私の遭遇する雷の殆どは今回のものに比べて小振りって事になる訳で、そうなるとこれからの雷はさほど怖くも感じなくなるんじゃなかろうか…なんて虫のいい話がある筈もないか。

話は変わって、年配の方から「文章が上手い」とつい最近言われた。
流石にそれを無条件下での賞賛を戴いていると解釈するまでに自惚れてはおらず、恐らく「君の年齢からすれば」という意味を内包していたとは思うのだが、それにしろ嬉しかった。
こうして毎日チマチマ文章をしたためているのは、何も文章が上手くなりたいからそうしているのではないのだが、しかしこの全体における文字占拠率が優に99.9%を越える当テキストサイトを運営していて尚且つ不特定多数の人々に見てもらうとあらば、文章が上手ければ上手いに越した事はない。そこにきてようやく私も、大々的に「是非読んで下さい」と言うに当たり躊躇わず少しばかり胸を張ってそう言う事の出来る様になったって事なんだろうかなあ。
なんて偉そうにも思ったのであるが、更に踏み込んで考えてもみれば年齢という概念が実社会に比べてかなり希薄なこのインターネット上において、例え同年代の人達と比べて文章が上手いという年配の方のお言葉が正しいものなのだとしても、より視点を広げればまだまだ未熟な点だらけの文章を書いている訳なのであって、一層精進せねばならんなあ、といった所である。自信有りげに「是非読んで下さい」なんてまだとてもとても。

と、何か分かり切った様な事を雄弁に語っておいて、ふと「はて、『文章が上手い』と言われたはいいものの、その『上手い文章』を私は恒常的に、安定して書く事が出来てるんだろうか?」との疑問が浮かんだ。「上手い」と言われたその文章が、たまたま奇跡的に上手かっただけの可能性も十分あり得るのだ。
…えーっと。


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