07/04/19(木) 第721回 今日は何曜日
これまでも割とどうでもいい事を気にして、そのどうでもいい事についてよく述べてきたけれども、今日だって語るぞ。今日のテーマはほいこれ。「何曜日」
何故だか最近になって、この「何曜日」が気になり出した。「何曜日」の何が気になるかって、その読み方が、だ。
貴方は、「何曜日」をどう読んでいるだろう。恐らく、「なんようび」と読む人が多い事と思う。私も生まれてこの方二十余年、「何曜日」は「なんようび」だと思って生きてきた。だが、何故「何曜日」は「なんようび」で、「なにようび」ではないのだろうか。
ふとした時に私は気付いたのだった。「何」を付けてその対象が何ものであるか、或いは幾つ目のものであるかを問う言葉は世の中に相当数あるが、その内で「何」を「なん」と読むのは対象の数量や程度について述べているものに限られるのではないかと。つまり、「何個」「何回」「何枚」「何度」「何組」「何キロ」「何円」「何層」「何時」「何冊」「何本」「何才」など、そろそろ「何」がゲシュタルト崩壊を起こしそうになってきたがとにかくこれらの事である。取り敢えずここに挙げてみたものについて言えばこれらは全て対象の数量について言及されているものであり、尚且つこれらの「何」が全て「なん」と読むものである事が分かる。
それに対して、数量以外の要素について言われる場合は「何」が「なに」と読まれるのだ。即ち、「何者」「何型」「何座」など、「なん」に比べると中々例が出てこないが、確かにこれら、数値を当てはめるものでない言葉における「何」は「なに」と読むのである。論じられている対象が数値であるかないかで読み方が変わると決め付けるのはやけにずさんな区分けの仕方だなと感じられるかもしれないが、しかし面白いもので「何県 何町 何丁目」は「なにけん なにまち なんちょうめ」と読んだりするのだからその見解もどうやら馬鹿に出来そうにないのであった。
そこで、冒頭の疑問に至った訳だ。「何曜日」は何故「なんようび」か。この言葉において問われているのは曜日、つまり月か火か水か木か金か土か日かであって明らかに数値ではないのに。
曜日自体は数値で表されているものではないが、事実上「何番目の曜日か」を示しているから「なん」と読むのだろうか。しかしそれだったら、同様に「何番目の干支か」を示す「何年」(紛らわしいが「なんねん」じゃなく「なにどし」)も「なんどし」でよいのではという事になってしまい、「『なんどし』はねーよ」って事で却下されてしまう。
「やゆよ」の発音はよくよく聞くと「ぃあ」「ぃう」「ぃお」の様に小さな「い」から始まる感じなので、「何曜日」を「なにようび」と読むと「に」の「i」と「よ」の「i」が重なってしまうからという複雑な背景でもあったのだろうかと思ったのだが、「何奴」という言葉の存在によってそれも却下された。
気になるだけ気になったはいいのだが、結局答えは出ず。後に残ったのは、「何曜日」を「なんようび」と読む事に対しての少しばかりの違和感ばかり。
仕方無い。はっきりした理由が分からないままなのは非常に悔しい所であるが、これからは「何曜日」を「なにようび」と読む事にしよう。まるで最近の私がテレビタレントの発した「食べれる」という言葉を心の中では勝手に「食べられる」と変換させているかの様に、これからは「なんようび」という言葉を「なにようび」に変換していこう。
で、実際に口に出してみて気付いた。「なにようび」 どうした事だ。「なんようび」よりもずっと違和感がある。
何の事はない。私は生まれてこの方二十余年、「何曜日」を「なんようび」と思って生きてきたのだ。
07/04/20(金) 第722回 早くも目的達成
世の中には喫煙する人間と喫煙しない人間の二種類が存在するが、喫煙する人間の中にも二種類の人間が存在する。禁煙しようと思っている人間と、そうでない人間だ。私はふとして、その内の「喫煙者であるが禁煙しようと思っている人」の事について考えた。
煙草を吸い始めた切っ掛けはそれぞれであれ、何かしら自分にとって得でないと判断したからこそ「禁煙したい」「禁煙しよう」と思っているのであろう点で共通している彼等であるが、その多くは中々禁煙出来ない、或いは禁煙する事に対して甚大な苦痛を伴う点でも共通している様だ。
かつての私は、それを不思議に思っていた。何故喫煙者の多くは、禁煙したいと願っているにも拘らず出来ないのか。止めたければ止めればいいではないか。そして「禁煙出来ないのはその人の意思が弱いからだ」とすら。しかし、それは間違いであったのだ。ある時私は知るのである。喫煙者が煙草依存から抜け出せない最大の理由はニコチン中毒によるものなのだと。依存性薬物であるニコチンの、言わば覚醒剤的欲求に負けて、再び煙草に手が伸びてしまうのだと。医療の手を借りなければ完全な禁煙は難しいとされるケースも珍しくないという現実に、私は少々ショックを覚えた程であった。若気の至りによる喫煙経験すらなく、煙草の美味しさ以上にニコチン中毒についての委細など知るべくもなかった私は、禁煙についての認識を改めさせられる事になったのである。
さて、ある時期を境に、この「禁煙」という大テーマにおける話題の中で、ある本の事に言及する人を多く見る様になった。ある本。皆様も聞いた事があるかもしれない。「禁煙セラピー」である。
「読むだけで絶対やめられる」とのキャッチコピーが印象深くもあり、胡散臭くもあるこの本であるが、どうやらこの本が良いらしい。この本が切っ掛けで、これまでどうしても止められなかった喫煙をキッパリ止められた人が多くいるらしい。勿論、私にとって直接的に関係のある書籍ではなかったからその評判の程は詳しくは知らなかったが、これまでで版数が200版を越えると言うからなるほど、突出して話題になっているのは確かな事の様だ。
そうして時折「禁煙セラピー」についての話題を耳にし目にするに連れ、私は次第にある事が気になり始めるのだった。ある、「禁煙セラピー」を読了した現役喫煙者は言うのだ。「これを読んだら、煙草を吸いたいと思わなくなった」(個人差があります) そうしてその人はその気持ちのままに禁煙を始める。当然ニコチンに毒された身体は正直なので、喫煙したいという欲求に駆られる時がある。しかしその人は言うのだった。「あの本の事を思い出して、吸わずに済んだ」(個人差があります)と。またある人は「思わず吸いたくなったが、本にあったルールを思い出すと、気持ちが静まった」(個人差があります)と。
私にはこれがとても興味深かった。どんなに周りに(二つの意味で)煙たがられようが、どんなに再三「身体に悪いよ」と注意されようが、しかも自分自身でさえその事を理解していようが一向に煙草を止めなかった、止められなかったのに、何故「禁煙セラピー」を読むとそんなにも心境が変わるのだろうか。「禁煙セラピー」の一体何が、喫煙者の心情をそうさせるのだろうか。いわゆる禁断症状に当たる喫煙欲求を静めてしまうその内容とは? 「ルール」とは? どんな文章で、どんな構成がそこまでの説得力を持たせるのか? その事がとても気になったのであった。
だからまあ、誰にも責められまいな。一介の非喫煙者が945円(税込)の「禁煙セラピー」を買ったとしたって。
07/04/21(土) 第723回 帰って来たA
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(参照:第541回・第542回)
07/04/22(日) 第724回 本来の目的の為には一切活用されない可哀想な本
という事で、某Aメンバーの復帰によりどうしても話を逸らさざるを得なかった昨日の「雑文」であったが、ここで話はもう一度、禁煙したいと思っているどころか喫煙したいと思ってすらいないのに何故か今私の手元にある「禁煙セラピー」の方へと戻る。
ここ数年の生活スタイルからして本は電車内で読むのが一番効率的だろうって事でまだ表紙も開かれていない我が「禁煙セラピー」であるが、にも拘らず、これを読むにあたって一つ問題が存在する事に気付いた。私がこの本を手に取って公然と読んでいる事で、自分は喫煙者であると思われてしまう。
先日も話題にした事があったが、喫煙者に対する風当たりは昨今強くなるばかりで、公共の場における全面禁煙化の流れはまだまだ止まりそうにない。つまり喫煙者に対しては、私自身がどう思っているかを問わず世間的には「悪」と見なされる風潮があるという事であり、それは「禁煙セラピー」を持っている非喫煙者の私とて例外ではないという事である。それもその筈。この世の中に、一体どれだけ興味本位一つでその本を手に取る人間が存在するものか。禁煙を渇望している訳じゃない。どうしても禁煙したい誰かにプレゼントする訳でもない。話の種に読んでみる訳でもない。ただただ己の好奇心を満たす為だけに945円も出す人間が、果たしてどれ程いたものか。そんな異端な私ですら、「禁煙セラピー」を読んでいる人に出くわす事があるとすれば例外なく「あ、この人は禁煙したいんだな」と思うだろう。
さて、だからこそ、困った。「禁煙セラピー」を読む事で、私は周囲の人々にとってたちまち喫煙者と化すのだ。それが何だと思われるかもしれないが、これはこう言い換えると無視出来ない事情である事がうかがえる。即ち、その本を読んでいるだけで「自分達非喫煙者はあんたらのお陰で本来無縁だった害を被ってんだよ」と思われ、「あんたらの自己責任の行為によって患った病を治す為の医療費は誰が出してんだよ」と思われ、「いっくら分煙だ分煙だなんて言ったって同じ空間にいりゃどうしたって受動喫煙させられちゃうんだからさ、煙草を吸う時は完全に密閉された箱の中ででも吸ってくれないかな」と思われ、あまつさえ理解ない人からは「そんな本に頼らなきゃならないくらい、意思の弱い奴なんだな」と思われるのである。繰り返すが、生まれてこの方一本だに吸った事がなくてもお構いなく、である。
これはあんまりではないか。実際にはそこまで露骨に強烈な嫌悪感を示す人はいないかもしれないが、喫煙者のイメージが少なからず悪いものである事は疑いようのない事実。となれば、ちょっとでも他人からの心象を下げてしまうのとそうならなくて済むのとなら、そうならなくて済んでくれた方が幾らも良いに決まっているのだ。すると、私は電車内で気軽に「禁煙セラピー」を読むべきではない、という結論に達してしまう事になるのだろうか。
ある人はこう言うだろう。「他人の心象がどうだこうだと言うが、電車内で出会った人間に対しての、所詮その場限りである可能性の濃い関係に気を揉んでいても仕方がないじゃないか」
だが待て。問題はそうも単純じゃない。電車内で読むという事は当該書籍を携行して外出するという事に他ならない訳であるが、そうすると私がその本を所持している事実を、連日顔を合わせる人達に知られてしまう可能性まで浮上してしまうからだ。例え隠し持っていたとしたって、突然抜き打ち持ち物検査が行われないとは言えないのだ。言えるが。そうじゃなくても突然知人が私の鞄の中を引っ掻き回して「禁煙セラピー」を見付けてしまい、尚且つ鬼の首を取った様にそれを周囲に触れ込んだりしないとは限らないのだ。そんな知人には心当たりもないが。
ともかく、何がどうしてその存在が明るみに出るかは分かったものじゃない。それぞれの可能性は実際に現実となる確率そのものは宝くじ並に低くとも、電車内における人間とは違ってそういった人達との関係はこれから先数年は確実に続いていくものなのだから、それから考えればたった一度のミスも命取りだ。どんな小さな可能性だって無視は出来まい。
しかし、それをしてある人は言うだろう。「別に本の存在を知られたって、堂々と『自分は喫煙者ではない』と言ったらいいのではないか。事実、貴方は煙草を吸っていないのだから」
もし本当にそう思うのなら、その認識は甘過ぎると言わざるを得ないだろう。「禁煙セラピー」の存在が仮に漏れたとして、その際に喫煙者のイメージが定着してしまう事を恐れるがあまり安易に「いや、私は吸いませんよ」と言ってしまうのは危険だ。何となれば非喫煙者の禁煙本購入という行為は、喫煙者の喫煙という行為に比べある意味ずっと理解に及ばないものであり、強く主張する事で「喫煙者」としては認識されない代わりに以後「変人」として見られる危険性を伴うからだ。
勿論、そんなリスクがある事を認識していたにも拘らず、この場ではこうして「禁煙セラピー」を購入した事実を隠すでもなく公表しているのは他でもない。既にして私が多くの「雑文」読者諸氏から「変人」のレッテルを貼られているからである。
07/04/23(月) 第725回 目下最強の入眠剤
先週末は久し振りに割かし暇で、暇が出来るとDVDを見腐る事の多い最近の私はご他聞に漏れずいつだかに買ったDVDを見腐っていた。
時間を趣味にあてられるってのはやはり気分が良いものである。ゲームが事実上の封印状態にある今、私のフラストレーションを解消してくれる最大の娯楽はDVDなのだ。インターネットも中々のものである事に違いはないが、DVDにはただ単に観賞するという以外にも購入(時には大枚をはたくという行為そのもの)、整然と並べられたコレクションを眺める、豪快に叩き割る、疑似フリスビー遊びなどのストレス解消利用法がある分だけインターネットよりも価値があると言えるだろう。
ところでそんなDVD観賞であるが、私はこれを長時間行う事が少し苦手だ。観賞時間がおおよそ2時間を越えてくると、段々眠くなってきてしまうからだ。休みの日は随分と遅起きである傾向が強いにも拘らず、何故かDVDを見ていると眠くなるのだ。
原因は、何となしには分かっている。私の場合DVDをPS2を用いてテレビで見るにしろPCを用いて見るにしろ、周囲への音漏れを気にしてヘッドホン乃至イヤホンを装着するのが常なのであるが、これが曲者ではないか。何せ、ヘッドホン乃至イヤホンを装着し、一本の線でもって私とテレビ乃至PCとが間接的接続状態になると、私の移動可能範囲は随分と狭められる事になる。必然、私はある程度体勢を固定して画面へと向かう羽目になるのだ。流石に大袈裟じゃないかと思われるかもしれないが、それもこれも私の所持するヘッドホン乃至イヤホンの接続線が揃いも揃って短めだった事に起因する。何度、不意に頭を動かして接続線の根元の方がグイッとなってしまった事か。あれの寿命はそう長くないな。
して、1時間2時間と同じ様な体勢を取り続けていると、段々身体も辛い事になっていくので、その内に私は寝転がって肩肘を付く様になり、更にそれでも辛い事になってくるといよいよ完全に横になる。そうしてしばらくすると、自然の摂理によって睡魔が顔を覗かせ始めるという寸法である。これは、捉え様によっては私という人間の集中力は2時間が限界だと暗に言われている様でもあり、だとすればかなりショックな現象だ。
とは言え、眠くなったのはもうしょうがないからその場合は無理せず寝てしまってもいいのかもしれないが、折角の自由時間を無為にするのは戴けないというもの。だがしかし、一昨日は寝てしまった。不覚である。貴重な暇ではなかったのか? 一時の誘惑に負けて甘美な昼寝を貪った自分の、その精神力の弱さに私はまたもや自己嫌悪だ。嗚呼神様、この哀れな私に、あの位の眠気なら簡単に吹き飛ばしてしまう精神力を下さい。それが無理ならせめてあの時のあまりに気持ち良い眠気が就寝時に訪れる様な体質にして下さい。
そんな哀れな一人間の頼みも聞いてくれそうにない神様はともあれ、この問題に対する現実的な解決策は至って単純である。DVD観賞に際しヘッドホン乃至イヤホンを着用しないか、或いは接続線の十分に長いヘッドホン乃至イヤホンを使用するかすればいい。
前者ではこれまでヘッドホン乃至イヤホンを活用する事で対応していた音漏れ問題が再発してしまう事を考えると、対策は後者であるべきか。だが、その事は随分前から分かっている筈なのに、私にはそのつもりがない様だ。何故って? だって現行のヘッドホン乃至イヤホンもまだ全然現役で行けるでしょう。それなのに新しい物を買っちゃってさあ取替え、なんてのはあまりに「もったいない」の精神に反するとお思いではありませんか?
ちょっとでも欲しくなったDVDは割と安易にまとめ買いしたり、のみならず私にとっては一切が無駄な存在とも言ってしまいかねない「禁煙セラピー」なる本まで手に入れておいて、今更何を言うのかと思われるかもしれないが、もしそう思っていたとしても、口には出さないでほしい。そんな矛盾が存在している事は、当の本人が一番分かっているのだから。
07/04/24(火) 第726回 地獄のトンネルの出口
一昨日DVD観賞中に昼寝をしてしまったにも拘らず当初見ると予定していた作品をきっちり見てしまったからか、そのツケが今私に降りかかってきている様な気がする。短期的な余裕にかまけてだらけ過ぎたか。今週は山場こそない予定ではあるが、今がまだ以前に比べて忙しいほうに入る日々であるという事を忘れてはいけなかった。ここいらでちょっと気合いを入れ直さにゃならんな。このままの気分でゴールデンウィークを迎えちゃうと、その間更に堕落していよいよ社会的にも駄目人間になってしまいかねんし。
とまあ、わざわざここで宣言する必要は微塵もなかった「俺、もう一度頑張るよ」宣言もそこそこに話は変わるが、現在連日続行中の100km間移動生活も今年で四年目となり、これまで台風シーズンと冬場とを中心に色々ありつつもやって来た訳だけれども、そろそろこの日常を変えていこうかと考えている。と言うのも、随分前にも書いた事があったかと思うが、来年か再来年頃には私の関わる環境に大きな変化の訪れる事が、現時点で既に分かっているからだ。
何が変わるのかと言われても、それはもう色々変わるのだが、少なからず所属地域が変わる。それも、同じ県内の違う市レベルじゃなく県単位で、と言って日本全国とまではいかないがしかし西日本を網羅する範囲のレベルで変わる。つまり場合にもよるが、私が望むと望まざるとに関係無く引越しを余儀なくされる可能性がある訳だ。
これまでは、四、五年後には今の生活サイクルに終止符が打たれる事を知っていたから、そんな、人生の中ではそう長くもない期間を過ごす為だけにわざわざ引越す事もないだろうと思って100km間移動生活を続けていた。しかし、そんな生活を三年続けて悟ったのである。これを今後も続けていくのは辛そうだと。例え「それ位の事は流石に予見出来てろよ」と思われたとしても。それに、今でこそこんな生活も成り立っているが、将来的に休日も返上しなければならない程の忙しさに見舞われるとして、その時にも同様の無茶が通るかどうかは未知数なのだ。次第に忙しくなってきている今が少々大変なのだから、そんな状況に追い込まれてしまいでもすればサイト運営なんぞにうつつを抜かしている場合じゃなくなってしまう事は火を見るよりも明らかというものである。
という事で、今年中か、来年初めには諸々の委細が決定する筈なので、その辺りが決まり次第引っ越そうかと考えている。運良く今よりももっと現実的に往復可能な地に当てられた場合はその限りではないが。
いずれにしろ、移動に四、五時間以上も割く理不尽な生活とももうすぐお別れだ。その後の平日ライフを思うと、今から胸躍る様だね。何せ、引越しにより仮に移動が二時間にまで縮まったとして、私は何の苦労もなく日に二、三時間の自由を手にする事が出来るのだから。もっとも、その二、三時間に値するだけの苦労は直近の三年間で十分にしてきたつもりであるが。
07/04/26(木) 第727回 悲報
私も随分打たれ弱い人間であるから、とてもショックな出来事に見舞われると、中々立ち直れずにしばらく何をするにもやる気が出て来なくなってしまったりする。
「雑文」を急遽休止した昨日がそうだ。その日の「雑文」を書き始めるのが大抵は夜9時を回ってから辺りである様に昨日も大体その位の時間帯に馴染みのHTMLエディタを起動させてさあ取り掛かろうかなんて事を思っていたのに、丁度9時になった頃に、私をとんでもなく気落ちさせるにはこれ以上ない打って付けの報が舞い込んできたものだから、もうそれ以後は「雑文」がどうだ更新がどうだとか言ってられる状態ではなかったのだ。
一日経ったがまだちっとも立ち直っていないので、残念ながらこれからしばらくは文面のそこかしこから負のオーラが湧き出ているかのネタというかただの愚痴の登場頻度が高まる事になるだろうと一つ予告をした所で本日はおいとま。
07/04/27(金) 第728回 ゲームに見る人生訓
内閣が組織する知的財産戦略本部のコンテンツ専門調査会の委員である東京大学大学院新領域創成科学研究科教授・浜野保樹氏は言う。「ゲームは、お金だけ持っていって、子供の時間奪ってますね。その人生にプラスアルファがない」
この言葉を聞いて、つい私は言いたくなってしまった。貴方は、ゲームというものの一体何を知っていてその様な発言をされているのかと。あまねく全てのゲームという存在がすべからくプレイヤーの人生にプラスとなるとは言わないが、と言うか娯楽の一種である限りそれがゲームでなかろうがそんな事はあり得ないが、しかしゲームが本当に人生のプラスになり得ないのかと問われれば、そんな訳はないと言い切る事が出来よう。我々は、これまで生きてきた中で様々な事をゲームを通して学んできたではないか。
そう、
目の前の誘惑に負けて本来の目的を見失ってはならないという事(DQ1:竜王の玉座にて)
人は万能ではない。二兎を追う者は一兎をも得られないという事(FF2成長システムより。或いはDQ2のサマルトリア王子)
殺人を犯した者は地獄へ落ちるという事(ロマサガ1:「な なにをする きさまらー!」→冥府行き)
時間は有限であり、諦めも時には肝心だという事(FF4:プリンプリンセスを前に)
長い歴史の中で根付いた習慣は一見破り難いものの様に思われるが、それはそうする事が当たり前になった自分が知らず知らずの内にそれら習慣から大きく逸脱する行為を自制しているからで、本当にその気になれば実際はいとも簡単に自分自身を変える事だって出来るという事(FF10-2そのもの)
成功は、場数を踏む事による経験によって勝ち得られるものなのであって、初めの内に味わう何度かの失敗はトータルで見ればむしろプラスであるという事(ロマサガ2:クジンシー戦)
死んでしまった者はもう二度と帰って来ないという事(エアリス、ガラフ、レイチェル、ヨーゼフ、ラスラ、ティータ、ガラハド、ブラネ、見殺しにした挙句のシャドウ)
「どんな生き物であれ命は平等だ」と言われるが、大抵の生物(特に体の小さい)の命は人間のそれよりもよっぽど軽視される場合が多いという事(「蚊」「蚊2」「マリオペイント」よりハエたたき他)
10歳の女の子を口説くのはさすがに犯罪だという事(FF6のすけこまし)
会社としてどんなに知名度があろうとも、社運を賭けた一大企画がコケればあっという間に倒産寸前にまで追い込まれるのだという事(映画「FINAL FANTASY」)
ゲームはこんなにも多くの事を我々に教えてくれた。勿論、他にもまだまだあろう。この場で全て語り尽くせるだけのものである筈がないのだ。浜野氏には、その辺りの事を分かってもらいたいものである。
07/04/28(土) 第729回 ゲームが語る人生訓
内閣が組織する知的財産戦略本部のコンテンツ専門調査会の委員である東京大学大学院新領域創成科学研究科教授・浜野保樹氏は言う。「ゲームは、お金だけ持っていって、子供の時間奪ってますね。その人生にプラスアルファがない」
この言葉を聞いて、つい私は言いたくなってしまった。貴方は、ゲームというものの一体何を知っていてその様な発言をされているのかと。あまねく全てのゲームという存在がすべからくプレイヤーの人生にプラスとなるとは言わないが、と言うか娯楽の一種である限りそれがゲームでなかろうがそんな事はあり得ないが、しかしゲームが本当に人生のプラスになり得ないのかと問われれば、そんな訳はないと言い切る事が出来よう。我々は、これまで生きてきた中で様々な事をゲームを通して学んできたではないか。
そう、
ボリューム満点なら良いという訳ではないという事(DQ7)
金さえあればずぶの素人でも世界一の企業を作れるのだという事。延いては、世の中結局は金だという事(ロマサガ3:トレード)
その時々に立場を変え、常に優勢な方へ優勢な方へと寝返り続けていれば、最終的には自然と良い感じの位置に落ち着けているという事(FF4:謀反の竜騎士)
全世界を破滅的な危機に陥らせかねない状況を打破しようと尽力すれば、一年前に犯した平民の娘を殺した程度の罪は割かし許されてくれるのだという事(FFT:ザルバック)
何らかの頼み事に対して都合の悪い返事をされたとしても決して諦めず食い下がり続ければいつかは相手が折れてくれ、自分の思った通りに事を運べるという事(DQシリーズ:「〜を頼む」→「いいえ」→「そんな事言わずに」→「いいえ」→「そんな事言わ)
聖飢魔IIはへヴィメタルバンドだという事(聖飢魔II 悪魔の逆襲!)
どんな悪事も被害者がその旨訴え掛けようとしなければ決して罪にはならないという事(RPG全般:屋内無断物色)
数多の苦労を共にした盟友でさえ、ある日突然自分を裏切る場合もあるという事(マリオブラザーズ)
命はお金で買えるという事。延いては、世の中結局は金だという事(コイン100枚につき一人増えるマリオやルイージ)
ゲームは8万円以上も出費してまで興じる趣味などではないという事(PS3)
うーん、やっぱりプラスアルファないかも。
07/04/29(日) 第730回 策士日本国
今日が「みどりの日」ではなく「昭和の日」であるという事実を知ったのはついこの間の事であった。去年まで「みどりの日」であった4月29日が今年から「昭和の日」になるという話はあまり大々的に周知が図られなかった様であるから、今日になって初めて今日が「昭和の日」なのだと知った人も恐らくいるだろうし、未だに今日が「みどりの日」であると思い込んでいる人も恐らくいるだろう。
しかし注意されたし。肝心の「みどりの日」は今年から5日程後ろにずれ込んで5月4日へとその居場所を移している。貴方が可及的速やかに上記事実を認識出来なければ、5日後には既にして過ぎ去った筈の「みどりの日」が何故か改めてやって来るという錯覚に陥り、混乱をきたしてしまう事になるだろう。もしか貴方が今日という日を「昭和の日」だと知らなかったのなら、ここで覚えておくべきである。去年までの「みどりの日」は「昭和の日」となり、その「みどりの日」は去年まで「憲法記念日」と「こどもの日」に挟まれる事によって「国民の休日」とされていた日に移り、必然的に「国民の休日」は消失してしまう事となったのである。
さて、この流れを受けて私は思った。私に限らず、かなり多くの人間が同様の事を考えたろうが、「折角ならゴールデンウィークを増やす方向で新『みどりの日』の日取りを設定してくれたら良かったのになあ」と。
そう、今は4月29日の「昭和の日」から5月5日の「こどもの日」にかけての7日間がそれに当たる場合の多いゴールデンウィークであるが、ここで「昭和の日」に取って代わられた「みどりの日」を明確な根拠なく5月6日に置いてしまえば(大体に5月4日になった事自体に明確な根拠があるのかどうか知らないのだが)、曜日の都合に関係無く我々庶民は8日間連休を勝ち取る事が出来ていたのだ。何だったら、あざとくも「みどりの日」を5月7日にしてしまえば、「こどもの日」と新「みどりの日」によって挟まれた5月6日は国民の祝日に関する法律第3条第3項に定められた規定によって「国民の休日」と化し、驚く事に我々は毎年無条件に9連休を、土日のタイミング次第では11連休を謳歌する事が出来たのである。そのチャンスが実際にあったのである。
だがしかし、現実には、祝日が一日増えた事実が確かにありながら休日数は増えずして今年の祝日改正法施行の年を迎える運びとなった。これは我々一般庶民にとって、今後長年にわたって響き続ける大きな痛手だったと言わざるを得ないだろう。もっとも、「昭和の日」が設けられる事が国会で成立したのは2005年の話であるから、今更こんな風にして休日が増えなかった事を嘆いていても仕方がないのであるが。
ん? 待てよ? 2年前には既に決まった事であったにも拘らず国が「昭和の日」制定の委細を国民に積極的に広めようとしなかったのって、「みどりの日」が5月4日になると広く知れわたる事で強烈な反発を食らう羽目になるのを避けようとしたからなんじゃないのか。なるべく静かに事を進めて、世間に表面化する頃にはもう後に引けない時期になってしまっていると。そう易々と祝日を増やしてたまるもんかと。お前等休む事ばかり考えてるんじゃなくてもっともっとがむしゃらに働いてそれでもって国に税金を納めろと。
国もどえらい事を考えたものだな。この策士め。だが、今回に関しては見事にしてやられたと言わざるを得んか。
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