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06/12/05(火) 第591回 人類みな大根

人間、一つ所に集まれば、その中には演技の上手い人と演技の下手な人がいるものである。「演技」と言うと何やら大袈裟で、下手であった所で「じゃあそれがどうした」といった感じがするが、もっと身近な事について考えてみれば演技が上手いという事は日常生活のあらゆる局面において極めて自然にさり気ない嘘をつけるという事に他ならないのであり、この世知辛いご時勢そういった能力を有している人間が得てして、そうでない、ただただ愚直であるだけの人間に比べて世を上手く渡り歩いて行く現実がある以上は、やはり「演技力」というものが我々にとって重要なステータスの一つなのであるという事実を否定してしまう事は出来まい。そう、「演技」を生業としている人に限らず、演技が出来るという事は人生における様々な場面で貴方自身の立場を救う武器になり得よう。だからこそ、私は警鐘を鳴らしたいのだ。「うっかり咳をしてしまうなよ」と。

咳は怖い。勿論、何らかの病気の兆候という意味合いで怖いという事もあるが、前述の「演技」という側面に際して考えてみてもやはり咳は怖い。この「咳」は、貴方が全く意図しない内に、貴方に対する他人からの「演技力」評価を著しく下げてしまう要因たり得るのだ。
例えば、こういうケースが想定されよう。貴方は高校生である。そんな貴方は、インターネットという近代文明の娯楽に日頃からどっぷりとはまり込んでいた影響かここ何年かは学校から帰って来てはインターネットに興じるばかりでろくすっぽ外出しようともしない生活を送っていた中、必然僅かながらに弱り気味であった身体をここの所の激しい気温変化にやられて不運にも風邪を引いてしまった。元々貴方が引く風邪は咳の症状が酷くなるケースが多かったが、その例に漏れず今回も咳が止まらない。安静にしていても病状は悪化する一方だったのでやむなく病院へ駆け込んだが、それですぐに治ったりする訳もない。貴方は、本当なら避けるべきだったが、期末テストも近付こうかというこの時期に、どうしても一日学校を休まざるを得なくなったのであった。で、話は飛んでその翌々日。まだ体調が万全とは言えなかったがこれ以上休んでいる訳にもいかなかった貴方はまだ幾分かダルさの残る身体を起こし、そして学校へ行くのである。そして所は学校、時はホームルーム。担任がやって来る。いつもの様に出席を取る。そこで担任が、普段から成績については必ずしも褒められたものじゃなかったかもしれないが素行については真面目一筋で通っていた貴方の姿を認める。そして聞くのである。

担任「おー、お前、何で昨日休んだ?」

貴方「あ、風邪で……ゴホッ、ゴホッ

つまりこうだ。誰か、特に目上の人間に対して「私は風邪です(でした)」という旨のメッセージを伝える時にしてしまった咳の、何と嘘くさい事か。それは貴方が高校生でなくたって、小学生だって、中学生だって、大学生だって社会人だってアルバイターだって変わらない。このタイミングで発してしまった咳というものは、その瞬間全てが虚構と化す運命にあるのだ。それが、例え「風邪を引いていると見せる」事が目的の演技ではない、正真正銘の咳であったとしてもだ。
こればかりは、本人には何ともしようがない。冒頭で人間には演技の上手い人と下手な人がいると述べたが、風邪引き申告時の咳は仮にその人が世界中で絶賛されている俳優の類の人であったとてその評判を地に貶める事となろう。
そして驚かされる事には、咳をついた瞬間その場に伝播した何とも言えない負の雰囲気は、回り回って咳をした当人にまで巡ってくる。或いは、「あまりにもわざとらしい事をしてしまったなあ」感がほぼダイレクトに己へと返って来るかもしれないが、ともかく貴方はあんなにも露骨に聞こえる咳をした自分自身に失望し、のみならず辱めを受けるのだ、人前であるにも拘らずだ。
その経験はともすればトラウマとなるだろう。もしかすれば以後貴方は、ちょっとした嘘や、或いは建前を述べようとする時にいつかの苦い記憶を思い出してしまい、ついしどろもどろになって、顔も赤面してしまい、自然に発言する事が出来なくなるかもしれないのだ。それが結果として、この世知辛いご時勢を乗り切る上でとてつもなく大きなハンデとなって貴方の背中に圧し掛かってくるであろう事は言うまでもないだろう。

今一度言う。「うっかり咳をしてしまうなよ」
もっとも、前述のケースの様な場面に出くわす事が人生で何度ある事なのか、という事は今回は考慮されていないが。



06/12/06(水) 第592回 そりゃ本音を言えば欲しいさ

驚いちゃったもの。ブルードラゴンが明日発売だってんで。
ちょっと前からCMで見る事もあって「おお、いよいよかー」なんてな事を思いつつも、幾ら見たって発売日の一つも出て来やしないもんだからいつだいつだと思ってたってのに、気付けばもう明日なんだそうでね。これに関して周囲の動きがとんでもなく静かだった事は、やはりこの作品の前途が多難である事を示唆してるんじゃないかと今から心配しているお節介な私である。
いやでも、実際厳しいでしょう。と言うか、大ヒットするまでの盛り上がりはないでしょう。何せよくよく実情は知らないけど、Xbox360って今の段階で何台売れてるのよ。良くて2〜30万台ってとこじゃないの? だとすると、どんなポジティブに考えたってブルードラゴンは2〜30万本売れるのが精一杯って事でしょう。Xboxにおける「ヒット作」のボーダーラインが何処の辺りに設定されてるもんだかも分からないけどさ、スタッフの豪華さ故に前評判だけが高騰しちゃった結果、明日以降手酷い評価を受けてしまっている様が私には随分とリアルに浮かぶぞ。何とかここを乗り切っておくれよ。

一方、発売から早4日のWiiはどうか。
個人的にはあのWiiリモコンを駆使してプレイする「Wii Sports」だの「はじめてのWii」だのには全く興味がないんだけれども、発売開始からちらほらと感想が聞かれる「ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス」にはとてつもない魅力を感じている最中である。やっぱり私はゼル伝が好きなんだねえ。今回満を持して復活した万引き仕様がこれまた魅力。やあ、どろぼー。
もっとも、Wiiに感じる魅力が「トワイライトプリンセス」だけだったんなら、この作品にはゲームキューブ版も同時発売になっているのでわざわざWiiの方に手を出さずとも、今や随分とお値段を下げているであろうGCに食指を伸ばせば良さそうなものである。が、そこでこれまた私の心を大きく揺らがせるのが、かのバーチャルコンソールなんだね。何しろWiiさえ買えば、かねてからプレイしたいとは思っていたけどその内に時代も移り変わって、今更それだけの為にハード揃えるのもなあ、と殆どプレイを断念しかかっていた今は懐かしきNintendo64の「ゼルダの伝説 時のオカリナ」だったり「ゼルダの伝説 ムジュラの仮面」だったりする作品がやれるって言うんだから。これでGCのソフトは互換性が取れてる訳でつまりプレイしたきゃあFFCCもプレイ可能だという事になると、当然GCのソフトしかプレイ出来ないGCの立場はいよいよ無くなるな。
後、地味に私を刺激するのがFCタイトルとしてプレイ可能らしいジャレコの「忍者じゃじゃ丸くん」だ。これ、何を隠そう私がプレイした最初か2本目のテレビゲームで、その思い入れたるや並のものじゃないのだ。こうした点を踏まえても、やっぱりGCよりはWiiの方を選ばざるを得ないね。
Wiiのソフトとして欲しいタイトルは今の所「トワイライトプリンセス」しかないから、一見それはプレイしたいタイトルが「FF13」と「MGS4」しかなくて手を伸ばしかねているPS3や、同じく「ブルードラゴン」しかなくておめおめと買えた訳もないXbox360と変わりない様にも見える。でもWiiには、これまで「『ゼル伝』二本の為だけに買うには勿体無い」と斬り捨てたNintendo64と、「『ゼル伝』と『FFCC』の為だけに出せる金じゃない」と斬り捨てたGC、この2ハードの、これまで泣く泣く我慢し続けた10年来の重みってものがある分私にとっちゃあ全然存在価値が違うんだよな。

とかいう事を熱く述べてたら、いかん、本当に欲しくなってきてしまった。これ以上気分が盛り上がると禁ゲーム状態の私にはかなり辛い事になってくるので、ここいらで止めておこう。



06/12/07(木) 第593回 遂に数値化

ここの所、よく思うのだ。何だか、その日の「雑文」に何を書こうか悩む事が多くなってきたなあ。
このコンテンツも「日誌」という名で始まってから2年半。塵も積もれば山となるとはよく言ったもので、数は早600回を数えようとしている。これだけ続けていると、流石にもうネタもなくなってきたのだろうか…なんて事も考えたりして、そこにそこはかとない寂しさみたいなものを感じたりする事もあった。
でも、ふと思ったのだ。でもって、確かめてみた。すると、

年別「雑文(日誌)」「ゲーム日誌」更新回数

2005年(02/12〜12/31)
「雑文(日誌)」:204回
「ゲーム日誌」:117回

2006年(01/01〜12/06)
「雑文(日誌)」:261回
「ゲーム日誌」:68回


あー…なるほど。これは酷い。2005年始めの1ヶ月ちょっとは更新停止状態だったから記録には残ってないけど、あの頃は割とゲーム出来ていた筈だからそれを足したら今年との差は多分丁度倍ってとこだ。でも、私は私で馬鹿みたいに愚直に連日更新を止めようともしなかったから、その分だけ「雑文」が集中的に更新された。で、ネタ切れと。
あまりピンと来ないけど、でももし今年、去年並みにゲームが出来ていたら都合2ヶ月分のネタ及びそれらネタを捻り出す為に割いた時間が丸々浮いた訳だ。そう考えると凄い。

かかる事実から考察すると、このサイトが末永く稼動状態を保つ為には、なるべくゲームを頻繁にプレイする事が望まれるという事になる。なるほど。
しかしその指針に従って行動すると、今度は日本に生きる一人の大人として堕落してしまうという現実。人生は上手くいかないねえ。



06/12/08(金) 第594回 馬鹿親ホタテ

給食費を払わない親が増えている話は、こんな場末のウェブサイトを覗いている貴方も聞いた事があろう。何しろ、こんな場末のウェブサイトを運営している私も聞いた事があるくらいだから。ってね、そんなうらぶれた前置きはいいんだよ。
とにもかくにも、これは由々しき問題である。「義務教育なんだから払う必要なんてない」という「義務」の意味を完全に履き違えた親バカならぬ馬鹿親の怠慢によって大きく揺らぐ小学校の給食事情。これの何が由々しいかって、やっぱりそれら馬鹿親の煽りを直接食らう事になる子ども達が不憫。
人間の三大欲にも挙げられる食欲だけあって、小学生時分の給食なんてのは小学校における楽しみの一つであった。日によっては好きな教科が一つもなくて、一日の楽しみがただ給食だけ、なんて事もよくあったのではないか。私はその口であった。揚げパン、おいしかったねえ。ソフト麺、おいしかったねえ。ワインゼリー、いりこ、りっちゃんサラダ、おいしかったねえ。ここいらの面々から或いは、時代背景が多少見え隠れするかもしれないが。
給食の思い出は何も献立に限らない。何となく温めの牛乳(個人的には嫌いじゃなかったが)は、直前の授業が体育だったりした時なんてのは格別だったもんだね。風邪で休んだ生徒がいたらその人の分のデザートの行方は否でも応でも気になったもんだ。いつか話したたけのこの木の芽和えの事は今でも頭から離れちゃくれないぞ。それからサラダか何かにかけるソースをクラスで回してたら最後辺りの人の分が無くなっちゃったりする事なんてのはザラ。はたまた自分が給食当番の時はその配分にとてつもなく気を遣ったもんだ。ってか、都合30人以上分のご飯なり味噌汁なりを全員に均等に分配するなんて土台無理な話だろうよ、と思うんだけれど。それからそれから、小学2年生の時か、嫌いで嫌いでどうしても食べられないホタテか何かをいよいよ時間もないから思い切って口一杯に頬張ったら見事にリバースして教室が騒然とした事件もあったっけ。あの日、後始末した後のゴミ袋を一人焼却炉へ持って行った時のへこみ様ったらなかったな。自分で見た訳じゃないけど、あの時トボトボと校庭を歩いていた私の背中なんてのは随分と寂しげに映ったもんだと思うよ。どうしても食べられそうになかったんなら残飯処理すれば良かったのに。ホタテほぼ丸ごとを捨てる事には幼心に抵抗があったんだねえ。

小学校に通っていた者なら誰しも、給食にまつわる数々の思い出を持っているだろう。誰でも経験する素晴らしき思い出の数々、その輝かしい記憶を、子ども達から奪ってしまって果たしていいものか。馬鹿親は今一度「義務」の意味を考え、噛み締め、己の行為を振り返るべし。
もっとも、ホタテの件はいつでも私の記憶から消し去って戴いて構わないのでそこの所は留意の事。



06/12/09(土) 第595回 目には目を カレーライスにはカレーライスを

昨日小学生における給食の大切さを説く時に「人間の三大欲にも挙げられる食欲」云々と言ったけれども、最近とみにそれを噛み締めている私である。
やはり食事が日常生活に占めるウェイトの大きさったらない。例えば私はまだ小学校に入る前、保育所に行ってた頃、毎週月曜日になると必ず出て来たカレーライスが今この歳になっても相変わらず大好きで、ともすると今年辺りからまた一層好きになったんじゃないかと思われる位好きなのであるが、このカレーを食べようと決めた様な日は他の日と比べてテンションが若干高いのだ。「よし、今夜はカレーだ」という事になると、朝からやる気が出る(様な気がする)し、いつもは負担のかかる長い移動時間もあまり苦にはならないのである。

一方どうだ、日によっては多忙な上に帰りも遅くなって、どうあっても晩飯が駅で買った冷めた弁当か帰宅後に「時間も時間だから」ってんで量的な制限を避けられ得ない簡単な(言い換えれば質素な)食事になってしまう事だってあるだろう。特にそうなる事が時間的に早い段階で分かってしまった日の盛り上がらなさと言ったら。さながらそれは絶望か。何しろ私は、その日一日何を励みに頑張っていいものやら分からないのだ。頭を使い、手を動かし、はたまた歩きに歩いて疲れるだけ疲れたその先に何のご褒美も待っていないというのは、地味に堪えるんだ。長期的に見ればその頑張りには必ずや見返りに当たるものが与えられる事は頭では分かっているつもりなのだけれど、私もあまり高尚な人間ではないものだから、その見返りとはまた別に個人的に設定した即時報酬というものが欲しいんだよね。

んで、一番精神的ダメージの大きいのは、「今日はあれを食うぞ」と思っていたのに食えなかったパターン。「期待」という名の振り上げがあった分だけ落ち込み様が激しいのは、お分かり戴けよう。
私なんてのは前にも言った様にニート志望でしかも根が出不精なもんだから、平日、ある人は会社に、ある人は学校にそれぞれ行っている様に、一人の大人として外出しなければならない現実に対して、まるで小学校自分の給食であるかに「昼食」という存在を拠り所、つまりその日の楽しみとしてある程度自分を奮い立たせている所がある。「今日はあそこのあれを食べよう。よし、行こう」ってな感じである。随分大袈裟ではあるが。
例えば、カレーライスが大の好物な私がまず朝、「今日はあの店のカレーを食ってやろう」と、至高の楽しみを一つ設定して我が家を後にしたとする。辛いねえ。何しろ眠いもの。厳しいねえ。何しろ寒いもの。本音を言えば行きたくないのは山々だが、あの店のカレーライスと、「一歩でも後戻りしようものならとっくに成人を迎えた一人の人間として失格だぞ」という思いが私を駅へと運ぶのである。で、それから五、六時間かして昼食時分、待ってましたとばかりに「その店」へと足を運んだ私に突き付けられる現実、「休業日」 これは辛いったらない。しかも一日はまだまだ半ばだ。私はそれから先の数時間から長くて十時間余り、死霊であるかの面持ちで長い時を過ごすのである。
それから、一昔前には母親の予告していた今晩のメニューが実際その時になってみたら見事に変わってたなんていうケースもよくあったがこういうのもこれに当たるな。例えば、カレーライスが大の好物な私がまず朝、母親から今夜はカレーライスであると聞いて、意気揚々に家を出て行ってだ、その日一日それを楽しみに過ごしてだ、で、帰って来てみれば食卓に並んでいるのは「唐揚げ」だったりする訳だ。これもじわじわ効くねえ。いや、唐揚げが嫌だと言っているのではないのだが、ただ、ただ私が唐揚げよりもよっぽどカレーライスの方が好きだったせいで、その差ぶんだけ落胆しているのだ。
私は中学生だった頃から「栄養バランスを考慮した献立を立ててそれを作る」という仕事を毎日毎日やってのける母親の凄まじさに畏怖の念すら抱いていた程であったから間違っても文句を言っちゃいけないと思って、「何でカレーじゃねーんだ」とかいう小学生がギリギリの不満なんておくびにも出さなかったけれども、うーん、もしかしたら何となしにテンションの低くなった感は伝わってしまっていただろうか。だとしたら、ごめんなさい。

でも私は、そうして予告メニューが変わる事の多かった母親に本当は言いたかったね。「変に期待させて裏切られる位なら、最初から言ってくれてない方がよっぽどいいよ」と。
でもそうしたらそうしたで、私が昼食にカレーライスを食べたその日の晩に知らず知らずカレーライスを合わせてきたりするんだろうな。母は偉大だ。



06/12/10(日) 第596回 料理は愛だ

しかし昨日の話からすると、「不味いものを食べる仕事をしている人」というのが私には凄いなあと思えてならなくなる。
そんな仕事があるのか、と思われるかもしれないが、しかしそれは実在するのだ。ことテレビの世界となればそれは顕著に表れよう。
例えばパッと思い付くものでは、テレビ朝日系列の「愛のエプロン」なんてのはそうだ。複数の女性タレントがテーマとなる料理を作り、それを審査員陣が食べて評価、というのがこの番組の簡単な流れであるが、この番組を見ているといわゆる「料理の得意でない人」が出演、調理するケースが多々見られる。必然、そういう人が作った料理は大抵美味しくなく、ともすれば不味く仕上がるのであり、しかもそれが日によっては複数人分だけ連続するのであり、それを仕事として毎度毎度こなしている司会、アシスタント、コメンテーター各位に対してよくやれるなあ、と思わずにはいられないというものだ。
最近になって「チャンピオンズリーグ予選」とかいうのが始まってからは料理上手な人が少なからず出演するのが慣例になった様だからまだましになったのかもしれないが、一昔前は「不味い料理を食べた時のリアクションを見る番組」みたいな、さぞかし一部視聴者からの批判が絶えなかったろうなと感じる所があったから、この番組の収録に臨むに当たってはいつもいつも気が進まなかったんじゃないのかなあ。私だったら、一日三度の食事の一回でしこたま不味いものを食べて、でも量的には結構なものになるから最後には満腹になってしまって、そんな風に貴重なチャンスを無為に捨てる様な真似をするのは絶対に嫌だもの。ただでさえ、複数の人が同じテーマで作った料理を食べる中である程度の飽きが来るんじゃないかという不安があると言うのに。

「愛のエプロン」 見てる分には面白いか知らないが、食べる方のモチベーションってのは思いの外低いんじゃないのだろうか。ふとそんな事を考えたのであった。
ねえ、城島氏よ。貴方も「愛があれば愛は大丈夫!」とか言ってる場合じゃないでしょう。



06/12/11(月) 第597回 ドーハの残念

いやねえ、現在開催中の第15回アジア競技大会の開催地がカタールのドーハだっていう事をしったその瞬間からマスコミ各社、新聞各社は機があれば「ドーハの悲劇」という言葉を使ってやろうと考えていたと思ったんだけども、今日ふとその事を思い出してちょいと調べてみたら、やっぱり使ってやがったな
勿論、「ドーハの悲劇」で有名な、もとい「ドーハの悲劇」でしか有名でないドーハでの大会において、その言葉ってのはこの上なく自然にはまるし(そりゃそうだが)、尚且つ見出しなりに用いた時のキャッチーさってのは絶大で、どうしてもこのフレーズを使用したくなる気持ちは分からないではないし、そこはまあ認めざるを得ないかもしれない。だがしかし安易。「ドーハの悲劇」って言葉を生み出したのが誰なのかは知らないけども、もうちょっとどうだ、何だったらこの言葉に取って代わる様な新しいフレーズを生み出してやるよ位の気概を持ったライターはいなかったもんなのかね。もっとも、ワールドカップ出場権獲得まで最終予選の最終試合だけを残した時点における順位が1位であった所から尚且つ後半ロスタイムで逆転されて3位に落ちて予選落ち、なんていうドラマチックもいい所な展開に勝るだけのものを本大会に期待出来た訳もなくて、故に本大会から生まれる様な何らかのフレーズが「ドーハの悲劇」を凌駕するなんてのも土台無理な話ではあるのだが。でもそれは、本大会に「ドーハの悲劇」を持って来るのは流石に大袈裟だという事実を物語っているのだと思うのだけれど。
私としてはね、今回のアジア大会がドーハで開催されるって事を知って、瞬間「ああ、『ドーハの悲劇』って言葉が使われるんだろうな」と感じてからというもの、何とか選手達には、その言葉を安易に使わせない様な活躍をしてほしいと、そう思ってたよ。君達は不甲斐無いな。こうしてマスコミ各位の思い通りになっちゃって。マスコミはマスコミで、必要以上に「悲劇」のイメージが付く事になっちゃったドーハの人達に謝りなさいよ。「カタール」なんて言われてもどの辺にある国なんだか答えられないけどさ、「ドーハ=悲劇」っていう方程式が出来上がっちゃったせいで日本人観光客が減ったとか、そういう弊害が起こった可能性も否定出来ない訳でしょうが。ねえ。

こうまで文句を垂れていると何だ、「こいつは随分マスコミ嫌いなんだな」と思われかねないがそういう事ではないんだ。私はただ、別段「悲劇」と言うまでの事でもない出来事をただただ「ドーハの悲劇」というけだし名文句を使いたいが為に殊更に誇張して騒ぎ立てるその姿勢を「一体それはどうなんだ」と問い質したいだけなのだ。そればっかりは是非お分かり戴きたい。
勿論、「雑文」のネタに困る様な事がなければこんなどうでもいい一件は当然にしてスルーしていたという事実も頭に置いておかれたい。



06/12/12(火) 第598回 次世代機完全無視

つーか昨日はサッカーのUnder-21日本代表選手を掴まえて「君達は不甲斐無いな」なんて事言ったけど、仮に勝ち上がっていった所でマスコミ勢は「『ドーハの悲劇』乗り越える」とかいう事をあっさり書いちゃっただろうな。

さて、当サイトもゲーム関連サイトの端くれ。今日という日はこの話題を扱わずにはいられない。

『ドラゴンクエスト9』はニンテンドーDSで2007年発売決定!

このニュースを目にした時の私のリアクションをご覧に入れよう。

「え、えぇーっ!?」

言葉も出ないとはこの事か。それもそうだ。一体この展開を、日本中のどれだけの人が予測出来ていたと言うのだ。
確かにDQシリーズは常に最も売れているハードでリリースされ続けてきたけれど、でもそこで言う「ハード」には携帯型ハードが含まれていると誰が思ったものか。そうだろう。この一報を聞いた時に走った衝撃は、やっぱり自分の中では、そして多くのゲーマーにとっても、据え置き型の家庭用ゲームと持ち運びが可能な携帯用ゲームとが明らかに別物であるという事を再認識させてくれた。
ただ、再認識させてくれたはいいが、DQ9がどうやらDSで出るらしい事は変わらない。私はこの衝撃的事実をどう咀嚼し、飲み込もうか。

テレビでプレイ出来ないというのは、かねてより携帯ゲームよりも家庭用ゲームの方を好む傾向の強かった私としては、一抹の寂しさを禁じ得ない。また持ち運び出来るサイズになるという事実はそれだけで何となしに規模の縮小化をイメージさせてしまうものであるが、DQ8であれだけ広大な世界を体感させてくれたその次が小ぢんまりした感じのもの(注:あくまでイメージ)になっちゃうのかー、という不安もある。いやしかし、ロムの容量という観点から言ってもPS2(何だったらPS)と比べてその量は事実少ない訳で、不安は絶えない。
一方で、「あれ、もう終わり?」みたいな事になりさえしないのなら、他にDSをプラットフォームとする事についての不満とか問題点はあまりない様な気がする。DQがグラフィックを進化させる方向へ動いているPS3に従属しなかったのは至極自然な流れであって、ある程度予想も出来た事だし、DQスタッフが表現したい事ってのはDSで十分実現可能だってのも分かるし。ああ、音楽がちょっと心配、ってのはあるかもだけど。
また、「DSで出る」という点を除いても、今回の発表には興味深い事項がちらほらと見え隠れした。
中でも目を引いたのは「戦闘がアクションタイプになる」であるが、これ、ハードをDSにしたのと同じ位思い切ったな。これまで不変だったDQシリーズの象徴の一つを崩してくるとは。これは、往年のファンのDQ離れをある程度呼びそうだね。その分、ハードがDSである事で敷居が多少下がった新DQにどれだけの非DQファンが食い付くか。これまでの流れを汲んでいれば一定の成功は確実だったろうに、大きな勝負に打って出たねえ。その姿勢は買いたい所だ。
後、まあネットワーク対応ってのが気になるけども…やっぱりFF3クリア後みたいに複数人でないと出来ないイベントとかあったりするのか。ん、その前に一人プレイの場合一人パーティーか?
まあそんな細かい話は追々明かされるであろうからいいとして、まあ、そう遠い存在でもなし、つーかPS3よりは明らかに身近にあるから今回も順当にプレイしていく事になるだろうし、楽しみにしておこう。

色々賛否両論あるだろうけども、結局売れるね。これはもう言い切ってもいい。つーか、これ切っ掛けでまたDSそのものが売れるか。任天堂さん、やりましたなあ。
一方DQが離れていったPS3は終……いや、皆まで言うまい。

PSPは終わってるかもしらんけど。



06/12/13(水) 第599回 書き終わって見てみたら特別短い訳でもない

昨日はあれだ、就寝時間をどうしても二時間程縮めなきゃならんという位追い詰められており、あわよくば「雑文」の方は冒頭の一文だけで締めちゃおうか、なんていやらしい事を考えてもいたけれど、折り良くあんなニュースが飛び込んで来ちゃったもんだからつい書いてしまった。でもあれだぞ、昨日に限っては「ああ、良い時に良いネタが降って来てくれたなあ」とかいう事は微塵も思ってなかったぞ。いや本当。という事でね、目下追い詰められている状況なもんで、今日は短め。

いやしかし昨日なんてのは、予想出来た事だけど何処もかしこもDQ9の話題で一杯だったね。私はまあ言わずもがなのゲーム人間なもんで日課的に訪問するウェブサイトと言えばどれを取ってもゲーム系なんだけれども、昨日更新していたサイトの実に100%が何かしら「DQ9DSに」の話題を取り扱ってたもんなあ。100%って。どんだけ程私の趣向が狭い範囲に限られてるかってのが如実に分かるデータだね。
そうして幾つかのサイトで幾人かの人の意見を見てみると、割かし私なんてのは楽観的というか、否定的な意見を述べていない方の人間である事が分かる。いやでも実際驚きはしたけれども、そうまで不安にも不満にも思ってないんだね、これが。流石は、嫌いなゲームが特にないとか言っちゃってる人間である。今の所最大の不安はいわゆるネットゲーム的な仕様になっちゃうのではないかという事だけど、仮にそうなったらそうなったでFF11宜しく静かにフェードアウトして目立った文句も言う事なくこの一件は終わる事になるのだろうし。
他の人の意見と言えば、やり込みプレイヤーの方々が口を揃えて「DSで出されたらやり込みプレイの録画が出来ねーじゃねーか」と言ってた事には、同じゲーマーでありながらそのフィールドが随分違えば流石に視点も違うなあと思ったもので。なるほどね。低レベル攻略にしろタイムアタックにしろこれまでのDQシリーズじゃやり尽くされてきた事だったけれど、これは支障がありそうだ。とは言え、GB、GBC、GBAといったゲームボーイ関係のハードにはその時々で、テレビでプレイする為の周辺機器が登場した訳だし、DSでもその内その手の物が発売になるとは思うけど。

ただそれがDQ9発売までに登場するかどうかと言われるとそれは怪しいか。いや、案外そうでもないか。何せあのDQの事だから発売がいつになるやら分か(以下略)



06/12/14(木) 第600回 少し損した気分
























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