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08/01/26(土) 第971回 ポポロ通信始めました

色についてあれこれまとめてたら「やまぶきいろ」を「やまぶ・きいろ」という黄色の一種だと勘違いしていた幼少の頃を思い出した。あと、クーピーとかクレパスとかの匂いも。今となってはもう触れもしないなあ。

さて、ここの所私が異常なほどトルネコ3に傾倒しているのは周知の事実であるが、もうあまりにも死ぬので、この憤りとストレスを一人で抱え込むのは懲り懲りなので、それを少しでも発散すべくトルネコ3専用ページを作る事にした。
一応ゲームのプレイ内容を書くので「ゲーム日誌」内に置いたが、このページの更新スタンスは以下の通り。
基本的にはプレイ中に起こった特筆すべき展開、事件、事故などをつらつらと書き連ねていく。という事は、ようやくここ最近20Fまででの死亡率を96.5%くらいにまで引き下げられた私であるから、しばらくは様々な場面での死亡特集をお届けする事になるだろう。トルネコ3関係の話がこのFF関連サイトにおいてどの程度需要のあるものなのかは色ネタの需要以上に疑問ではあるがとにかくお届けする事になるだろう。
もっともこれは当サイトの訪問者の為にやっている事ではなく、私の私による私の為のページなのである。その目的は目下の所ストレス発散であるが、究極的にはいつか異世界の迷宮を突破した時に改めて歴戦の記録を見返して、あんな事もあったなあと感傷に浸りたいものである。あれだけ死ねと強く思ったバーサーカーを愛しく思う事が出来たその時、私はようやく本懐を遂げられるだろう。

願わくはその時、冒険の回数が4桁の大台に達してはいない事を…



08/01/27(日) 第972回 芝居論

映画好きは言うのだった。曰く、アメリカのテレビドラマは基本22話もあって全部見るにはどうしてもだれるのに、その基本とされる22話すら本音を言えば長いからなのかしらないが話の途中途中に必要とは思えないエピソードを差し込んで話数を稼いでる傾向がある様に見えて余計にだれる。挙句の果てには22話分もの時間を割いて結局その枠の中では完結せず、あからさまに次のシーズンを期待させる風なカットで放送を終えてしまって後味が悪い。それでもって次のシーズンにはまたもや22話のエピソードが待ち構えている訳で、そんな事ではそりゃあ見る気もなくすとも。ドラマはせいぜい日本の12話くらいがちょうどいいんだって。その点映画は大概二時間程度あれば終わってくれるし、その中できちんと起承転結が描かれる。後腐れなく気持ちよく見終えられるんだからドラマとは比べるべくもない。
だがしかし、ここ半年ちょっとで急激にアメリカのテレビドラマ中毒症になった私はこれに反論するのであった。それを言うなら映画はその二時間という枠の中で起承転結を表現しなければならないから、どうにも内容を詰め込み過ぎている感があるのではないか。個人的な感覚では、たまにテレビで放送される映画作品を見ると決まって「『いよいよ盛り上がってきたかな』と思ったらもう終わった」という感覚に捉われてしまう。もう少し世界観とか、主要人物の背景とかを深く描いてもらいたいのに、時間は限られているからそんな余裕はなくて、バタバタと結末に向けて急がざるを得ないからそうなってしまうのではないのか。特に原作が存在する作品の急展開振りは凄まじいではないか。小説にしろ何にしろ、元々は相応の量があったものを無理矢理二時間に収めようとするからそうなる。それで結局「もうちょっとボリュームがあったらなあ」なんて不満足感に襲われるのであれば、多少あざとい引き延ばしが見られようと、じっくり楽しめるドラマの方がよっぽど楽しめる。
まあどちらが何を言おうと結局は個人個人の志向の違いであって、映画好きとテレビドラマ好きの両者はこれ以上理解し合う事はないのだけれど。

実際、私は映画にのめり込む事のない人間であった。基本的に敢えてテレビで放送される映画というのはそれなりの人気を博した作品か、さもなければ公開を目前に控えた次回作の宣伝を兼ねての事で、もっとも興行収入が芳しいものでなければ次回作など作られないので、とにかく人気を博した作品という事なのであるが、そうしたどんな映画を見ても普通に面白いと思うばかりで、必要以上に白熱したり「次も見たいなあ」なんて思ったりはしないのであった。でも依然として周りの人間は映画の話で盛り上がったりするので、そもそも自分は芝居の類を楽しむ事において根本的に「合っていない」人間なのではと思った時期もあった。それがドラマという媒体に移った矢先にこのハマり様なので、誰あろう自分ですら驚いている始末である。
人間、何が切っ掛けで新境地を見付けるもんだか分かんないね。私という人間の趣味と言えば長年テレビゲームばかりで何かの折に趣味の話題になったりした時はさてどうしたもんかと思っていたものだけれど、今になってようやく人様に胸を張って言える趣味が出来たというのだから。

それにしても、いやに金のかかる趣味だなあ。今度都会に越してこの状況が幾らかばかり変わる事を願う。と言いつつ、今日もこれから「LOST」シーズン2を見る。



08/01/28(月) 第973回 アメリカンドラマエクササイズ

とは言え、どうしてもアメリカのドラマのに馴染めないという方はいるだろう。そこで今日は、そんな貴方にも存分にアメリカ製テレビドラマを楽しめる秘訣を伝授しよう。
視聴に当たって気を付ける事は一つである。一度に続けて二話以上見ない事。
当然だが、アメリカのテレビドラマと言えどもその放送形態は日本と殆ど違わず、基本的に週一回、決まった曜日の決まった時間に流れるものである。そしてこれこそ、テレビドラマというものを楽しむに当たって極めて重要な要素だと私は考えているのだ。
アメリカで放送されたものであるという関係上、それを日本で見る場合に最も手軽な方法だと思われるのは当該作品のDVDを手に入れる事である。まるで何処かの誰かさんの様に気になった作品のDVD-BOXを次々と買ってしまう病的なまでの人間なら勿論、仮に一巻ずつレンタルするにしても大抵そこには二話か、時には三話分のエピソードが収録されており、DVDを手に入れた人はその瞬間複数のエピソードを一気に視聴出来る権利を得る事になる。
だが、そこでやってはいけないのが、その複数のエピソードを一息に見てしまう事だ。借りてきたDVDに入っている二話か三話を通して見る。或いは、思い切って買ったDVD-BOXを徹夜する勢いでむさぼり見る。大抵ドラマの締め括り方なんてのは、視聴者に「次も見たい」と思わせる為にとても先が気になる感じで終わるものであるが、都合の良い事に自分には今すぐにでも次のエピソードを見る環境が整っているものだから、ついつい惰性で「もう一話」などと思って再生のボタンに手が伸びてしまったりするのである。
しかし、そこで、待つ。そこで、我慢する。もし次の話が気になったとするなら、それは貴方がその作品にのめり込む事の出来るチャンスである。でも一時の気の迷いに流されるのではなく、そこでは我慢を押し通して、更に出来れば次の話を見るまで一週間、短くとも三、四日の時間をあけるのだ。そうしてその間、次の話への期待感を膨らませ続ける事だ。本来ドラマの楽しみ方とはそういうものなのだから。一度に見るのは一話まで。例え普段忙しく、悠長に22話ものドラマなんぞ見ている時間もない中でふとしてまとまった時間が取れたりしてもだ。
「24 -TWENTY FOUR-」などは、「これはリアルタイムドラマだから一気に見た方が面白い」なんていう人がいるが、私に言わせれば何をふざけた事を、といった所である。大体リアルタイムで24話24時間と言ったって、DVDではCM部分をカットしておおよそ44分程度に縮まっていて、その為24話ぶっ通しで、それも趣向を凝らして本編スタートの時間に合わせて見てみた所で終わった頃には6時間もの差が生じているだろう。そんな事では折角のドラマの特色も結局台無しである。CM部分も勘案してきっちり1話1時間で見るのなら認めるけど。

大事なのは、「次も見たい」と思ったその気持ちをぞんざいに扱わないという事だ。もっとも初めから「次も見たい」と思わなければ、それはそもそもそのドラマと貴方の趣向とが合ってないだけの事だから幾ら週一で見ていこうと意味のない事である。あくまでもこれは、面白そうだと感じるドラマが存在するという前提で、それを見る内にどうも中だるみしてしまうとか、途中で飽きてしまうとか、そういった人向けのアドバイスなのである。
また、日本のテレビでも散見されるからか「先が気になる感じで終わる」とか「先が気になる感じでCMに入る」とかいう演出を酷く嫌う人がいるが、そうした人にもこの方法は合わないだろう。でも私は思うのである。そうした演出は確かに、あからさまに制作側の狙いが見え隠れするものだけれど、もう少し素直な気持ちで次を楽しみにすれば、テレビは実に楽しいものへと変貌するだろうにと。



08/01/30(水) 第974回 電波少年

「演出をもう少し素直な気持ちで楽しめればいいのになあ」という事で言えば、私はいわゆる「やらせ」と呼ばれる事についても同様の思いを抱いているのだ。
「やらせ」とは、簡単に言えばテレビなり新聞なりで取り扱う何らかの表現について、実際は撮影者や編者の作為的操作が介入しているものであるにもかかわらずそうでないものとして触れ込む行為の事であるが、巷ではこれは酷く敬遠される事の様なのである。でも私は思うのだ。そこに「やらせ」が存在すると認識している上で、それを演出として受け取ればいいのにと。
誤解がない様に述べておくが、ここで言う「やらせ」は報道やドキュメンタリーなど、事実をそのまま伝えるべき種類の番組におけるものではない。こうした番組における「やらせ」の実例も過去にはあったと記憶しているが、そこに製作者の個人的意思が反映されるなどあってはならない事だ。そうではなく、ここでは必ずしも事実に基づいている事が要求されない、娯楽要素が強い種の番組、即ち主にバラエティにおける「やらせ」についてが主題である(前に「報道バラエティ」というカテゴリーに属する事を盾に「やらせ」を正当化した番組があったが、当然そんなのは詭弁である)。
バラエティ番組における「やらせ」は、特に非テレビ関係者(とされる人)が出演する場合によくある話だと思う。街頭インタビューとして街行く人々に声をかける。たまたま通りすがった人にその場で出演をお願いする。或いはそもそも視聴者参加型の番組。私はテレビの世界に詳しくはないからどの番組に世間で言われるレベルの「やらせ」があってどの番組にそれがないのかとかは分からないから具体例は出さないが、例えば次の様な話だ。街頭で通りすがりの人に声をかけ、その人の家庭の晩ご飯を拝見しに行くというコーナーがあったとする。で、何かの折に「実はあのコーナーに出てる人は予め局の人の方から出演を要請されている」なんていう噂が立ったとする。すると、「そんな事してたのか」「がっかりだ」「毎週楽しみにしてたのに」などと言ってその事実に酷く拒否反応を示す人間が現れるのだ。
私はそれが疑問でならない。どうしてバラエティというものにそこまでの「生真面目さ」を求めているのかが分からない。普通に考えれば街角で突然出くわしたインタビュアー、カメラマン、音声担当、照明担当、以下数名のテレビマン達を何の準備もなく家へ上げる人なんてそう都合良くいるものではなく、仮にインタビューした本人が同意したとしてもいきなり見も知らぬ人間が何人も家へ上がりこんでくれば他の家族とのトラブルが起こる可能性は十分にある訳で、そうなってしまうと一バラエティ番組として求められる「面白い」という最低基準を満たす事なんて出来ないのだから、ならばそのコーナーをより面白いものにする為の「演出」として「予め出演する人を決める」くらいの事はしていてしかるべきではないのだろうか。

一時よりも聞かれなくなったかなとは思うが、あまりに「やらせ」「やらせ」と言われるがあまり、「やらせ」と「演出」を履き違えている人が多い様な気がする。もっともこの両者間の線引きは人によって感じ方が大分違うのだろうけれど。でも、少々強引な分け方かとは思うが、報道やドキュメンタリーにおける作為は「やらせ」で、バラエティにおける作為は「演出」くらいの感じ方でいていいんじゃないのかなあ。
ある程度「やらせ」はあると思って、その上でそれは番組をより面白くする為の演出なんだとして見られると、もうほんの少しはテレビが楽しいものになると思う。その「演出」によって番組が面白くなったかどうかは別問題だが。



08/01/31(木) 第975回 任天堂の罪

何にしても、ファミコン用ソフトカートリッジをファミコン本体に差し込む際の、手に伝わってくる感覚がもたらす不安感ったらない。
私の場合、小学校時代はスーパーファミコンの方で遊んだ記憶の方が濃いが、しかし初めてプレイしたテレビゲームは紛れもなくファミコンのそれである。また当時「一日一時間、なおかつ一日おき」という制約があったのを度々破って叱られていた経験を持つ私は胸を張って自分がファミコン世代の人間だと言え、自分のホームグラウンドはファミコンにこそあると言える。
だがしかし、そんなファミコンに慣れ親しんだ人間も、あの感覚にはいつまで経っても慣れないのであった。あの、ソフトを差し込む時の「ザリッ」というか「ガリッ」という手応え。何かが削られている様な感触。いつもいつもそういう手触りな訳ではないが、相当の手練でなければファミコンとカートリッジは気持ち良く差し込まれてはくれず、ただただ不快な衝撃のみをプレイヤーの手に伝達するのみなのであった。
差し込み方が不安定だと次に起こるのは電源投入後のバグ表示である。画面の一部の表示がおかしいとか、全面にびっしりひらがなが現れるとか。当然、差し込み時に「ザリ」などと言われてはカートリッジの状態が万全であるとは言い難く、ある種の覚悟をもって電源を入れてみる事になる。そして意を決して電源をONにすると案の定バグりまくった画面が出る…かと思いきや何から何まで正常に動作していたりするのだが。
何分幼少時代の話であるが故に、あの「ザリ」が一体何処と何処の擦れによって生じているものなのか判然としない。でも何となく基盤とデータ読み取り口との擦れである様な気がしてしまう。だってあんなすべすべのカセットの外側があんな濁った音を出す要因になってる筈がないもの。その点基盤は、何かと触れてみた事もあるけど割かしザラザラしていたと思うので、なるほど、「ザリ」も合点がいくというものだ。しかしそうなってくると不安はいよいよ断ち切れなくなってくる。もしか基盤が擦れているとすればその行為は明らかにそのソフトの寿命を縮めるものであって、内部データの破損などを引き起こす危険性を多分にはらんでいるからだ。そのカセットが「スーパーマリオブラザーズ」だったらまだいいかもしれないが、これが「ドラゴンクエスト3 そして伝説へ…」だったりすると一大事である。ただでさえデータの消え易いドラクエ3にあって基盤に「ザリ」と言わせるとかあってはならない事なのだ。並居るファミコンソフトの中でも特にドラクエ3などは差し込み時の「ザリ」を避ける為に細心の注意を払い最大限の配慮をすべきである。

それでももし、あろう事かドラクエ3がザリってしまったら。
私はその後に待ち受ける恐怖のトラウマから逃げるべく、未来永劫ドラクエ3を押入れの奥深くに封印するだろう。



08/02/01(金) 第976回 任天堂の功

一方、スーパーファミコン用ソフトカートリッジをスーパーファミコン本体に差し込む際の心地良さは素晴らしいものがある。あのカセットがガコッとはまる感覚。あの手触りを実現させた人はスーパーファミコン開発関係者の中でも一番の功労者ではなかったかと半ば本気で思うのである。

まあ、手応えが良くてもドラクエ5のセーブデータはどんどん消えるけどね。



08/02/02(土) 第977回 閃光魔術と書いてシャイニングウィザードと読む

久し振りに証明写真を撮ってもらいに写真屋へ行ってきたが、つくづくああいうのはダメだなあ。何がって、撮影時のフラッシュが。
証明写真の時流なんてものはよく知らないから最近はデジカメによる撮影が主流だったりするのかもしれないが、私は前々から決まった店で、いわゆるスタジオ的な佇まいの場所でフィルム撮影してもらう事が慣例になっている。馴染みだからとかいう訳ではなく、近所に目ぼしい写真屋がそこしかないからである。
んでもって、周知の通り私は閃光が苦手だ。雷光に代表される突発的かつ強力な光が苦手だ。その光が発せられる場所へと好んで寄り付いている事がまず私にしてみれば異常である。
デジカメにもフラッシュはあるかもしれない。だが写真屋に構えられている本格派風のカメラセット一式におけるフラッシュ担当機器の発するフラッシュの力強さたるや並のものではない。つまりこうだ。まず私が写真屋の人に促されて所定の位置に座るだろう。すると写真屋の人はおもむろにカメラの位置を整えたりピントを合わせたりし始めるな。そして目線の確認を取った所でいざシャッターを…おっとここで、写真屋の人が突如撮影体勢を崩したかと思いきや被写体の人に対して「ネクタイが少し曲がってますよ」発言だ。そうしたお気遣いはカメラのセッティングを一通り終える前にしてほしかったがでもありがとう。再びカメラの元に戻ると、勘が狂ったのか写真屋の人は再びカメラの微調整を開始。その間薄ら笑いを浮かべていた私の顔面もそろそろ引き攣り始めたかという頃、ようやくシャッターが切られるかと思いきやここで更に「気持ち身体を右に傾けて下さい」と被写体の姿勢の悪さを指摘する発言が飛び出した。悪い癖です。すんません。そしていよいよ「ではいきまーす」の声がかかると、私の身体は強張るのだった。間もなく強烈なフラッシュに見舞われると理解しているからだ。雷のそれとは違って完全にタイミングを把握可能なものではあるのだが、写真撮影という状況上不用意に目をつぶる事が許されない、つまり前方から発せられる光という光をしっかと見開かれた眼、眼で受け止めなければならないが為に、顔には不用意な力が加わり、若干の震えさえ起きるのである。その時、事前準備の段階であれだけ写真屋の人一人に対してばかり振り撒かれていた薄ら笑いも見事消え去り、結果「万一失敗していた時の為に」と一応二回撮った写真屋の人の計らいなんぞまるで無視して仏頂面をした男の写真が仕上がるのであった。

詰まる所、閃光が苦手な人は写真写りにおいて損をし、それが延いては各種面接などの場面における相手の第一印象を悪くし、それが延いては職探しの妨げになる。さもなければその写真写りは、延いては運転免許証を見せた警察の人の心象を悪くし、それが延いては誤認逮捕に繋がり、それが延いては過度の心労による入院を引き起こし、それが延いては毎日見舞いに来てくれる家族との絆を再認させ、それが延いては逮捕が誤認であるとして無罪放免となった後の家族関係を深めるのである。



08/02/03(日) 第978回 豆に見る真理

今日は二十四節気の一つ、節分です。嘘です。

さて、節分と言えば豆まきである。鬼は外へ、福は内へ。大豆を放って鬼を追いやり、また年の数だけ大豆を頬張る事で福を取り込み、その年の無病息災を願う行事だ。
私も昔は節分の日には豆をまいたものである。割と盛大にまき散らかしたので、後になって若干の後悔の念に捉われるというのが常だった気がする。
そしてお待ちかねの豆食タイム。当時は小学生だったので大体10粒かそこら程度の豆を貰ったのだろう。言っても豆だ、あまり小学生が好き好んで食べる様なものではないから10粒もあれば十分である。と思いきや、そこはスーパーかどっかで買ってきた豆だ、これを機に贔屓にしてもらおうなんて虎視眈々と狙っている商魂たくましいどこぞのメーカーが気合いを入れて製造した珠玉の一品だけあってある程度の塩味がきいており事のほか美味い。ポリポリ。ほほう。ポリポリ。これはなかなか。ポリポリ。良い仕事してますねえ。ポリポリポリポリ。あっ。
まだ小さい掌に乗っていた豆はほどなくしてなくなるのだが、どうにもまだ食べ足りない。もっと欲しいなあ。でも年の数だけ食べる決まりだしなあ。小学生男子の旺盛な食欲と変な生真面目さというか正義感というかがその時熱い戦いを繰り広げていた。しかし私も人の子。そんな誰が得する訳でもない正義を振りかざして後々悔やむ様だったら今好きな様に振る舞うべきだと、私は更に目の前の豆を頬張り出した。私の両親が、少なくとも「節分に食べる豆の数は年齢の分だけ」という風習に固く捉われている類の人でなかった事は私にとって幸運であったと言える。私は、初めの内こそ自分の年齢を超過して胃へと送られていく豆を食らいながら「これで15歳」「これで20歳」などと無邪気な発言をしていたものだが、その内にただ食べる事にのみ集中していくのであった。我が家の風習もある年から豆まきが行われなくなり、いつしか豆すら食べられなくなり、今となっては暦の上で冬の終わりを告げる日であるとは微塵も感じさせない平日へとなり変わったが、そうなるまでの間、一度でも豆を年の数だけ食べて終わった記憶はない。

ところでもしか、豆をぴったり年齢の分だけ食べないと福の神のご利益がないのだとすると、この一見何でもない事の様に見える食欲への希求はその実とんでもなく重大な過失だという事になる。まず豆を食べる前段として豆をまく事で鬼を追い払っている上で福にも寄って来られないが為に、目立った災厄には見舞われないがこれと言った幸福にも恵まれない、極めて平坦(≠平凡)な一年を送る羽目になるからである。大きな壁にぶつかる事はないのかもしれないが、壁のないが故にそれを乗り越える喜びもない。それが普通の起伏に満ち溢れた人生に比べ、魅力の感じられないものである事は明らかである。自分では気が付かなかったが、実はそんなつまらない人生を送ってきていたと言うのか。
その論理で行けば、今の私は要らぬ鬼まで付いて来ている分苦しみ成分こそ多いとは言えそれなりに喜びもある人生を送っているという事だろうか。これで鬼だけ追い払えればもう言う事ないんだろうな。
だが鬼を払う為には漏れなく豆が付いてくる。私もあれから随分と大きくはなったが、塩味のきいた豆を前にそれをたった20数粒ほど食べて後は我慢出来るかと言われれば、自信はない。

致し方ない。喜び多い人生の為には、多少の辛さも甘んじて受け入れるか。



08/02/04(月) 第979回 記載漏れは権利なしと見なす

今週の問題はこちら!
「節分とは二十四節気の一つである。○か×か?」

官製はがきに住所、氏名、年齢、電話番号、クイズの答えを書いてご応募下さい。
正解者の中から抽選で10名様に、「節分用大豆一年分」をプレゼント!
年齢の記載をお忘れなく!



08/02/06(水) 第980回 427回目

まあまずは本日更新のポポロ通信でも見てみて下さいよ。



これはないだろーー!
流石にねえ、83Fで早くも天涯孤独になった時にはいくら何でもこの先クリアまで行けるなどとは微塵とも思わなかったけれどもさ、正直92F、93Fと順調に降りられていく中で「もしかしたら…」と思ったとも。その結末があれっていうのは何ぼ何でも酷だって。死んだ瞬間の心境はもう壮絶だったよ。悲鳴の様な嗚咽の様な声が出たよ。あれだけクリア不可能の様に思えたゴールがすぐそこにまで迫ってたんだもの。最後、チラッと画面に映ったあの階段を降りれば、もしかしたらその次のフロアは階段のある部屋で始まったかもしれないんだもの。でも、意を決して部屋に入ると、ランガーがそこには立っていたんだよ。HPは、度重なる爆発の指輪の酷使で10ちょっとしかなかった所に、奴は固定25ダメージのムーンサルトを浴びせかけてきたんだよ。世界樹の葉は祝福の壷と合わせて一枚で実に四回分の効果を発揮した挙句既に雑草と化してしまっていてね。哀れ武器なし盾なしという無謀極まる状態で一人最深層を闊歩していたポポロはそれまでの活躍振りが嘘の様に散ったんだ。
世界中の葉がもう一枚あれば……そんな勝手な思いを抱いてもみたが、思い返せば4Fで祝福世界樹の葉を飲んでたんだよな。もし、もっと早くにインパスの壷が出てて、あれをキープしたままプレイ出来ていたとしたら……
でも、二回死ねると言われれば三回死に、四回死ねると言われれば五回死ぬ私の事である。これが六回死ねる状況になったなら、そこからくる油断がポポロを七回殺していたかもしれない。

今日の更新タイミングからも分かるけど、今日だけで52Fから98Fまで驚異的なペースで降りたとは言えプレイにいつも以上の時間を割いており、つまり割とさっきまでプレイが続いていたのであり、つまり「もしかしたらクリア出来るかも!」っていう過去類を見ないテンションから一気に最悪な状態へと落とされたのがついさっきの事なもんで、今日は正直更新する気がどうにも起きない。だから今日はこの悲痛なメッセージをお伝えするのみで、お別れという事にしたい。たまにはこんな日があってもいいね。折良くログの変わり目だから明日には過去ログのページに移る事になるしね。という事で皆さんまた次回。


ランガーしね。


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