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12/02/29(水) 第1051回 啓示

何を隠そう、私は敬虔なクリスチャンである。
敬虔なクリスチャンは、毎日、神に祈りを捧げる。

今日も私は祈っていた。
おお神よ、哀れな我を救いたもう〜。

すると、来る日も来る日も熱心に祈っていた私の下へ神はやって来て、そして言った。
これは啓示である。
曰く、

「あんたら地球のゴミ虫な人間共は生まれた時から地獄行き決定なんだから、そんなに肩肘張って生きてなくてもいいよ」

私は生きるのをやめた。



12/09/16(日) 第1052回 エレベーターと私

私は今とある6階立てビルの3階にいて、若者にあるまじき物臭さを発揮しエレベーターを利用しようとした訳だが、いざエレベーターのもとへ辿り着いたときに「ああ、面倒だな」と思った。エレベーターが、今いるこの3階からは最も遠い6階にいて、乗り込むまでに少々時間を要する状態であったからである。何とも間の悪いことだ。しかしながらそんな事に愚痴をこぼした所で何がどうなる訳でもないので、私は観念して扉の脇にある「↓」ボタンを押した。
こうしたときに、私はふと考える。やはり社会的生活を営む人間たるもの、敬いの心を忘れたくはないものだなと。勿論、敬意というものは、世の誰しもが持っている思いである。よほど捻くれた人間でもなければ一人くらいは「尊敬する人物」がいるはずだし、相手が人間でなくとも例えばある種の宗教信者は各々の神を敬っている。また「いただきます」「ごちそうさま」といった言葉から汲み取れる生き物たちへの感謝の心は、この荒んだ現代社会にあってもまだ至るところで触れられるものだ。
しかしながら、「物」に対しても同じだけの敬意を払っている人はかなり少ないのではないか。就職面接などの場面で「貴方が尊敬している人は?」という質問をされることはあっても「尊敬している物は?」と聞かれることがまず無いのはそれだけ一般的な考え方ではないということだ。この世の数ある思想の中には何らかの「物」を唯一神として崇め奉る宗教も存在することとは思うが、言うまでもなくそれはごく一部の人々の主張である。人は、「物は大事に扱うべき」と分かっていて、実際にそう心掛けて生きていたとしても、他人と接するのと同じように物と接するまでにはなかなかなれない。頭でどのように理解していたとしても、自分と物とはあくまで「使用者」「被使用者」の主従関係の上に成り立っているという前提が無意識下に刷り込まれているからだ。だから人は、物と対等な立場に普通は立たないし、ましてや物に対してへりくだるなどということはしない。そしてそれは人間として普通の感覚なのであり、至って自然な姿だろうと思う。
だが、その点私は違う。私くらいの人間になると、物を相手にしてすら、自分本位ではなく、相手ありきの考えを持ちそれに即した行動を取ることができる。常日頃から物への感謝を忘れず、いつだって「私なんかに使わせてもらえる」という意識で物と接することができる。それが証拠に私は、まさに今また、無意識の内にエレベーターへの敬意を表したところだ。即ち、今3階にいて、4階に向かおうとしているときに「↓」ボタンを押したのは他でもない。これは「自分が上の階へ昇る」のではなく、「エレベーターにまず下の階へ降りてきていただく」という気持ちの表れなのである。
つまり、私は馬鹿という訳ではないのである。断じて。



12/12/31(月) 第1053回 今年3回目のサイト更新

早いもので今年も終わりとなった。時間の経過と共にわざわざ独自ドメイン化した意味を失い続けることでお馴染みの我が妄想針千本だけれど、しかしながらここ2年は大晦日に更新の手間を割いて一年の総括をしていたようなので(2010年2011年)、今年も2012年の出来事を振り返っておこうと思う。

2012年おもなできごと
1月…寒かった。
2月…今年1回目のサイト更新をした。
3月…体調を崩した。
4月…暖かかった。
5月…ダルかった。
6月…ジメジメしていた。
7月…暑かった。
8月…帰省した。
9月…今年2回目のサイト更新をした。
10月…「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[前編] 始まりの物語」「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[後編] 永遠の物語」が満を持して公開。私に2度目となるテレビアニメDVDを買わせ、初めてテレビアニメ原作のコミックを買わせ、初めてテレビアニメ原作の小説を買わせ、初めてテレビアニメの主題歌CDを買わせ、初めてテレビアニメ原作のゲームを買わせ、初めてテレビアニメキャラのフィギュアを買わせたさしもの「まどか☆マギカ」も私を初めて一人身で映画館に行かせるまでには至らなかったが、映画自体は総集編として好い内容だったらしいことを知り、いずれ発売される劇場版DVDの購入を強く誓った。なお劇場版主題歌のCDは買った。
11月…涼しかった。
12月…忙しくなってきた。

こんなところ。何やら、一年という時間の流れがますます、特別な感動もない平坦な日常の連続になっているなと思い知らされて焦りが募るが、でも来年もこんな感じだろう。賭けても良い。
それでは皆様、来年は「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語」を何卒よろしくお願い致します。よいお年をお迎え下さい。



13/05/09(木) 第1054回 速報

「妄想針千本が2013年初めての更新へ」

個人サイト「妄想針千本」が、今年初めての更新を行うことが分かった。
これは、「妄想針千本」の管理人が関係者を通じて発表したもの。同サイトが更新されるのは2012年12月31日以来、約4ヶ月ぶりのこととなる。
今回の更新内容について、現在のところ公にはされていないが、本サイトをよく知る読者は「どうせ今回も『雑文』だけでしょうどうせ」と冷ややかな反応を見せている。
また、「今年の抱負として『YouTubeでの活動とのバランスも考えたい』と言いながら、また平気で4ヶ月も更新を放置したことについての謝罪はあるのか」などの声も挙がっており、その更新内容だけでなく、管理人の対応そのものにも注目が集まっているようだ。

妄想針千本…
TVゲーム「FINAL FANTASY(以下、FF)」シリーズの謎、矛盾点を考察する個人サイト。
2005年1月開設、2005年2月一般公開開始。
FFシリーズを題材とした各種コンテンツのほか、「雑文」の毎日更新が好評を博し、一時期は日に100人以上の読者を集めていた。
しかし管理人(kemkamさん・二十代後半男性)が就職して以降は更新頻度が極端に減り、今では当時の勢いは見る影もなくなっている。



13/05/10(金) 第1055回 訂正とお詫び

5月9日に掲載した「妄想針千本が2013年初めての更新へ」の記事に一部誤りがありました。

サイト紹介 3行目
(誤)2005年1月開設 → (正)2004年1月開設

お詫びして訂正いたしますと共に、修正後の全文を再度掲載いたします。


「妄想針千本が2013年初めての更新へ」

個人サイト「妄想針千本」が、今年初めての更新を行うことが分かった。
これは、「妄想針千本」の管理人が関係者を通じて発表したもの。同サイトが更新されるのは2012年12月31日以来、約4ヶ月ぶりのこととなる。
今回の更新内容について、現在のところ公にはされていないが、本サイトをよく知る読者は「どうせ今回も『雑文』だけでしょうどうせ」と冷ややかな反応を見せている。
また、「今年の抱負として『YouTubeでの活動とのバランスも考えたい』と言いながら、また平気で4ヶ月も更新を放置したことについての謝罪はあるのか」などの声も挙がっており、その更新内容だけでなく、管理人の対応そのものにも注目が集まっているようだ。

妄想針千本…
TVゲーム「FINAL FANTASY(以下、FF)」シリーズの謎、矛盾点を考察する個人サイト。
2004年1月開設、2005年2月一般公開開始。
FFシリーズを題材とした各種コンテンツのほか、「雑文」の毎日更新が好評を博し、一時期は日に100人以上の読者を集めていた。
しかし管理人(kemkamさん・三十代前半男性)が就職して以降は更新頻度が極端に減り、今では当時の勢いは見る影もなくなっている。



13/11/02(土) 第1056回 Q.如何にしてインターネットという情報の海からネタバレを避け続けるか

何か一言:「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語」が公開になりました。私は今回もDVD発売待ち組ですが、さていつまでネタバレを避けられ続けるか…(10/26 21:11)
(トップページより抜粋)


今回の新作も、前回の総集編前後編と同様に大人しくDVD発売を待つことにしたのには訳がある。ただそれは、一昨年の「魔法少女まどか☆マギカ」ショックを経てなお私の中に根強く残る、テレビアニメに対しての「世間一般の『いわゆる普通の大人』が興じる趣味ではない」という意識がそうさせたものではない。いや、まあ、実際はそのことも大きかったけれども、それよりももっと重大な理由があった。そもそも私は、映画館で映画を見るという行為が苦手なのである。
映画館で映画を見るのが苦手。もう少し言うと、自分以外の誰かとエンターテイメント空間を共有するのが苦手、である。映画、演劇、コンサートなどは勿論のこと、身近なことを例に挙げると家族一緒にテレビを見たりするのも出来れば避けたい。世の全てのエンターテイメント作品は、それを見る客に対して感動や笑い、はたまた驚き、またはそれがホラー色の強い作品だったりするならば恐怖なども含んだ何らかの楽しみを提供するために作られているものだが、制作者の意図に反してその狙いが外れてしまった時、有り体に言うと「滑った」時に、何と言うか、非常にいたたまれない気持ちになるからである。とても説明し辛いのだが、とにかく滑った空気が場に広がると、速やかにその場を退散したくなってしまう。自分が衆目を集めている訳でも何でもないのに、やや脂汗をかいたりもする。周囲の人間がこの滑り具合を目の当たりにして何を思っているのか気にし出すと、もう作品の方には集中できなくなる。難儀な性格である。
こういう場面を想像してみよう。時間は昼時。そろそろ昼食にしよう。いつもは決まった定食屋で食べているが、たまには気分を変えて違った店に入ってみる。するとその店にはテレビが備え付けられており、昼時分のお笑い番組の顔「森田一義アワー 笑っていいとも」が映っていた。こうなると、折角の昼食の時間は台無しである。「笑っていいとも」がつまらないとは思わないが、しかし幾ら30年以上もの間、第一線で活躍し続けてきたお化け番組であろうとも、やはり滑る瞬間というものはある。悪いことには「ああ、この後滑っちゃうんじゃないかな」と思い始めると実際の出演者達が滑っていなくても一人勝手に居心地が悪くなったりさえする。そうなると次第に気は焦り、喉は乾き、美味しい筈のご飯も美味しく食べられなくなってしまうのである。もっとも、大勢で見ていて全く苦にならない番組もあるにはある。例えば先と同様の場面でも、流れているのがNHKニュースだったのならその日は当たりだ。これが「ヒルナンデス」なら大ごとだが、NHKニュースなら非常に落ち着いた心持ちで食事の時間を楽しむことができる。滑った時の空気が苦手ということなら、初めから客を楽しませることが目的でない、つまりエンターテイメント性の薄いニュース番組などは安心して見ていられるからである。しかし油断してはならない。さしものNHKも、時計の針が12:20を指したその瞬間、「ひるブラ」などというバラエティー番組の放送へプログラムを移行させるからだ。その辺りの娯楽は民放勢に任せておいて、もっとじっくり1時間くらいニュース一本でやってもらっても良いのに。今の時勢は、私のような人間に辛く当たるのであった。
これは、とてつもなく面倒な性格であると重々承知はしているが、「気にするな」と言われてすぐどうにかなるものでもない。しかしながら、劇場公開を逃したら金輪際観劇の機会を失うというのなら検討の余地もあるが、勿論そういう訳でもない。だったら、今回も普通にスルーしよう。ただそう決めたのであった。

しかし、「叛逆の物語」の公開日を迎えるに当たって、私は1つだけ重大な過ちを犯してしまっていた。劇場へ足を運ばないのなら何の意味もなかろうに、わざわざこの日に合わせて前作の総集編前後編をDVDで見たのである。映像で見る「まどか☆マギカ」は、アニメ本編のDVDを買い揃えて以来だから、かれこれ2年以上振りだ。その間、数多くの他媒体、スピンオフ、二次創作などなどに触れ、もはや完璧にストーリー展開を把握し切っている訳だが、それでもなお泣いてしまう前作の破壊力はやはり途轍もない。特に後編ときたらもう。中でも私がお気に入りなのは、ラストのコンサートのシーンである。このシーンは凄まじい。どれくらい凄まじいかと言うと、アニメ初見で泣いて、DVDで泣いて、コミカライズ版でも泣いて、小説版でも泣いたくらいに凄まじい。そして今回の劇場版復習でもまた泣いてしまった。なんてこった。
とどのつまり、前作を見終わった私は、想像を遥かに超えるほどテンションが上がっていた。この時、10/25の23時である。事前の情報で一部の劇場では10/26の深夜0時から最速上映を行うということを知っていたから、何とあとたった1時間で新作がお披露目になるということを認識させられている状態である。うわあ、見たいなあ。深夜であることも相乗して次第におかしな考えが私の心を蝕んでいくが、さすがにもう1時間もないとあっては、私がどんなに心を揺らそうが見に行けるものではない。
結局そのまま0時を過ぎ、寝ようにも寝られないテンションの中、精神的に非常に不健康な状態でぼやぼやとしていた私であったが、幸いなことに救いの手は割と早くに訪れた。今回の「叛逆の物語」のコミカライズ版が、何と11月に早くもスタートするらしいことを掴んだのである。当初の予定通りDVDの発売を待つとしたら半年〜1年はお預けになるということでありこれは拷問にも等しい仕打ち。しかし11月、12月、来年1月の3ヶ月連続刊行ならまだ我慢もできる。この情報を知ってようやく幾らか気分を落ち着けられた私は、それでもまだもやもやとした気持ちを抱えながら、この日は眠りに付いた。

翌日。
この日から戦いが始まる。今日以降、湯水の如く溢れ出すであろう今作のネタバレ情報を避けなくてはならないのである。実の所、私はこれまで今作のネタバレ情報は特別気にしないでいようと考えていた。現実的に、DVD発売までの長期間、ずっとネタバレに触れないでいられるとは思っていなかったからだ。そもそも前作のアニメ本編も既に大まかなストーリー展開を知った上での視聴だった訳であるし、色々と気を揉む生活を続けるよりは、ある程度割り切ってしまおうと思っていたのだ(もっともこれは前日に前作をおさらいしてしまう前までの浅はかな考えである)。しかし半年以上の期間ならともかく、1〜3ヶ月の短期決戦ならこちらに分が無いとは言い切れないのではないか。こうなったら、少なくとも1巻が発売されるたった半月程度の期間は完全にネタバレ情報を遮断して、完璧な状態で新作への導入を果たしたい所ではないか。その昔、「聴く回数が増えるごとに得る感動が薄まるという意味で音楽は消耗品である」という趣旨の文章(第839回 美しい資源)を書いたことがあったが、映画だって同じだ。ある1つの作品から最も大きな感動を得られるのは、基本的にはそれを初めて目の当たりにした時なのだ。ならば、私は是が非でも何も知らない状態でコミカライズ版「反逆の物語」を読み始めなければならない。あまりゲームをプレイすることのなくなった今の私がこんなに熱を上げたのはドラマ「LOST」の他には「魔法少女まどか☆マギカ」だけだ。この情熱は大事にしなければならない。ただ一時の好奇心や注意不足なんかでこの熱意をふいにするなんてことがあってはならない。

ここで問題である。

Q. 如何にしてインターネットという情報の海からネタバレを避け続けるか
A.                                                   



という訳で、見て来ました、昨日。
初見の感動を動画としてみるか、コミックで見るかの差を考え出すと、どうにも我慢なりませんでした。
以下、ネタバレしない範囲での感想。
こうして「まどか☆マギカ」はまたしても私に「『いわゆる普通の社会人』が超えてはならない一線」を超えさせたのであった。
しかし、新作視聴直前に前作おさらい、ネタバレなし状態、そもそも映画館という場に慣れていない(20年振りくらい)という意味での新鮮な感動…本作の動員数は公開2日間だけで27万人という話だったが、私ほどこれを楽しめた人間はなかなかいないのではあるまいか。下らないポリシーを捨てて見に行って本当に良かった。
ただ一つ恐ろしいのは、ひとしきり燃え上がってようやく落ち着いてきた感のあったまどマギ熱が再燃したことか。またしばらく、テンションの高い日々が続きそうである。



13/12/01(日) 第1057回 読書批評文

さて、少し落ち着いてきたところで「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語」のネタバレする範囲での感想を書こうと思ったのだが、何度となく手が止まってしまった。あれこれと書いている内に、感想ではなく批評のような文章になってしまうのだ。
意図せず書いたものではあったが、いざ批評文というものを書いてみて、私はこの手の文章を広く一般に公開するべきではない人間であることを自覚した。この私という人間は、世間から見れば何者でもない存在なのであって、そんな私の映画批評なんて読みたいと思う人は居もしないからだ。いや、読み手の不在という事情ただそれだけなら、「そんなの気にせずとにかく発信する」という自分本位極まりない精神で強引に公開に踏み切れもするだろうが、それに加えて私は「自分の意見を他人の意思決定の参考にしてもらう」ことについて一切の自信が持てないという致命的問題も抱えていた。ここがどんなに無名のウェブサイトであろうとも人の目に晒される場所である限りは自身の発言に責任を負わなければならないのだが、悲しいかな、それだけの責任を背負えるほど、私は私の意見思想考察に自信が無いのであった。

ところで、私が何かを批評してはいけないその理由はともかくとして、こうした経緯をきっかけに意識的になったことがある。「感想と批評の違いとは何か?」
この疑問自体はよく論じられるテーマのようで、ただ「感想 批評」という2語を検索エンジンに投入するだけでもこれについての意見が沢山引っ掛かってきた。幾つかピックアップしてみる。

・「理由」について言及されているかどうか
作品に触れて感じたことを「面白かった」「ここは〜〜という展開になってほしかった」という言葉だけで完結しているものが感想、そこから一歩踏み込んで「何故面白かったか」「どうして〜〜としては駄目で、またどのようにすればより良くなったか」ということにまで触れているものが批評、とするもの。
私が書いていた文章は「素晴らしかった点とその理由」「最も凄いと思った点とその理由」「残念に思った点とその理由」を含んでいたため、この基準に従うとやはり批評寄りだったということになるか。

・主観的か客観的か
主観で物事を論じているのが感想、客観的立場に立っているものが批評、とするもの。
私はあくまで「私がこう感じた」ことを述べているだけなので、これによれば感想に位置するものということになる。

・誰が書いたか
素人が書いたものは感想、プロが書いたものは批評、とするもの。
一見、身も蓋もない考えのように思えるが、しかし「批評」という行為には、映画なら映画に対する、小説なら小説に対する、絵画なら絵画に対する浅からぬ知識が必要な訳で、これを有する人を「プロ(専門家)」と表現するなら、あながち馬鹿にはできない基準のようにも見えてくる。
勿論私は、アニメ作品に対してもアニメ制作に対しても映画製作に対しても精通している訳ではないので、ここにおいては「感想」を書く人、となる。

・国語辞典によると
かん‐そう〔‐サウ〕【感想】――物事について、心に感じたことや思ったこと。所感。
ひ‐ひょう〔‐ヒヤウ〕【批評】――物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。
「評価」の有無がポイントになっていそうだが、しかし「この本は面白かった」という小学生の読書感想文感満載のこの一文にだって物事の是非に対する個人の評価は含まれている訳で、ならばこれは批評なのかと言われると、よく分からなくなってしまう。

人によって意見が大きく異なり、最後は国語辞典に救いの手を求めてみたが、それでもはっきりとした答えは得られそうにない。元々が似た性質のものなのだから致し方無いのだろうか。
答えが一意に定まらないのであれば、最終的に大事なのは「私自身がどう捉えるか」である。こうした考え方があることを踏まえ、こうした思いを持つ人達がいることを踏まえ、私は改めて一から考え直し、そして一つの結論に至った。ずばり、感想と批評の違いとは何か?

・偉そうかどうか
まず前提として「この文章は感想なのか批評なのか」については、結局のところ、その基準が人によって違うのだからつまり最後には「読み手がどう受け取るか」に左右されることになるという事実がある。次に、様々な考え方はあれど、「批評」に何らかの「評価」という行為が含まれるのは絶対条件と言っていいはずである。更にその「評価」とは、常に上の立場の者が下の立場の者に対して行うものであるというのも絶対不変の真理である(ここで、「部下が上司を評価するケースもあるよ」という反論はこの主張を覆すものではない。例え普段は下の立場であろうとも、「評価する」その瞬間に限っては己の価値基準こそが世界の中心となって、評価対象者はそれに追従するに過ぎない存在と化すからである)。
つまりこうだ。感想には偉そうな感想と偉そうでない感想があるかもしれないが、全ての批評は上から物を言っている訳だから偉そうである。そしてこの考えをもう一歩推し進めると次の事が言える。上から目線の発言は批評と捉えられ易くなり、下から目線の発言は感想と受け取られ易くなる。
更に更にこれを基に考えを掘り下げていくと、結構真面目に、口調がかなり重要な要素として挙げられるようにも思えてきた。意図するところが全く同じ文章であっても、文体が硬いか柔らかいかで片や感想、片や批評という風になってしまいかねないのではないのだろうか。実際、「ここに至って、物語冒頭の主人公の独白が私の心を打ったのである。けだし名作」と書くのと「もぅマヂ無理。。。主人公がさいしょにゅってたコトバの意味がゎかって。。。そしたらもぅ。。ナミダ止まんなぃ。。。ミンナも見てみて。。。オススメだョ。。。。。」と書くのとでまるで印象が違ってくるのは明らかで、しかも後者が「批評」と見なされることはまずない。そして私はと言えば、いつの頃からかこのサイトでの活動においては硬い文体の代表格と言える「だである調」を好んで使っている訳で……

ということで、感想文が批評文になってしまわないようにまずは、文章を努めて柔らかく書き直していくことから始めることにした。
ええっと……
ほむらはゅった。。。。



13/12/23(月) 第1058回 忘れ去られた秋の空

スマフォもといスマホいわゆるスマートフォンの台頭により一昔前ほどの勢いが見られなくなったとは言えパソコンの一般家庭への普及率が全体的にはまだ上昇し続けているこのご時世、膨大なデジタルデータの中から有意な情報を選別する技術への需要もまた増加の一途を辿っている。限りある人生、少しでも無為な時間を生み出さないために、現代人は効率的な情報の取捨選択能力の獲得を求めているのだ。そこで、今日からあなたの人生を有意義なものとするその一助として、今回は特にテキスト検索に焦点を絞って「正規表現検索」と呼ばれるテクニックをご紹介したい。
正規表現(せいきひょうげん、regular expression)とは、文字列の集合を一つの文字列で表現する方法の一つである(引用元:Wikipedia)とあるが、そう言われてもピンと来ないので具体例を交えながら解説する。例えば「エンターテイメント」という言葉があるが、この単語を探したいと思った時、単に「エンターテイメント」という文字列で検索しただけでは十分な結果を得られない場合がある。英単語のカナ表記によく見られることだがこの言葉は書き手によって「エンターテインメント」「エンタテイメント」などと幾つか異なった書かれ方をするため、「エンターテイメント」による検索のみではその他の表記にはマッチしてくれないからだ。この問題を通常の検索手法の範囲内で解決するには全ての表記で検索を実施してみるしかなく、しかしこれは随分と煩わしい。こんな時にこそ正規表現の出番である。正規表現を用いれば、上記のような文字列の揺らぎは次の1語で書き表すことができる。

エンター?テイン?メント

ここで、記号「?」は「直前の文字が0個か1個存在する」ことを表す。つまりこの場合「ー」と2個目の「ン」はあってもなくてもいいということであり、この1語で「エンターテイメント」にも「エンターテインメント」にも「エンタテイメント」にもマッチしてくれるという寸法なのである。
もう一つ、更に身近な例で正規表現の便利さをご覧に入れよう。日本人たるもの、誰しもがふとした時に「あ、MAXの人について無性に調べたい」と思った経験がお有りだろう。勿論ここでいう「MAX」とは、女性のみによって構成されている、ボーカルダンスグループとして一時代を築いた、元スーパーモンキーズであるところの、Musical Active eXperienceな音楽ユニットのことである。このMAXのメンバーについて知りたい。しかし誰しもがご存知の通りMAXは4人グループである。つまりまともにメンバーの情報を探そうとすれば都合4回も検索の手間を割かなければならないということでありこれは面倒だ。こんな時にこそ正規表現の出番である。このような場面においても、正規表現はたちどころに簡潔な検索文字列を提供してくれるのだ。

(ナ|ミー|レイ|リ)ナ+

記号「|」は「この文字によって区切られたいずれかの文字列」を表し、「+」は「直前の文字が1回以上連続する」ことを表す。丸括弧内のいずれかの文字列が初めにあって、その後ろに「ナ」が1個以上くっつくという訳だ。最後の「+」は不必要ではないか、と思われる方がいるかもしれないが、それは誤りである。これが無いと、仮にテキスト内に「レイナナ」という文字列があった時、1〜3文字目の「レイナ」にはマッチするが3〜4文字目の「ナナ」にはマッチしてくれないという問題が発生するからだ。これには文字列検索の処理アルゴリズムが云々という理由があり、また厳密にはどのソフトウェア上で正規表現検索を行っているかによりここで「ナナ」にマッチするかどうかが左右されたりもするのだが、そのような細かい話をこの場でしてもキリが無いし本論からもずれてしまうためそれは控えておく。ともあれ、そういう小難しい事情に煩わされるくらいならもう「レイナ」だろうが「レイナナ」だろうが「レイナナナナナナ」だろうが全部まとめてヒットさせてしまおうという度量の広さを感じさせる「+」なのである。
ただ、先に挙げた正規表現が致命的な問題を抱えていることは無視できない。日頃からMAXを愛して止まないあなたではあるが、「さあMAXの人のことを調べよう」と思い立った時に、不覚にも4人の名前をど忘れしてしまっている可能性が無いとは言えないのだ。メンバー名を覚えていなければ、前述のような検索条件文は作成不可能である。条件文を作れなければ、検索による情報の絞り込みは行えない。あー、何だったっけ。「何とかナ」だったことは覚えてるんだけどなー。もうここまで出かかってるんだけどなー。しかし悲しいかな、あなたの脳がMAXの人の名前を記憶の奥底から引っ張り出してくることは遂になかった。万事休す。打つ手無し。MAXの人への礼を失したあなたにもう望みは無いのか。否。絶望に打ちひしがれるのはまだ早い。こんな時にだって、正規表現はその持ち前の万能性であなたに救いの手を差し伸べるのである。

.{1,2}ナ

記号「.」は「任意の1文字」を、「{1,2}」は「直前の文字が1〜2個連続する」ことを表す。つまりこの条件文はテキスト内から「○ナ」または「○○ナ」という「MAXの人の名前っぽい文字列」を検索してくれるのだ。何という正規表現の汎用性、多用性。このような曖昧検索が求められる場面においても、正規表現は容易くあなたの要望に叶った検索条件文を提供するのである。

さて、正規表現の有用性についてはここまでで十分にお伝えできたことと思う。しかし今回挙げたのはほんの一例である。技術としても基礎の基礎を少しなぞってみたに過ぎない。しかし正規表現の本領はこんなものではない。ご紹介できていない構文が他にも数多く存在するのは言わずもがな、それらを組み合わせることによる表現の可能性は無限大である。もしあなたがこれらの技術を応用すべく学習に励めば、正規表現は必ずやその思いに応えるだろう。それが延いては、あなたの人生の質をより高く押し上げることになるのである。
願わくば、あなたの人生が今日から変わり始めることを。
あと、MAXがもう一度かつての輝きを取り戻して第一線に帰ってきてくれることを。



13/12/31(火) 第1059回 十把一絡げ

HDリマスター版FF10、FF10-2の発売に関連してその少し前から一時的にアクセス数が増加しているようで、今日も攻略情報を求めてやって来た方達に攻略とは似ても似つかぬ文章をお届けしていることに恐縮するばかりの私である。
いや、恐縮するだけならまだいい。何しろこのサイトが攻略とは無縁の殴り書きを提供し、ゲーム進行のヒントが欲しかった人々に辛く当たっているのは今に始まったことではない。恐縮のキャリアが違うのだ。恐縮の経験が違うのだ。恐縮の実績が培われているのだ。しかし、当サイトへの訪問者が「妄想」なり「歪曲」なり「ゲーム日誌」なりを見ている事実を改めて認識したとき、私は恐縮もしたが同時にこうも思っていた。恥ずかしいなあ。

そう、このサイトを見ていただくことは、私にとってことのほか恥ずかしい。
「妄想」は無茶な理論を振りかざしていることが今となっては恥ずかしい。百歩譲ってそこには目を瞑るとしても、長文になればなるほど言い回しがくどくなってしまうのが恥ずかしい。
「ゲーム日誌」は私のRPGセンスの無さを露呈しているようで恥ずかしい。
「俺的事典」はまだましな方かなあ、とも思うが、やはりマイナー単語への無理な突っ込みが恥ずかしい。
「愚痴」は何様でもない人間が上から目線で偉そうに文句を垂れている様が恥ずかしい。
「歪曲」は恥ずかしい。
唯一まだたまに更新している「雑文」は、(昔書いたものはともかくとして最近の回に限れば)今の私の感性によって書かれたものなのだから胸を張ってお見せできるか、と、思いきやさにあらず。私は愕然とした。こうして我がサイトのコンテンツ群を見直してみていた当時の最新回に「美少女萌えキャラ系魔法少女物深夜アニメ」という、今年30を迎えた独り身の男が嬉々として語ってはならないテーマについての文章が掲載されていたのである。これは、そこにどんな背景があるにせよ、世間一般の尺度で言えば恥ずかしいことと言わざるを得ない。だもので、慌てて「雑文」の最新回に「MAXの人」を題材にした文章を載せてはみたのだが、いやいや何が、ちょっとページを下の方へスクロールすれば、そこには依然として深夜アニメにうつつを抜かす30のおっさんの姿があるのであった。

2004年1月1日。たった2人の友人のためだけに生まれたこのサイト「妄想針千本」は、本日開設10周年を迎えます。
今日までここを見て下さった全ての方に感謝します。皆様のお力に支えられ、当サイトは10年の月日を経て見事、どこに出しても恥ずかしいウェブサイトへと成長を遂げました。
泣きそうです。今後とも妄想針千本とkemkamをどうぞよろしくお願い致します。



14/02/08(土) 第1060回 あ〜ん

あ〜ん=ひらがなの最初の文字から最後の文字
つまり例えば、

・医者が子供を相手に

「はい、それじゃあお口をひらがなの最初の文字から最後の文字して下さいねー


・ぶりっ子の女の人が食事時に

「ひらがなの最初の文字から最後の文字、あたしトマトって食べられないの〜


・街中で不良の高校生とすれ違いざま

「てめ、この、なにジロジロ見てんだよ、ひらがなの最初の文字から最後の文字?


・胡散臭いフランス人

「ンー、トレビカタカナの最初の文字から最後の文字


・カップルのいる風景

女「はい、ひらがなの最初の文字から最後の文字

そう言って彼女は、今日の為に気合を入れて焼いたというクッキーを僕の口元に持って来た。
途端に顔が熱くなっていくのを感じたが、ここでうろたえては恰好が付かない。ここは意を決して、

男「ひらがなの最初の文字…ひらがなの最初の文字から最後の文字……パク、モグモグモグ。う、

女「う?

う、うげ、しょ、しょっぱい!
こ…こいつさては…

男「…女優あめくみちこの夫の本名を間違えたな



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