07/08/24(金) 第831回 野菜
ニンジンは好きだ。あの甘みが苦手だという人がいる様だが私にしてみればその甘みこそがニンジンの醍醐味だと言える。
ダイコンは好きだ。おでん辺りが代表格だと思うが、ここは敢えて味噌汁の具としてのダイコンを推そう。たくあんの神がかった美味さは言うまでもない。でもおろしは苦手だ。料理に大量に盛られていたりするとちょっと敬遠してしまう。
キュウリは好きだ。歯ごたえや良し。ちょっと塩をふって噛り付いたりするのが格別。
カボチャは好きだ。よく煮て軟らかくなったものなんて幾らでもいける。
トマトは好きだ。酸味がちょっと苦手な私としては「大好き」と言い切る事が出来ないが、しかしさっぱり感が良い。
キャベツは好きだ。何と言っても千切りだ。最近はごまドレッシングで食うのがお気に入り。
ホウレンソウは好きだ。菜っ葉を食べているなあという感覚が一番強い。でもそれは不快という訳じゃない。ごま和えにして食うのが美味い。
ネギは好きだ。その気になれば生のものを丸かじり出来るくらい好きだが、やはりネギの真骨頂は薬味としての活躍にこそある。なるべくたっぷりと入れる。入れれば入れるほど美味い。ネギが高い時には迷惑をかけるね。
ニラは好きだ。あの独特の臭みが癖になる。食後の口臭を一切考えない私はマナーのなってない大人。
サツマイモは好きだ。家では主にふかしたものを食べるが、どうにも焼いもの美味さには勝てない。皮は食べないタイプ。
タマネギは好きだ。味噌汁の具として食べる事が多い。だが焼いても良し、炒めても良し。
小松菜は好きだ。殆どホウレンソウと同じ様にして食す。ちょっと苦味がある点でホウレンソウの方が好きだが、この苦味を味わいたくなる時もあるんだな。
オクラは好きだ。ネバネバ感が良い。シンプルに醤油で食べる。ごくごくたまに天ぷらにしたりする。
ピーマンは好きだ。その苦味には賛否両論あるが、炒め物のアクセントには抜群の力を発揮すると思う。
もやしは好きだ。味にこれといった個性のないが故に様々な応用がきく万能さが素晴らしい。でもやっぱり至高はもやし炒め。
トウモロコシは好きだ。何と言ってもワイルドだ。
ナスは嫌いだ。天ぷらならかろうじて食べられるが、焼ナスや漬物などそれそのものだけを食すという事が出来ない。
ブロッコリーは嫌いだ。頭の粒々がとても気持ち悪い。
カリフラワーは嫌いだ。ただの白いブロッコリーだ。
ヤマイモは嫌いだ。痒いよ痒いよ痒いよー。
セロリは嫌いだ。どうにも風味がダメだ。育ってきた環境が違うから。
野菜は一日に350g摂りましょう。
07/08/28(火) 第832回 イヴァリースのその先
まあまあ、そんなかしこまらなくったっていいじゃない。そもそも誰も真に受けてなんてなかったんだからさ。>ドラクエ9
さて、気付いてみると図ったわけでもないのにプレイ開始一年を迎えるまでのクリアが絶望的であった筈のFF12二周目がそのタイミングを直前に控えた段階になってクリア出来るかどうかの瀬戸際に立っていた。後六日。後六日であれは、プレイ開始時点では確かに「今冬のクリアを目指したい」と謳っていた筈であるにも拘らず何かがどうにかなって丸一年となる。しかし本当に驚くべきは期間ではなく、その一年でこの私がたった26日しかゲームに触れていなかったという事の方だ。もっともこのサイトに反映されない部分では、先日極めて中途半端に終わった「ゼルダの伝説 ふしぎのぼうし」を初め幾つかの作品に現を抜かしていたりはしたが、少なくともこの一年、新たに何かしらゲームを買い求めた事実はない。FF12も終わってないのに別の新作に手を出すなどFF12に失礼だと思うからである。そんなに気持ちが浮ついている様じゃあ、今日の「もしかしてプレイ開始一年になる前にクリア出来るかも」という高みに到達する事はなかっただろう。
だが、そんな「忠心」ももうじき終わる。私は昨年三月のFF12購入以来一年半振りに「次に何を買うか」の選択を迫られる運びとなったのだ。
して、何を買おう。何をやろう。丸々半年ゲームそのものから離れてしまっていると、もう最近の動向とかが全くもって分からない。故に、少々時流を遡る事になるかもしれないが、今興味のある作品を挙げていってみよう。
まずは何と言っても、「METAL GEAR SOLID PORTABLE OPS」が未だ私の心を掴んで離さない。上ではああ言っておきながら、何度FF12を中断してこちらへ流れようと思った事か。現在手元にはほぼ宝の持ち腐れ状態にあるPSPがあるから、それをしっかりゲーム機として働かせてやる意味でも次の最有力候補はこれだろうと思う。ただ、PSPについては今度発売になるテレビ出力も可能となった新型の事が随分気になっており、ゲームと言えばテレビでやるもんだという思いの強い私にしてみればその環境が整うまでは待とうかな、とも思わされている。悩む所だ。
FF12終わりという事で言えば、順当に「FINAL FANTASY 12 REVENANT WINGS」は当然候補として挙げられてくる。でも「一年FF12だった後この期に及んで更にFF12か?」と思わないでもない。例えシステムはよもやシナリオ的な繋がりすら希薄であるのだとしても。それに、未だNintendoDSを持っていない事もかなりの壁だ。今回は見送るのが妥当か。
もう発売からは随分経っているが、PS版「DRAGON QUEST 5 天空の花嫁」も長い事私を刺激して止まない。個人的にシリーズ一、二を争う作品であるだけに、セーブデータが消失してしまう危険性がほぼ皆無な環境下で行うDQ5なんてのはもう夢の様な話でもある。だがしかし、このタイミングでDS版リメイクの話が浮上するという間の悪さ。でもDS版とPS2版だったらやっぱりPS2版かなあ。これはいよいよ買いかなあ。
意外な所では、各地でクソゲークソゲーと言われ倒している「聖剣伝説4」も、世間の評価なんぞ物ともせずネームバリュー一つで手を伸ばした多くの人々と同じくして興味がある。でも私だって伊達にこのシリーズをFF外伝、2、3、LOMとプレイした訳ではないのだ。どんなにクソゲーと言われてようが、Amazonにて驚愕の81%OFFで売られてようが、プレイする意義はあると信じている。ってか、プレイするんなら早くやらないとDCFF7みたいに完全に機を失っちゃうから。
ふーむ、やっぱりどうも時代が前なんだな。今って何が売れてんの。
07/08/29(水) 第833回 子供だろうと容赦しない
ああ、「トルネコの大冒険3」もずっと欲しかったなあ。欲しい欲しいと思い続けて早五年になったけど。ってか、FF12が終わったらアルティマニアΩ読むつもりでいた事をすっかり忘れてたから、その時間を考えたらもう少しゆっくり考慮する猶予はありそうかな。
そう言えば「トルネコの大冒険」で思い出したが、この間こんな事を考えていた。このゲームにはトルネコの所持するゴールドやアイテムを盗むわらいぶくろやミニデーモンといったモンスターが登場し、盗まれたものについてはその後倒す事で取り返せる仕様になっており、盗まれる前に倒した場合はそれぞれゴールドと何かしらのアイテムを落としてくれるのであるが、まんまと金乃至物品を盗まれてしまった後で倒した時に、盗まれたものが返ってくるのは当然として何も盗まれないまま倒した場合に落としたであろうものを併せて落とさないのは何故だろうかと。つまり彼等がトルネコから何かを盗み取った時に、元々持っていたものは一体何処へ行ったのだろうかと。そんなどうでもいい事を。
ゴールドを盗んでいくわらいぶくろについては、まあ分からないでもない。彼は元々幾らかのお金を持ってはいるが、この度とある筋から臨時収入を得られた事に喜び、つい羽目を外して豪遊するなりしてしまったのだろう。見るからに遊びの少なそうな場所である。いつもあんな所にいれば段々生活に嫌気が差してくるのは当然な筈で、しかもそれはわらいぶくろに限らずその他のモンスターについても同様の事が言える筈で、だからまあ彼は、不要になったお金を周囲のモンスターに気前良く分け与え羽振りの良さを演じるという「業績好調企業の社長ごっこ」をしていたに違いないのだ。何を馬鹿なと思われるかもしれないが、どうせお金があった所でそれを利用する施設なんぞないのだから、お金による楽しみと言えば「業績好調企業の社長ごっこ」くらいしかないものなのである。後は「ゴールドドミノ」なんてのもあるにはあるが、これはお金を消費しない遊び、即ち浪費していい様な余剰金がない状況下で行う遊びなのであって、「豪遊」とは明らかに一線を画すのである。
これを踏まえれば、ミニデーモンがアイテムを盗んだ時にそれまで持っていたアイテムを失う理由も分かってくる。彼は多分そのアイテムを使用したのだ。生まれてこの方、遊び道具と言えば唯一持っている「薬草」 或いは「地獄耳の巻物」 はたまた「転ばぬ先の杖」のみ。何か別のアイテムでもあればそれらを併用して斬新な遊び方を生み出し得るかもしれないのに、それ一つしかないんじゃ出来る事と言えば各々「草笛」「宝の地図を持って探検家気取り」「素振り」がいい所。無論、すぐ飽きる(普段ずっと寝ているのは起きていてもやる事がないからか)。しかしそこに興味深い代物を沢山持ったカモが現れて、その中の一つを拝借した。人生で初めて見る玩具。彼は途端にその虜になる。遊び方がどうかという問題ではなく、未知の世界に対するドキドキ感がそうさせるのである。そして彼は、もう「飽きた」とかいうレベルじゃなくなっていた手持ちのアイテムを初めて使い(或いは何者かに対して投げ付け)、新たな玩具に心酔するのだ。言ってもまだ子供である。やる事は幼い。しかしその辺りに落ちているアイテムに目を付けたりする事がない所を見ると、モンスターでありながらきちんとした教育を受けて育っている様で、少し好感を抱いてしまいそうだ。一方のわらいぶくろは我先にと落ちているお金に興味を示す下品な輩であると言うのに。
ちなみに、何故一つを得て一つを手放すのか、何故二つを同時に持ったりしないのかについては、恐らく彼等が二つ以上のゴールド袋並びにアイテムを所持出来ないからと考えられる。子供であるが故に身体が小さいという事もあるが、何より地面にあるゴールドに群がりながら一向にそれを拾おうとしないわらいぶくろがそれを証明していると言える。
こうして考えてみると、何かとうざったかった彼等も何処となく可愛く、そしていじらしいねえ。つっても、盗まれたものは何があっても返してもらうけどね。ほら、「人のものは盗んじゃいけません」って事を教える為の教育的指導が必要だから。
07/08/30(木) 第834回 喜怒哀楽の第二波
インターネットの発展以後、そこにはそれまでにはなかったデジタルコミュニケーションの形が生まれた。電子メールや、電子掲示板といったシステムである。
こうしたシステム下では、ただネットワークを介するという以外は至って普通の会話なり談笑なり、はたまた議論なり喧嘩なり、さもなければ業者の宣伝が行われるものであるが、中でも特にリアルタイム性の高い、チャットやインスタントメッセンジャーなどではそれらに加えてある特徴的な書き込みが見られる様になる。直感的感情表現である。
普通人間は、生活の中で起こる様々な事象についてそれを見聞きしたりそれに触れたりした際、そのものが一定の度合いを超えていると身体が本能的な反応を示すものである。怒り、悲しみ、驚き、恐れ、そういった感情がまず爆発的に湧き出し、何らかのアクションとして表出するのだ。そしてそういった瞬間的表現は電子掲示板などではあまり見かけない類のものである。幾ら投稿したメッセージが即時反映されるものだとしてもやはり掲示板はどちらかと言えば手紙然としたものなのであり、自らもまた、今自分が返信しようとしている直前のレスがしばらく前に投稿されたものだという事実を無意識下で認識しているのであり、そうした言わばホットでない情報に対してホットに応対するのにはどうも不自然さを禁じ得ないからなのだろうと思う。
しかしそれが、リアルタイム性を色濃く有した場となれば話は違う。先に例を出したチャット或いはインスタントメッセンジャーによって複数人が同じ「コミュニケーションを取る」という目的の下に集い会話を行うと、そこにはある人が発したメッセージに対する他者の即時的直感的反応が生まれる。今自分が返信しようとしている直前のレスが正しく直前になされたホットなものであるが故、まるで実際の会話であるかに自然な振る舞いが出来るからだ。
即時的直感的反応。例えばそれは、喜びを表す「やったー!」である。例えばそれは、驚愕を表す「うわあああああ!」である。そして例えばそれは、大笑を表す「はははははは」である。こうした発言の存在が、あまりに無神経なものであったりしない限りは、場の空気を大いに盛り上げてくれるものである事は言うまでもない事だ。
だが私はふとして思うのである。そうした即時的直感的反応として投稿された文章も、その投稿時における投稿者の感情とは幾分の乖離があるのだろうなという事を。そして得も言われぬ違和感を覚えるのである。
例えば、とある人にとある喜ばしい事が起きた事実に対し、前述の様な「やったー!」といった書き込みがあったとしよう。確かにその人は喜んだのだろう。だけれども、本当の喜びの感情はその人が直前の書き込みを見たその瞬間に湧き上がっていたものの筈で、喜んでいる旨書き込もうとする時には既に幾分か気分が落ち着いた状態であると思われるのだ。
ある人にいわゆる「ビックリ系」と呼ばれる動画なりFLASHなりを紹介されてまんまと驚かされた事に対する「ぎゃああああ!」という書き込みも同様である。その人が驚いた事それ自体は事実であるのだとしても「ぎゃああああ!」と驚いたのはそのビックリさせられるものを見た瞬間なのであり、「ぎゃああああ!」とタイプしている段階ではまだ多少心臓が高鳴っているくらいでもう「ぎゃああああ!」とまではなっていない筈なのである。
つまり、投稿者の書き込み内容と投稿者のその瞬間の感情に若干の、しかし明らかなタイムラグがある事に違和感を感じてしまうのだ。私自身インターネット上で、チャットなどのリアルタイム性に富んだ状況下に身を置く事が少ないから余計にだ。
だって、考えてもみてほしい。例えば今貴方は非常に落ち着いた気分でこのページを読んでいる事と思うが、ふとして出会った「ぎゃああああ!」という書き込みの向こうに、貴方の様な雰囲気で「ぎゃああああ!」とタイプしている人間の姿があるとしたら。
そうした事を考え始めてしまうと、しばらくはその流れの速い、盛り上がった雰囲気にどうにも付いていけなくなってしまうのであった。
07/08/31(金) 第835回 フィンガー族
昨日ああいった文章を載せた後になって思った。私は、前述の様にチャットやメッセンジャーなどを利用する機会が殆どないからこそその種の発言に違和感を感じていた訳で、経験が浅いからこそその種の発言をする人は一旦感情を爆発させた後、その旨タイプして文字にしているものだと思い込んでいたが、もしかしたらその考えは誤りであるかもしれないと。
私がインターネット上のリアルタイムコミュニケーションの素人だとするなら、向こうはその道のプロというべき人々である。語弊があるかもしれないが、毎日の様に誰かと会話を交わし、趣味の話に興じ、共に盛り上がり、時にその行為に心血を注ぐ事もいとわない人々である。彼等が私にはない、とある特殊な能力を持っていると考えない方が不自然だ。そしてその「特殊な能力」こそが、即ちインターネット上への即時的直感的反応であるとすれば。
彼等は、例えば自分にとって非常に喜ばしい書き込みを見た時に、心の底から喜ぶと同時にその感慨を表す言葉を書き込み欄にタイプし始め、それが極めてシンプルな構成であればその感動も冷めやらぬ内に書き込みを送信する。或いは極端な驚きに見舞われた時にも、身体がのけ反るほどの反応をしていながら口からこぼれ出た悲鳴と同様の言葉を指ではタイプする。こうして言葉で表現するとまるでおかしな、あり得ない行動である様にも思えるが、彼等にとってそれは仲間との会話中、発言内容を一々頭で咀嚼、推敲せずダイレクトに書き込みを行い送信する事の延長上にあるものである。
そしてそれは、才能だ。彼等はインターネットが市民権を得るまでの人々には見られなかった新たな感情表現術を会得しているのだ。指で行う感情表現。これは人類がまだまだ進化の過程にいる事をおぼろげながらも示す事象の様でもあるが、その実この能力に新たな可能性なんてものは恐らくなく、更に会得した所でPC前でしかそれを発揮する事は出来ず実生活上で役に立つ事がまずない点は残念至極である。
いや、何ら喜ばしくない事であるばかりか、むしろ私はこの事象に新たな危惧すら抱く。反射的に起こる感情表現に指が付いていってしまうという事は、その指の動きが癖となって反射的反応の一部になってしまう可能性が否定出来ないからだ。特にそれが、幼少時代を終え身体的精神的にある程度成長してからその様になった人ならまだしも、小さい頃からインターネット上リアルタイムコミュニケーションの虜となり早くに癖が根付いてしまった人だとすれば。
あらゆる感情表現に際し指に、その感情の種類によってそれぞれ特徴的な動きを示す人間。PCに向かっていようがいまいが人前に立ってようが立ってまいが意識してようがしてまいが感情を表に出す度にククッと動く両手指。私は彼等の事を、その様な能力を持たない私や私と同様の人々とを明確に区別する意味で新人類と呼びたい。
インターネットが一般に広まって十余年。既にして新人類は誕生しているかもしれない。
ならば願おう。一日も早く現在のキーボードの一般規格が変更され、そんな気味の悪い新人類がなるべく早い段階で旧人類への退化を遂げる事を。
07/09/03(月) 第836回 単語雇用機会均等法
遂にFF12をクリアした。
否、してしまった。
私は今、この先の去就について思案している。この度FF12をクリアした事で、ある一つの重大な決断を下さなければならない状況に追い込まれたからだ。
事の発端は、今から10ヶ月前の2006年11月に遡る。当時は「FF12アルティマニアΩ」の発売を三週間後に控えた時期で、目下FF12二周目プレイ停滞中であった私はどう考えてもその時までにクリアが間に合いそうにないどころか翌年発売の「レヴァナントウィング」にすら間に合わないんじゃないかと危惧していた。
そして問題の「雑文」記事がこれである。およそ300日前で掲載回が280回前という客観的事実がこれを書いた人間の駄目っ振りを如実に物語っている様に見えるがそんな事はおいといて、ここでは「俺的事典」にFF12の単語を導入するにあたって、あまりにも個性のないしかも大量の単語達の扱いに苦慮する旨、当時の当サイト管理人の赤裸々な胸中が語られている。そして締め括りにこうある。「取り敢えず現状では、『二周目をクリアするまで保留』という事にして更新対象から外してはいる」
あの日からしばらく。ある時は「どうせまだクリアするなんて程遠い夢の様な話なんだから」と高を括ってもいたものだが、それも昨日で終わってしまったという訳である。油断した。正直、FF12が楽しくてクリア後の苦難なんてすっかり忘れてしまっていた。
しかし一周どころか二周もクリアしておいてFF12だけ仲間外れにしたままにはしておけない。ここは思い切って更新ローテーションに組み入れる覚悟をし、改めて現実に目を向けてみるべく、アルティマニア巻末のインデックスを開いてみた。
「俺的事典」で扱う上でFF12が他の作品に比べ取っ付き難いものと化してしまう要因は幾つかある。その一つは「おたから」である。手に入れたが最後、残る存在目的はただ売るのみというものが大半を占めるこれら「おたから」には必然プレイヤーが感情移入出来る様な印象的エピソードもなければゲーム中で特別フィーチャーされたりする事もない。つまり突っ込み所がない。「ベヒーモステーキ」とか「トマトのヘタ」とか、ネタ的要素を含むものならいざ知らず「ミストルティン」とか「アインヘリエル」とか「ネブラリン」とかいう聞いただけじゃ一体何なのか皆目見当の付かないものについては何をどう書いていっていいのか分からないのだ。
その点で「だいじなもの」の方には大抵入手経緯にしっかりとした背景のある場合が殆どだからまだましだが、しかしそういった面々の中に顔を覗かせる「エンゲージ・なんちゃら」の脅威ったら尋常じゃない。こんなもんモンスターから手に入れてフォーン海岸のバンガ三兄弟に横流ししただけのアイテムじゃないのよ。
しかし何だかんだ言ってもやはり一番厄介なのはガンビット関係の連中か。先にも触れているからもうとやかくは言わないが…
で、改めてインデックスを眺めてみて、自分にはどうにも公平に単語を抽出出来そうにない(選んだが最後下手すれば数十分悩みかねないガンビット連中の巣窟を自然と避けるであろう)ので、10ヶ月前に言っていたランダム単語抽出用の簡易ソフトを作る事にした。以前は「単語情報を登録するのが面倒だ」みたいな事を言っていたが、よく考えれば数字(1≦x≦掲載単語数)さえランダムに弾き出してくれれば後はこちらでその位置にある単語を拾うだけでいいのである。
これならまあ、面倒な単語を自然と避けてしまう事に自責の念を抱く事もないだろう。で、それが上手くいった様なら、他作品の単語選択時にも利用していこうじゃないか。
ただ気になるのは、いざそうなってから難儀な単語に当たる割合がこれまでよりも上がっちゃったりするのではないかという点。自分じゃ全然そのつもりはないのに、無意識に好ましくない単語の集団を避けてたりしたら、もう1000語は優に掲載しちゃってるコンテンツな訳だし、ショックだよなあ。
ともあれFF12は現在のFF6・FF7のシフトが終わった段階から登場予定で、当面の間集中的に単語数を増やす意味で「FF12・(他作品)」という形をしばらく続けるつもり。世の「FF12&『俺的事典』ファン」推定3名は楽しみに待たれよ。
07/09/04(火) 第837回 見つめ合うと素直にお喋り出来ないどころか
他人の目を見て話をする事が出来ない人間がいる。極度の照れか、或いはじっと覗き込まれる事への得も言われぬ恐怖心か、彼等彼女等は誰かに目を合わせられるとすっと視線を横へ逸らしてしまうのである。
私の身辺にもこれに当たる人がいる。その人とは割と頻繁に会うのだが、顔を見るといつもその目は右や下を向いているのだ。真剣に話し込んだりする時には目が合う時もあるが、ちょっとした挨拶とかちょっとすれ違ったりなんかする際に両者間でアイコンタクトが取られる事はまずない。
しかし私はこの事にいたく疑問を感じるのであった。何故ならば、私の知る限りその人は内気気味であるどころか私よりもよっぽど社交的な人物だと言えるし、向こうから目を合わせる事もないではない為その事に特別恐怖を感じているとも思えないからだ。では、何故その人は目を逸らすのだろう。
思案している内に、こんな事を考えてしまった。人は醜悪な外見のものに対しては目を逸らしてしまう性質を持つ。もしか、これが理由でその人は目を逸らしているのだとしたら、と。基本、どんな揉め事や喧嘩についても自分側にだって非がある事を反省する傾向のある人間ならではの考えか。つまり、私の外見がその人にとって見るに耐えないものだからつい目を背けてしまうのではないか、と思ったのだ。
そう考えると、これまで特に深く考えてもいなかったこの事象が、むしろこちらが不快感を感じてしかるべきものだった筈のこの事象が、途端に罪悪感にとらわれなければならないものであるかの様に思えてきてしまう。私が醜悪な外見をしていない限り、その人は目を逸らさずにいられるのだから。仮にこの考えが合っているのだとしたら心当たりがない訳でもない現実に、私はそれからというもの目を逸らされる度深く考え込んでしまうのであった。
そして自身、少々意識的にならないとつい他人からの視線を避けてしまう人間であり、万が一にもその事が相手に「自分は醜い人間なんだ」と思わせている可能性がある事を考えると、もっと注意していかなくてはならないなあと思わされた。
普通に考えればそんな受け取り方をする人間はいそうにないが、皮肉にも私自身が、確かにそうした感覚を持つ人間の存在を証明したのである。
07/09/05(水) 第838回 今日のは前者
先月だか先々月だかから見かけるチキンラーメンの焼きそば版「焼チキン」をこの度食してみたのだが、何だろう、そもそもチキンラーメンの味が好きだから美味しい事は美味しいのだが、焼きそばとして食べるのなら普通のソース味の焼きそばを食べるだろうし、ラーメンとして見るにしても、だったら普通のチキンラーメンを食うだろ、という感想。
最近「焼きラーメン」なる言葉を時折耳にする様になったが、私にはその存在意義が全くもって分からない。インスタントじゃなく、本格的に調理されたものを食べればまた違って感じられるのだろうか。
さて今日は、「雑文」ネタに関する話。
8月に入って俄然乗ってきていたFF12も終わり再び毎日更新の様相を呈してきたこの「雑文」 ここに掲載されるネタは、そのどれもが予め練りに練られた結果生み出されたものという訳ではない。可能ならばネタの大枠が決まっておりなおかつその内容や詳細な話の運び方まである程度固まっている事が書き手としては望ましいが、残念ながらそこまで至った上で書き始める事は滅多となく、大抵は「テーマは決めているが、どんな事を書くかは未定」の状態でPCへと向かう事となる。ただ、それはあくまで書くネタがある場合に限られており、そもそも書くネタが一切なければ(ストックにはあっても時期や時節や、時には気分次第で掲載候補から除く事もある)、「テーマも未定」の状態で取り敢えずPCの前に構えてみる事もざらである。
では、実際に何かその日の更新ネタを書くに当たって、「テーマは決めているが、どんな事を書くかは未定」の状態と「テーマも未定」の状態、どちらがましだろうか。そんな考えてもしょうがない事を考えてみたのだった。
普通に考えれば、前者の方がましの様に感じられるかもしれない。何しろテーマだけは決まっているのだから。だがそれは必ずしも正しくない。何故ならば、前者後者それぞれの状況からネタを書き切るまでの時間を平均してみると、実は後者の方が短かかったりするからである。
何故短いのか。それは私が、書くネタに困った場合無理にネタを内包した文章を考えたりはせず、その日あった出来事であるとか、最近気にしている事であるとか、いわゆる普通の日記的文章を書くからである。日記は楽だ。オチがいらないもの。そしてただただあった事、思った事を書けばいいんだもの。だから割とスラスラ書けてしまう。だから結果的には速く書き終えられるのだ。
対してテーマが決まっている場合は、往々にして書き終えるまでに時間を要してしまう。なまじテーマが決まってしまっているばかりに書く内容は極端な制限を受け、なかなかアイデアが出て来なくなる事があるからだ。これは本当に厄介である。しかも「アイデア」というものの性質上、その枯渇による苦悩は多少なりとも筆が進んでから訪れる事の方が圧倒的に多い。つまりある程度書いてしまっているが故にそれだけ時間も経っており、続きが思い付かないからと今更別ネタを一から書く訳にはいかない場合が殆どなのだ。深みに嵌まると恐ろしい、「テーマは決めているが、どんな事を書くかは未定」もとい「良いテーマを思い付いたけど、内容は書く時にでも考えりゃいいか」の罠である。
まとめるとこうだ。
「テーマも詳細も決定済」 > 「テーマも未定」 > 「テーマは決めているが、どんな事を書くかは未定」
図らずも、「何事も中途半端はよくない」という社会の真理に辿り着いた一件であった。
もっとも「テーマも未定」の方が「テーマは決めているが、どんな事を書くかは未定」より短時間で「雑文」を仕上げられる傾向が強いとは言え、あくまでこのコンテンツは「日記」ではないので、あまり何日も何日も続けて日記的なものを書く事ははばかられるけれどもね。
07/09/06(木) 第839回 美しい資源
ヨーロッパで起こった産業革命以後、人類はありとあらゆる資源を採取し、利用し、種としての発展を遂げてきた。
だがしかし、資源とは有限である。ものによっては人類が誕生するよりもずっと前から蓄積し続けてきた資源だが、その限度を知らない乱獲、乱用、乱開発によって枯渇の危機が叫ばれる様になったものも少なくない。石油、森林、天然ガス、或いは水。いずれも、現在の社会を成り立たせるには不可欠なものだ。だからこそ今人類は、これら有限資源を無駄なく、効率的に、また大事に利用していくべきである。
ところで、一言に資源と言っても単にそれは自然界で作り出されたものであるとは限らない。資源が大きく「物的資源」と「人的資源」とに分けられる通り、人間によって生み出される資源というものも存在する。一般に人的資源とは労働力としての人間を指す言葉だろうと思われるが、しかし人間自身が正しく「作り出す」人的資源も確かに存在するのだ。その一例として、ここでは音楽を挙げてみようと思う。
音楽とは資源だ。様々な楽器によって奏でられる、様々なメロディを耳にする事である時は癒しを、ある時は興奮を、またある時は歓びを享受し得るという意味で人々に利益を与える資源だ。こと「名曲」と呼ばれる楽曲が我々にもたらす恩恵は、この世界を生き抜く上では不必要であるかもしれないが、しかし物的資源だけでは到底成し得ないであろう素晴らしき「感覚」である。
また、私が音楽を資源だとする理由は、それが人間にとってプラスになる生産物だからというだけではない。「利用する事で次第に消耗する」という観点でも、音楽は資源だと言えるのだ。
音楽とは内なる感動を呼び起こす事を可能とするアプリケーションである。それを用いれば、人はいつだってある種の感動に包まれる事が出来る。しかしある曲によって至上の感動を得られたとしても、二度目にその曲を聴く事で得られる感動は基本的には初めて聴いた時のそれを僅かに下回るものだ。そして三度目は二度目よりも、四度目は三度目よりも、感動の度合いは次第に収まる。繰り返し曲を聴けば聴くほど、初め衝撃的にすら思えた筈のあの感覚は薄まっていく。いつしかその曲は、聴いた所で何の心理的起伏も生み出さない曲と化してしまうのだ。また更に同じ曲を一日二日、或いは一週間も聴かせられ続ければ、最後には耳に入れるのも嫌というほど、その曲を忌み嫌う事になるに違いない。再びこの曲を同じ様に好きになる事は二度とない。つまり、初めて聴いた段階では確かにその人にとって感動を与えてくれるものであった筈の曲は、「感動を得る為の道具」として繰り返し利用する内その効力を失ってしまった。その人にとっての「名曲」がこの世から一つ、恐らく永久的に失われたのだ。この様に、音楽は多くの物的資源と同様に利用する事で消耗する、言ってみれば消耗品なのである。そしてそれは、延いては音楽(特にここでは自分にとって感動的な有効資源たり得る音楽)を「有限である」と言わしめる。今なお、人間の手によって新たに生まれ続けるものでありながら。
もし貴方が運良くも、その心に響く素晴らしい楽曲に出会えたなら、注意されたし。その曲が貴方に与える感動はあくまで限りあるものだ。短期間でその感動を食い潰すかここぞという時の為に温存しておくか。一考の余地はある。
資源とは有限である。くれぐれも、無駄にしてしまわない様に。
07/09/07(金) 第840回 達夫の罪
「美しい資源」が音楽に限らない事は少し考えれば分かる事である。絵画、彫刻、骨董、目に見えるものに限定しなければ俳句や詩の類、少し見方を変えれば漫才なども「美しい資源」の一種と言える。これら全ては音楽同様それを好きな人にとって何らかの感情を呼び起こすものであり、かつやはり音楽同様同じものに触れ続けていればいつかは飽きが来てしまうからだ。そしてこれらも、画家や俳人の存在が無尽蔵に湧き出てくるものではない以上、延いては我々人類が未来永劫繁栄し続ける種族という訳でない以上、有限資源なのである。
ただ私は、昨日何も考えず適当に音楽を人工資源の一例として挙げたのではない。それと言うのも、かように多岐にわたる人工資源の中にあってなお音楽は、消耗の仕方の点である特別な性質を持っているからだ。
反復して活用する事で次第に資源としての価値を失うのはあらゆる人工資源に共通している事である。しかし音楽にはこれに加えもう一つその資源的有用性を失わせる事象が存在する。それも、かなり身近な存在として。
それ即ち「替え歌」である。ここでは既存の曲の歌詞を独自に改訂する行為は勿論、元々歌詞の存在しない楽曲に独自の歌詞付けを行う事も便宜上「替え歌」と称する。この、小学生男子を中心として広く日本に存在する文化が時には、ある曲を繰り返し聴く事よりもよっぽど急速な「資源の消費」を引き起こすのだ。一体何が、と思われるかもしれない。しかし替え歌はそのお遊び的要素とは裏腹に一方ではとてつもなく恐ろしい顔を持つ事実を知るべきである。
例えば貴方にはこんな経験がないだろうか。どういった場ででもいいが、他人から何らかの替え歌を披露されたりして(または改訂された歌詞を見て頭の中で歌を再生させ)、それからというものその曲を聴くと無意識に替え歌の歌詞が浮かんできてしまったり、或いはもうその歌詞にしか聞こえなくなってしまったりした事が。これは言わば悲劇である。何の拍子か誰かの作った替え歌を聴かされその歌詞が頭にこびり付いてしまえば、本来ならまだ自分に感動をもたらすだけの資源的有用性が残された曲であろうと何であろうと一瞬にして名曲でなくなってしまうのだ。往々にして不真面目極まりない歌詞は、そう簡単には頭の中から離れてはくれない。その曲に頻繁に触れる機会があればあるほど、その都度思い出される歌詞がむしろどんどんと頭にこびり付いてしまう。そして在りし日の名曲がかつての輝きを取り戻す事はもうないのだ。
とは言え替え歌を作るという行為は、特に大人になってからはあまり頻繁に行うものではない為、そんな経験をした事はないという方も多いかと思う。だがしかしそれは間違っている。替え歌は無意識の内に貴方の頭に入り込み、強烈な記憶回路を形成しているのだ。貴方が相当若い世代の人間でなければ、某シンガーソングライターがバッハの名曲「トッカータとフーガ ニ短調」に「嗅覚を担う器官から牛乳を放出する様子」をテーマとした歌詞を付け、のみならずそれを軽妙に歌い、それが日本中に広く伝播した一件はご存知だろう。だとすれば貴方はある時ふいに「トッカータとフーガ ニ短調」を耳にした時、どうしてもそのフレーズを思い出してしまう筈なのである。その時、貴方はバッハの紡いだこの旋律に心を動かされるだろうか? 答えは否だ。事前にどんな心持ちで臨もうが件のフレーズに差し掛かった途端、貴方の中には感動の対極にあるのであろう何かが噴出して、事によれば唾か鼻水辺りまで噴出してしまうのだから。
万一にでもこの文章を切っ掛けとして貴方の名曲を失わせたりする事のなき様、この場でこれ以上の例を挙げる事は控える事とする。
替え歌とは文化であり、言語というものを獲得した人間ならではの高等な遊びである。そして、多くの人から名曲だと認められれば認められるほどそのターゲットになり易い点や、質の高い歌詞ほど頭に残りがちであるが故に思い出したくもない歌詞によってクスリとさせられる事も珍しくないという皮肉さを持つ点で、替え歌とは罪でもある。
以上を踏まえ改めて言おう。もし貴方が運良くも、その心に響く素晴らしい楽曲に出会えたなら、注意されたし。貴方がどんなにそれを大事に扱っていようとも、替え歌はある日突然に、テレビから、ラジオから、インターネットから、油断し切った貴方の「名曲」を奪い去ろうと襲い掛かってくるのである。
ラシックス