05/11/08(火) 第281回 デューーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そんなCMもありましたね、なんて、もうすっかりほとぼりも冷めたってのにこういう事をやってしまう私である。
って、あっ、すみません。やりたかっただけっす。
いやそれにしても、先頃によく目にしたユニクロのホーミーをフィーチャーしたCM、あれなんか初めて見た時は「デューーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」に似てるものがあるなあと感じたんで危ないんじゃないかと思ったんですが、別段苦情がくるでもなかったんですかね。やはり伝統があるとその辺違ったりするんでしょうか。
しかしおかしい。私が件の「Dew」コマーシャルを初めて見た時、「これは否が応にも耳に入るなあ。宣伝としては中々良いんじゃなかろうか」と思っていた中でああいう事になったのだが、一方ユニクロの某CMを初めて見た時には「何だろうかこの音は、ちょっと苦手だなあ」と思ったのにこちらばかりは残ったのだ。
何か、一般人との感覚がズレているのか。あ、いや、そんな事はこのサイトの端々から既に見えてた事だったか…
05/11/09(水) 第282回 泣くに泣けない
こうして毎日毎日日本語を書いているのだが、一向に文章力が向上する気配がない。いや、そもそも文章力というものは顕著に「俺、良い文章が書ける様になったなー」なんていう自覚が芽生えるなんて事はないのかもしれないけれど。しかし大量の文章を書いているなりに、その時々で問題点があれば率先してそれを改善しようとはしているので、多少はよくなっていると信じたいものである。
さて、上手い文章を書く為には、ちゃんとしたルールに則って書いていく事が求められる訳で、その「ルール」は幾つもあるのだが、中でも私が特に気にかけているものを二、三挙げてみよう。
まず、「同じ語尾を続けていないかどうか」 「〜である。〜である」と、連続して同じ語尾を使うとどうしてもくどく聞こえてしまうので、避けるべきとされている。つっても、文体が「だ・である調」なら基本的に肯定文の語尾は「だ」と「である」位なものである訳で、連続しちゃいけないと言われてもこっちとしては困ってしまうのだけれど。
次に「一つの文中で同じ言葉を繰り返し使っていないかどうか」 やはりしつこく聞こえる様だ。名詞もそうだし「私」とかもそう。これを回避するには語彙の豊富さが問われる事となるだろう。まあ、こうしてインターネット環境があれば類義語辞典か何かでパパッと調べられたりもするけれど。
「文章の長さ」 一応気にかけてはいるのだ。毎度毎度短縮化に失敗しているだけで。
「助詞の『の』を三つ以上つなげていないかどうか」 結構重要である。「高校の体育の先生」だとか「貴方の出身の名物は?」とか、二つまでなら何でもなく普通に聞こえるのに、「私の高校の体育の先生」だとか「貴方の出身の県の名物は?」とか、三つ並べられると途端にくどさが爆発するのだ。助詞の「の」恐るべし。これには普段から特に気を使っている。
ところで、こんな映画が最近話題を呼んでいる様だ。
「私の頭の中の消しゴム」
私が言いたい事はご理解戴ける事と思う。奴である。「の」なのである。折角の感動映画が、「の」のくどさによって幾分か消されてしまっている感が否めないのだ。
今はまだ、ブーム熱に紛れて表立ってこそいない。しかし、やや熱の冷めてきた日本人がこの事を認知するのは時間の問題と言えよう。
かかる問題を早急に解決すべく、私はここで当該映画の題名改定案を提示する。各映画関係者においては速やかにタイトルの差し替え手続きを進める事。
案1:「我が頭の中の消しゴム」
案2:「私の脳内の消しゴム」
案3:「私の頭の中には消しゴムがあるのよ、ウフフフフ」
本件について、今後私は一切の責任を負わないものとする。
05/11/10(木) 第283回 笑うに笑えない
私が日々の糧を得る為の活動をしている日本の僻地(言い過ぎ)においても時代の波というものは押し寄せてくるものである。
オタク、である。知り合いにこそいないが、しかし時折出くわすのだ、見るからにそれと分かる風貌の人間が、ちらほら、ちらほらと。
中でも、活動域が私と被っている為か、週に三度程の頻度で見かける人物がいる。勿論私は彼の名前を知らない。彼も私の名前を知ってはいないだろう。
ところで、一言に「オタク」と言っても没頭する対象の違いによって何種かに大別する事が出来ようが、では彼は何オタクだと言うのか。それを知るのは全くもって難しい事ではない。何となればそこはオタクの彼の事だ、まじまじ観察するまでもなく、彼の食指が何処を向いているのかなんて事は立ち所に分かってしまうというものだ。彼はゲームオタクであった。
と、ここで、これをご覧の皆様方においては、「おい、お前だってゲームばっかやってるんだからゲームオタクだろう」と言いたくなるかもしれないけれども、しかし私は基本的に自分から率先してゲームの話を他人にしたりする事はないし、そもそも話題を始めゲームという要素を家の外に持ち出す事もない。オタクである事は必ずしも否定しないが(「オタク」の定義の仕方によるぞ)、そうだとするなら私は言わば「隠れオタク」であろう。その点、見た目からまずオタクと分かる彼とは大きく違っていると言える。
さて、その彼なのであるが、先日見かけた時には数人の仲間と行動を共にしており(その仲間は一見した限りオタクではなかった)、己の情熱と興味の趣くままにゲーム談義に花を咲かせていた。そこは、普段あまり表には出さないものの、その実ゲームが好きで好きで堪らない私の事であるから、私の周りのありとあらゆる者、物が許してくれるのなら、その話題に入っていきたかった位である。
しかしどうか、どうしても彼等の話に耳を傾けてしまうのを禁じ得なかったのだが、その内に私は戦慄する事となったのである。彼等はゲーム愛が強過ぎるばっかりに、いや、逆に無さ過ぎるからと言う事も出来るかもしれないが、いわゆる違法コピーだのエミュレータ関係の話だのをし始めたのだ。特に周りを気にするでもなく、である。
何だか、あまりの罪意識の無さに、最近低迷感を漂わせている昨今のゲーム事情を垣間見た気がした。言い過ぎか。
05/11/11(金) 第284回 怒るに怒れない
先日、とある方から男と女の性差に関する話を伺ったのだが、その中で私も毎日利用している電車にまつわるこんな例があった。
曰く、男は座席に座る際に足を広げる傾向にあり、女は閉じる傾向にあるらしい。これは筋肉の付き方がそうなっているのだとかどうとか。まあこれは電車の座席に限った話ではなかろうけど、これについては誰しも心当たりがあるのではないだろうか。
曰く、男は女に比べて自分の周囲の空間を占有しようとするらしい。前述の足を広げる事がそれに当てはまる事なのかどうかは分からないが、その方が例として挙げたのは新聞をガバッと、バサッと、そりゃもう目一杯に広げて読んだりという行為だった。ほほう、なるほど。言われてみれば確かにそうだなあ。
やはり毎日の事であるだけに、色々と共感しつつその方の話を聞いていた私なのであった。
さてさて、話は変わってその日の帰りの電車内にて。途中停車駅から乗り込んで来た一人のご婦人が私の隣に座った。ただ、特に一言断りがある訳ではなかった。まあ別に必要でこそないが、やはり何も言われずにドカッと座られるよりは、一言「この席空いてますか?」なりとも声をかけて戴いた方がこちらとしても是非喜んで「はい」と言えたであろうに。でもまあ仕方のない事である。こんな事でいちいち目くじらを立てていてはここの所の多忙な日々など到底乗り切れられようもないしね。
ただ、程無くして私はちょっとした異変に気付いた。そのご婦人が、通路を挟んで反対側に座っていた、恐らく夫と思しき人と会話していたのだが、その会話がどうやら日本語ではなかった様なのだ。じゃあ何語なんだと言われてもちょっと判然としないのが申し訳ないのだが、明らかに我々と同じアジア系のお顔立ちである事を加味して推測すれば、あれは中国語っぽかった様な気はする。うーん、もしかしたら日本語は話せない方なのだろうか。だとしたら、さっき私の隣に座る際に一言無かったっていうのも分かる気はする。こっちとしても、いきなり中国語で「この席空いてますか?」なんて言われても困っちゃうし。何て言うんだ、中国語で「この席空いてますか?」って。
そんな訳で、最初に感じた憤りも何処へやら、聞き慣れない言語がちょくちょく耳に入ってくる中、私は目的地到着までの時間をいつもの様に寝て過ごす事にした。
が、その後事態は急変する事になる。突然、隣のご婦人が、その肘を、私の腕へとガンガンぶつけ始めたのだ。眠りかけていた私は何事かと目を覚ましそして隣へ目をやると、どうやらご婦人は目の前にあったパンフレットを見ていた模様。割と目が悪いのか、パンフレットを身体に近付けて読む為に、その分必然的に腕は折り曲げられ、容赦なく私にぶつかっていたのだった。
少しは遠慮ってもんがないもんかねー、なんて思いつつも、このままじゃ中々寝れないんで少しばかりご婦人とは反対方向へ身体を動かす私。でもこれがいけなかった。件のご婦人は、自分の右隣に僅かばかりのスペースがある事を本能的に察知すると、即座にその空間を自分の身体で飽和させにきたのであった。
私は思ったね、こんな事でいいのかと。つい何時間か前に聞いた話では、己の周囲空間を占有する傾向にあるのは女よりも男なんじゃなかったのかと。私は私で基本的に押しが弱い人間なもんだから言い返す事すら出来やしない。いや、仮に私がこういう理不尽な仕打ちに対して強く言い返せる人間であったとしてもだ、今私の左隣に座っているのは中国人なんだぞ。最早私に勝ち目はないというものだろう。そう、ここには世間の平均傾向を一切無視した全く逆の現象が起こってしまっているのであった。
確かに、平均的には女性よりも男性の方が背は高いが、特定の男性より背の高い女性はいる。
平均的には女性よりも男性の方が足は速いが、特定の男性より足の速い女性はいる。
あまつさえ、平均的には女性よりも男性の方が力は強いが、特定の男性より力の強い女性もいる。
でもだ、その現実をこういう形で見せ付けられる事になろうとは。多分、あのご婦人に「すみません、肘が当たってるんですが」と一言言える様になった時、私は男として一歩成長する事になるのだろう。
ところで、中国語で「すみません、肘が当たってるんですが」って何て言うんだ。
05/11/12(土) 第285回 喜ぶに喜べない
貴方は「良い知らせと悪い知らせ」という西洋の小話をご存知だろうか。ご存知でない方もいるとは思うが、どういったものなのかを言葉で説明しても分かり難いだろうから、実際に例を一つお聞かせしよう。
一人の入院患者と、一人の医師がいる。
医師「あなたに良い知らせと悪い知らせがあります」
患者「悪い方から聞かせて下さい」
医師「検査の結果、貴方は末期の癌である事が判明しました。助かる見込みはないでしょう」
患者「癌…ですか…で、では良い知らせの方は?」
医師「はい。実は延命処置として新薬を投与しておりますので、治療費が幾分お安くなっております」
この様な、つまりは一つのブラックジョークである。素直には笑えない、大爆笑は出来ないけれども、どこかニヤリとさせられる、でも人によってはニヤリとも出来ないという何とも微妙な線をいくものだ。
先の話とは逆に、良い知らせから聞くものもある。
二人の男がいる。
A「おい、良い知らせと悪い知らせがあるぞ」
B「良い知らせから聞こうか」
A「この付近に逃げ込んだ凶悪殺人犯が無事捕まったって話だ」
B「そいつは良かった。で、悪い知らせってのは?」
A「その話が誤報だったって事さ」
中には多少ひねりを入れたものも。
一組の夫婦がいる。
妻「今日はあなたに良い知らせと悪い知らせがあるの」
夫「良い方から聞かせてくれるかい」
妻「あなたの車のエアバッグ、正常に作動したわ」
これは結構面白いと思っているのだが、貴方はどう思われるだろうか。
さて、こういった話は考えようと思えば幾らでも考えられるものなので、例えばこういう話を作る事も出来る訳だ。
二人の少年がいる。
A「実は君に良い知らせと悪い知らせがあるんだ」
B「んー、じゃあ悪い知らせから聞かせてよ」
A「実は君から借りてたFF6だけどさ、ムシャクシャしててついつい投げ付けたらデータ全部消えちゃったんだよね」
B「ええっ、あれには全キャラLv99のデータとかが入ってたのに……で、良い知らせって何だよ?」
A「ああ、僕のデータも消えちゃって、もうやる気もなくなったし、長い間借りてたけど今度返すよ」
実際にあった時の事を考えるとお世辞にも笑えない展開である。でも今の子供達にはもしかして分からなかったりするのかな、カセット時代の事とか。
では最後に、良い知らせから聞く場合のこんな話でお別れしよう。
「私」と「貴方」がいる。
私「今日はあなたに良い知らせと悪い知らせがあります」
貴方「ではまず良い知らせから聞かせて下さい」
私「はい。実は今しがた、FF次回作の制作が正式に決定しました」
貴方「ほう、それは楽しみだ!! で、悪い知らせの方は?」
私「先程、FFは次回作をもってラストとする事が決まりました」
05/11/13(日) 第286回 本当に喜べない事
最初に断っておくが、今日の日誌は短く終わらせて戴こうと思っている。何となればこの私、今猛烈に落ち込んでいる所なのだ。
事は四日前の九日から昨日にかけて起きた。ふとした思い付きで私は日誌音タイトルをこうしようと決めたのである。
「泣くに泣けない」
「笑うに笑えない」
「怒るに怒れない」
「喜ぶに喜べない」
「〜に〜ない」として、「喜怒哀楽」の四テーマについて一日ずつ書いていこうとした訳だ。あくまでも単なる思い付きであるからして「何で?」と言われてもこれといった理由を返せないのだが。
で、それが昨日の「喜ぶに喜べない」をもって無事に完結したのだけれども、しかし落ち込んでいるのである。
思い付いたが吉日、勢いで始めてしまったが為にややまとまりない感じになってしまっているのだ。ある一つのタイトル群の下に四つのテーマを出すっていうアイデア自体は悪くなかったと思うのだが、しかし文章がそれを活かし切れなかったのだ。無念也。
特に昨日のなんてのはそう感じている。そもそもタイトルが違う気がしてならないのである。あれはどちらかと言えば「笑うに笑えない」の方が適切だったんじゃなかろうか。うーむ、悔やんでも悔やみ切れない自分がいるのだった。
昨日の文章と言えば、オチもどうなんだろう。「悪い知らせ」として最後にああ言った訳だけども、人によっちゃあ「ふーんそう」としか思わないだろうし、事によると「わーいやったぜ!!」と思う人もいるんだろうからね。もっと大衆ウケするのを狙うべきだった。
そんな昨日の失態を返上しようという訳ではないのだが、ここでもう一つ「良い知らせと悪い知らせ」をお見舞いして本日の締めとしようと思う。
二人の男がいる。
A「おいB、お前に良い知らせと悪い知らせがあるぞ」
B「じゃ、悪い知らせから聞かせてくれよ」
A「おお、『妄想針千本』ってホームページがあるだろ。あそこが閉鎖するんだってさ」
B「え? 何で何で?」
A「話によれば『管理人の多忙につき』…だとさ。何かって言えば『忙しい忙しい』って言ってたもんなあ…」
B「へぇ〜、そうなんだ……で、悪い知らせって何?」
…これで明日辺り更新が無かったら面白いだろうな。
05/11/14(月) 第287回 美しい日本語って何?
近年、日本語の乱れを憂う声をよく耳にする気がする。「正しい日本語」「美しい日本語」が注目されているのだ。
正しい日本語を使う事を目的としたテレビ番組も幾つかあり、私が知る限りで三番組存在している。細かい部分でこそ違っていても大テーマを同じくした番組が三つだ。やはりこれは世間一般の注目度を如実に表した実態と言えよう。
ただ、私はその風潮をあまり快くは思っていない。時折ちょっとした言葉の乱れを嘆く人がいるが、そういう人に一つ言いたいのだ。「貴方は本当に正しい日本語を使っているのか」と。
「ら抜き言葉」という言葉がある。「それが可能である」というの意味の動詞に付ける言葉である。例えば「食べれる」とか「見れる」とかの事だ。これは正しくは「食べられる」「見られる」であり、これを殊更に嫌う人がいるのだ。
私自身、「ら抜き言葉」は意識して使わない様にしているが、この表現が用いられる事を嫌だと思ってはいない。どちらかと言えば、元々同一で紛らわしかった「可能」と「受身」を別々の言葉とした点で中々に素晴らしい発明と言うか、進化だとすら感じているのだ。
大体にして、言葉というものは時代を経る毎に進化していくものである。今正しいとされている言葉が、100年後も正しい言葉である保障は無いし、逆を言えば、今正しいとされている言葉だって、100年や200年程も昔の人からしてみたら「甚だ乱れている」かもしれないのだ。
私は、「ら抜き言葉」を始めとして「現代人の言葉の乱れを嫌う人々」に問いたい。貴方は本当に正しい日本語を使っているのか。
現代人の言葉の乱れを突っ込む位だったら、「役不足」の意味は勿論分かっている事と思う。
「情けは人の為ならず」の意味も分かっているだろう。
目上の人間に「とんでもない」と言う時に「とんでもございません」とは言うなよ。
時間を指す「十分」を「じゅっぷん」と読むのも駄目。
「汚名挽回」なんてもっての外。
謝罪の意を表する際に「謝意」なんて言葉を使っちゃいけない。
「消耗品」を「しょうもうひん」と読んだりはしてないだろうな。
まかり間違っても「独壇場」なんて言葉は使わないで戴きたい。
「こんがらがる」などとは言わない事。
「的を得る」却下却下。
上記の内、一つでも正解が分からなかったなら、無責任に「今時の若者は〜」とか言うのは控えてはどうか。別に禁じやしないけど。
ともかく、言葉は生き物である。それは時代を経る毎に変貌していくものなのだ。
05/11/15(火) 第288回 続・美しい日本語って何?
昨日私は、近頃乱れ気味だという日本語に対して何かと言っちゃあ食い付きそして突っ込む人に対して、そうは言うが貴方こそ本当に正しい日本語を使っているのかと幾つか問いただしてみた訳だけども、投げっ放しというのもどうかと思うので、以下に各々の正しい言い回しなぞを書いておく事にしよう。
「役不足」の意味
○力量に比べて、役目が不相応に軽い事。
×力量に比べて、役目が重過ぎる事。
「自分には役不足です」なんて言ったら大変な事である。往々にして日本人は控え目だけれど、本当の意味でそのセリフを言える人ってどれ位いたもんだろう。
「情けは人の為ならず」の意味
○人への情けは、最後には自分の為になる。
×その人の為にはならないから情けをかけるな。
「人の為ならず」して、「自分の為」になる、と。
目上の人に「とんでもない」
「とんでもない事です」とか「とんでもない事でございます」とか。
時間を指す「十分」を「じゅっぷん」
正しくは「じっぷん」 「十」という漢字に「じゅっ」という読みは無い。
「汚名挽回」
是非とも「挽回」などしようとせず、「返上」して戴きたい。
謝罪の意を表する際に「謝意」
「謝意」とは「感謝の心」の事。
「消耗品」を「しょうもうひん」
「しょうこうひん」 今ではこっちの方が誤りにすらなっているか。
「独壇場」
正しくは「独擅場」 漢字は似ているが読み方は違って、「どくだんじょう」ではなく「どくせんじょう」と読む。
「こんがらがる」
その意味の通りで何とも紛らわしいこの言葉だが、正確には「こんがらかる」
「的を得る」
的を得てどうしようと言うのか。「的を射る」が正解。
さて、上記の例から見ても分かるが、原義では正しくとも、現代においては必ずしもそうとは限らない言葉もちらほらと目に付く。
例えば「消耗品」 これはかつては「しょうこうひん」と読んだのだが、今ではほぼ完全に「しょうもうひん」へと取って代わられ、遂には我がパソコンでもデフォルトで変換されなくなっている。
「独壇場」もそうと言える。元々これは「独擅場」の誤用だったのだが、時を経て正しい読みを駆逐したのだ。
時代と共に意味が変化した言葉も多い。上の例で言えば「謝意」なんてのは、昨日は「謝罪の意を表する際に使っちゃいけない」と書きはしたが、今や大辞林にも「謝罪の心」という意味で掲載されており、正式なものとして通用する様になった。
つまり私が、近年の日本語の乱れを憂う人々に対して言いたい事はこうだ。かようにも言葉というものは流動的で確かでない。元々誤用だった言葉が正しいものとして定着した例も挙げ始めれば限りない。恐らく貴方だって、昔の人からしてみれば「誤用」である言葉を正しいものとして使っているんだろう。なのに貴方は、自分の事は棚に上げて自分よりも下の世代が口にする「誤用」言語にだけ辛辣に口答えしようと言うのか。それはあまりに利己的、自分勝手な考え方ではないだろうか。
もしかしたら貴方は、「『消耗品』だの『独壇場』とかはもう完全に定着し切ってるから別にいいじゃないか」と言うかもしれない。ただ、例えばいずれ「ら抜き言葉」が定着する時代が来たとして、その時貴方は「ら抜き言葉」を容認出来る様になるだろうか。恐らく、そうはならないのではあるまいか。
何度でも言うが、言葉というものは生き物である。既にして何が正しい言い回しだったのか、判然としない単語だって幾つもある。だから無闇矢鱈と「正しい言い回し」を追い求めるのはどうか。そう私は思うのだ。
極論を言えば、ここ二日の日誌のタイトルに用いた「美しい」ですら、時代を500年以上も遡れば、現代の様に「調和がとれていて快く感じられるさま」という意味で用いられてはいなかったらしい。
「正しい日本語」「美しい日本語」とは、何をしてそうたり得るのか? 一度考えてみては如何だろうか。
05/11/16(水) 第289回 続々・美しい日本語って何?
「一度考えてみては如何だろうか」
なんつって何となく綺麗にまとまった感じだったのに、実はまだ続くのであった。
いやしかし、当方、別に語学を専攻している訳でも語学を専攻していた訳でもない言わば日本語の素人と言える分際なのに、随分と偉そうな口ぶりでああだこうだと述べてしまっていた点についてはお詫びしておこう。お目汚し失礼。
さて、今日は昨日、一昨日の様に堅苦しい話ではなくて、昨日までの事を踏まえて考えてみたい、こんな話である。
何度も言うが、世の中には言葉の乱れを殊更に嫌って、それを嘆く類の人がいる。どちらかと言えばそれは古い世代の人間に多い様だ。昨日や一昨日はああいう事を言いはしたが、まあそれもある程度はしょうがない事だとも思っている。自身はそれで育ってきたんだから、誰だってある程度の年齢に達すれば新世代の新しい波を素直に受け止められなくなるものなのだ。
さて、そこで私は気になるのである。今から20年か30年か後、今の「古い世代」が言う所の「今時の若者」が年を重ねた時、一体何が起こってしまうのだろうかと。
ここに一人の会社員がいる。名前を仮に吉田としておこうか。彼は同世代の人間としては珍しく「正しい日本語」を使う人間である。
彼には一人の上司がいた。名前は伊藤とでもしておけ。この伊藤という男は課長という立場にありながら、もっぱら日本語には無頓着であった。口を開けばそこかしこに「ら抜き言葉」が現れる様な奴である。
吉田がこの伊藤という男の下で働く事になったのは不運であったと言えよう。何せきちんとした正しい日本語を話すばかりに、いちいち目くじらを立てられる事になったのだから。
例えば伊藤課長に何かしら大事な仕事が舞い込んだ時、上司を一つばかりヨイショしておこうかと「そんな事、伊藤課長には役不足なんじゃないですか」なんて言ったら、「役不足」の意味を本来の意味とは逆に捉えている伊藤は途端に声を荒げて言うのだった。「お、お、お前今、な、何て言った?」
他にも「帳消し」という意味の「相殺」を「そうさい」と読んだりとか、「年俸」を「ねんぽう」と読んだりすると、言われるのだ。「ちょ、おい、お前何言ってんの? おかしな事言うなあ…プププ…」
人を蔑む事にかけては一流の伊藤である。思わず拳を握り締めたくもなるというものだが、こんな事で人生を不意にする訳にはいかないから我慢である。だがしかし、こうした日常のちょっとした鬱憤が溜まりに溜まった入社三年目のある日、吉田はふと心に誓うのだった。「アイツ殴ってこの会社辞めよう」
話が飛躍したが、私が言いたかったのは即ちこうだ。
いつもいつも正しい敬語を使えと言われるが、その敬語が正しいかどうかを判断するのはあくまでも聞き手だ。今貴方の目の前にいる目上の人間が、「とんでもない」の敬語表現を「とんでもございません」と認識していたなら、本来の「とんでもない事でございます」の方が失礼にあたる可能性はあるのだ。「〜ないです」という言葉を「〜のうございます」と言うのは誤りでこそないが、じゃあ上司に向かって「先方からの連絡はのうございます」なんて言えるだろうか。言えないだろう。そういう事なのだ。
という訳で、結局この議論は「相手によって臨機応変に」という事で締め、という事になるのであった。
おいそこのお前、「やっぱり昨日ので終わっとけばよかった」とか言うんじゃない。
ただ、もう続かない。
05/11/17(木) 第290回 速さに着目してみる
一昨日からバレーボールの「ワールドグランドチャンピオンズカップ2005」略して「グラチャン」なる大会が開催されており、今日までの二日間はいずれもちょうど時間が合ったのでテレビ観戦に興じていた。したらば、ちょっと気になる事を発見したのであった。
何か、サーブを打った時画面下に「60km/h」とかいう表示が出る。私がこの表示の事を気にかけたのは今回が初めての事だった。それが今まではそういう表示がなかったからなのか、単に普段あまりバレーボールの試合をテレビで見る事がないからなのかどうかは分からないのだが。
それは一体何なのか、その事自体はすぐにでも理解出来た。放たれたサーブの速度を示しているのだろう。しかし一方で「60km/h」という表示を目にした私は思ったのだ、「それは結局早いのか?」
今までサーブの速度なんて、男子の試合を見ている時に漠然と「おー、速ぇなー」と思っていた位のもので、別段意識するでもなかったんだから、ここにきて時速60キロと言われても困る訳だ。例えば野球の投球速度だったら、「150km/h」とかになると「速いんだなあ」っていうのはもう分かってる事だけど。私と同じ思いだった人も多かったんじゃないのかな。
ただこうも思った。いまいち速度をどう捉えていいか分からないのは、単に馴染みがないだけなんじゃないかと。
今でこそ野球における投球の速度表示は当たり前のものとなった。しかしこれだって、野球というスポーツが誕生した当初からあったシステムという訳ではあるまい。「ピッチャーの投球速度」 恐らくこれもある時代、ある時に導入されたものなのだろうと思われるのだ。そしてその当時、初めてピッチャーの投げる球を、「速度」という要素で目の当たりにする事となった人々がどう思ったか。思うに、今バレーボールを見ている我々と同じ感じだったのではあるまいか。投球の速度を測る様になったのがいつの事か皆目見当が付かないから、当時のピッチャーがどの程度の速さの球を投げていたのかもやはり分からないのだが、多分「120km/h? おいおい、自動車より何ぼも速いじゃねーかー。やっぱプロは違うな」なーんて、分かった様な分からない様な事を言っていたに違いない。無論、当時の道路交通事情が如何なるものであったのかも私には全く分かっていない。
詰まる所、しばらくすれば慣れるのだろう。一つ心配なのは、バレーボールは野球程に国民関心度が高くなく、国際レベルの大会でもなければ中々テレビで見る事もない事から、今大会で何となくの相場を覚えた所で次のでっかい大会の時にはそれを忘れてしまっている危険がある事だ。
何はともあれ、日本頑張れ。
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