05/11/28(月) 第301回 人間性を考える
昨日の雑文で私はDQシリーズの主人公を始め世界を救う事になる面々が如何に悪行を繰り返してきたのかを説いた訳で、まあそれ自体は今更私が述べなかろうとまこと多くの人々が口にしていた事であるからそれはもういいとするが、しかし昨日の文章を振り返って一つ思った事があるのだ。
「最後の鍵」というものがある。DQシリーズにおいて「全ての扉、宝箱を開けられる鍵」として、ゲームも終盤に差し掛かる頃に手に入るお馴染みのアイテムである。
しかしよく考えてみられたし。確かに最後の鍵は全ての扉、と言うか全ての錠前を開ける事が出来るのだろうが、例えば夜中、鍵のかかっている民家に入ろうとしてもその家には入れないのである。
この事実を受けて思ったのだ。これは「入れない」のではなく「入らない」のではないかと。最後の鍵たる鍵が一民家の錠前を開錠出来ない筈はないのだから、彼等はその良心でもって、きちんと施錠されている民家へは立ち入らない様にしていたのである。無論、鍵さえかかっていなければ時間帯なんてものは無関係に例の様な行動をとる訳だから、何が「良心」なんだか分かったもんじゃないのだが。
ま、責められるべきは主人公達に限った話じゃないか。どれだけ家庭内の物品を持ち出されようが、備品を壊されようが、一向に文句を言い出すこともない住人達が、彼等をああいう風に育てたんだろう。本当に、あの世界の道徳はどうなっているんだろう。一概にカンダタとかの事だけを悪く言っちゃいけないんじゃなかろうか。
ところで「良心」だの「道徳」だのと言うと私は、DQ7のルーメンでのイベントを思い出さずにはいられなくなる。
概要だけを話すと、モンスターが発生するのは町長が飼っている「チビィ」というモンスターのせいなんじゃないかという事になって、そいつを退治しろという声が住人の間で広がり、そこでストーリーが多少分岐、チビィを逃がすと町は助かり、退治すると滅びるという末路を辿る事になる、といったものだ。
勿論ここは、色々な心情を鑑みればチビィを逃がす方へ物語を進めていくべきである。だがしかし、何とこの私、ここであろう事かチビィを対峙する選択肢を選んでしまった過去があるのだ。
言い訳するつもりはないが、それもしょうがない気はしないだろうか。展開的には「退治しろ」と言われたからって、幾ら「いいえ」と答えてもその都度「退治しろ」って言われるパターンだと思ったからつい「はい」と答えちゃっただけなんだって。
しかし、私のセーブデータにおいてルーメンの町が滅びているのは覆しようのない事実なのであった。あれだけ主人公達を悪漢扱いした私自身がそんな人間とあっちゃあなあ。もう救いようもないわなあ。
05/11/29(火) 第302回 アザラシ動かば…
こんな事を言っていたら本当にこんな事が起きてしまった。
「ナカちゃん」が商標登録
まあ、ただただお金儲けを目論んで我先に登録してしまったという事態ではないらしいからまったくもって平和そのものなのだが、いやしかし、やはりこれはどうかと思ってしまわなくもない。
「ナカちゃん」を商標として登録した菓子店の社長はこう言うという。「(商標登録は)地元と無関係な業者に独占使用されないためで、使用制限せずに地域活性化に役立てたい」
私はこれが利己的だと言っていた訳だ。町として飼育している訳でもないのに最早町のものとして扱っているという事じゃないか。他の地域の人間が勝手に名前を使っていいものではないと思うが、だからと言って地元独占という形も私としては戴けない。もしナカちゃんがこれから別の地域に移動してしまったらどうするつもりなのか。名前が「那賀川」とかかっているだけに、ちょっとした混乱が目に浮かぶ様である。
そう言えば、この前タマちゃんの住民登録がどうだとかいう話をしたが、その点ナカちゃんはどうだ、聞く所によれば既にして「那賀川ナカちゃん」なる名前で特別住民票を配布していたというじゃないか。町も仕事が早いなあ。
住民票のみならず、ナカちゃんを巡る商い魂は早くもかつての「タマちゃんフィーバー」を思い起こさせるものがある。「ナカちゃん饅頭」だ「ナカちゃんプリン」だ「ナカちゃんイチゴ」だとまずは食品業界が盛り上がり、更には「ナカちゃんマーク」だ「ナカちゃんスタンプ」だ「ナカちゃんソング」だ「ナカちゃん音頭」だと、おいお前等流石にあやかり過ぎだろうと思わず言いたくなってしまった。
まあ商売の一切を止めた方がいいのではとか言うつもりは全然ないのだが、タマちゃんに関しての時は皆がタマちゃんを愛していた筈であるのに、当のタマちゃんにとって好ましくない問題が起こった事もあった。今回はそんな変な問題が起こっては欲しくないものだ。
ところで、以前ナカちゃんの事を話題にした時に私は「アザラシ=大根」であるという事を言っていたのだが、「ナカちゃん」という名称が商標登録された今日、兵庫県相生市の歩道ではどうやら「ど根性くん」に何やら動きがあった様である。
心ない人に折られた「ど根性ダイコン」を永く語り継ごうと、このダイコンをデザインした「光る記念石」を埋設
つーか、「光る記念石」とは言うけど、それ普通の円柱型の石に見えるんだけどなあ。
それが、言っていい冗談なのか言っちゃいけない冗談なのかは、私には分からない。
05/11/30(水) 第303回 2005年11月
今月も早や終わりの時を迎えようとしており、気付いてみればもう師走、一年ももう後一ヶ月しかないのかと、時の経つのは早くなったもんだなあと思わされながらも、それって年を取ったという事だよなあとも思い複雑な気分になりつつも、いやいや何が、自分みたいなまだまだ若造もいい所な人間がそんな事を言っていちゃあ、三十路や四十路の人達の立場はどうなる、こんな事じゃいかん、これから年末年始にかけてもっと忙しくなってくるんだぞ、ここいらで踏ん張ってもういっちょ気合いを入れ直さねばならんじゃないか、とは言うものの既にして忙しいのにこれ以上忙しくなって世間は私をどうしようというのかなーんて思ってみたりもするがでもやっぱりそれだって五十路や六十路の人間から言わせたら何いっちょるんだと叱責されるであろう事は確実だろうし、そんな事を考えていたら折角盛り返した気分も鰻上りに下がる一方、ってそれ一体全体上がってんのか下がってんのかよく分からん分からん事になっているじゃないか、正しくは鰻下がりじゃないか、なんて軽はずみに言おうものなら横からそんな言葉ある訳ないじゃないかと文句があるだろうと思うのだがおいお前は何者だ、まさかあの吉田だとでも言うのかへへー申し訳ありませんでしたーつーか話がいつの間にやら脱線してしまったのだけれどとにかく今月という期間を振り返って私が言いたいのはこれなのである。
今月全然ゲーム出来なかった…
05/12/01(木) 第304回 プレステ2出荷一億台
昨日の文章を書いていてふと、年齢を表す所の「〜十路」って三十路(みそじ)と四十路(よそじ)位なものだと思ってたのが実は五十路(いそじ)、六十路(むそじ)なんていうのもあって、デフォルトで変換されてこそくれないけど七十路(ななそじ)、八十路(やそじ)、九十路(ここのそじ)、更に低きも二十路(ふたそじ)なんていう言葉があったんだなあと一人感心していたのですがそれと今日の話題とは全く関係がないんですよね。ええ。
あれから一年と半年と半月、プレステ2が偉業を成し遂げました。
PSよりも約3年9カ月早い――PS2、全世界での累計生産出荷台数が1億台を突破
何と言ってもプレステの時より3年9ヶ月も早い突破だってのが、プレステ2というゲームハードの、ゲームハード業界におけるトップ独走状態を彷彿とさせている様で、その勢いには驚かされるばかりですね。
そうとなると、いよいよ登場が近付いてきたプレステ3の動向も気になるというもの。業界に「上位互換当然」の波を到来させ、そして今回も勿論とばかりにプレステ、及びプレステ2のゲームも動かしにかかるというんだからその勢いは簡単には衰えないんじゃないでしょうか。
当然、プレステ3はいずれは買う事になるでしょうし、色々と期待してはいます。ただそれはそうと、プレステ2の出荷台数が一億台突破という事ですから、私としてはやっぱりこの事を言っておかずにはいられません。
つまり、
まあその、
今現在平常に稼動しているのはどれくらいなのでしょうか。
いやでも、少なくとも私が持ってるプレステ2は四年程経ってまだかなり正常に動いてますけどね。
05/12/02(金) 第305回 2004年の流行をおさらいする
世間の時事ネタを全くと言っていい程扱う事がなく、もし扱うとすればすっかり旬も過ぎた頃に時代遅れ感をひしひしと伴わせつつ文章にしていた私がいつになくここ数日は時事ネタをよく取り上げており、自分で言うのは何だが「巷の、身の回りにネタのないブログはこんな感じなのかー?」とか思っているのだが、ここで強く言っておきたいのは、別に今ネタ切れで困っている訳ではないという事である。「嘘付け」と思われるかもしれないが事実なのだから仕方がない。ネタが無かったら何も書かない、あれば書く、それだけである。一年に一回位は「ネタがない」事をネタにするかもしれないけど。しかも今の状況が「身の回りにネタのないブログ」っていうのは甚だ間違ってる気もするけど。
本題である。
先だって、今年の流行語大賞が発表されたが、そんな事は皆様方の多くが存じる所であろうからここでは特別に述べたりはしない。
それよりも気になるのは「去年の流行語」の方だ。大体にして流行りものというものはいつかは廃れていくもので、種々の流行語についても巷では「流行語大賞を受賞すると来年には消える」なんていうジンクスだか迷信だかがあったりするそうなのだが、さてでは去年の流行語はどうだったろうか。ここで振り返ってみたいと思ったのである。
取り敢えず列挙してみようか。
- チョー気持ちいい
- 気合だー!
- サプライズ
- 自己責任
- 新規参入
- セカチュー
- 中二階
- 「って言うじゃない…」「○○斬り!」「…残念!!」
- 負け犬
- 冬ソナ
こうして見ると、「消えた」とまでは言えなかったり、まだ「古い」と感じなかったりする言葉もある様に感じられる。まあその名の通り流行した言葉であるだけに使い古された感が拭えないのは確かだが、既に一年も前の話だ。それはある程度しょうがないというものか。そう言えば、堀江貴文ライブドア社長は二年連続の受賞になる訳だけども、これは中々凄い事なのでは。
この中で「消えた」感が最も強いのは満場一致で波田陽区だろうとは思うけども、個人的には思いの外粘ったなあと思っている。既にたまにしか見かけないけど、もっと見かけなくなるだろうと踏んでたからね。
さて、この中にあってやけに異彩を放っているのが「中二階」なのであるが、これが何を意味する言葉だったかご記憶の方はいるのだろうか? 毎年流行語が発表されると「こんなの何処で流行した?」と話題になる言葉が一つや二つはあるものだが、これはそういう意味では中々のものだったと言えよう。政治に興味のない人間は発表の日まで冗談抜きで一度も聞かなかったりしちゃっててもおかしくない様な。
取り敢えず、参考までに。
2004新語・流行語大賞 受賞記録
何だったら、懐古の思いに浸りつつ見るのもいいかもしれない…たった一年前だけど。
…でだ、そうとなると気になるのが今年流行語に選ばれた言葉及び受賞された方々の今後の動向である。最初から「今回限定」がほぼ確実である事が分かる言葉もちらほらあるからそれを考えから除くと、危なそうなのは一つか…二つか?
まあそれは、来年の流行語が発表された時に改めて振り返ってみる事としよう。一年後、どうなってるかな。それを楽しみにしつつ、今日はこの言葉でお別れにしよう。
オチに使うなら今のうちフォーー!
05/12/03(土) 第306回 楽々お掃除の定義
前々からとあるCMについて「これは言っておきたい」と思っていた事があって、いつかこの場で言おう言おうと思っていたのだが、いつの間にやらそのCMを見かけなくなってしまったのでさてどうしようかと悩んでいた。が、ここでもないと言う機会もなさそうなんで、より一層それを述べるタイミングを逸してしまわない内に言ってしまう事にした。
既に、商品名を忘れてしまったのだが、掃除用品とかミスタードーナツとかで有名なダスキンの商品のとあるCMにこういうものがあった。
ナレーション「問題。床の埃を掃除するのに便利なのは?」
ナレーション「ヒントです」
(画面は実際にその商品で掃除している光景)
ナレーション「ヒントです」
(同上)
ナレーション「更にヒントです」
(同上)
主婦らしき人「これがあればお掃除楽々!」
ピンポンピンポン!
ナレーション「床のお掃除にはダスキン、(商品名)です」
果たして知っている人がいるだろうか。万が一いらしたら、商品名の方を教えて戴きたい所だが取り敢えず今はそれはいいとして、つまりこのCMは何が言いたかったのか、要点をまとめるとこういう事になる。
問:床の埃を掃除するのに便利なのは?
答:これがあればお掃除楽々!
それ答えじゃねーよ。
05/12/04(日) 第307回 青天の霹靂
青天の霹靂――晴れ渡った空に突然起こる雷の意。転じて急に起きる変動・大事件。また突然うけた衝撃。
という事なのだが、つい一昨日、正にその雷が青天の霹靂的に起こったのである。あ、いや、この場合青天の霹靂的っていうのは「急に起きた」という方の意味で使っているのであって、実際に晴天の中で雷が発生した訳じゃなくその前後ではしっかり曇ってたし雨も降ってたんだけど。
いやしかし、その時起こった落雷によって停電したのには参った。停電なんて久し振りだったなあ。一年半振り位か。
それが鳥取での話だったから帰りも大変だ。一体何が嬉しくて今に雷が落ちるかもしれない中をだ、屋外でバス待ちにふけってなけりゃならないのか。バスが来てそれに乗っても、それを降りて間髪入れずに電車へ乗り込めても、だからってそれで全てが終わりという訳じゃないんだぞ。何となれば音はともかくとしてもバスや電車じゃ光はシャットダウン出来ないだろう。あの日は相当大気の状態が不安定だった様でかなりでかい雷が起こってたから、それに呼応して強くなる光が、幾ら目を瞑ってても分かっちゃうんだよ。あんなに辛い時間はなかったね。
本当に最近は雷が多くて困る。今日だって寒冷前線か何かの通過時に派手なのが一発あったし、この後だって雪が降るらしいから「雪おこし」が起こる心配があるし。
やっぱり昨今の地球温暖化に伴って、これから先気候が不安定になっていくらしいんだよね。そうとなると大雨とかの異常気象は数を増していくんだろうし、年間における雷発生日数だって増えていく事になるんだろうなあ。
おーいおいおい、極度の雷嫌いの私はこれからの人生、どう生きていけばいいのだろう。事はかなり切実である。今もって、雷に対する恐怖心は年々酷くなっていってるんだから。
05/12/05(月) 第308回 汲み取ってやって下さいm(_ _)m
二、三年程前に知人宛に送ったメールか何かをふと見た時、文面のそこかしこに「(笑)」と書いてあって正直ちょっと引いた、という話はいつだかにしたんだったかどうか失念したのだが、ともかくそんな事があって以来意識して「(笑)」の使用を控えていたら最近では殆ど見かけなくなってしまった。掲示板やらメールやらでのコミュニケーション時はそうでもないが、この日誌なんかは書かないと決めている訳でもなかろうに、と言うか内容からしたら積極的に書いていった方が良いかもしれない場合もあろうにとんとその姿を見ない。ここぞ、という時には使う様にしているものの、実はそれがてんで的外れな所に使っちゃってる可能性もあるんじゃないかという心配をする始末である。
さて話は少しばかり変わって、世の中には「顔文字」なる記号列があって、近年ことインターネット上の文章でよくよく見かける様になった。
顔文字、それはつまり「(T_T)」や「(^_^)」や「(-_-)y-゚゚゚」の事であり、それを、
「今日は朝早く起きて片道100kmの距離を移動したのに何もせず帰る羽目になりました(T_T)」
「遂に雪が降ったよ。電車が遅れまくり。ふざけんなバカヤロウ(^_^)」
「ニコレット♪(-_-)y-゚゚゚」
とかいう風に使うのであるが、括弧書き文字と同様、私はこれらも使わない。多分、このサイト内にある文章の中に顔文字を使った事は今までなかったんじゃないだろうか。
人によってはやたらと嫌うこの顔文字だが、私は単に自分が使わないだけで嫌いという訳ではない。どちらかと言えばバリエーションも豊富だし、何より書き手の言いたい事が伝わってくるので好きな方である。
実際、顔文字を用いる事で文章だけのものよりも余程細かいニュアンスを表せたりする事がある。例えばこんな例を挙げてみよう。
「どうもすみませんでした」
「どうもすみませんでしたm(_ _)m」
勿論時と場合によるだろうが、雰囲気的に極めて形式ばる必要まではない事が多いインターネット上でのコミュニケーションの場においては、後者の方がやや和やかな感じを醸し出してくれるのである。無論、それは謝る時のみならない。
「私もそう思いますよ」
「私もそう思いますよ^ ^」
随分と受け手の感じ方は変わるものなのだ。
ただ、それでも私は顔文字を使わない。何故か。それは、顔文字を使う事で微妙なニュアンスの表現をそれに頼ってしまう事になりかねないからだ。本来文章表現において顔文字という概念なんてものは存在しなかった。つまりかつては、そういった微妙な表現の違いを言葉のみで表していた筈なのだ。こうしてテキストサイトを運営している手前、私としては自分の感情なり想いなりというものを、ビジョンとして訴えるのではなく言語にて伝達したいのである。
私自身は、その為の努力を怠っていないつもりだ。だからこれをお読みの皆様方におかれては、逆に顔文字の使われていない文章から書き手の心情を探ってみる、その力を蓄えて戴ければ、そう思っているのである。
勿論私は、自分の書く文章が自身の想いを伝えるに十分なものでない事を棚に上げて言っているのであるが。
05/12/06(火) 第309回 ヾ(+_+;)/
φ(..;§
φ(..;§ノ °
φ(..;§ 。
φ(..;§ノ ° 。
(・ω・;)≡(;・ω・)
(((゚Д゚;)y-~
((( ;゚)3y-~
(((゚Д゚;)y-~
(((゚∀゚)y-~
((((((((((((((((((((((((゚∀゚)
(゚∀゚))))))))))))))))))))))))
((((((((((((((((((((((((。A。)
○| ̄|_
m(_ _)m m(・.・)m m(_ _)m
今後特に使う事もないだろうという事でざっと五年分くらい使って最近の私を表してみました。
意味はお好きな風にどうぞ(まさかの丸投げ)。
05/12/07(水) 第310回 あの月に立つ自分
我々人間の中には高い所に立つ事に恐怖心を感じる、いわゆる「高所恐怖症」なる人がいるが、かくいう私もその一人である。
高所恐怖症でない人には分からない事だとは思うのだが、高所恐怖症の人間にとって高い所に立つ事ほど辛い事はない。時々テレビで見る様な綱渡りとかいう極端な事例は勿論の事、ビルの屋上だとかいう空間も問題ない訳はなくて、意味もなく下を覗き込む事にかけては学校の屋上だって恐いものは恐いのである。
基本的に何故恐く感じるのかと言えば、それはやっぱり「落ちたら死んで、しまうのだろう」という思いにとらわれているからなのだろうけど、じゃあ安全が確保されている場なら高所でも問題ないのかと言えばそうでもないのだ。例えば観覧車なんかは落ちたらただ事じゃ済まない位置まで上昇する設備でありながら割と安全性がある方だとは思うが、しかし高所恐怖症の人間にとってそれは頂上付近まで上昇した時に前触れなく止まり、そしてゴンドラ毎落ちていく死の車に他ならない。つーか今書いてて気付いたけど、観覧車って「車」なんだね。そんな事はどうでもいい。
東京タワーか何かでガラス張りの床になってて下が見える所があったりしても、普通に考えればその床が抜けるなんて事はないんだけれども、しかし件の人達にとってそれは自分が立った時には必ずや抜け落ちる死の落とし穴なのである。どうも高所恐怖症の人は想像力豊かな人が多いのか、そこに立たなくとも「あそこに立っている自分」と、更に厄介な事には「あそこに立った挙句床が抜けて落ちる自分」を想像してしまうのだから面倒だ。
だったら高所に立たなければいいじゃないか。高所恐怖症でなくて高所なんぞ何とも思わない貴方はそう思うかもしれない。確かにそれは事実ではある。ただ、高所恐怖症の人間が恐怖を感じる場が、必ずしも高所に限らない事を貴方はご存知か。
と言うか、これは高所恐怖症の人間の中にあって尚且つ特別であるかもしれないのだが、少なくとも私は高くそびえる建造物等を下から見上げるだけでも多少足がすくむ。例えば観覧車を下から見上げてみると、それが少しばかり恐いのだ。先に想像力が豊かだという事を述べたがこれは正にその極みと言え、地面からそれを見上げるだけでその頂点にいる自分と、そこから落ちる危険に瀕している自分を思い浮かべてしまうのである。これこそ、高所恐怖症でない人間にとって真に理解し難い感情ではないだろうか。
ところで今日、ふと雲間から除いていた月を見て「かつてあそこに人間が立ったんだなあ」とかいう事を考えていたら、ちょっと足がすくんだ。あの果てしなく遠い地に立つ自分と、そこから地球に向かって猛スピードで落ちる自分とが瞬間的に浮かんだからだ。
流石にどうだ、これは。本当に想像力豊かと言っていいのか?
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