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06/02/23(木) 第381回 激しく萌える

私はこの歳になって、遂にその意味する所やその真意を知った様な、そして強く実感した様な、そんな気がする。

何しろ、何につけても心躍らされるのである。その存在を思い浮かべるだけで、自然と顔はほころび、気分はやや高ぶり、少しばかり歩調は速まり、日頃のイライラ感なんてものは何処へやらで、出会った人との挨拶も軽く、笑顔でいれば相手も笑顔、身の回りのあらゆる人々に優しく接する事が出来、そして私は些細な、しかし確かにそこにある幸せを実感するのだ。
これは幼い子供の頃は全く理解出来なかった感情であった。そりゃ当時の私はと言えば、ただただFFだのDQだのマリオだのゼルダだの、RPGやらアクションやらのゲームにしか興味のない様な、甚だ不健康かつ精神不衛生極まりない生活を毎日毎日飽きもせず懲りもせず続けていた訳だから、当然と言えば当然である。
いやでも、割と理想的で健康的な生活に身を置いていようが、結局子供には中々理解出来ない事の様な気もする。何となしに「良い」という感覚こそその本能で感じ取れるにしても、やはりその本当の良さ、本当の素晴らしさを知るのは大人になってからというものだ。言い換えれば大人の特権、というやつであろうか。
いやいや、何が偉くて「大人の特権」か。何を知ってて「大人」か。私なんて人間はまだまだ世の中の何たるかも満足に知っていない青二才ではないか、まだまだ子供臭さの全く抜けないひよっこではないか。そんな私に一体何を語る事が出来よう。まだまだ二十年、いや三十年、いやいや、それ以上の勉強が必要ではないか。
とどのつまり、私が真の意味でその素敵さを、その素晴らしさを知る事になるのは、いよいよ人生も終わりが見え始める位の、それ位の頃になるのかな。そんな事を考えてみたりした。

草木の萌える素晴らしき春、その訪れはもうすぐだ。



06/02/24(金) 第382回 引越し手伝いの旅

本日はちょっとした小ネタ&報告を四つ程。

小ネタ1
実は今日は昨日のネタ「激しく萌える」の、いわゆるアキバ系版を書いて更新するつもりだったのだが、推敲し始めて数分、早々と断念した。
どうにもああいう人達の言葉や雰囲気が掴めなかったのだ。いちいち調べるのが面倒臭かったという理由の方が大きかった様に思うが。
ま、どうでもいっか。

小ネタ2
昨日の夜中、バリカンを購入して二度目の断髪を決行した。
これでバリカン代の元が取れたぞー!
(参照1) (参照2)

報告1
現在鋭意執筆中である「妄想」新作の進捗状況。
現在七割程度が完成。多分もうちょっと。
量は今の所、そこそこと言った所。

報告2
突然であるがこの土日、身内から引越しの手伝いを命ぜられた関係で、明日と明後日家を出る事になった(昨日になって決まった)。
ついては、明日(もしかしたら明後日も含めて)の更新はないので、何卒ご了承を。
ノートパソコンを持参して行くので、暇さえあれば上記妄想の続きは向こうでも書けるかもしれないから、もし首尾良く帰宅までにそれが完成したら、それだけでも日曜日に更新する予定。
しかしながら予定は未(以下略)

しかし手伝わせるつもりならもっと早めに連絡よこしとけよなー。
そんな不平を垂れつつも、(あまり良くない方の意味で)人の良い私は明日、気持ち良い位肉体労働に精を出すのだろうな。



06/02/26(日) 第383回 とあるホテルの一室で

現在、2月25日土曜日の22時22分を回った所である。
所は、私の身内が住まう某県の某所にあるホテルの一室。
私は今、当サイト史上最も自宅から遠ざかった地にてこの文章をしたためている。
いや、なるほど、締切に追われた著名な作家の人やら何やらがホテルに缶詰めになって黙々と筆を進めるというのはこんな感じなのであろうか。当方外泊を苦手とする人種なのだが、ふむ、考え方によっては満更でもなかろうか。

さて、そんな悠長な事を言ってはおれぬのだ。私はこれから、就寝までの僅かな時間を駆使して、当サイトのメインコンテンツである所の「妄想」、この「妄想」の新作執筆活動に従事せねばならぬのだ。
明日は六時起きらしいので、個人的には一時頃には床に就きたい所。明日の準備の事を考えれば、私に与えられた時間は約二時間である。
二時間、いつもならあれこれと文章を考えあぐねている内にいつの間にやら経ってしまっている時間である。
しかし今日は違う。何せこの部屋には、自宅とは違って、いつもいつも私の手を休めようとして止まないインターネットという誘惑が存在しない。私は「妄想」新作に集中できるのだ、素晴らしい環境である。気の効いた音楽が聴ける設備もない。素晴らしい環境である。ちょっとした息抜きにと小説やらコミックやらを読む事も出来ないし、テレビこそあるが特に見たい番組はやっていない、素晴らしい環境である。
ここには温かい煎茶しかない。つーかそれもさっき飲んだ一杯で十分である。ここには何もない。

この文を書き終えた後、私はしかるべき作業へ移る事と思うが、さて家路に着くまでの間に無事新作は完成するのか?
この文章と同時に「妄想」の方が更新されていれば成功である。さもなければ…私が割と早めに寝てしまったという事だ。



06/02/27(月) 第384回 正に今だからこそスーパーマリオブラザーズ

先日NintendoDSで、かの伝説的横スクロールデカっ鼻配管工キノコオヤジジャンプアクション、「スーパーマリオブラザーズ」の新作がそれも2Dでの新作が登場するのだという話題をこの雑文でも扱った
私自身、熱狂的なスーパーマリオブラザーズシリーズファンという訳ではないのだが、しかし2Dのものに限るとすれば1、2、3、ワールド(4)は基本として、USAもGBのランドもランド2もやった程の思い入れはある。随分じゃないか。
なもので、この前新作が出るという話をしていたら、久し振りにやりたくなってきてしまったのだ。私は脳をフル回転させて考えた。今日は2月27日である。二月ももう今日を入れて二日しかない。FF12の発売日は3月16日だ。その日を迎えて以降、私はしばらくFF12の鬼と化すであろう。四月に入って新年度になったらまたちょっと慌しくなる可能性もある。つまり私にFF12以外のゲームをプレイする場合に許されている猶予は、今日を入れて計17日程しかない訳だ。
その間で土日は4日分ある。決まりだ。来週の土日にでも、1、2、3、ワールドと立て続けにプレイしちゃろ。
それから何時間経ったろうか。今日も無事帰宅の途に着いた私は、晩御飯を食べ終わるや否や、部屋でゴソゴソと何かしておるのかと思えば、ファミコンを引っ張り出して「スーパーマリオブラザーズ」にふけっていた。つくづく忍耐力のない男よなあ、と思う。直す気もないけれど。

そんな訳で、思い立ったが吉日なんて言葉もある事だし、早速とばかりに1と2をプレイ、クリアした(ちなみに2はディスクシステムの方を持っていない為、SFC「スーパーマリオコレクション」をプレイ)。
のんびりやろうって事で非タイムアタックだったのだが、それでも1をクリアするのにかかった時間は40分程度だったろうか。昨今の大作RPGとは大違いだ。素で100時間以上かかったDQ7の何分の一なんだっての。1/150だ。
しかしそんな、今となってはプレイ時間一時間にも満たないゲームなのに、不思議と飽きたりはしないのだった。いつプレイしても、子供の頃ファミコンに触れて感動したあの日の想い出が蘇るのだ。本当に凄い。
今日改めて「スーパーマリオブラザーズ」シリーズに触れてみて確信した。やはり次の新作もそれはそれは楽しめる出来である筈だ。いやしかしいつ発売になるのか? 続報が待たれる所である。つーかあれだね、もしかしたらFF12より気になっちゃってるかもしれないね。

…と、殊更不自然に騒ぎ立てて、2の方のそりゃもう酷くて情けなかったプレイには触れないまま締めようという魂胆の私なのであった。だって無限1upで120にした人数が最終的に30にまで減ってるって…死に過ぎ。
3とワールドはまた今度やろうっと。



06/02/28(火) 第385回 スノーボードクロス

先頃閉幕したトリノオリンピック、巷では金メダルを獲得した荒川静香選手の事で賑わっており、こりゃまたしばらく日本お得意の「フィーバー」なるもので盛り上がるのだろう何せ日本勢唯一のメダル獲得者なのだからなあとかいう感じであるけれど、そんな中今回私が最も印象に残ったのは「スノーボードクロス」という競技の事であった。
設定されたコースを四人一組になって一斉に滑り降りゴールまでのタイムを競うという、簡単に言ってしまえばそういう競技なのだが、この迫力たるや。ジャンプやらカーブやらを交えて突き進むその疾走感、故意でなければ他選手にぶつかって転倒させてしまっても反則にはならない荒々しさ、そしてそのルールのせいで否応なしに高ぶる緊張感、その全てが迫力満点であった。こうもテレビ放送に向いた競技というのも中々ないのではなかろうか。スポーツ観戦を通じてここまで楽しめたのは近年ではなかった事も新鮮に感じた所である。
そんな訳で、今回のオリンピックではこの「スノーボードクロス」こそ最も長時間テレビを視聴していた競技だったのだが、これを見ている内にふと気付いた事があった。

「これって、正しくFF7のスノーボードミニゲームそのものじゃないか」

スノーボードどころかスキーの事もよく知らない私は今まで、FF7のあのミニゲームの事を「まさかそんな」という感じで見ていた。ゴールドソーサーの方は正真正銘「ゲーム」なのだからいいにしても、アイシクルロッジから滑っていく方のはクラウドが実際に滑っている訳であって、特にそっちに関しては「幾ら何でも」と思っていたのだ。
しかしどうか、スノーボードクロスの方で一体どれ程の速度が出ているのかはちょっと分からないのだが、ただ斜面を蛇行しつつ滑り降りるだけなのではなく、よりエキサイティングに構成されたコースを凄いスピードで滑っていく彼らは一見する限りまるでゲーム画面のクラウドの様だと言って問題ないのではないか。
私は申し訳ない事にオリンピックが始まるほんのちょっと前にこの競技の存在を知ったという俄かファンなのであるが、しかし今後の盛り上がりを期待したい所である。

いやしかし、後はあれだな、所々に風船を配置すればもう完璧FF7だな。
そしたらあのミニゲームみたいにタイムだけじゃなく得点による競い合いも出来るしね。で、躍起になって風船を取ろうとする内に紐が脚に絡まって転倒事故……ん?



06/03/01(水) 第386回 PTAを牛耳る者達

「PTAとは父兄の事だ」

ふとした時にこんな文章を読んでえも言われぬ違和感を感じた。
確かに、PTAという組織は以前は「父兄会」と呼ばれていたらしく、その意味でこの文章は正しい。だがしかし、どうも違和感を禁じ得ないのだった。
何故ならば、「父兄」という言葉自体の意味に立ち返って考えてみるならばそれは父と兄という事になるのだろうが、では実際PTAに父や兄が携わっている事がどれだけあるだろうかと問われれば、どうしてもその割合は著しく低下してしまうと言わざるを得ないからだ。
主にその活動に尽力し組織を支えているのは、圧倒的に母親の方だろう。だからPTAを敢えて日本語で言う際の「父兄」という言葉はまず「父」という文字を改めてここを「母」とすべきである。
更に言えば、相当特殊な事情でもない限りPTAに兄が関わる事は父以上にない訳だから、「兄」という文字も別の文字に置換するべきだ。ここでは何とするのが妥当だろうか。「父」は先程除外されたが、しかし表立った活動こそ少なくとも組織に所属しているだけなのであれば相当数の父親はPTAであると言えるのだから、ここはやはり「父」だろうか。いやいや、それでは「母」と「父」が同等の扱いとなってしまう事になる。組織の実情と併せて考えるのなら、それでは多少不平等だと言わざるを得ない。
両親共に参加しているが、母親の方がより貢献度が高いというこの事実を的確に指し示すべく、ここでは「両親」という意味で「親」の字を充てて、母と父の比率を2:1(3:2か?)にする事としよう。

まとめ。「PTAとは父兄の事だ」→「PTAとは母親の事だ」

…何か当初の予定とは著しくズレた結果が出た様な気もするが、そう言われれば納得出来てしまうのが恐ろしい所である。



06/03/02(木) 第387回 元に戻す

長期間一定の動作をする活動に従事していたりすると、その動作がついつい癖として全く関係ない場面で表出してしまう時がある。例えば、DQ8の移動に慣れていると不意にバイオハザードシリーズをプレイした時に主人公が変なステップを踏むし、FFの飛空艇の操作に慣れているとMGS2の潜水時操作で浮上しようとしたらより深く潜っちゃって窒息寸前になるのである。つーかやっぱり上方向への移動は↓ボタンだよなあ。前は何で上下移動は移動方向と操作キー方向が逆なんだろうと思ってたけど、操縦桿のイメージなんだろうか、今ならそっちの方がしっくりくるなあ。まあね、潜水中に操縦桿は握らないから↑ボタンで上方向へ動くのは当たり前と言われれば当たり前なんだろうけど。うーん。

ところで話はゲームから変わるが、いつだったろうか、今の私には珍しくとてつもない暇を持て余している時に、寝転がりながら意識も正気七割眠気三割と言った感じで右手には鉛筆を、左手にはB5サイズ位の紙を持ち、他愛ない絵とか図形とかを描いていた時にそれは起こった。
まあ、暇なりに、絵が下手ななりにそれとなく没頭していたのだろう。ふとした時に何かを描き間違えたのだが、その瞬間無意識に左手の小指と人差し指が紙の上で「トトンッ」とステップしたのであった。

左手の小指人差し指

左手の小指(Ctrl)人差し指(z)

Ctrl+z(元に戻す)


パソコンの使い過ぎを実感するには十分過ぎる出来事であった。
ちなみに、Ctrlキーを小指で押しながらzキーを人差し指で押すというのはいささか窮屈な様な気はするのだが、そこには是非突っ込まないで戴きたい所である。



06/03/03(金) 第388回 感心度デフレ

「トリビアの泉〜素晴らしきムダ知識〜」通称「トリビア」という番組があって、この番組が元々深夜番組だった事は有名であろうが、私はその深夜時代からこの番組を時々見ていた。
それで前から気になっていた事があるのだ。視聴者から投稿されてくるいわゆる所のトリビア、このトリビアを評定する際には「へぇ」というまあつまりは「感心度」的な単位が用いられるのだが、この「へぇ」の伸び具合が、番組がゴールデンタイムに格上げされてから低下した様なのである。つまり「へぇ」のデフレが起こっているのだ。
何故か。多くの人はその原因に、ゴールデンタイム進出を切っ掛けにタモリ氏が品評会会長に就任した事を挙げるのではなかろうか。確かにタモリ氏の「へぇ」数は他の品評者と比べて少ない事の方が多い。
だが本当にそうなのだろうか。真の理由は別の所にこそあるのではないか。否、あるのだ。かような「へぇ」デフレが起こった本当の原因はタモリ氏の品評会会長就任ではない。
もしタモリ氏が現役職に就任していなかったとしても、「へぇ」デフレは避けられなかったと言わざるを得ない。デフレは起こるべくして起こったのだ。だってそうではないか。
例えば貴方が知人に対して、

「『OILOILOIL.』と書くと『サザエさん』のエンディングの曲っぽく聞こえる」

と、取って置きのトリビアを披露した時、相手がこう言ったらどう思うだろう。

「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」
「へぇ」

正直言ってしつこいにも程がある。何処となく馬鹿にされている様ではないか。
つまりこうだ。一つのトリビアに対して「へぇ」と言うのは実の所一回で十分なのだ。辛うじて許される範囲で二回が限度だろう。例えそれに「私はこんなにも感心、感嘆、驚愕したのですよ」という意味が込められているのだとしても、ただただ「へぇ」「へぇ」とだけ連呼するのは言わば相手への愚弄である。
そうして考えてみれば、一人につき最多二十回も「へぇ」と言える「トリビアの泉」のシステムは、実は設定当初から破綻する事が見えていた欠陥システムだったとすら言えるのかもしれない。

確かにタモリ氏の「へぇ」数は他の品評者に比べて少ない。しかし冷静になって考えてみれば、今なお「へぇ」と言い過ぎなのは明白だ。
「へぇ」デフレ。まだまだ終わりそうにない。



06/03/04(土) 第389回 合点デフレ

デフレである。デフレなのである。その波は「へぇ」ボタンにのみ留まらないのであった。

「ためしてガッテン」通称「ガッテン」という番組があって、残念な事に私はこの番組を見る機会が殆どないのであるが、ただ何故かこの番組に存在する「ガッテン」ボタンの存在はよく知っている。
この「ガッテン」ボタン、三人のゲスト出演者が週毎の放送の終わり際、その回に取り上げた事柄に対し「合点が行った」と思えば押すというものである。「へぇ」ボタンを押した時の音が名前通り「へぇ」であるのに対しこちらも負けじと「ガッテン」である。
さて、この「ガッテン」ボタンにも前述のデフレの波が押し寄せているのであった。

ある時期まで、この「ガッテン」ボタンは一人につき三度まで押す事が出来る仕様になっていた。それが「最大三点」という意味での事だったのか、或いは点数付けの要素を持たず三回押す事が慣例であったのか。私はそこの所をよく知らないのだが、とにかくこの時代においては、三人のゲストが三回ずつボタンを押す為に「ガッテン」という音が「ガッテン、ガッテガガッテガガガッガッテン、ガッテン」の様に聞こえていた。
ともすれば、それは流石にうるさかったと言うか、しつこかったのだろうか。いつの頃からか、「ガッテン」ボタンは一人につき二回までへと、その押下回数上限を引き下げていたのである。
そして今。ご存知の方も多かろうが、「ガッテン」ボタンは更にシンプル性を増し、遂には一人が一回押すだけのものとなった。

さて。
何故「ガッテン」ボタンの押下回数は段々と収縮していく方向へ変化していったのであろう。答えは簡単だ。例えそれがどんなに自分の納得の行く事柄であったとしても、口に出して「ガッテン」と言うのは高々一回で十分だからだ。最多で二十連発する例の関心語よりはやや大人しめでこそあるが、しかしやはり三回も続けて言うものではなかったのである。
ただ、「ガッテン」ボタンは偉い。何となれば「ガッテン」ボタンは一部の品評者によって既に警鐘が鳴らされているにも拘らず未だ何の改善策も講じようとしていない「へぇ」ボタンとは違って、自らあるべき形へと変貌を遂げたのだから。
「へぇ」ボタンは、偉大なる先人を見習うべきではないか。昨日も言った事だが「へぇ」は一回で十分なのだから、今の「ガッテン」ボタンの様に押せるのは一人につき一回にして、その代わり百人の品評者を用意するといったシステムに変更するべきではなかろうか。

さもなくば遠からざる未来、平均5へぇ、10へぇも行けば金の脳なんて時代が来るだろう。



06/03/05(日) 第390回 名案

「そうか!!」

私は掌をポンと叩いた。その瞬間、ふと気になったのであった。この、掌を拳でポンと叩く仕草は一体何なのだろう。
別に、掌を叩いたからと言って何かしら妙案が浮かぶという訳ではなかろう。それにこの仕草がその事を意味していると伝わるのは単にもう人々の間で「掌を叩く=妙案が浮かんだ」という図式が一般知識として、一般標準として、デファクトスタンダードとして既に成り立っているからに過ぎず、何もその動き自体に「妙案」だの「名案」だのという意味が込められているという訳でもない筈だ。
ポン。その仕草から連想するのは革新的なアイデアでも独創的な思い付きでもない。停滞感甚だしい企画会議を一歩押し進める考えである訳がなければ、窮地に陥った企業を救う奇跡的な策だってない。判子である。それも掌に握り締めて紙面へ振り下ろす大きめの判子である。或いは昨日話題になった「ガッテン」ボタンか。掌と拳の関係を逆にすればたちまちにして喫茶店やファミリーレストランにておしぼりを盛大な音と共に開けるオジサンの図、である。
かてて加えて、この仕草は割と大きいアクションのものであるからか、実行する事によって実際よりもかなり程度低く見られてしまう事もある。何処か大袈裟過ぎる様に見える事で、つまりあざとく映ってしまうのだ。
例えば、先に挙げたが停滞し切った企画会議で都合良く天啓が下ったとして、それを件の動作と共にしかも「私、着想を得たのですが宜しいでしょうか」なんてセリフを引っさげつつ表明したりなんかしたらどうなるだろう。「私、着想を得たのですが」である。これ程力強い、そして現場の人々にとって限りなく頼もしい一言はそうあるものではない。だがこれが、ただ「ポン」と一緒になっただけで。想像してみてほしい。どうだ。「ポン」である。恐らくそれから一呼吸置いて、「私」ここでは勿論「わたし」でなく「わたくし」である。いや残念だ。貴方の発した無限の頼もしさをも醸し出すその一言は、その一瞬前に無言の部屋内へと響き渡った「ポン」によって殆どその力を失ってしまうのだった。他の人にとってみれば呆れた様子で「ハイハイ」と言った所である。
何故そうなってしまうのかと言えば、それはやはりあまりに分かり易過ぎるあまりに安直な表現だからなのだろう。わざわざそれを目の前で示される事によって多少馬鹿にされていると感じるのではなかろうか。
分かり易過ぎるというのも罪なものだ。「ポン」を「名案が浮かんだ事の分かり易い表現」と認識しているのは人間自身なのであって、「ポン」自体は一切悪くもないのだろうに。

…って、あれ、俺さっき何思い付いたんだっけ?


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