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07/02/15(木) 第661回 だがしかし、カメ

しまった、去年と同じ順に書いていってたら「歪曲」を飛ばしてしまっていた。まあしょうがないか。このまま今日は「俺的事典」について書いて、明日にでも書く事にしよう。
とは言うが、はて困った。「雑文」についての回で「これと言って書く事も見当たらない」とか言っておきながら結局はダラダラと話し込んでいたが、この「俺的事典」は今度こそ本当にこれと言って書く事がない。それもそうか。さしもの「雑文」もネタの質の変化という一年前との違いがあったけれども、これについては本当に何一つ変わった事をやっていないからだ。私に言える事は、今日までに掲載した単語が1000語なんてあっさり超えて1459語にもなった事と、確か去年は734語だとか言ってたがそれだと1日2語1年730語ペースじゃ計算が合わないという事はつまり去年の計算は間違っていたんだねという事実を今日になってようやく知った事のただ二つだけなのであった。
しょうがないので、今日はこれで終わりにしとくか。実際問題、明日は少々どころでなく重要なイベントが待ち構えているので、ここ三日間の様にたっぷりと思いの丈を述べている余裕は全然ないのだ。今日が丁度「俺的事典」の回で良かったよ。
ちなみに言っておくが、昨日「歪曲」をすっ飛ばしたのは、今日という日に短く終われる「俺的事典」を持って来ようと思ったからとかそういう訳じゃないんだぞ。他意はない。今日、一日遅れで「歪曲」を書かずに明日へ追いやった事については他意があるが。


でもこれはやる。否、やらなければならない。「祝二周年・私が選ぶ俺的事典ベスト3」
どれが去年のエントリーでどれが今年のエントリーであるかなんていちいち記録も残してないから分かんないのでそこの辺りは適当。無論、1459語全部丁寧にチェックなんぞしてないぞ。

第3位 レベル2オールド (FF5)
レベルが2の倍数の対象にオールドをかける。
まあ、私が言いたい事は一つである。ガラフにだけは使わないでやってほしい。死んじゃうから。
って、何処かで似た様な事を言ってたっけか。


第2位 ドントレス (FF10)
「完全バーサク防御」か「バーサク防御」のいずれかがセットされているリュック用防具。
「don't less」って、この文法も随分と怪しい英文は一体何だ、と思ったのだが、実際はそうではなくて「dauntless」(勇敢な)の意らしい。なるほどね。ただそれにしても、何でそんな誤解されそうな単語使っちゃったの。勇敢だって事を言うにしてももっと分かり易いさ、「ブレイブリー」とかにしたらどうよ。随分と格好悪くなっちゃったけど。いやいやでもでも、その点では「ドントレス」も負けてねーと思うぞ。


第1位 ギード (FF5)
ギードの祠に住む賢者。予言者でもある。
ガラフによれば700年の時を生きているらしい。だがしかし、カメ。だがしかし、カメェェェッー!




07/02/16(金) 第662回 言葉の持つ魔力

よくよく考えてもみれば、「俺的事典」について何にも書く事がなかった訳なかったよなあ。仮にも一年間最多更新回数を誇るコンテンツに仕立て上げておいて。まあいいという事にするか。また来年があるのだし。
思えば、「来年も変わらずやってますよ」って胸を張って言えるのは「俺的事典」だけだろう。陰の立役者だな。

昨年3月12日、当サイトに一つのコンテンツが誕生した。
「歪曲」 その、「妄想」やら「雑文」やら「愚痴」やら、このサイトに名を連ねるどんよりとしたオーラを放つコンテンツ名達をいとも簡単に凌駕するが如き負の名を持ったそれは、FF1起動時に流れるデモメッセージのコピペに端を発した。
「構想約半年」と息巻いていた割には、そのスタートはあまりに、またもや、「雑文」の臭いをプンプンと漂わせていた。「雑文」の臭いが漂うという事はつまりそれが「愚痴」に掲載されていてもこれといった違和感が生じない事を意味したし、各ジョブの解説部に「俺的事典」のテイストまで含んでしまっていたそれは、当時はあまり気にかけてはいなかったが、もしかしたら「また似た様な事を」と思わせていたかもしれない。
しかし、出来はともかくとすれば、この「歪曲」はもうすぐ一年を迎えようとしている現段階までで「愚痴」なんてのとは目じゃない程の性格を勝ち得た。やはりその時々に思い付いた事柄ばかりではなく(「歪曲」以外の全てのコンテンツのコンセプトがそうだ)、ストーリーを順に追う形で展開させる時点で既に他とは一線を画していたな。「歪曲」を「歪曲」として書く意義が多少なりともあるんなら、だらだらしたりはしつつも粘り強く続けていけましょうよ。

さて、具体的内容の方に目を向けてみると如何か。
あれを読む上で皆様に注意して戴きたいのは、と言って本当は勿論注意なんてして戴かなくてもよく、敢えて厳密に言えば私の「『歪曲』製作に対する姿勢」について知って戴いてほしいのは、という事なのだが、ともかくそれは「私は小説を書いているのではない」という事だ。
これまでにも何度か述べた事があるけれども、小説を書くという事にかけて私の左に出る者はいないだろう。流石に言い過ぎだとすれば、「テキストサイトを持つ人間の内で」程度の制限を付加してもいいが。とにかく駄目だ。特に台詞が駄目だ。登場人物の台詞を頭の中で思い浮かべて、それを文字にして目にすると決まって思うのだ。「何だこの、小学生か中学生かが若気の至りで勢いのままに書き上げた小説内にでも出て来そうな言い回しは」と。文章書くのに時間がかかるのと同様、これもやはり基礎の学習不足故か。ともあれ、そんな私が仮に小説風にストーリーを追って文章化していき、最終的に事実上の二次創作小説を書き上げてしまったとするなら、程なくして全体を見返した時に「うおおおおおお、消してえええええ」なんてな衝動に駆られてしまうのはもう目に見えている。そんな中既にして、台詞とは別問題ながら第4回「コーネリア国最強の騎士」の「うるせえ」はかなり粗末に過ぎたなあという事で消したい過去の一つと化していたりする。私に出来る事は、今後こうした悲運を辿る作品を一つでも少なく抑える事だと思っている。
そう言いつつ、「その時々によって小話風だったり小説風だったりする」と「歪曲」のページのトップにある通り小説風の作品はいくつか存在しているし、自分で創作した、ゲーム中には出て来ない台詞も割と多く見られる。これは単にそうした方がその場面で書きたいネタを最も良い形で活かせるかなと思っての事なのであるが、私は言いたい。仮に、万が一、私の事を文章力があると思っている方がいるのなら、「歪曲」の創作台詞を見よ(第8回第11回第14回第15回)。そして真実を知るのだ。一刻も早い方がいいぞ。手遅れになるから(謎)

先にもうすぐ一年と言ったけれど、開始した当初は「全シリーズやる」とか言ってたのも一年経って未だメルモンドじゃ出来たもんだか怪しくなってきたとかいうレベルじゃない位無理そうになってきたな。
でもだ、このコンテンツって当サイトの中で唯一現実的なゴールというものが設けられているものだから、一作品をエンディングまで書き切った時の達成感って他とは一味違うと思うんだよ。だからせめて、FF1ばかりは完結させたいね。そう長いストーリーでもないんだから、何とか来年の今頃までには。
場合によっちゃあそれで「歪曲」完結としていいのでは、なんて思った事がなかった訳じゃあなかったが、ただなあ…既にしてFF2一発目のネタは決まってるんだよなあ。ネタがあるなら、載せたいし、でも載せちゃうと、また長いし。
ってか、どのご身分で悩んでんだろかね。そんな事ぐだぐだ言ってないでさっさと更新しろと。そりゃごもっとも。


第8回、第11回、第14回、第15回は既にして落選決定!! 「祝二周年・私が選ぶ歪曲ベスト3」

第3位 第6回「浄霊」
ただのバグにありもしない状況説明を付け足して付け足して付け足す。
「妄想」の片鱗がうかがえるね。いや、「妄想」そのものか?


第2位 第12回「気になる」
そりゃだって気になるでしょうよ。
それはともかく、アストス戦をどう表現するかで迷っていただけに、「気になる」の1フレーズで洞窟攻略から何から全部片付けられたのには助かった。


第1位 第10回「海賊退治」
悲運の海賊、ビッケの物語。
彼が、こちらから接近し、こちらから密着し、こちらからAボタンで話しかけるまでは攻撃の意思を見せないのは事実である。




07/02/17(土) 第663回 アクセス数への意識

密かに自分でも楽しみに感じていた、一年に一度のアクセス数まとめ。今日だっていつもの様にExcelによるお手軽グラフでまとめてみた(下はアクセス解析を設置してからのグラフ)。

2006/02/12〜2007/02/11


2005/02/23〜2007/02/11


去年のものと比べると数値が激変した日はなく、ある意味では面白味のないものになったね。まあ、そんなそんなに環境が激動する様な出来事が起こる筈もないし起こってくれても困るのだが。
比較的安定して推移したという事は話題にする事も特にない事を意味するけれど、それでも、先日特別にグラフ化した正月近辺の凹み具合はやはり目に付くか。あれからちょっとしたらある程度回復したもんだから、結局何だったんだと思うと共に早い段階でネタにしといて良かったなあとも思っていたのであるが。
公開一年目のものを併せたグラフを参照してみると、今は多少数が落ち着いている傾向が見て取れる。去年夏場辺りで若干山なりになっている様なのは「共同企画」を更新していた影響か。そうとなると、今後ああいった特殊な企画に携わる可能性は(何しろ私から呼びかけたりする事はないだろうから)低いし、今後のアクセス数の推移はどうなるだろう。この傾向をもうちょっと持続して訪問者がもう少し低下するか、或いは今くらいの増減をしばらく繰り返すか。もっともらしい疑問を呈しておきながら、ここ最近「当サイトのアクセス数はもう少し下がった方が良い」と言っていた私にとってそれは大きな問題でもないのであるが。

数以外の要素でアクセス数を評価すると、ここ最近、去年は常に最も多かったYahoo!のFFカテゴリからのアクセスを「ブックマークやお気に入り」名義のアクセスが上回る様になっている。もっとも、全てがブックマークによるものではないが、少なからず去年よりも大分増えたらしい事は確かな様でありがたく思うばかりである。
私は、今まで「ブックマークやお気に入り」の数をあまり意識してはいなかった。それよりも、「初めての訪問者」が何人いるかという事の方が私にとっては重要であった。日にブックマークからのアクセスが10人いるのと初めてサイトを訪れる方が10人いるのとでは、前者は飽きられればそれっきりでありアクセス数は減るばかりだが、後者は毎日毎日10人の新人さんがやって来てくれて、もしも気に入ってもらえ常連になってくれる方がいればその人が11人目以降のお客様となるからだ。
「アクセス数は特に気にならない」とこのサイト内で公言した事があったかしれないが、あったとすればそれは正確には嘘であり、実際には上述の通り初めての訪問者が何人いるかについてはよく気にしていたものである。その数値は即ち、繰り返しアクセスしてくれる方が一人もいなくなった場合における最低ラインのアクセス数を意味するからだ。これが少ないという事は、何らかの理由で常連さんを失った場合に、再びかつての賑わいを取り戻す事が困難である事を意味する。私からの相互リンクの申し込みを始め、「妄想針千本のkemkam」名義で他サイトさんに積極的に関わっていく事がまずないという内向き志向もいい所な私が、検索エンジンにだけはどんどん登録しているのはそれが理由だ。ある程度は初めての訪問者に対する門戸が存在している事が重要だったのだ。具体的には1日30人分の道が欲しかった。それだけに、去年Yahoo!のFFカテゴリに登録された時は嬉しかったものだ。何しろそのリンクからだけで15〜20人は初めての訪問者を呼び込んでくれるのだから。
そうして安定して30人以上の「初めてのお客様」を迎えられる環境が整うと、いよいよアクセス数には無頓着になった。一応毎日確認はしてみるが、でも確認してみるだけ。「アクセス解析」と言いながら解析とは名ばかりのアクセスカウンターがそこにはあった。そんな、ただただアクセス数を参照するだけであった中である日、私は非常に驚かされたのである。Yahoo!のFFカテゴリからのアクセスを「ブックマークやお気に入り」名義のアクセスが上回っている事に。

あまり意識してはいなかった筈が、嬉しかったね。ただ油断するな。ちょっとここで自惚れてこの結果を「このサイトに魅力があるからだ」なんていう風に分析したりしようもんならあっという間にそれら人々は消えていなくなるぞ。
流石にちょっとこの流れじゃ「それをオチに持ってこよう」とも決断しかねるぞ。


「祝二周年・ユニークアクセス数ベスト1&ワースト1」

第1位 2007/01/08(月) 178人
アクセス数激減云々事件から僅かに一週間後の大記録。
ただ、ユニーク数とは言えJavaScript無効のアクセスは重複カウントが許可されるので、この日は随分それがあったんだと思う。実際は130〜140人程度か。


最下位 2006/04/19(水)・2006/04/25(火) 74人
最下位とは言うが全然少なくない。本当にサイト運営に関してだけは恵まれてるな。
そういや去年のワーストも4月だったっけ。春先は人が少なくなるのだろうか。
それでも一応慣例として、公開二年目で最も閲覧者が少なかったであろう「雑文」を参照。これ(MGS3S日誌)これ




07/02/18(日) 第664回 緊張の反動

つー事で、各コンテンツに関して及びアクセス数の事についてできっちり都合六日間のネタとさせて戴いた。丸二年の時のも合わせると丸々一週間か。助かるなあ。いつもより対一回文章量が多くなる傾向にあるからネタが稼げたその一点以外ではむしろ大変だったけど。
さてここまで読んで、私が何を言いたいのか分かった方がもしいるのならその人は「雑文」読みの達人だと言って過言ではないだろう。まあ、ひとまずそれはおいておいて本題に入る事とする。

私の部屋にはルービックキューブがあってそれがもう随分長い事放置されていたのだが、先日おもむろにそれを引っ張り出してきた。
と言うのも、時代も大分移り変わったものよなあ、と不意に感じたからである。このルービックキューブを買ったのは私ではなく私の親だったのであるが、それが私の手に渡る頃には元々は同梱されていたとされる攻略法の記載された紙が既に何処かに消えてしまっている状態であった。そんな中、ヒントもなしに一人果敢一人孤独に目の前の立方体へ挑んでみたものであるが、当然と言うか何と言うか、そのキューブが六面綺麗に色を揃えたりしてくれる事はなかった。色の揃った面はなるべく動かさない様にと思ってやっていたものであるから、それも道理というものだ。結局、一面は簡単に揃えられる様になったが二面揃えるのにはそれとは比べ物にならない時間がかかってしまうまでにしか実力は向上せず、その内飽きもきたので放置と相成った訳である。
しかし、先日ふと思ったのである。ルービックキューブの解法程度ならインターネットで幾らでも調べられるんじゃないのか。
真理に辿り着いた私は、早速検索しては分かり易い解説を発見しその日の内に六面を揃えましたとさ。

そう、昨日までの「雑文」更新作業が多少大変であった私は、その分今日はとことん薄い内容で良いよな、と思った訳だ。
ええ? どうだい、通常営業になった途端に現れるこの締まらなさ具合は。



07/02/19(月) 第665回 今すぐに追加したい一語

ダーリンシヴァ (FF12RW)
氷の女王シヴァの夫。冷たい口説きで敵の動きを止めたりする。
悪い事は言わん、とっとと離婚した方が良いぞ。


これが事実なら、これは悲劇だ。今からでも遅くない、何とかシヴァと別れられないものか? この言葉はダーリンシヴァその人へ向けられている訳ではなく、これでまた一つ世間から呆れられたスクウェア陣に対してのものなのだが。
ダーリンシヴァはねーって。嘘だと思うなら周りに人のいる状況でこの七文字を口に出してご覧なさいよ。
悲劇だねえ。悲劇。



07/02/20(火) 第666回 「666」

ヨハネの黙示録 13章18節

ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。
その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。

666。
「悪魔の数字」とも呼ばれるこの数は、一般に不吉なものとして知られる。特に映画「オーメン」の登場以降はより広く認識される様になっただろうか。
そう、邪悪なものには「666」が隠れているのだ。

かの有名なアドルフ・ヒトラー、彼はこの数字を持つとされる。
まず、全アルファベット26文字に対してAに100、Bに101の要領で数字を対応させる。それに従ってヒトラーの名(Hitler)をそれぞれ数字へと変換し、それらを全て足し上げると666となるのだ(ゲマトリア変換と呼ぶ)。
これはユダヤ人への迫害など、極めて残虐な独裁者として一国の頂点に立つ事が、生まれ落ちたその時から既に示唆されていたという事だろうか。

或いは、その対象を人間に限らないとすれば、アメリカ最大の都市ニューヨークもこの数字を持っているのではないかと言われる。
先程のゲマトリア変換の要領でAを1としてアルファベット(NEW YORK)と数字を対応させ、それぞれの数字に「獣の数字6」をかけた上でそれらを全て足すと666となるのである。
ニューヨークと言えば2001年に起きた同時多発テロは未だ記憶に新しい。ニューヨークシティが悪魔の数字に囚われている事は最早疑いようがあるまい。

それは身近な所にもある。我々が毎日使っているお金にもその数字は見られるのだ。
現在日本では全部で6種類の硬貨が発行されているが、これが1枚ずつあると幾らになるか。そう、666円になるのだ。
扱い方によっては身を滅ぼす。「666」はそんなお金の恐ろしい一面をうかがわせる。

更に「666」の法則は架空の存在にまで通用する。このサイトでは有名な「白い悪魔」メネとモグオ。彼等にもまた、悪魔の数字は隠れていたのだ。
メネ(Mene)とモグオ(Moguo)、これをA=100とするゲマトリア変換によって数字へと変換しそれらを足すと999となる。そしてここからが重要なのであるが、この数字を中心点を軸にして180度回転させると何とこれが666と化すのである。天地を逆にする事の是非は議論される必要があるかもしれないが、ノストラダムスの大予言で人類の滅ぶ時として話題となった「1999年7の月」、起こるとされた現象からすれば悪魔の数字を持っていない筈のないこれに「666」を見出せる唯一の方法が「ひっくり返す」であるのだから、頭ごなしに否定出来るものでもない。
悪魔の数字が逆さまになって現れた事は或いは、彼等の計画が大成せぬままに終わる事を暗示しているとも取れるかもしれない。

この様に、世の中にはまこと多くの「悪魔の数字」が存在する。それは「隠れている」と言われる様に、一見邪悪には映らないものが実は、という事も珍しくはないだろう。
「666」 それは貴方の身近にもあるかもしれない。そしてもし「666」を持つ人がいるのなら、「666」を持つ物があるのなら、いつ何時、貴方の身に何が起こるやもしれない。くれぐれも用心されたし。


そして最後に、もう一つ。
A=103として「kemkam」をゲマトリア変換したその総和は666である。
103という数字がやけに中途半端な様だが、これは私が日本に住み日本国の憲法を遵守して生きていくべき立場にある人間である事実において、その日本国憲法が103条からなる事と無関係ではあるまい。



07/02/21(水) 第667回 奇跡の一夜を振り返る

最も驚いたのは誰あろうこの私だ。昨日の悪魔の数字ネタ関連で私のハンドルネームをゲマトリア変換してみたらそれが「666」になってしまったもんだから。
もっとも、昨日は初めから「kemkam」を「666」に変換して締めるつもりではいた。ただ、そんなそんな都合良くいってくれるとは思わなかったから、あれこれ工夫して無理矢理にでも「666」へ落とし込む予定であった。それがどうだ、実際にアドルフ・ヒトラーの要領でAを100として変換した時の数値は648、即ち「666−(元文字列の文字数の定数倍)」だったのだ。基準値を1増やせば最終的な値は文字数分だけ増加するのだから、この場合基準値を3だけ増やせば問題の数字に一致する事は容易に分析された。この事実に私は期せずして興奮を覚えたものである。よくよく考えれば「奇跡」と言うには全く及ばないものである事も容易に分析される事なのであるが。しかし、僅かばかりとも値を「666」へ近似させようとする努力を要しなかった点については純粋に嬉しかった所だ。昨日は割といっぱいいっぱいで更新時間も夜11時を回ってからだったしね。

んでもってそれ以上に感動したのが「メネ」と「モグオ」のコラボレーションがなした「999」の奇跡だ。これこそ本当に奇跡。「kemkam→666」の場合は基準値が103と極めて中途半端(無論日本国憲法は103条がどうたらこうたらというのは相当悩み抜いた挙句に捻り出した後付け理由)だったのに対しこちらはきっちり100を基準とした上で一切の不正なく綺麗な(しかもひっくり返すという「操作」だけで目標に到達する)数字になっちゃってくれちゃったものであるから、私はそこに「妄想」の妙を感じずにはいられなかった。よくぞメネを悪魔として仕立て上げ、のみならず彼とモグオとを結び付けてくれたなと、数年前の私に言いたい。

書きようによっては久し振りの、いや、もしかすると今後ないかもしれないくらい良質の内容になったかもしれない。そう考えると、時間に追われる中大分焦って書き上げてしまった事には一抹の後悔がないではない。
しかし上記奇跡的事実を文章内に盛り込めるのは「666」ネタでしかない訳で、その「666」ネタは少なくともこの先一年の内では昨日の第666回というタイミングがベストだったのであり、故に昨日焦りながらでも不満足なものを書いていくしかなかったというジレンマ。
悔しい思いもあるが、仕方がない。このモヤモヤした気持ちはいつか、第999回の銀河鉄道ネタに改めて「メネ+モグオ→999」理論を持ち出す事で晴らすとしよう。その為にはメネとモグオの話に移る前にまず、如何にして銀河鉄道とゲマトリア変換を関連付けるかを考える必要に迫られようが。



07/02/22(木) 第668回 自分で自分の背中を押す

「悪魔の数字」と言えば666の他に616であるという説もある様であるが、はて第616回には何を書いてたかなと思ってちょっと見てみた。

06/12/30(土) 第616回

おお、これはこれは。
まあある意味じゃあれも邪悪だけれど。


さてさて、そろそろ何か更新せんといかんかな、と思い始めて数日。やっぱり私は駄目人間だな、何か一つ後押ししてくれるものがないと中々作業に入れない。それっていうのはまだ私がサイト更新作業ってのを人生の中の強制業務だと認識していない事の表れであるから(何故ならば強制業務は強制されているという客観的事実が既に背中を押している)それはそれで良いのだが、別に私はサイトを放置したい訳ではなく「更新したい」と常々思っているのだから、頑張れる時には頑張りたいものだ。
詰まる所、後押しが必要だ。しかしそれは、ここで私が誰かの「更新頑張って下さい!!」とか「応援しています!!」などの心温まるお声を要しているという事ではないのだ。私に更新作業を始めさせる為の後押し、それはこうする事でいとも簡単に行われる。

この土日辺りを目処に何か一つ、更新します。

何を更新するかに言及していない所と、普段無責任な事ばかりを書き散らしている「雑文」という場で発表した所に、若干の自信のなさを感じないではないがな。



07/02/23(金) 第669回 俺を救うのはヒゲ、お前だ

久し振りにゲームの解説書を読んでいたら、そのゲームを購入した当時のワクワク感が蘇ってくる様であった。数年後か、十年後か、同様にFF12の解説書を見たら、こんな風に思えるんかね。分からんな。あくまでFF12が最早辛い思い出と化しているとかそういう事じゃないんだけど、現状がここ数年で一番大変なもんだからFF12からこの状況を思い出してしまいかねない。早く終わらんかなあ。
もうここの所はまとまった時間も取れないからゲームする気もあんまり起きない。そうとなると必然、溜まっていくストレスのはけ口は他の行為に求めなければならない事になり、私にとってはそれが買い物という事になるのだろうか。つー訳で、また買った。いつものamazonさんである。
こうして割と頻繁に通販であれを買ったこれを買ったと書いていると何だこいつは随分な浪費家だなと思われるかもしれないが、まあそれが否定出来たもんだかどうかも分からないが、しかし今回に限ってはいつもの30%程度の支払額だったので心配はご無用だ。しかしその事実は、この先の身の振り方を改めて考えなければならない状況に置かれてしまった事を意味したと言える。
インターネット通販なるものを知ってからというもの、この田舎ではどうしたって見付ける事の叶わなかったあのCDやあの本などを買い漁っていた訳であるが、先日、私の欲していた商品は粗方我が家に揃ってしまったのだ。他に欲しい物はと言えば、あまりに高くてさしもの私ですらおいそれとは買えない一品であるか或いはかなり昔の作品で現在は絶版なり廃盤なりになっているか位なものだ。今回の商品購入額がいつもに比べて随分と少なかったのはそれ故だ。取り立てて欲しい物もないから、今の自分に必要な物をちょいちょいっと入手しただけなのである。
重要なのは、その「今の自分に必要な物」ってのが有り体に言って参考書などの、それを一助として学習を行う事によって自己をより高める為の物なのであり、そんな本ばかりを買った所で日々蓄積され続けたストレスが雲散霧消してくれる筈はないという真理だ。むしろ私は、一層の知識を頭に詰め込もうとする事でまた別のストレスを抱え込もうとすらしている。

私は今ほど、ゲーム以外にこれと言った趣味を持たずして今日まで生きてきた事を後悔した事はない。何かしら他に気軽に取り組める事を趣味として持っていれば、今の様な状況に置かれてさえもう少しは上手く立ち回れていたろうに。もっとも、ゲームしか趣味がなかろうがそれがただの趣味であったのなら全く構わなかったのだが。ただゲームというものを趣味であると同時に「追求するもの」として接してきたのがまずかった。そのせいで私は今だってFF12の二周目を「サブイベントを制覇してやるぞ」とかいう気概を持ってプレイしてしまっているのだ。それが結局は、まとまった時間のある時にしかプレイを進められないという今の惨状を形作ってしまった訳だろう。これが本当に単なる趣味だったんなら、「今プレイしているのを終えるまで次のゲームには手を付けない」とかいう縛りもなかっただろうから、多分今頃は空き時間があると見るやMGO辺りを嬉々としてプレイしていたのではないか。

またまた、少々長い事愚痴をこぼしてしまった。これもストレスが溜まっている事の表れか。
このままではどんどん荒んでいってしまうばかりなので、この土日は久し振りにかなりの時間が取れそうな事だし、昨日宣言した通り何かコンテンツを更新した後にゲームでもするかい。あれ以降ずっと手付かずだったマリオ3とワールドでも。
え? FF12? あれは今回は保留ね。FF12に限らないけど、近年のゲームはプレイ時間の割に進捗が思わしくない事が多くて、後から振り返ってみた時に「今日、あれだけ時間費やしてこれだけしか進まなかったのかよ」って、物凄く時間を無駄遣いしてしまった気にさせられちゃうんだよね。だもんで本当に心に余裕のある時でないと。
つー事で、この土日はマリオ。童心を思い出してプレイするとも。FF10でも泣きそうで泣かなかった私が、初めて泣いたりしてな。そこまで追い詰められてはないか。



07/02/24(土) 第670回 今日も生きれた

以前に「ら抜き言葉」について書いた事があった。そこで私はこの「ら抜き言葉」について、元々同一表現だった「可能」と「受身」を別々の言葉にした点で進化だとも言えるのではと評していた。
今もその考えに大きな変わりはないが(何せそもそもら抜き言葉の事について考える事もそんなにないし)、同様に当時言っていた「私自身、『ら抜き言葉』は意識して使わない様にしている」その方針もまた変わってはいない。この「雑文」にしろ「妄想」にしろ、またサイト内に限らずどんな文章を書くにしろ、私はその表現を意識的に避けている。
一方ではその存在を許されざるものとして斬り捨てたりはしていないのに、一方ではその使用を頑なに禁じる。それは何故かと言われれば、やはり一般的にはまだ使うべきでない表現とされているし、日本語の乱れを憂う声はまだまだ頻繁に耳にするし、今後次第に容認されていく保証なんぞも勿論ないし、といった理由が第一に立つのだろう。しかし実はそれよりも大きな理由がある。と言うのも、ら抜き言葉を使うとどうにも舌足らずに聞こえてしまうのだ。
「聞こえてしまう」と述べた通り、ら抜き言葉に舌足らずな感じを受けてしまうのはその言葉を音声として認識した場合に限られはするのだが、しかし我々は時として文字というものをまるで音声の様に認識する事が珍しくはない。この文章をわざわざ自ら音読している人は流石にいなかろうが、(無意識にでも)心の中で声に出す様に読んでいる人は多いだろう。
舌足らずという事はそれだけ満足に言葉を発せられていないという事を指し、間接的に幼児性を思い起こさせてしまう所が少なくとも私にはある。つまり、「食べれる」の様な文言の入った文章を目にすると私は心の中で、具体的に誰のものと意識してこそいないものの恐らく私の自身のものなのであろう声で「食べれる」と言い、それに対して自身の幼児性を垣間見てしまった様な気にさせられ、何となく気に食わなくなるのだ。
だから私は文章を書く時のみならず、「見れる」の様なら抜き言葉を目の当たりにした時にも、意識して心の中で「見られる」と変換して読む。テレビのバラエティ番組なんかで誰かの発言と共に「出れる」というスーパーが表示された時も、特にこの場合テレビの中の人が口頭で「出れる」と言っているにも拘らず私は心の中で勝手に「出られる」と変換して読むのだ。

さて、これが私の心の中だけで済む事ならばいいのだが、ではいよいよ「口述」という段階になって「ら抜き言葉」と対峙した時はどうすればいいのか、私にはよく分からなくなってしまうのであった。
自分自身で発する言葉についてはら抜き言葉の発生してしまわない様細心の注意を払って臨むのは当然の事であるが、(そんなケースがどれ程の頻度で起こるのかとかは別にして)記述されているものを音読する場合においてその中にら抜き言葉が用いられていたとしたら、これが難しい。「着れる」をそのまま読んでしまうのは気が引けるが(何故なら今度は本当に舌足らずに聞こえるから)、勝手に修正して「着られる」と読んでしまうのも何となしに嫌味だ。更に立て続けに「寝れる」「覚えれる」「起きれる」と連発されるら抜き言葉をことごとく「寝られる」「覚えられる」「起きられる」と言ってしまってはそりゃもう嫌味だ。もしその文書の作成者が目の前にいたりなんかしたら、もう嫌味だ。

そのまま読んでは舌足らずで、ともすればら抜き言葉を嫌う人達に若干の不快感を与える事になるかもしれず、そのまま読まなければ、さも自分の正しさを主張したくてたまらない様でら抜き言葉を嫌う人達からら抜き言葉を嫌わない人達にまで若干の不快感を与える事になるかもしれない。
人間関係は難しいな。


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